戦闘機

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調べてみると、零戦の日本軍全体への影響は一兵器としての影響を遙かに越えたもので、短距離防衛でデザインされていた日本軍の作戦思想をおおきく変えてしまった。
航空勢力そのものにおいても、それまではイタリアの軍事理論家Giulio Douhetの「Il dominio dell’aria」に強く影響された「戦闘機不要論」が支配していた将校間の空気を、一変させて、爆撃機より先に戦闘機を先発させてfighter sweepをするというところまで攻撃的な戦略思想に変わったのは熟練パイロットが操縦すれば一千キロを行って帰ってこられる零戦が存在したからでした。

欧州では戦闘機はもともと「防御兵器」のカテゴリーだった。
特にドイツ人たちは、最前線のすぐ後ろに建設した飛行場から飛び立って来襲する敵の爆撃機を撃退する、という思想を強く持っていた。
だから零戦のように装甲版や不燃タンクの防御機構を持たない戦闘機は論外で離陸時や着陸時すら含めて一日に数回の出撃で何発も被弾して生還するイメージを戦闘機に対してもっていた。

日本は兵器オタクの人が多くて、そういう人が大臣になると国が滅びるが、そうでない限りは、良いこと、というか、文明がすすんだ国の幼稚な頭の人々というのは、そういうものです。
大庭亀夫が良い例で普段はタイマーが付いているのように30分で集中力が停止するのに兵器のことになると、1000ページくらいある分厚い本をいっぺんに読んでしまう。

ただ日本の兵器オタクの人が困るのは、妙に学者ぶって、他人の言うことは全部「素人のたわごと」「突っ込みどころ満載」のぶわっかたれな日本語ですませてしまう。
その割に貧弱な知識で、誰かが常識とされていることを踏まえて、その常識は、こっちの方角からみると、こういうふうに異なって見えるのだ、と述べると「そんなものは常識と違う!教科書を読んでないのか!!」と怒りだす。

本来、兵器の知識は、国の方針を定めるのに社会常識として必要不可欠で、その証拠に妹はわしよりもずっと兵器全般に詳しい。
証拠になってないか。
連合王国やニュージーランドでは女のひとびともスピットファイアやMe109のスペックくらいは知っていて、ケーキとお茶を楽しみながら、どっちのほうが優秀だったか話したりするのが大好きである。(←やや誇張された言明)

そういうおりの初歩的な議論のレベルを示すために、だいたいどのくらいの知識を前提として話がされるか、よくまとまっているサイトを探しておいたので、兵オタ、軍オタのひとびとは、この記事をくさそうとおもったら、せめて、この程度は読んでから来てね。

http://www.spitfireperformance.com

ついでにいうと、このサイトには連合軍側が日本の飛行機をどんなふうに見ていたか、テスト飛行をした人や空中で対戦した人のレポート、情報部が分析して「ここを攻めろ」「こういう状況では逃げろ」という空中戦の虎の巻も載っていて、兵器ヲタクのひとびとの良いヒマツブシになると思われる。
ヒマツブシは嫌な言葉で、書くたびにひつまぶしが食べたくなるが、それに耐えて親切にも教えてあげているのだから、是非、せめてこの程度は読むよーに。

読むとわかるが戦後何度も何度も語られた大戦初期には「零戦をみたら逃げろ」と言われたというのが、どういう意味かわかります。
Disappointedな誤解よりもひどい。

したがって、日本語の本が紹介しているのとは異なって、日本の人が信じているよりもイギリスとドイツの飛行機は、なにしろ同じ思想に従って、そっくりさん同士になっていった。
Me109はSpitfireに劣っていたというが、そんなことはぜんぜんなくて、ほぼ瓜ふたつなのは、データをみればすぐに判る。

http://www.spitfireperformance.com/spit1vrs109e.html

わずかに、もともと一撃離脱を最高戦術としてそれ以外は顧みなかったドイツ人とヘロヘロ回転するのが好きなイギリス人の複葉機時代への未練たらしい格闘性能への郷愁がスピットファイアのオーバルな翼にただよっているだけで、他は、ほとんど同じ飛行機である。

特に大戦初期においては、無線機の性能がイギリス軍とは比べものにならないくらい優秀だったドイツ機と、ほとんど役に立たない上に、ときどきつながると、「このやろー」とか「やったぜ」の訳のわからないぐじゃぐじゃで切れ切れな会話しか流れてこなくて、まるで使いものにならないイギリス機の差が出て、
あるいはロールするとエンジンが止まるオバカなロールスロイススーパーマーリンエンジンに較べてドイツ機のほうはロールしてもエンジンが止まらない機構が工夫してあったりで、イギリスのほうは一撃離脱だけでは戦争がやれなかった、という事情もあります。

イギリス海軍のようにシーレーンを保護するために長大な距離を航行するためにデザインされていた海軍と異なって、日本に近い西太平洋でアメリカ艦隊を捕捉して一挙に殲滅するという「第二次ツシマ海戦」を想定してデザインされていた連合艦隊は、要するにいまの海上自衛隊とおなじで、本質的に防衛しかできない艦隊だったが、零戦がすべてを変えてしまいます。

一般に日本軍の特徴は「打撃力がない」ことで、なにをやっても膠着するような不思議な軍隊だった。
戦車がつくれず大和と武蔵をつくったら、そのせいで国の財政が傾いてしまうようなビンボ国だったので、仕方がないといえば仕方がないが、アメリカのほうでは、ノホホンとして、昨日も述べたように上から数えて19位という小規模の軍隊しかもたず、日本が浮かれてインドシナへ満州へと、中国人たちを虐殺しながら、いまでいえば巨大なISISのような行動をとりはじめると、くず鉄を日本に売るのを禁止し、最後は石油の輸出を禁止して、巨大ISIS帝国をツンツンしだす。

ツンツンされたほうには決定的な攻撃的戦力がないとアメリカのほうは考えていたが、ISIS側は「零戦」があるじゃん、ということになって、これを集中使用すれば打撃力が形成されることに気が付く。
零戦によって形成される「空の空白」に攻撃機や爆撃機を滑り込ませれば、海といわず陸といわず、爆撃雷撃のし放題で楽勝なんじゃないの?
と航空参謀たちが主張しはじめます。

足の長い単発艦載機を6隻単位の空母をひとまとめにした艦隊をつくって、もともとの防御思想でつくられた敵の戦闘機の行動範囲の外側から発進させてあちこちをたたきまくればよい、というのは、ロンメルのアフリカ軍団と同じ軍事思想で、片方は海、片方は砂漠でおなじ機動作戦を考えた。

しかし、日本人は、なぜ零戦のような軽戦闘機が、それほど長い航続距離をもちえたかという理由を忘れていた。
なにがトレードオフの対象だったかというと若い人の生命、「人命」だった。
日本には「無責任おじさん」の長い伝統があって、たとえば初めて日本の支配層の実際が英語圏の書かれたものになって出てくる江戸時代の老中たちは、誰が読んでもぶったまげるくらい無責任で、誰もなにも決めたがらず、「何もしないためなら何でもする」見事なくらいの頑迷姑息で、それは結局、反動として明治に始まる若い人の屍の山の上に築かれたような畸形国家をつくってしまう。
自分たちの文明の基礎から全体主義に染め上げてゆく。

後々のオチョーシモノ皇帝ニコライ2世と異なって、イギリスやフランス側の幕末当時の意見を読めば、両方ともに、軍事的には腐りきった、極めて豊かな大国だった清帝国に較べて、ビンボでめぼしい財産もないのに刀をやたらふりまわしたがるアブナイ人で充満していた日本には、あんまり興味がなかったのがわかりますが、いまは太平洋戦争の話にもどらないと、また話が長くなってしまう。

「アフリカの星」、有名な撃墜王のHans-Joachim Marseille
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans-Joachim_Marseille

は、偏差射撃が出来るようになって連合軍の飛行機をバタバタと墜とし始める前に、4回撃墜されている。

欧州の主力戦闘機はどれもそうだが、おおげさに言えば「空飛ぶ戦車」のようにコックピットのまわりが頑丈な機体が多くて、Me109も脚がすぐ壊れるという欠点があったが、パイロットの保護は、非常によく出来ていた。
論より証拠、どの撃墜王も何度も撃墜されていて、戦後、連合軍側がこぞって嘘つき扱いをして、ニセガイジン大庭亀夫のように気の毒な、信じなかった撃墜数を検証して実証するまで駄法螺だと思われていた352機を撃墜して、しかも戦争を生き延びたErich Hartmanは16回も撃墜されている。

このドイツの撃墜王たちの、どのひとりの、どのケースをとっても零戦に乗っていたらパイロットは死んでいたはずで、戦後オチョーシモノの日本人が、苛酷な欧州戦を生き延びたパイロットたちに「零戦があればバトルオブブリテン、勝てましたね」とオチョーシモノらしいみっともない冗談を述べたときに、返ってきた複雑な微笑は、要するに、「そうしたら、ぼくはきみの前にこうして立っていないさ」という意味でした。

空母の集中使用という日本が始めた画期的な作戦は、つまり、おおもとをただせば「自国の若い人間はいくらでも殺してよい」という全体主義者らしい信念に立っていた。
お国のために、立派に死んでくれ、ということでした。
カミカゼ特攻にまっすぐよどみなくつながっているこの戦略思想を、アメリカはコピーして、機動艦隊というアイデアをより大規模に拡充して、日本がトレードオフの対象にした「若い人間の生命」を犠牲にするわけにはいかないので、機体を重戦闘機化して、日本本土めざして攻め上ってくる。

零戦の設計者堀越二郎の伝記を読んでいて最も感動的なのは、名古屋の三菱が空襲に遭って、到頭B29だけでなく、艦載機が来襲しだした初めての日に、防空壕に向かう途中で見かけたずんぐりしたグラマンF6Fの不細工な姿を笑う設計員たちのなかで、ひとりだけ、「なんて素晴らしい機体だろう」と考えるところだとおもうが、やはりこの人は天才エンジニアだったので、
戦闘機は一面、若い操縦者の生命を守るための防盾でなければならないことをよく知っていた。

日本の「若い人をどんどん殺す」社会の伝統は、戦後も続いて、企業戦士の名前をつけられてカローシという新しい英語をうみだす。
これだけ若い人間たちから「生活」そのものを奪い、学校から始まって企業でも家庭においてすらもいじめ続けて、自殺に追い込み、自殺者がでると「バカが、こんなところで死ぬから電車が止まった」と舌打ちをする。
それでいて、「子供をつくりたがらない」と言って、閣僚が「女の人は人間を産む機械になってくれないと」と自分が種付けに励みたそうなおそろしいことを言う鈍感・無責任ぶりなので、つまりは、きみもぼくも、全体主義の社会というものが、一見効率的に見えながら、どうして常に破滅して国家システムごと消滅するかを、現実をうまく使って説明した絵巻物を目の前に見ているのだと言えなくもない。

ある日、敵のパイロットが基地の目の前の海に落下傘で脱出降下して着水するのをみて、坂井三郎たちが浜辺に集まって望見している。
敵同士とは言っても、同じ戦闘機パイロット同士、同じ若い人間同士なので、気の毒に、あそこでは日本軍の制空権下もいいところで、どうやっても助からんな、と言い合っていると、しばらくして、カタリナ飛行艇が、まだ日本の零戦が強盛を誇っていた頃の基地の上空にゆらゆらと現れる。
墜としにいかないと、と走りかけるパイロットの袖をつかまえて、誰かが空を指さすと、そこにはただひとりの同国人の若者を助けるためにやってきた戦闘機の大群が旋回していた。
「心から羨ましかった」と日本の撃墜王は書いています。

自分は、兵士としてはアメリカ側で戦いたかった、と何度も書いて顰蹙を買った人の、この戦士にしかわからなさそうな心からの言葉は、このあと何度もこの人の言葉に出てくるが、きっと、なぜ自分は日本を心から愛して、救おうと思って戦っているのに、国は自分を紙くずのように捨てることしか考えないのか、という坂井三郎の、いまの国会前に集まった若い人びとと共通する悔しさが頭をもたげた、初めの瞬間だったのではないでしょうか。

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2 Responses to 戦闘機

  1. DoorsSaidHello says:

    私は想像力がないのか、武器や兵器を見て舌なめずりする人の気持ちが分からない。

    18の時、同じクラスの男の子が「放課後に付き合ってよ」というのでついていったら、行き先が靖国神社だった。彼はちゃらちゃらしたところのない、人柄のよいひとだったと思う。請われるまま一緒に靖国の展示物を見た。大砲があり、サーベルがあり、銃剣があり、軍服があった。

    場所柄、どれも実際に使われていたものばかりだった。大砲を見れば、私は「これで何人死んだだろう。これを運ぶために、どれほどの犠牲が払われただろう」と考える。銃剣の刃を見れば、この剣で誰かの胸や腹が突き刺されて破れたのだろうかと考える。私は気分が悪くなった。

    最後の展示室を出て外の空気を吸った時、私はほっとした。何十年も前とはいえ、人の血を吸ったものが壁一面を埋めた部屋の中にいるのは重苦しかった。彼の顔を振り返ると、彼は憧れに顔を輝かせて「いやあ、かっこいいよねえ」と言った。私は返事をせずに、ただ「じゃあね」と言って帰った。

    後年、私は友だちとサイパンに海水浴に行った。たまたま戦跡ツアーのバスが出るというので半日乗ることにした。マイクロバスの中は、かつてそこで行軍した元日本兵のおじさんたちが6~7人乗っていた。島で死んだ仲間たちのお墓参りに来たのだという。島の中を巡りながら、おじさんたちの話をずっと聞いた。

    バスは最後に島のてっぺんに着いた。火山性の礫岩で出来た小さな山の稜線には、岩を掘り、石を掻き取って作ったらしき小さな小さな壕があった。硬い岩肌をどうやって削ったのだろう、深さはせいぜい40センチほど、幅と長さは寝袋程度で、その上に掻き取った礫を積んで固めて作った薄いドームが乗っかっていて、見た目は砂のミイラ容器みたいである。私の力でも、思いっきりハンマーで叩いたら壊れそうなくらいの、小さくて薄い「壕」だった。

    「ここに入ってね、アメリカ軍の砲撃を受けたんだよ」と元兵士のおじさんが言う。「当たったら即死だもん、怖かったよ。アメリカ軍が上陸してきたときに壕に入っていた人はね、入ったまま火炎放射器で焼かれたんだ。このまま火葬場だね」。

    入ったら身動き一つ出来ない、砂と石でできた寝袋の中で、役に立たない銃を持たされて、食べるものも水もないまま、ただ焼かれるのを待っていた人のことを私は考えた。執行を待つ死刑囚よりも恐ろしい、絶望どころではない、炎と絶叫を待つ気持ちは、いったいどんな想像力で描けるというのだろうか。そんな意味のない恐ろしい閉塞に、一体どんな必要があって人は陥るのだろうか。

    激しい日光に曝された、ざらついた砂の感触、生きたまま人が焼かれたその現場に立っていたことと、かつての「かっこいいよねえ」と言った18歳の少年の面差しを、私はいまだに繋ぐことが出来ないでいる。戦争がかっこいいと思う信条を理解できないことが私の限界なのは知っているけれど、私は今でも彼と対話する方法を持てないでいる。

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