カレーライスと軍隊語

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ニュージーランドの駆逐艦が遠洋航海にでれば、帰路、母港が近づいてくる頃になると毎日カレーでポークカレー、ビーフカレー、チキンカレー、カレーカレーカレーで、スパイスの臭いをかぐのも嫌になる、という。

肉が腐りかけてくると、腐った表面を洗って、臭いがわからないカレーにする、という悪知恵を思いついたのは、世界に知られた悪知恵大王のイギリス人です。

海軍の運営は複雑巨大な機械を動かすようなもので、それを一から作っているわけにはいかないので日本は海軍をつくるのにイギリス海軍のまねっこで行くことにした。
「コピペ」というが、当初は、ほんとにまるごとの模倣で、相当成績が悪い士官でもイギリスに送って教育をうけさせた。
日本海海戦で大勝した提督である東郷平八郎という人は、たしか、商船隊の指揮官を養成する学校
https://en.wikipedia.org/wiki/Thames_Nautical_Training_College
を出ていたと記憶する。

初めの頃、日本ではぶっくらこくようなことがいろいろあって、食べ物で言えば、たとえばハンバーグがなぜ麗々しくメニューのまんなかに座っているのだろう、あるいは、シチューがなんでこんなにぶわっか高いのか、といろいろ考えて義理叔父や鎌倉ばーちゃんを質問攻めにしたが、初めっから、「これはうまいな」と思ったものもあって、その代表はカツカレーだった。

調べてみると、カツカレーは銀座の多分いまもある「スイス」という洋食店で野球選手の千葉茂という人がカレーライスとカツフライを注文して、めんどくさいので同じ皿に同居させて食べたのがはじまり、と書いてあるが、
結局、子供のときから、病みつきになって、日本に来ると、まっすぐ銀座天一本店に連れていってもらって天丼を食べて、その翌日、というわけには行かなかったが、速やかにカツカレーを食べるのを楽しみにしていた。

わしガキの頃は、まだイギリスでも、いまのようにインド料理がスコットランド、ウエールズ、北アイルランド、イングランドを結びつけるゆいいつの絆、国民食というわけではなくて、いちばん好きなカレーをだす店はイングランドの西の端っこにあるペンザンスという小さな町にあったが、バターチキンという、スパイスの味が理解できないイギリス人たちを憐れんで、インドのひとびとが開発した、通常カレーが食べられない人が選ぶ、「いちばんダメなカレー」バターチキンばかり食べていて、いま考えてみると、「日本カレー」のほうが好きだったような気がする。

ずっとあとになって、あの「日本のカレー」は、どうやら明治時代にイギリス海軍から水兵の食事として日本の帝国海軍が採用したものらしいのが判ってきて、へえええーと思った。
なりゆきは、水兵たちに三度の食事をつくっていた料理人が陸(おか)にあがって、郷里に帰って水兵用のメニューを壁に貼って、「洋食店」を始めたものが、津々浦々に広まったものであるらしかった。

だからミートボール(←ほんとうはハンバーグだが、なぜかずっとミートボールとおもっていた)もシチューもあるのか、ぬわるほど、と考えたが、きっと異説があるに決まっていても、この理論ですべてが説明されるので、ガメ式洋食理論として、いまでも採用している。
理論に不都合が生じるまでは、そのままでよい、というのは、つまりは怠け者の大庭亀夫的合理思考です。

カレーライスで思い出したことが、ひとつある。

いちど義理叔父に、夫婦であるのに、奥さんが少しあとをついてゆく奇妙な光景をみて、「日本では、なんで女の人の地位が低いの?」と聞いたら、
「兵隊になれないからじゃないかなあ」という。
「だってもう軍隊ないんじゃないの?」
「いや自衛隊はある」
「自衛隊て、ゴジラのやつ?」
「ゴジラは架空だよ」
「自衛隊も架空でしょう?」
「いやあれはほんとうなんだけど、ないことになってるんだよ」
という、ぜんぜん要領をえない会話を交わしたのをおぼえているが、義理叔父説を採用すると社会全体が軍隊組織である日本では女のひとは鉄砲を担いで戦えないので地位があれほど極端に低いのだ、ということになるが、なんだか説得力がなさすぎてわびしくなるほどであるうえに、説明できないことが多すぎて仮説として杜撰だとおもわれる。

もうさすがにだいぶん飽きてきたが、面白いので、日本語ばかりベンキョーしていると、日本で女の人の地位が低いのは言葉のせいでないかとおもうようになった。
戦後の日本語の構造は、軍隊用語のヒエラルキーが決定している。
将軍や提督は黙っている。
明治時代、「あいつはおしゃべりだ」と言われることは薩摩や長州の藩閥のなかでは致命的なことだったようで、さっき触れた東郷平八郎は、若いときには「おしゃべりだ」という評判が立って、たいへん苦労して、長じて提督になってからは努めてなにも言わないように自分を訓練した、という。

将校語があって、これはいまでいえばトーダイおじさんたちの言語であるだろう。めんどくさいので知っているおっちゃんの小集団がたまたま全部トーダイ(ひとりは京大)を出ているので「トーダイおじさん」と一括して呼称しているが、つまりは、日本にいくつかある特定のエリート養成所を出たひとたちの言葉は、観察すると、仲間同士では荒っぽい言葉使いだが、「目下(めした)」の人々に対しては意外なくらいていねいです。
ただし、相手に自分に対する敬意が感じられなかったり、ものごとを思うようにすすめてもらえなかった場合は、微妙なところがよく見えにくいが、どうもニュアンスとして自分が将校であることを示して相手を威圧しているらしい。
大声や厳しい言葉というのではなくて「きみは、それで仕事ができているつもりなの?」というような言い方に口調が変わると、それまでわし目にも横柄だったマネージャークラスの人間(例:店長)が、まったく別人のように「とびあがって」働き出す、ということを何度か目撃した。

考えてみると、おじさんたちの会話は、穏やかな調子でもチョー下品で、わしが「慶應大学とか早稲田大学って、かっこいいのか?」と聞くと、「下士官養成所」だという。
じゃ、残りはヘータイですか?と聞くと、そーだよ、なあ、とおじさん同士でうなづきあって、すましている。
この下品さが、どーも軍隊だな、と考えて、コメディアン養成所で、イギリスがこれ以上落ちぶれると吉本興業に身売りするのではないかと危ぶまれている大学を出たわしは、ううむ、とうなっている。

だんだん調べていくと、たとえば「進歩的な人」「リベラル」というようなスティッカーをデコに貼って、インターネット上で、ええい、この歴史修正主義者めが、死ねアベ、反核じゃボケ、全角か半角かはっきりせんかい!!とATOKみたいなことを言っているひとびとの言葉は、曹長、軍曹、伍長、というような下士官の言葉です。
品性はゼロだが、いちばんいろいろな事を言いやすい。
特徴は、なんだか汚い言葉で怒鳴り散らしているような印象であることで、敬語を使うばあいは、今度は妙にかしこまった日本語で、相手が「余計なことをいたしまして」というようなことを述べると、さっきまで、「けっ、バッカじゃねーのwww(爆)」と書いていた人が、「いえいえ、こちらこそ、失礼いたしました」と突然述べているので、読んでいて笑ってしまう。

ネトウヨの人になると、兵隊語で、なんとなく、軍隊の底辺で呻吟している二等兵たちが、酒を飲んで、「オダをあげている」という嫌な響きの言葉があるが、そのとおりの状況を呈している。

具体的に書くのはめんどくさいのと、第一、日本語人のほうがよく知っているのに決まっているので書かないが、女の人には自分を表現する言葉がない。
軍隊のなかに居場所がないからで、現代の軍隊は女も男も肩をならべて戦うように、どんどん変わっているが、日本社会のモデルは、多分永遠に戦前の大日本帝国陸軍なので、女の人はもともと慰安婦か母親としてしか居場所がないのではないだろうか。
だから人間として自分を表現するには、たいそう窮屈な言語であるようにみえます。

沖縄の返還によって最終的には1972年に終わったアメリカ軍の占領期間ちゅうには、たとえば歌舞伎でも映画でも「忠臣蔵」は禁止されたりして、封建的とみなされたものやアメリカの軍人に理解できないものはすべて禁止された。
階級を廃止して、小作農を解放したことによって社会は一挙に水平化した。
前にも書いたが、いつか神保町の古本屋で戦前の日本の中学の教科書を手にとってみたら主著者の名前がひときわおおきい活字で印刷されているが、
その名前の頭に「平民」とでっかくついていて、他の著者は士族で、もうそれだけで、この「平民」の理学博士が、肩肘をはって、なんだか怒ったような顔で、懸命に勉強する姿が目に浮かんで、鼻の奥がつんとしてきたりした。
しかし、階級社会を破壊した結果、敬語を軸に体系を築いた日本語も破壊されてしまって、それにとって代わったのは軍隊言葉だった。

もうだいぶんくたびれてヘロヘロしてきたが、渋谷や国会前に集まった若い日本のひとびとの叫び声に1万キロの彼方から木霊するつもりがなくもない、8月15日まで続けるつもりの「戦争シリーズ」が終わったら、性懲りもなく、書こうとおもっているが、これほどながいあいだ民主制度をマジメに運営してきたのに自由主義がまったく育たなかった最大の原因は、自由を求める魂が「言葉をもっていなかった」からだと、考えています。
英語で自分を表現できるようになった若い日本の人、とりわけ女のひとびとを見ていると、いきいきして、「水を得た魚」という陳腐化した表現をおもいだすくらいで、言語が異なると、こんなにも違うものか、と感じる。

日本のいまの社会に射している最大の大日本帝国陸軍の暗い影は、「言葉」なのかもしれません。

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4 Responses to カレーライスと軍隊語

  1. euca says:

    寝起きに読んで、記憶が曖昧模糊としてたので再び拝読したところ、おもしろいではないか。15日の後も読めるのね わーい
    そうね、言葉がしっくりこないのね、いろいろ口調をかえてみたりしてもいまいちね。方言は型としてリズミカルで標準語より洗練されているように感じるが、所詮真似だし。
    誰かが英語はレゴのブロックで日本語は粘土って言ってたかな。
    悲しいきもちがする。眠くてまとまらない。
    そういえば亀さんにこどもっぽく書いた文章は女の子の言葉だのい ←まね
    なんであんなことかいたんだろ 笑える
    亀さんには、何か、言いたくなってしまうの
    もっと大人っぽくする

  2. azumi says:

    こんにちは。
    いつもブログもツイッターも読んでます。
    私は日本に住んでいて仕事をしていた時に、あえて男言葉を使っていました。
    そうしないといつまでも女(戦力外)として扱われると、頭のどこかで気が付いていたからだと思います。仕事のリーダーになってからは特に、髪の毛も短くして言葉遣いは男性でした。
    その後香港の大学院で勉強してすべて英語で話すようになってから、日本語で話していた自分が家庭内家庭外を問わずその時その時である人格を「演じていた」ことに気が付きました。今は生活のほとんど(ネット以外)を英語で暮らしていますが、すごく楽です。もう何も演じなくてよいし、常に自分は自分ですから。
    ガメさんが言っていることが自分のことのようで驚いて、同時に、わたしのような人がたくさんいるんだろうなぁと思いました。

  3. DoorsSaidHello says:

    >女の人には自分を表現する言葉がない。

    第1言語が日本語である女性が、日常どんな言葉でものを考え述べているかを知るには、日本の少女マンガが一番だと私は思うのね。少女マンガは若い女性が、自分と同じ世代の女性に向けて書く物語だから、筆者の写しである主人公がモノローグで語る時には、筆者のいちばん自然な言葉で語っている。例えば椿いづみさんの『親指からロマンス』の主人公はこんなふう。

    「なんかわかった気がする この人が 勉強できないわけが…」
    「こんな気持ち 知らなかった 痛くて痛くて 息が詰まりそう」
    「言いたいことはいっぱいあるのに 言葉じゃ足りない」

    そう。女性は、女言葉ではものを考えていない。少なくとも私はそうだし、親しい女友達もそうだ。でも男言葉でもないんだよね。強いて名付けるなら中性言葉かな…そういうシンプルな言葉で考えて話している。

    そしてこの中性言葉、実は男女の別なく使っている、と思う。
    1980年生まれの浅野いにおさんは『ソラニン』という青年マンガで二十代のカップルを描いているんだけど、セリフはこうだ。

    「うへー… どーせ余って腐らせちゃうよって言ってんのに。今日からまたカレー地獄だよ…」
    「ただいまあ おー 何? また野菜届いた? てことはまたカレー祭りかぁ?」
    「おっそいよ! 今日は種田が朝ごはん作る番じゃんか! ホラ、すみませんって言え」
    「ごめん」
    「違う、ス・ミ・マ・セ・ンだっつの!!」
    「すめん」

    ここには男言葉も女言葉もない、シンプルで水平な言葉がある。フォーマルでない場所になら、自然でヒエラルキーのない言葉がある。Sealsのスピーチで私が感動するのは、あそこで話されている言葉が自然だからだ。今まで政治の場では使われたことがない言葉、私がふだん家で使う言葉、自分を表現してきた言葉が語られているからなのだ。

    問題はこの中性言葉が大人の言葉として認知されていないことだ。気持ちを述べるには十分だけれど、抽象的な内容を論じるにはやや足りない、のかもしれない。子どもの言うことと蔑まれ顧みられない種類の言葉として、無視され続けている気がする。

    どうしてフォーマルな場で中性言葉は無視されるのだろう。
    それは日本語において、フォーマルな会話とは権力闘争だからである。
    どちらが上か決するために、会話は恫喝の応酬である。「そんなことでいいと思っているのか?」という問いは、「お前は俺に勝てないのが分からないのか?」という恫喝である。相手が恫喝に乗らなければ、今度は観客を振り返って「こいつはバカで俺は利口」というアピールをする。恫喝も悪罵も男言葉だ。だって女は最下位だから、権力闘争の語彙を持っていてはいけない。女に許された語彙は「はい分かりました」だけなんだよ。

    権力闘争としての言語の中では、フラットな関係を表す言葉は表現を奪われる。中性言葉もだけど、地方語もそうだ。方言もまた、取るに足らない、聞こえにくい言葉として無視され続けている。

    そもそも女言葉は、出自がとてもローカルな東京山手言葉だ。あれは上品な言葉という事になっているけれども、上品な言葉とは突き詰めて言えば「身分をわきまえた」物言いである。東京山手言葉とは権力中枢の言葉であり、つまるところ目上に逆らわせない性質のものだ。だから東京山手言葉は、地方から…つまり権力の外側におかれた人間からは密かに敵視されている。私は若い頃、うっかり東京山手言葉で地方の友人宅に電話をしたら、胡散臭そうに「どういうご関係の方ですか。セールスですか」と誰何された。地方人にとって東京山手言葉は、気を許せない、どこか人を見下した言葉に聞こえることを知った。

    ていねいな言葉づかいで、でも「身の程」は破り捨てて話そうよ。
    歳がいくつでも学歴や身分がどうでも、性別がMaleでもFemaleでもUnknownでも、方言でも、穏やかにフラットに話そうよ。
    したくないことをしたくないってシンプルな言葉で言おうよ。
    そして失われた、聞き取りにくくさせられた、無視され続けてきた言葉を、にほんごを、もう一度取り戻してきれいに磨こうよ。

コメントをここに書いてね書いてね

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