パンツアーファウストと大日本帝国の孤独

第二次世界大戦はドイツの戦争だった。
もっと現実に即して言えばナチの戦争です。
枢軸国と言ってもイタリアはドイツのフランス占領前ですらGDPでナチ・ドイツの五分の一以下、日本に至ってはそのイタリアのさらに15%減で、よくwar machineと言われる当時のドイツの国家体制とドイツ人自体の「征服者」へ特化した精神性で、十分にそれだけの実力があった世界を征服するという野望を持って戦争をはじめ、フランスが屈服し、イギリスの大陸遠征軍が装備を全部放棄して命からがら本国に逃げ帰って、空という戦場で「負けなければ、ぼくの勝ちだもんね」の連合王国の本領を発揮して、辛勝して、アメリカとソビエトロシアという自由主義国家と全体主義のチャンピオン同士が組んだ不思議なタッグと、ナチという中世物語のドラゴンにそっくりの鋼鉄の怪物との戦争だった。

ぼくの意見というわけではなくて、日本人以外のすべての国民にとっての常識です。
と言っても日本の人の太平洋中心の戦争の見方が「間違っている」と述べているわけではなくて、国ごと石器時代に戻ってしまうようなひどい破壊のされかたで、人間の歴史に珍しいほど負けて、国ごとの、文字通りトラウマになって、いまだに70年前のPTSDから逃れられないまま生きている日本人からすれば当たり前といえば当たり前のことであると思います。

しかし現実は現実で、戦争というものが、そういう言い方をすればGDPで戦うものである以上、たったUS$7.5billionの国力ではどうしようもない。

日本はアメリカと連合王国、ソビエトロシア、当時すでにドイツの支配下にはいっていたフランス人に対しては、よいことをして大変に貢献したので、真珠湾を不意打ちしたことは「西洋側から見た世界史」においては、ほとんど日本の第二次世界大戦における役割は、それだけだった、といってもいいくらいのおおきな意味があった。

開戦時のアメリカは1929年の大恐慌にはじまった経済的スランプの最下位点、どん底でした。
ヒットラーが見込んだとおり、その回復には、もう20年はかかると一般に思われていた。
それが突然国力の回復に向かって、1942年頃から、突然うわむきはじめるのは「日本人の卑怯さの賜物である」と、いまでも英語世界の至る所に書いてある。

考えてみると、戦争中の日本の役割は、奇妙ではあるが重要なもので、現在の中国共産党の宣伝用に変更された歴史とは異なって、蒋介石の国民軍は後一歩で中国共産党を壊滅させるところだったのは、毛沢東と周恩来、鄧小平本人たちの証言によっても明らかで、中国共産党がかろうじて延安の洞窟で生きながらえて、辛抱強い党の再建に着手できるようになるのは、蒋介石の懇願にも関わらず、世界戦略思考というものがまるでない近視眼の日本軍と政府の決定が背後から国民党軍を襲ったからでした。

この日本帝国の国際政治上の、ひどいマヌケさは、アメリカのルーズベルト大統領を激怒させてしまう。
「日本の政治家はなにもわかっていなくて、ただ目先の利益が欲しいだけだ。破壊してしまうしかない」というフランクリン・ルーズベルトの固い決意は、ここで形成されます。

ところが日本はアメリカと自由世界に対して、さきほど述べたように、このあとおおきな善行を施す。
それが博打好きの英雄的な提督山本五十六が企画した真珠湾奇襲で、実力があるマジな大統領であっただけではなくて、演説が滅法うまいポピュリストとしての才能も併せ持っていたルーズベルトは、この好機を逃さず、てんでばらばらだったアメリカ人を、たった一日で「挙国一致」の高みに持っていってしまう。
Remember Pearl Harbor

ルーズベルトは目をつむって神に静かに感謝しますが、もちろんその頃、欧州の片田舎の島国では、報に接して、戦争指導のベテランである老右翼政治家ウインストン・チャーチルが、シャンパンを片手に、肥満した身体で、物理的に飛び跳ねて大喜びしている。
「これで世界はナチから救われた!」と狂喜する。

アメリカは開戦時、軍事力世界19位という軍事小国だった。
ポルトガルの軍事力にも、まだ及ばない、先進国最下位といってもおおきな間違いではない軍隊しか持っていなかった。

ただ英語ではTotal Warmaking Potentialとよく言う、無理矢理日本語にすれば戦争遂行潜在能力ということになる国家としての戦争能力は、大きかった。

いまちょっとみると、1937年次でもドイツの14%、イタリアの2.5%、日本の3.5%に較べて、42%という飛び抜けた数値で、開戦したあとの1942年初頭になると、これがあっというまに日本の10倍を超える「戦争力」の原動力になる。

第一の理由は、アメリカでは特に工業生産の現場で、すでに女の人が熟練労働力として確立した地位をもっていて、いまの中国で女の人の地位が高いのも同じ理由によっているが、女の人の社会的な力なしでは産業がたちいかないほど国力における女性労働者の割合が高かった。
ナチドイツや日本では、女の人の役割が「産めよ殖やせよ」で主に人口増加マシンでしかなかったのと較べると、人口比で社会の生産性自体に占める割合が高く、見た目の人口比較から感じられるよりも遙かに多い人間が生産に従事していた。

第二の理由は、手工業的であった欧州や日本に較べて、大量生産が確立されていて、やる気になれば飛躍的に生産量を増やすことができた。

メルセデスベンツは1990年になってもEクラスのステーションワゴンとSクラスは少人数のグループによる「手作り」だったが、そういうやりかたは、要するに、ドイツ人の「最高の品質は人間の手から生まれる」という信念の結果でした。
戦争のあいだも、自殺したウーデットから軍需生産の監督を引き継いだアルベルト・シュペーアは、一向に生産が捗らないMe109の工場を視察にでかけて、なぜか野積みになっている、大量の、殆ど完成した機体を見て愕然とする。
理由を調べてみると、その工場では、座席をつくる熟練工たちが、パイロットが疲労しないためにシートに馬の毛をいれる作業を行っていて、これがボトルネックになっていた。
ついでに述べると、「この馬の毛がはさみこんであるシート」は、クルマ好きの人ならよく知っている角目時代のメルセデスベンツSクラスの革張りシートとほぼ同じ構造です。

シュペーアはすぐにやめさせて、いま写真でよく見る無愛想で殺風景なMe109のシートに変えさせるが、操縦席に葉巻ホルダーをつくらせて、葉巻をくわえながら空戦を行(おこな)ったので有名な、撃墜王で戦闘機隊指揮官のアドルフ・ガーランドなどは、これによっぽど腹を立てたようで、シュペーアのせいで乗り心地が悪くなったと、戦後になっても、まだ文句を言っている(^^;

ライン生産から次々につくられるアメリカ軍主力兵器のB17やM4、あるいはサンダーボルトやP51は戦争参加の原因であった日本軍との戦場にはあまり向けられず、欧州へ運ばれてナチとの全力を挙げたぶつかりあいになる。
アメリカがいくら国力を傾けても、ソビエトロシアとの戦いを主戦場に、アメリカ・イギリス連合軍とはいわば利き腕でないほうの片手で戦っていたにも関わらず、アフリカ軍団のロンメルに典型的に見られるように、文字通り桁違いに少ない物資と戦力にも関わらず、ドイツ軍は理解できないくらい強く、連合軍はいたるところで戦闘に負け、ようやく総合工業力の力で、ドイツを押し返して勝利をおさめて、しかし、今度はまた至るところで進撃をストップさせられる。

スターリングラードでソビエトロシアが誰の目にもわかる「勝利」を手にして、兵士というよりも浮浪者のような姿の、極寒のロシアをぞろぞろと群れて投降する、パウルスの24人の将軍と10万人のドイツ兵の惨めな姿が自由世界に報道されるまで、多分、もうドイツ人に戦争で勝つなどということは全然無理で、この戦争は永遠に続くのではないかという気分を連合軍側の兵士に与えるほどだった。

緊密に協議し、卓を囲んで共同作戦を立案してドイツ軍と死闘を繰り広げた連合軍側と異なって「三国枢軸」という「枢軸」には、少なくとも大日本帝国にとっては実体がなかった。

真珠湾を日本が襲ったときに、国防軍の将軍たちが、「真珠湾?日本人はなんで、そんなバカな作戦をやったんだ。なぜロシアを東方から攻撃しない?ほんとうに戦争に勝つ気があるのか!」と怒って作戦テーブルを拳で叩いた、という証言があるくらいのもので、あとは不思議なくらい日本に関心を持っていません。

「聴き取りにくい声」に耳を傾けると、非常に良い証拠がある。
特にぼくの独創的な知見ではなくて、英語世界ではいかにドイツが日本に関心がなかったかの例によく挙げられる例です。

戦争前の予想とはまるで異なって、島嶼戦が多い太平洋戦域でも戦車は陸上戦での最大の勝敗を決する要素だった。
日本軍が中戦車のM4どころか、軽戦車のM3に対してすら有効な対戦車兵器を持っていなかったからで、ノモンハンで「日本軍最強」のはずの関東軍がソビエトロシア軍の戦車にまるで歯が立たずにボロ負けに負けたのを、面子から、ひた隠しに隠したのが祟って、日本が対戦車の主力兵器としていた37mm対戦車砲(九四式三十七粍速射砲)は軽戦車のM3すら擱座させることが難しかった。
まして欧州戦線では「The Burning Grave」「Ronson」「Tommycooker」
(初めのはともかく、二番目と三番目はわかりにくそうなので説明すると
Ronsonはシガレットライター、Tommycookerはイギリス軍が第一次世界大戦で塹壕で使った料理用コンロの名前です)とまで言われて、バカにされた中戦車M4シャーマンに対して、日本軍は手も足もでず、ただ撃ち殺され踏みつぶされるか、火炎放射器の火炎で焼き殺されるかの選択肢しか持たなかった。

パンツアーファウストという兵器があります。
日本語世界では個々の兵器のスペックに近視眼的に固執するいわゆる「兵器マニア」の人には評判が悪い兵器のように見えるが、戦争遂行上は極めてすぐれた兵器で、アメリカ軍の歩兵が使用したバズーカとは異なって使い捨ての対戦車兵器で、ロシア機甲師団に圧倒されだしたドイツは、M4などとは比較にならない重装甲のソビエト機甲師団に対して、この対戦車兵器で対抗するようになる。

この簡便で、工作に熟練工を必要としないクルップ式無反動砲がいかに有効だったかはドイツが月産150万という数のパンツアーファウストを終戦まで生産し続けたことからも明らかで、戦争終盤には夥しい数のロシアT34を相手に戦わねばならなかった哀れなドイツ人たちは、ほどんど小銃の代わりにパンツアーファウストを携えて戦った。
いまに残っている写真を見ても、3本も4本もパンツアーファウストを肩に担いで前線に向かう兵士や、この兵器を携えて戦車に立ち向かう少年たちの姿が残っている。
ベルリン攻防戦の証言には、三つ編みの「お下げ髪」をヘルメットからのぞかせて、パンツアーファウストを握りしめたまま死んだ少女の亡骸の証言まで出てきます。

もうひとつつけ加えると洞窟や小さなコンクリート壕に立てこもって機関銃を撃つのが最も有効な上陸海兵隊への反撃方法だった日本陸軍にとって最適の兵器で、構造的に、このパンツアーファウストは狭い閉所から戦車を破壊できるゆいいつの方法でもあった。

ところが「アイデア」におおきく依存していて、チョー極端なことを言うと、電話でも作り方教えられるんじゃないの?といいたくなるような、この兵器を日本軍は存在すらしらなかった。

ドイツから日本に伝わったのは日本側では「タ弾」と呼ばれる成形炸薬弾だけでした。

ドイツの日本への無関心は、宮崎駿の「風立ちぬ」に主人公と三菱技術陣にた対するドイツ側の態度として、うまく描かれている。

日本の歴史を読んでいると、なんだか涙を誘われるのは、そのやりきれないほどの孤独と、誰も客席に座っていない劇場で、架空な満員の観客を思い浮かべながら懸命に演技しているような、どこにも存在しない「世界」に向かって絶えず自分を印象づけようとする哀れな姿だが、8月15日に向かって戦争の経過を追っていると、「日本はいったい何のために戦争をしたのだろう?」という当然の疑問が起きてきます。
満州の権益、というが、満州は終始一貫赤字を垂れ流すカネ食い虫で、人種差別との戦いという人もいて、気持ちはわからなくはないが、やっていたことは自分が白色人種でないことを天に向かって呪詛してでもいるようなアジア人の大量処刑・大量虐殺だった。
寂寥、という言葉があるが、荒涼とした気持ちになって、ラフカディオ・ハーンが描いた、やさしさと、まるで日本の大気中にだけは神様が日本人たちのために特別にこさえた、馥郁たるエーテルが満ちている、とでもいうような精霊の吐息が聞こえそうな「美しい国」との印象とまるでちぐはぐなので、混乱した気持ちになります。

補遺:

「GDPと三八式歩兵銃」の記事を書きながら、きっと来るよなー、そりゃあ来るに決まってるだろう、と考えていたコメントがやっぱりいくつか来ました。
「第二次世界大戦では他の国もボルトアクション式のライフルが主流でアメリカは例外です」というコメントで、「アメリカは例外」という、その「例外」と戦ったのを忘れているようなコメントで面白いが、どこかに、あるいはあちこちに書いた本や雑誌があるのでしょう。いつも決まって同じようなコメントが来る。

今回はなぜか、いつものような失礼な口調は少なくて、表面だけでも丁寧な口調なので、さすがにコメントとして採用する気はしないが、少しだけ説明しておきます。例えば、どの投稿者も問題にしているドイツがなぜ最後までKar98kを使っていたかは 軍隊である以上、当然のコストの問題のほかに、本来「防御兵器」である機関銃を攻勢的に使う、という、ロンメルの「Infanterie Greift An」(Infantry Attacks)以来の不思議な伝統があります。
それを可能にするMG34/MG42という他国軍とは大きく設計思想が異なる機関銃も持っていた。

ほんとうは、(特に大日本帝国の各種兵器について)日本の兵器ヲタクのひとびとと話して遊びたいところですが、このブログは、そういうことをする場所ではないので、とりま、とりあえず、戦術思想に拠っていることを示すために、アメリカ人がつくった、有名なドイツ歩兵の戦術をうまく解説した短いビデオをyoutubeから探し出して、リンクを貼っておくことにします。
皮肉な気持ちで言っているのではなくて、これを観て、考えてください。
兵器は個々の兵器だけをみると、おおきく誤解して、全体を間違えてしまいます。
どうか、そのことを忘れないで。

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2 Responses to パンツアーファウストと大日本帝国の孤独

  1. masami yamada says:

    素晴らしい見解だと考えます。およそ10年間、中国大陸で転戦していた亡き父の回想と同じくいたします。父は、こと野戦においての陸軍の欠陥は、糧秣・自動小銃・火砲の不足と運搬、教育の難儀・逆転した組織統制にあったと、よくぼやいておりました。その父も運よく生き残りはしたものの、既に鬼籍に入り20年を超えました。息子の年齢が還暦を過ぎているのですから、戦闘から戦争を考察するというようなことは、我が国の場合ますます困難となりそうです。敗戦時軍曹でありましたが、国府軍から再度武装を命じられ米軍とともにパトロール、ウィリスジープの凄さに驚いたと申しておりました。その父も亡くなる二年ほど前には「日本はなー喧嘩はするけど、戦争いうのは下手くそやねん」と、申しておりました。

  2. midoriSW19 says:

    第二次世界大戦というものについての認識が、日本とその他の国々では違うらしいことに初めて気づいたのはロンドンに来た(渡英したのは8月末だった)次の年で、英国と欧州では5月のVEデー(Victory in Europe Day、欧州戦勝記念日)に、連合国の勝利をもってWW2は終わったことになっているのを知ったときだった。この年はWW2終結50周年だったこともあり、テレビなどでナチスドイツの悪行がこれでもかと出てくるので、友人の日本人留学生がフラットシェアしていたドイツ人美学生は「夜道が怖いから実家に帰ろうかな」と言っていたぐらい。

    8月のVJデー(Victory over Japan Day、対日戦勝記念日、日本の終戦[敗戦]記念日)はVEデーのおまけのようなもので、アメリカにとってはそうでなかったかもしれないけども、欧州の連合国にとっては5月に調印した戦勝書類の署名の横にx(キスマーク)を付けたようなものだろうなと、これはもう少し後になって(日本軍POWの手記を読んだ時に)気がついた。

    でも、そういう、より大きな「終戦」記念日があることすら日本ではほとんど知られていない。なぜなら日本軍と国民は、もう勝負のついた戦争を8月のVJデーまで続けていたからで、そのおまけの期間に沖縄での主要な戦闘があり、広島長崎への原爆投下があった。この5月8日から8月6日までの3ヵ月間の無意味な引き延ばしを認識すれば、日本全土への大空襲で負け戦を悟って降伏すべきだったのに、そのタイミングを逃した軍部の馬鹿さ加減が今よりよほど明らかになるだろうにと思う。

コメントをここに書いてね書いてね

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