わがまま

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週末の繁華街で、駐車スペースがないと地下駐車場の出口にでっかいランドクルーザーを突っ込んで駐めてしまうバルセロナ人たちのことを書いたことがある。
広い十字路のまんなかにメルセデスを「駐車」して、そのまま歩み去ってしまう身なりのよい中年カップルがいる。

海岸の細い一本道を延々10キロほども、後ろにクラクションを鳴らして怒っている長い車列を従えて、時速20キロで、のおおんびり走ってゆくふたりづれがいる。

バルセロナには1973年に、よく見ると、なあんとなく眼のあたりが安倍晋三首相に似ていなくもない、独裁者フランコが死ぬまで、ダンスをする自由も、自分たちの言語であるカタロニア語を話す自由もなかった。
両方とも禁止されていた。
カトリック教会を、ちょうど江戸時代の岡っ引きのようにして使ったフランシスコ・フランコの圧政はガリシアの田舎出身の軍人らしい、精細な、人間の弱みをよく知って利用する苛酷なもので、カタロニア人が道路いっぱいに広がって独立を要求する写真がついたスペインのオンライン新聞記事を読んでいたら、まるでなんでもないことのように「カタロニア人が路上でデモをするのは歴史上、これが初めてのことである」と書いてあって、涙がでるような気持ちになって、その一行をじっと見つめてしまったのをおぼえている。

カタロニア人が自由の申し子のようなひとびとであるのは、しかし、グラシアのアパートから、毎日、通りを歩いて、あちこちにある小さな広場の、バールやカフェのテーブルに腰掛けてカバを飲んだり、相席をしてもいいか、と訊いて腰掛ける映画にいく途中のひとたちと、話をしているとよくわかる。
やや固い言い方をすると、バルセロナ人は、「自分の魂の内側」から世界をみている。

イギリス人は違う。
子供のときから、「他の人のことを考えて行動しなさい」と教わる。
自分の社会に対する責任をはたしなさい。
社会になにをしてもらえるかを考えるよりも、自分が社会に貢献するためには、なにができるかを考えて暮らしなさい。

他人をにっこりさせて、幸福な気持ちにさせるのが立派な人間というものですよ。

ロンドンの駐車場にクルマを駐めて、むかしのクルマは小さかったので、古いデザインの駐車場はいまのひとまわりおおきくなったクルマには駐車スペースが狭くて、いちど降りて、わざわざ確かめてから、横に5センチ、というくらい動かして、隣に駐めにくるだろうひとの邪魔にならないようにする。

わし社会の人にも、いろいろな人があって、賭博で身を持ち崩してしまう人もいれば、朝からシャンパンを飲んだりする種族的習慣が祟って、アルコール依存症で入院する人、ロボットのようにまじめな人間もいれば、イタリアの太陽のように明るくて残酷な人もいます。

ただひとつ共通しているのは、立つときに、すっと立っていて、座るときも、ひどく酔っ払っていてさえ背筋をのばして座面に垂直に、あんたは垂直座標軸かね、と訊いてみたくなるくらいまっすぐに座っている。

なにをしても怒られたりはしないが、歩き方が悪いと、「もっとちゃんと足をあげないとカッコワルイとおもう」と父親に苦情を言われる。

「他人の目」のなかに日常ができている。

この「周りを見渡す気持ち」をバルセロナ人は拒絶していて、ほとんど思い詰めたような真剣さで、毎日の生活を自分が楽しんで、自分が熱中して、自分が幸福になるように、妥協するということがない。
ただ近所のベーカリーにパンを買いにいくというだけなのに、鏡の前で懸命に着飾って、スカーフをなおして、自分を最高の綺麗な姿にしようとする。

このごろ、語感がわるいのは承知の上で「天然全体主義」という言葉を日本文化を説明するために使うことにしている。
日本語を通して、じっと日本の社会を眺めていると、「右翼」も「左翼」
リベラルも中道も保守も、なんだか全体主義者みたいなことをいう人ばかりだからで、たとえば、比較的信頼していた人のツイートを眺めていたら
「共同体にとって子供をうまない女は不要だというのは、まあ、ほんと」と書いてあったりしてのけぞってしまう。
あまりにひどいので、話しかけてみたら、「そういうつもりではない」と言っていたが、実際、本人は自分が述べたことの意味に気がついていなくて、自分の全体主義者然としたremarkを「そういう意図ではなくて論理的必然を述べただけだ」といまでも思っているだろうと考えると、憂鬱というか、日本の全体主義は民族として骨がらみなのではないか、という気持ちになってくる。

国会前に集まって、どうにか憲法の機能停止を防ごうとしているひとたちのことも、見ていると、おまえの考え方はおかしい、きみたちの考えは甘いから、わたしが教えてやる、と、しかもまるで糾弾依存症とでもいうような、日本の人特有のガミガミ語で喚き散らす調子で述べられていて、見ているほうは、なにがなし、新宿駅で小田急線が遅れたからと抗議して、くってかかったあげく、駅員を殴りつけていたおっちゃんを思い出してしまう。
あのおっちゃんは、なんだかみるみる険悪な顔になった妙に背が高い、へらへらした感じの「ガイジン」に襟首をつかまれて、おもいきり引き戻されて尻餅をついていたが、気の毒だし、ガイジンは乱暴でも、態度が糾弾魔ふうで、この攻撃性はどこからくるのだろう、とやはり考えてしまう。

「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」という演説が許せないとかで、あちこちにツイートが出ていたので、これはなんだろうとおもっていたら、いつのまにか、友達から、「このページが原因です」とノートがついたリンクが来て、「わたしはロンドンで騎馬警察を相手にしたこともある」というひとが「こんな演説はダメだ」というようなことが述べられていて、友達は「ひどいとおもわないか?」と書いているのだけれども、
そう言われても友達の怒りと困惑が伝わらなくて、そもそも理屈が頭にはいってこないというか、
なぜ見知らぬ若い女の人の演説が気に入らないことと、 自分が国会前に、自分の憲法を守りたい気持ちを表明しにきたことに関連があるのかなかなか理解できなくて困った。

デモにいけば、自己陶酔して英雄気分のひとがいる。
デモによっては、子供をつれて物見遊山にしかみえない人もいる。
途中であきてしまって、カフェのテーブルに腰掛けてワインを飲み出すカップルもいれば、あくびをしながら空をみあげているひともいる。
ずっと前の先頭のほうでは、若い女の高校生に襲いかかった警官を、凶暴にもヘルメットを素手でなぐりつけて脳震盪を起こさせている、見るからに腕っ節が強そうな、妙に背が高い男がいる。

みんな、どうすれば自分が幸福になれるか考えて、政府がやっていることをじっと観察して、口ではああ言ってるけど、ほんとうは自分が戦場につれていかれるかもしれない法案だな、あるいは、おれのおとなの知恵に照らして、こいつらが平和のための法案だと投げやりな理屈でアホ国民はだませると踏んで述べているが、これは息子が戦争にまきこまれる可能性がある、と感じて、選挙は当分ないんだからデモにいかなければ、政治で、おまけにいいとしこいて集団行動なんてサイテーだぜ、暑いし、とげんなりしながら国会前にやってきているわけで、それと誰かが自分の信念と同じでないことを述べたのに、腹をたてて文章を書いてかみつくという行動が、うまく心のなかで結びつかない。

なんだか難しいひとたちだなあーとおもうが、全体主義的な教育というのは、そういうものなのでしょう。
常に集団の性格づけを求め、集団の原理に従うことを求め、糾弾し、断罪する。

漫画のようなできごともあって、自民党の武藤という衆院議員の人が
国会前に集まっている若い人は、「自分中心、極端な利己的考え」とツイッタで述べたとかで、自民党とネオ自民党の質的な相違をあますことなく見せたようなことになって、大失礼にも爆笑してしまったが、興味があったのは、
このボロいツイートに怒ったひとたちの声のほうで、
戦争法案に反対することを、「利己的個人主義とはなにごとか」と怒っている。

ぼくが話しかけることなしに、ツイッタでこっそり眺めて尊敬している若いひともたくさん混じっていて、みなが利己的と言われたことを根拠のない侮辱と感じている。

そーですか。
そーだよね。
でも、….

と「聴き取りにくい声」のなかには、あるかもね、と思って探していたら、あった。
しかも、よく知っているアイコンで、こちらはお友達なので、引用しても怒られないでしょう。

もじん @mojin どんだった。

はっはっは。
類は友を呼ぶ。
Birds of the same feather

(・_・)/\(・_・)ナカマ!

わしも、利己的、自己中心的でいいんでないの?
と思ったのでした。

バルセロナ人が、見ている他文化人を感動させるのは、その、自分の幸福に対する真剣さのせいです。
バルセロナのレストラン王は、女王で、パートナーに捨てられて、自分が幸福になるということのほうが、「幸福な結婚生活」などより遙かに大事だったことに気づいて、自分という親友を救うためにレストランを始めたのはバルセロナでは、もう伝説になっている。

穐𠮷敏子は、唐突だった有名なルータバキンビッグバンドの解散を、
「自分という友達を大切にするためだ」と説明して、その誠実さと真剣さで、わしを泣かせてしまった。

全体の側からみるのをやめて、個人の魂のがわから見れば、全体主義的な正しさや理屈、その「全体を考える観点」は、ただの自分に対する不誠実さにすぎない。
いくら本を読んでも、考えても、全体が自分にはいりこんだ頭で考えたことは、ただのゴミの山、というか、つまりは他人が考えたことが映って、たゆたっているにしかすぎない。

ギターバーについて書いたむかしの記事のなかで、ドラグでハイになっているらしい男が、狭いバーのなかで、盛んに野次をとばして、わしのアイルランド人友達がいまにも殴りかからんばかりに怒ってにらみつけているのに、バルセロナ人たちのほうは、何も言わずに黙って知らん顔をしていて、「どうなっているのだろう?」と考えたことがある。

ところが、ひときわ大きい声で、このハイおっちゃんが「くだらないぞ、おまえ」と言った途端に、店中の人が申し合わせたように「シィィィー!」と唇の前に指を立てて男に注意して、店主が男の肩をたたきながら、静かにしなさい、と述べている。

その夜から、バルセロナで観察していると、他人のすることや、他人との差異に対するキャパシティが、イギリス人とは比べものにならないくらいおおきくて、駐車場の出口が誰かのクルマでふさがれていても、なんだかうんざりしたような情けないような顔でクルマを降りてきて、近くのレストランやバールを一軒一軒訪問して、「誰の車ですか?」と聞いて歩くだけです。
わがままな隣人とのトラブルからくるストレスを解消する方法もいろいろ持っていて、朝の通りを歩いていると、舗道の人間が3人はいれそうなくらいおおきな空き瓶ダンプに主婦が、ワインやカバの瓶を、おもいきりたたきつけるように投げ込んでいる(^^;

イギリス人も、さすがに、自分が参加したデモで若い学生の演説が自分の考えと異なると考えたくらいで、その場で「こら、ひっこめ」と叫んで、周囲のひんしゅくを買うくらいで、かみついたりはしないが、カタロニア人は、もっと沈黙の奥が深いように感じる。

ぼくともじんどんの「利己的でいいんじゃないの?」という意見は、きっと日本では通らないでしょう。
社会には、その社会の常識というものがある。
日本の人自身は、聞かされても信じられなくて、傷付くほどなのかも知れないが、日本の社会は隅々まで、右から左、貧困層から富裕層まで、抵抗する層から支配層まで、ぶっくらこいちまう全体主義社会で、日本に住んだことがある友達がみな印象するように、まるで社会全体が一個の巨大な兵営であるようにみえる。

慣れてしまったので、それはそれで、そういう社会もあるのね、としかおもわなくなってしまったが、息をしても怒鳴られそうで、
チョーごめんだけど、日本人でなくてよかったなあー、と考えました。
別にニセガイジンでもいいが、日本人だけは困るので、中国政府のスパイか、できれば捏造ネパール人くらいがいい。

あるいは、ニセヴォゴン人くらいにしておいてくれると、とても嬉しいです

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4 Responses to わがまま

  1. 晩秋 says:

    天然全体主義の社会では骨の髄まで、というかその骨や心を包む生身の肉体までが管理されているのだと感じます。

    自分の頭でしっかり考えたり、判断したりするのって結構体力がいる。効率よくテキパキするのも集中力がいたりする(私だけ?w)。個人の幸せなんかを追求してもらって、充足感に溢れてもらっては管理しにくいのだ。いつも疲弊してもらっていないと。長時間の通勤、残業、有給取らず、狭い家で発泡酒を飲んで、買い物がレジャーさ。公園でボール遊びができず塾へ行ったゴールがこれでは、考えるだけ「損」だったのかしら。

    みんながお互いを見つめ合って、支配のしあいっこです。

    制服を着た幼い女の子のイメージが、性の対象として、まるでそれが当たり前であるかのように街中に蔓延っている。小さな、気高い女の子たちの魂を蝕んでいる。私たちの体は私たちだけのものだ。あなたたちのためにあるのではないぞ。10代の頃の私には怒りで燃やしてしまいたいものだらけの国であった。

    快楽を追求することは楽しい。そのための自由やん。ただそれが誰かを損なうことであってはならないだけだ。

  2. kawaishiori says:

    こんにちは。

    安全保障法案を、私はテレビの前で頭に来て突っ込みを入れながら聴いていますが、夫は「選挙の結果だから先は見えてるんじゃね?」と冷静です。もっと両方の意見についてクリティカルに考えたいらしいです。

    子どもたちは法案に賛成とは言えないが、デモなどオカミに反対するような行動に違和感を感じるらしいです。おお、家庭内もさまざま。
    私は女の人をサポートする仕事をしていますが、体調が悪いという人の話を聴くと、1日16時間くらい働いていたりする。でも頑張らなくては…と言う。おかしい、なんでだ?とずっと疑問でした。
    承認欲求と名付けられた感情をもつ人がたくさんたくさんいる。よその土地からここに来た私は、いつも違和感を感じていましたが、もしかしたらこの欲求は民族性や単なる土地柄のせいだけではなく、経済が行き詰ってきて、教育やメディアも変わったここ20年くらいのムーブメントなのかもと感じています。
    オカミに楯突かない全体主義が蔓延しているとすれば危機的状況ですが、唯一の労働者の実力行使てわあるストライキに持っていけるかどうか?短時間で国がまとめ上げられるのか?見通しは厳しいと言わざるを得ない。

    本来、日本にある自然を敬う気持ち、相手も自分も融和する気持ちは、言いなりになることとは違う。

    自分を大切に思う気持ちは小さい頃から培われる感覚なのでしょうね。

    この国がどうなっていくのか分からないけれど、
    子どもたちにも、女の人たちにも、その感覚を伝えたい。

  3. かつお says:

    この前スポーツジムにいったらさ、風呂から上がったオッサンがなんか怒ってたんだよね。なんでもジムでレンタルしたタオルが誰かに取られたらしい。んでそのへんにたまたまいた掃除のおばちゃんを怒鳴りつけ始めたんだよ。おばちゃんは何にも悪くないのにね。おれはこんなジジイに関わりたくないなと思ってさっさと風呂に行った。

    ガメさんだったらそのジジイに不動明王の形相で怒鳴りつけたんだろうな。おれは理不尽に攻撃されるおばちゃんを見て見ぬふりしてしまった。卑怯なことをしてしまった。

  4. しそごはん says:

    こんにちは。
    子供の私から見た日本って、生まれて幼稚園、保育園に通い、小学校、中学校、高校、そして多くは大学へ。そして大学卒業する前からもう就職活動を始めて(雇われれば)仕事をする。退職して気付いたら爺になっていそうで少し恐ろしいものに見えます。
    なんていうか、年寄りがどれくらい動けるのかって一概に言える事ではないけれど、気持ちよく動ける時間のうちとても多くを全体(?)のために使っちゃうような感じがして、何かよくわかんないけど違うような気がすることがよくあります(単に私がガキなだけという気もしますが)。
    「空気を読め」って言葉に日本人の良くも悪くもあるちょっと残念な部分の一部が詰まってる気がします。
    ガメさんのブログ時々読みに来て、あんまり理解できなかったりしますが、でもとても面白いです。

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