言葉と国防

SF1

1932年、 ミュンヘンを訪れていたチャーチルに、Putzi Hanfstaenglを通じて、密かに連絡したヒットラーは、クルマから降りて、待ち合わせたホテルのロビーのドアの前まで行くが、変心して「会わない方がいいようだ」と述べて踵を返して帰っていった、とチャーチルの孫、ウインストンSチャーチルが述べている。
この人にとっての父親、ウインストンチャーチルの息子であるランドルフが、そのとき一緒にいたからです。
ヒットラーが自分のほうから望みながら結局はホテルロビーの玄関まで来て引き返したのは、(Hanfstaenglによれば)「チャーチルと議論するだけの自信がまだなかったからだ」とSチャーチルは証言している。

成人する少し前から、ウインストン・チャーチルを薫陶し、直接に保護する役割を担ったのは、一群の、富裕で教養のあるユダヤ人上流社会人だったのと、選挙区のマンチェスターはユダヤ人がたくさん住んでいるので有名な町で、1930年にはもうチャーチルは晩餐の席で、ドイツ大使にしつこいほど、まだ突拍子もない主張をする極右政党から、世界恐慌の混乱に乗じて国民の2割弱程度の支持を受ける政党に変質しつつある政党に過ぎなかったナチについて質問を繰り返して、奇異に感じたドイツ大使が本国に打電するほどだったが、それはヒットラーのユダヤ人政策をチャーチルが現実の危険性を持っていると感じていたからでした。
1930年といえばヒットラーがチャンセラーどころか、まだドイツ国籍すら持っていなかった時のことです。

ウインストンチャーチルは、ミュンヘンを訪れていた当時は、有名なChartwell時代で、もう時代遅れの右翼政治家と見なされて、保守党本部からおっぽりだされ、それまで、ほぼ30年間、常に閣僚でいたのに、平議員に格下げされ、ケントのChartwellの美しい「田舎の家」で庭仕事に没頭している時代だった。
議席はまだ保っているものの「すでに引退した政治家」だと考えられていた。
「戦争屋」という人がたくさんいた。
「ありもしないナチとの戦争の可能性を言い立てる右翼政治家」が、当時のチャーチルに対する一般的イメージだったでしょう。

理念はともかく集団自衛権は、よく知られているように、歴史上では攻撃的に働くことがおおい。
戦争においては自衛という言葉は、ナチがポーランド侵略をはじめたときにも「自衛のためである」と述べたのでもわかるとおり、一種の、体裁をつくろうための軽い修辞にしかすぎない。

効果のほうはどうかというと、フランスがナチに侵略されはじめると、同盟国である連合王国は大陸遠征軍と空軍を派遣してナチと戦い始める。

本来の防衛的理由で集団自衛権が発動されるときは、たいていそういうもので、切迫してゆく戦勢のなかで、フランス首相ポール・レイノーと連合王国の国益はことごとに相反していき、一例を挙げれば、フランスは、「陸の帝国」フランス、「海の帝国」イギリスに続く「空の帝国」であったナチに圧倒されて潰滅した空軍を補うために一機でも多く連合王国の飛行機を必要としたがイギリス側はフランスがもう陥落するのは目に見えているので、一機でも自国の防衛にとっておこうとする。
フランス政権内部も分裂しはじめて、レイノーが休戦派に敗れて辞職すると、連合王国はついにフランス地中海艦隊を砲撃して、同盟の精神から言えば「同士討ち」の形にまでなってゆきます。

ところでポール・レイノーと緊急の会談に急ぐウインストン・チャーチルが列車のなかで書いた手紙は、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトへ宛てたもので、輸送船団護衛のための駆逐艦と十分な準備のない弾薬を「貸して」くれという切実な手紙でした。
フランクリン・ルーズベルトは、あなたも民主主義社会で選出された政治家だからおわかりでしょう、いまのアメリカの情勢で、そんなことを国民に提案することはできない、アメリカ人は平和に生活したいのです、と返事を書いて、チャーチルをひどく落胆させます。

余計なことを書くと、後年はふたりとも取り繕って、やや異なるストーリーに書き換えてしまっているが、当時のフランクリン・ルーズベルトの英国観におおきな影響を与えていたのは、駐英アメリカ大使のジョセフ・ケネディで、このひとは戦後のアメリカ大統領ジョンFケネディの父親だが、アイルランド系人として、すさまじいまでの憎悪をイギリスに対して抱いていた人で、「まるでアメリカとイギリスを分断するための大使のようだった」とイギリスとアメリカの両方に証言がある。

フランスが陥落し、ヒットラーのアマチュア戦略家としての自信のなさから、突然ダンケルクの直前で停止したドイツ機甲部隊に助けられて、23万人の遠征軍と7万人の自由フランス軍がダンケルクから、文字通り「着の身着のまま」の姿でブリテン島に脱出する。

いつもはオバカな連合王国人が、ここで誇っていいことは、ボロをまとって浮浪者じみた、惨めな30万人の敗残兵をイギリス国民は大歓呼で迎えたことで、上陸したときには自信を喪失していた敗残兵たちは、一歩内陸に向かうごとに、自分を「英雄」と呼んで、食べ物や、服、1パイントのビールまでを差し出してくれる国民の歓声のなかを歩くうちに、打ち砕かれていた、兵士としての、人間としての自信を取り戻してゆく。
フランス兵たちのほうは、敗兵は敗兵でしかなさそうな自分の国との、あまりの国民性の違いに、なんだかボーゼンとしてしまったようでした。

1940年5月14日、いよいよドイツのブリテン島侵攻が誰の目にも明らかになると、アメリカの援助をうける希望を失って、

「GDPと三八式歩兵銃」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/08/08/arisaka-type-38/
の記事で観たように国力の点からも、あるいは長年の軍縮政策が祟って極度に弱体化していた軍事力の点からもドイツと較べると、おとなと子供の違いがある連合王国ただ一国で戦わねばならなくなった国民に対して、ウインストンチャーチルは首相として初めてのラジオ放送を行う。

「I speak to you for the first time as Prime Minister in a solemn hour for the life of our country, of our empire, of our allies, and, above all, of the cause of Freedom.」

で始まるこの演説は、名演説というわけにはいかなかったが、連合王国人のあいだに、まだわだかまっていた、宥和派と戦闘派とのあいだのしこりや、戦争への懐疑を氷解させて、イギリス人ひとりひとりに「自分は自分自身の自由のために戦うのだ」と決意させる。

このすぐあとに始まる空を舞台にした「イギリスの戦い」(1940年7月-1941年5月)は、無数の本やドキュメンタリ、映画やテレビドラマに詳述されていて、ここでくだくだしく述べる気がしないが、

「We shall go on to the end, we shall fight in France, we shall fight on the seas and oceans, we shall fight with growing confidence and growing strength in the air, we shall defend our Island, whatever the cost may be, we shall fight on the beaches, we shall fight on the landing grounds, we shall fight in the fields and in the streets, we shall fight in the hills; we shall never surrender, 」

と述べた1940年7月4日の演説
http://www.winstonchurchill.org/resources/speeches/1940-the-finest-hour/we-shall-fight-on-the-beaches

だけは言及する価値があるかも知れません。
日常の大半を、おおかたたわけたことにしか費やさない連合王国人を、ひとつにまとめ、珍しくも、稀にも、祖国を自分よりも遙かに強大な敵に対して守り抜くという悲壮な決意を固めさせた、この演説は、イギリス国内だけでなく、世界中におおきな影響を与えます。

オーストラリアで、シンガポールで、カナダで、ニュージーランドで、ありとあらゆる英語国民の世界で耳を傾けていたひとびとのなかで、最も重要なリスナーは、アメリカ大陸の東で耳を傾けていたひとりのポリオ患者、フランクリン・ルーズベルトでした。
このアメリカ人は大西洋をはさんでチャーチルと対をなすような「言葉のひと」です。
この演説を聴いた瞬間、フランクリン・ルーズベルトは、連合王国人の様子はジョセフ・ケネディの報告とはまったく異なるのではないかと疑いはじめる。
一度はにべもなく撥ね付けたウインストン・チャーチルの手紙を読み返して、
後年Lend-Lease Acts (武器貸与法)と呼ばれるようになる連合王国支援の法律制定に動きだす。

もうひとりの重要なリスナーは、ベルリンで演説の内容を知ったアドルフ・ヒットラーで、なぜイギリス人が自分と同盟しないのか、ほんとうには理解できなかった、この、自分自身の激しい人種差別意識のために世界について屈曲像しかもてなかった人は、ひどい落胆を隠せなかった。

大西洋の向こう側での、アメリカ国民の、この演説に対する反応は殆ど爆発的なもので、それまで不況のなかで極度の孤立主義、厭戦気分に沈んでいたアメリカ人たちは、この演説直後のギャラップ世論調査では、62%の国民がナチがフランスとイギリスを倒してしまえば、その次はアメリカが目標だと答え、ライフマガジンの調査では70%の人々が、兵役年齢の若いひとびとに、いますぐにでも軍事訓練をうけさせるべきだ、という。
驚くべきことには88%の人がアメリカは、コストを顧慮せずに軍事的準備をすべきだと答えている。

この世論の劇的な変化をうけて、1940年7月、フランクリン・ルーズベルトは、これも有名なヴァージニア大学での演説で工業の軍事生産への全面的な傾斜と100%のイギリス支援を表明する。
アメリカ国民の怒りを買ったジョセフ・ケネディはイギリス大使を辞任することを余儀なくされて、このあと、公的生活へもどることが不可能になる。

ここでまた余計なことをちょっと書くと、日本では「真珠湾攻撃のあとアメリカが急速に軍備を増強して軍事力を増大させていった」と感じているようにみえるが、もうこのブログでは何度も述べたように、いまの日本とは異なって、戦争に特化した中進国にすぎなかった日本帝国の目で第二次世界大戦を観てしまっているからで、上で説明したようにアメリカが「戦争体制」にはいるのは1940年の半ばであることに注意すると良いかもしれません。
作った兵器が太平洋には少しも配備されないで、全部イギリス(とあとではロシア)に行ってしまったので、なんとなく、錯覚に陥っているだけなのだとおもう。

いかにもありそうな真珠湾ルーズベルト陰謀説が、肝腎のところで一笑に付されてしまうのも、同じ理由で、当時の歴史をアメリカとイギリスの側からみれば、国民を戦争気分に引き込むのに真珠湾は必要ではなかった。
アメリカの参戦は文字通り「時間の問題」でした。

このあとの歴史は日本のひとのほうが、ずっとよく知っている。
1941年12月7日、チェッカーズの首相公邸で、 ハリマンや新任のGilbert Winautアメリカ大使と、いつものように盛大にワインとシャンパンを飲みながらの夕食をすませたあとで9時のBBCニュースを聞くためにラジオをつけると、なにごとかアメリカが日本に攻撃されたというようなそこにいるアメリカ人と英国宰相には「too good to be true」、夢でしかありえないような吉報を伝えるアナウンスが聞こえてきて、やってきた執事に聴いてみると、「間違いございません。私どもも聴きました。日本がアメリカのハワイの軍港を空襲したのです」という。
不作法にも晩餐テーブルの椅子から立ち上がって歓喜の声をあげるウインストン・チャーチルに、大統領に電話をかけたアメリカ大使が受話器をわたすと遠い電話線の向こうから、「We are all in the same boat now」という矢張り喜びに満ちたフランクリン・ルーズベルトの声が響いてきた。

日本の参戦は、まるで日本政府がアメリカとイギリスを助ける決心をしたとでもいうように、最もよいタイミングで行われて、しかもナチが拒否する口実を与えないという点で素晴らしい出来事だった。
もちろん、明敏な政治家だったフランクリン・ルーズベルトは日本人の卑怯さを強調することによって、内心「太平洋なんて、どうでもいいんじゃないの?」と思っていたアメリカ人たちに、日本帝国の存在を意識させ、その戦争国家への敵愾心を燃え立たせることに成功する。

こうやって観てくると、政治という絶対暴力の世界においてすら、「人間の言葉」と「個人の自由への意志」こそが最高に強力な「国防」の武器であることが判って、書いてる本人も、へええええーと思わなくもない。

日本は憲法9条という「言葉」によって70年の平和を手に入れたが、それに「個人の自由」ということへの強い意志が伴わなかったことによって、自分たちがせっかく手に入れた強力な「言葉」をみずから否定して、世界中をびっくりさせ、ニュースがかけめぐって、日本はまた戦争国家にもどる、平和はあきた、と世界中の人に伝えて、国防をゴミ箱に放り込むという大失敗を演じてしまった。

兵器によるよりも、まず言葉の力によって自分たちの社会は守られる、言葉を持たない社会の軍備など国を守る為には何の役にも立たない、という古代ギリシャ時代以来の真理を、知らなかったからなのかも知れません。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

One Response to 言葉と国防

  1. nightonfool says:

    こんにちは。
    「日本における個人の意思に対する抑圧」について、私見を述べたいと思います。

    結論から言って、
    この「個人の意思に対する抑圧(全体主義)」の根源は日本の教育にあると考えています。

    まだ私は世間でいう”若者”で、それこそSEALDsの皆さんと大して変わらない年齢です。
    日本で教育を受けた私が、なぜ日本の教育が問題であると考えるのか。

    それは「なぜ?」という子供たちの問いに、大人が答えることが無いからです。

    日本の家庭における典型的なやりとりは以下の通り。
    子供「なぜ、勉強しなければならないの?」
    大人「グダグダ言ってないで宿題をかたづけなさい!」

    このやりとりは、広く日本の家庭で行われているものだと感じます。
    少なくとも、私の周囲には「なぜ勉強するのか」の答えを持っている子供はいませんでした。
    私も同様です。
    ようやく私が「なぜ勉強するのか」の問いに自分なりの答えを見つけたのは大学時代でした。

    問題は上で挙げたようなやりとりが何年も何年もあらゆる大人たちによって繰り返されることで
    子供たちが「なぜ?」という疑問を持つことができなくなるということです。

    「どうせ何言ったってまともな返事が来ないんだから言うだけ無駄だ」と認識してしまうのです。
    この認識は、疑問を持ち続ける者に対して
    「どうせ無駄なのに、なんでそんなことを疑問に思うんだ。うるさいやつだ。」
    という諦念の押し付けや冷笑的な態度となって疑問を持ち続ける者に対する攻撃に変質します。
    (質問することに対して消極的な日本の学生や、
    英語を正しく発音できる帰国子女が日本人の友達の前では片仮名発音で発言する
    といった実例から、この種の攻撃性が如何に悪質かは見てとれます)

    成長するに従って、マジョリティは「疑問を持つ者」から
    「疑問を持つことに苛立ちを覚える者」に変化していくのです。
    マイノリティ(疑問を持つ者)であることに耐えることは、疎外感を忍受することと同義です。
    子供たちの狭い社会では非常に厳しい戦いになるのです。

    私はなんとか大学教授というガイドを見つけるまで、
    その疎外感と戦い続けることができた子供の一人です。
    そうでなければ、根源的な問いである「なぜ勉強するのか?」の
    答えを見つけることはできなかったでしょう。

    子供の頃の「なぜ?」は純粋で、強い疑問だと私は思います。
    その「なぜ?」は一生を左右するほど重要な疑問だと考えます。
    子供たちの問いに真摯に応えることを軸にした教育が確立されない限り、
    日本を覆うの全体主義的な思考から抜け出すことはできないのではないでしょうか。
    「軍隊的」と言われる日本の学校教育は、否定に満ちたものです。
    私は日本の暗い影のひとつだと考えています。

    蛇足ですが、このような現状があったから、SEALDsは希望たり得たのでしょう。
    彼らは、どれだけ抑圧されても個人の声、若者の声が爆発することを証明したから。
    冷笑的な態度をとるマジョリティに対して、挑戦状を突きつけたから。

    何の話をしていたのか、どうも頭が回らなくなってきました。
    これからも日本語練習帳の更新を楽しみにしています。
    それでは失礼いたします。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s