ドアを閉めて

JM

ひとりで、なんだかぼんやりしている。
この頃、ミトコンドリアの機能のことを調べてばかりいるので、そのついでで、血糖値を調べるキットを買って、左手の人さし指や薬指からは、よく針で突いた血がにじんでいる。
糖尿病の人の反対で、なんだかものすごい低血糖で、たしか日本では異なる単位を使っているのだと思うが、4.0mmol/Lとかで、自分が正常値とは云っても低血糖症に極めて近いのを初めて知った。

あるいは、中世の魔術師のように、投資のリスクを、上限と下限を数学的に表現しようとして、歯痛をこらえる哲学者のような気持ちで、いくつもグラフを描いている。
新しいことばかりやってみる人間の常で、ときどき自分がやっていることが、たとえば過去の記録からロトの当たりナンバーを予測しようとしてでもいるような、バカバカしい試みなのではないかと、ふと思う。
実際、妄想的な試みなのかも知れないが、でも、まあ、時間がふんだんにあるんだからいいや、と考えなおして、また、数学の言葉でオカネの言葉を翻訳する。

海図を広げて、深度や、岩礁や、陸地の形から予測される風や、夜をすごす入江の形や向きを研究することは船乗りの基本で、人間の一生は、とても船乗りの生活に似ている。
400hpのCummins
http://www.cummins.com/EngineBusiness
エンジンをふたつ積んだパワーボートよりも、ヨットのほうが人間の一生に準えるには相応しい。
ヨットをよく判らない人は、艇体が風まかせなのだと考えるが、そんなことはなくて、吹いている風にどう対応していくかがヨットのおもしろさで、こわさでもある。

向かい風でも前に進める。
秘密は、真っ向から風に向かわないことだと思う。

あるひとつの時代に生きている人間は、その時代のもののけのようなもので、
ガーゴイルのように建物の階(きざはし)で、腰掛けて、世の中で起きることを見つめていたり、あるいは門柱で、向かい合って、自分が守るべきものの、意志を表示していたりする。

自分が何の精霊であるか、精霊は自身では知ることがないので、いつも困惑しながら生きている。
考えてみれば、意識を持つ生き物が、自分がなんのために生きているかを知らないのは滑稽でもあれば、残酷なのでもある。
人間の存在は悲哀そのものだが、その悲哀は滑稽に由来する。

モニさんと会って、人間の魂の自動システムが稼働しはじめて、例の、どうやってもその人のことしか考えられない毎日が始まって、マンハッタンのボロいアパートでコーヒーを淹れていても、大好物のきゅうりのサンドイッチをつくっていても、頭のなかはモニでいっぱいで、本を開いていても活字は目にはいってはいなくて、ひどいときには信号を忘れてクルマに轢かれそうになったりしていた。

運が良くて、思い切って話してみると、モニも同じで、あの寒い雪の日に22ndの交差点で、Will you marry me? が壊れた、誤っているフランス語の、変な言い回しの求婚をして、クラクションを鳴らすドライバたちに祝福されて、モニさんが頷く代わりに飛びつくような抱擁で応えて、その瞬間に、人間は生きる意味を探すようには出来てはいなくて、生きる意味を決定するように出来ているのだという簡単な事実を発見したのだった。

なんという愚かさだろう、といま思い出しても、おなじ感想を持つ。
あの瞬間まで、自分が生きることの意味を「探して」いたことについて、です。
自分は誰なのか、どんな人間で、自分はなんのために生きているのか、
ムダな疑問を繰り返して、朝まで起きていて、ノートに考えを書いてみたり、アパートの窓から明け方の町を見渡して、さてこの町には、まだ会ったことはないが、会えなかったらどうすればいいのか判らなくなるような友達が何人住んでいるのだろう、と考えたり、急に、自分の思考のこの限界は語彙にあるに違いないと考えて、死語を含めた、というよりも死語を中心にした、膨大な語彙を築いたりした。
それまで、まったくといったほうが良いほど興味がなかった「語学」に興味をもちだしたのも、その頃のことだった。

自分は自分で、他の人間が自分をどう思うか、と考えたことがないのは、というよりも、他人の目のなかに映る自分が自分である自己認識が存在するということを知ったのが、そもそも日本語を学習した以降のことで、もちろん英語社会にも同じようなことはあるのだろうが、育った社会の歴史と仕組みのおかげで、自分が宇宙の中心にいる育ちかたをすると、社会は自分の内部からまっすぐに、外に向かって延びる自分の視線だけで出来ている。
最も重要なのは自分自身で、他人は自分が充足したときに初めて視界に生じる。

自分が満ち足りて、ふと周りを見渡して、他の人間を幸福に、あるいはそれがおおげさならば、ほんの一分間でもよいから、冗談を述べて、あるいは身に付いた自虐の技術で、楽しい気持ちに出来ないかとおもう。

ところがモニさんを大好きな気持ちは、自分をまるごと転覆させてしまって、自分自身への配慮であるよりは、モニさんのほうが自分よりも大事になって、なんだか世界が逆さまになってしまったような、奇妙な混乱を自分にもたらした。

自分の手は、ほんとうに自分のものか?
あの、立っているときには、少し遠くにある、スウェードの靴をはいた自分の足は、ほんとうに自分の足なのか?
まるでモニに奉仕するために出来ているような、肉体の全体は、たしかに自分の身体なのだろうか?

認識が壊れて、認識が崩壊すれば、認識が現実なのだからあたりまえだが、現実の世界そのものが、音を立てるように壊れてしまう。

ひとりで、なんだかぼんやりしている。
コーヒーの入ったマグを手にしたきみが、なんだか世界が閉ざしてしまったドアの前で佇む人のように、寄る辺のない気持ちで立っているのが、その気持ちが、そのまま判るような気がすることがある。
錯覚なのだけど。
きみもぼくも、ほんとうは存在していなくて、椅子に腰掛けて、ぼんやりキーボードを叩いているぼくも、窓際に立って通りを見下ろしているきみも、ほんとうは幻で、神様が部屋からの出がけに壁のスイッチを切ると、
ふっ、とかき消えていなくなってしまうのではないだろうか。

日本から、ぼくが住んでいる町へ、インターネットを通じてだけ知っている人がやってきて、同じRemueraという街区に住んでいるのだけど、実を言うと、ぼくは、この人を郵便局でみかけたことがある。
ニュージーランド式に、キオスクで、いろいろなものを売っている郵便局のスタンドを、興味ぶかそうに眺めていた。
その人はこちらを観なかったので気がつかなかったとおもうが、もし気がついたとしたら、黒いレンジローバーに乗り込むところだった背の高い男がぼくで、いつもブログに描いてあるのよりも実はもう少し背が高くて、髪の色や目の色が違うからフェアではないが、自分でシルクスクリーンで作った、なんとなくバカバカしいデザインの赤いゴジラのTシャツを着ていたから、こうやって描けば判るかもしれない。
あれ、きみだよね。

あの大窓の外にいて、クルマに乗り込むためにドアを開けた手を止めて、じっときみを眺めていたぼくに気がつきましたか?

いつか、ぼくはドアを閉めて、この世界から出てゆくだろう。
もしかしたら、それはきみの住んでいる世界と相同なだけで、同じ世界ですらないのかも知れないけど、ぼくは、そうやってこの記事を読んでいるきみ自身なのかも知れなくて、あるいは、さっきまで傍らに立っていたはずなのに、かき消すようにいなくなってしまった、茶色の、フードをかぶった、痩せた手の甲を持つ男なのであるかも知れない。

ある人の文章には、酔っ払って、相手はノルウェー語を話していて、ノルウェー語は少しもわからないのに、何時間も話し込むところが出てくるが、ぼくはきっと英語人同士でも、そういうやりかたで相手を理解しているのに違いないのだとおもう。

太陽が出る。
でも、あの太陽は、きっと昨日の朝を照らしていた太陽とは、
まったく違う太陽なのだろう。
きみの目は太陽を凝視する機能を失ってひさしいので、気がつかないだろうけど。

また会えるよ、きっと。

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2 Responses to ドアを閉めて

  1. misho104 says:

    このエントリーは消してはいけないエントリーということにしましょう

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