糾弾的知性について

戦争や内乱についてのまともな報道が可能だったのは、アメリカにおいてはベトナム戦争、連合王国ではビアフラくらいがだいたい最後で、有名なメディアの破壊王Rupert Murdoch
https://en.wikipedia.org/wiki/Rupert_Murdoch
がTimes と Sunday Timesを買収し
Don McCullinがフォークランド戦争に出発する空母HMS Invincibleへの搭乗を英国政府によって拒否されたときに、だいたい戦争ジャーナリズムは生命を終えてしまった。

そこからあとの戦争報道は、ひどい言い方をすれば社内見学のようなもので、もちろん戦場だから生命の危険はあるが、自由に歩き回るということは許されなくて、軍が「見せてもいい」と判断した範囲を移動して「良い写真」を撮る、記事を書く、といういまのスタイルに変わった。
いま、たとえばDon McCullinが撮った、戦車にぺしゃんこにされた敵兵の死体、戦闘の巻き添えになって無惨に蜂の巣にされたパレスティナの少女の原型をとどめない骸、というような写真をみると、印象された画像の質の違いにぶっくらこいてしまう。

有名なシェルショック(敵の砲撃の恐怖で精神錯乱に陥ることをシェルショックといいます)に陥った兵士を正面から撮った写真

にDon McCullinは、
「正面から何枚もゆっくり撮っていたわたしに気づきもしないで、この兵士は撮影されているあいだ瞬きひとつしなかった」と証言を付けている。

あるいはビアフラの独立宣言に原因して、150万の人が飢餓と病で死んだビアフラ戦争で撮った飢えた母子の報道写真

に、
「もちろん母乳は出ませんでした。この年齢を訊いてみると25歳の母親が65歳の老人に見えました」と短いコメントを述べる。

特にくだくだしく説明しなくても、最近の「戦争報道写真」の饒舌との質的な違いは一見して誰にも了解できるものだという気がします。

どこから、この違いがやってくるかというと、この人の戦争報道でない写真を見ると、比較的簡単に理由がわかる。最も有名な浮浪者のおっちゃんの写真

についてフォトグラファーは、
「それまでの私の人生で見た最も透明で、明るくて、深いブルーの目、(汚れで)固まった髪の男で、ネプチューン(海神)そのもののような人でした」とふりかえる。

写真家のニコンカメラを通して被写体に向けられる視線は、通りのイギリス人に対してもシェルショックに精神が凍結した兵士に対しても、言い方としてよくないかもしれないが戦車のキャタピラに踏みつぶされて平たい肉塊と化した死体に対しても同じで、そこには自分の主張をいったん沈黙させて、かき消して、無音になった精神がものを見るときの静かさがある。
戦争の興奮も、戦場で起きていくことへの激しい憤りも、すべてを去って、ただ「見る」ことに投企した魂の精確さがある。

ミドリ・フジサワ @midoriSW19 さん、という人にツイッタで会った。
ロンドンの、最近はすっかり、のっぺらした、原宿のような、商業主義的に「クール」な街(←口が悪い)になったノッティングヒルに前は住んでいて、いまは(おおぜいの他のロンドン人たちのように)郊外へ越した。
SW19とアカウント名にあるのでWimbledonの近くとおもうが訊いてみたことがないので判りません。
善意の人なので安心して話ができる人です。
言語学を専攻しはじめた息子さんと、たいそう仲良しで、いろいろ教えてもらって楽しいらしい。
もうひとつ、わし従兄弟と東京大学に合格したものの、パスにして、英語圏の大学に進学したという共通点があるようで、なにがなし、親近感がある。

「発言が糾弾的であるところはよくないとおもう」とミドリさんの発言について述べたらわかりにくいようだった、というのが、この記事を書いている理由です。

聴覚に例えると、人間は「他人の話を聴く」状態で、ものを見なければならないので、「他人に対して自分の考えを主張する」ように、ものを見てはならないのだとおもう。

Don McCullinの真実性に満ちた素晴らしい画像の数々
例えば、イギリス人というものがどういう人々かあますところなく伝えている、と言いたくなる、わしの大好きな一枚

は、「何かを見ようとしている目」には見えるものではなくて、ふと目をとおして脳裏に焼き付いた映像でなければ、これほどの真実を含むわけがない。

言葉を発することは、ものを聴くことや見ることと本質的には行為として同じで、話すときに表現に主張をこめようとすれば、その瞬間、言葉の真実性は、するりと逃げていってしまう。
観察の結果を口述する以外に、人間は「話し方」というものを持っていない。

はてなに集住しているらしい時代遅れの皮肉屋たちや「歴史修正主義」糾弾とかで、喚きまわり罵りちらす糾弾依存症の人々は論外として、まともな人間においても、怒りを表明したり、自分の観察を述べることはできても、人間の言葉には現実は、「主張をこめる」というようなことは出来ないのだと思います。

ツイッタの140文字で応えるのは、いかになんでもめんどくさいので、ミドリさんの「もう少し説明しない?」はシカトしてしまったが、記事にして書いて、ついでに「最も巧みな詩人」エズラ・パウンドが戦後の、長かった自分の沈黙について述べた「人間は言語によって伝達する能力などないのだ」という言葉への新しい回答の端緒にもなると考えます。

ミドリさん、息子さんのデンプン質の肉体美は東京からもどったらひどくなっていましたか?
東京は炭水化物王国なので、たいへん怖ろしい町とおもいまする。
不思議な町。
ぼよよおーんとして。
とりとめがなくて。
終わらない。

でわ

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10 Responses to 糾弾的知性について

  1. 言葉には主張をこめる機能がないということに同意したときに、それでも主張を込めようとする意志はどこから生まれるのかという疑問について少しばかり考えてみた。
    自分の過去を一瞥するだけでわかるのは、自分が長い間にそうした硬直に陥っていたし、現に時々そうなる。現実を見る代わりに、「〜である(はず)」「〜である(べき)」というのが頭のなかで充満している。そこを出発点にすると、そうでない現実に出会ったときに、自分の思考を改める代わりに、できる場合にはそれを無視したり、できない場合にはそれを否定しようとして非難を向けたりする。だから、糾弾的な態度は当の人自身の内側にある悲痛な叫びなのであって、本人がそのことに対処できないのだから、それを外に向けて投げ出すしかなくなるのではないだろうか。
    そうした硬直した思考に特徴的なのは、「コピーライター語」のように少ない語彙語法の反復、僕なりの表現として、言葉の解像度が低いということだ。「なぜ自分が思った通りではないのか」ということに必死になる代わりに、「なぜ現実はその通りであるのか」あるいは「現実はほんとうのところどのようなものなのか」と考えるほうがよほど収穫が多い。でないと、かのようなひとびとのような泥沼にはまってしまう。

  2. midoriSW19 says:

    イギリスの戦争ジャーナリズムがフォークランド紛争から先、生命を終えてしまったとは思わないので、それについて書きます。確かに、特にイラク戦争から顕著なように、軍が記者やカメラマンをエンベッドさせてコントロールするようにはなったけれど、それゆえに多くのジャーナリストが軍への密着をやめて、爆撃される側からレポートするようになった。すばらしい調査報道や写真をたくさん知っています。

    その中から1人のイラク人ジャーナリストについて書きます。名前をガイス(Ghaith Abdul-Ahad)と言います。彼は建築家としてトレーニングされ、イラク戦争が始まる前の数年間、サダムの軍の逃亡兵としてバグダッドで地下に潜っていた。達者な英語遣いだけれど、イラクから外に出た事は一度もなかった(ガイスのように、専門の高等教育を受けた中流階級の若者がイラクにはたくさんいた)。バグダッドへの攻撃が始まると表に出て来て写真を撮り始め、やがてガーディアンに写真や英語の記事を提供するようになった。

    彼の名を初めて記憶したのはバグダッドへの大規模攻撃が終わり、ブッシュが空母の甲板で終結宣言をしたあとだったと思う。バグダッドのある場所(ラウンドアバウトのような所だったと思う)にいたイラク市民とジャーナリストを米軍の戦闘ヘリが攻撃した。ガイスは最初その場におらず、爆撃音を聞いて駆けつけ、負傷した人を助けたりしていたところに、またヘリが戻って来て攻撃した。その攻撃でガイスは負傷し、ジャーナリストを含む数名が殺されたのだけれど、中に白い服を来た少年がいて、ガイスが撮ったその少年の写真を、静謐な死に顔を今でもありありと思い出す事ができる。

    もっと後には、すっかり捨て置かれたイラクの精神病院を写真と記事でレポートしたこともあったし、リビアやシリアの反政府側からのレポートもあった。興味があれば検索してみてください。

    ところで、

    ーー 聴覚に例えると、人間は「他人の話を聴く」状態で、ものを見なければならないので、「他人に対して自分の考えを主張する」ように、ものを見てはならないのだとおもう。ーー

    という点には賛同できるけれど、

    ーー 言葉を発することは、ものを聴くことや見ることと本質的には行為として同じで、話すときに表現に主張をこめようとすれば、その瞬間、言葉の真実性は、するりと逃げていってしまう。ーー

    については、ガメさんは自分の主張に対してはどういう考えなのだろうといぶかってしまう。たとえ表現は静かでも、最初の引用にも次の引用にも確かな主張がある、その主張は「言葉の真実性」を失っているのだろうか。

  3. DoorsSaidHello says:

    ガメさんからみどりさんへの、曇りない信頼と愛がこもった、いい手紙で、涙ぐみそうになって読み終わった。まもなくみどりさんのコメントが書き込まれて、やはり確かな信頼と愛情で支えられた反駁だった。いいよ。ちゃんと噛み合っている議論が見られるなんて、日本語世界ではすごく珍しい。素晴らしいことだよ。

    そうなんだよ、議論ってこういうものなんだよ。
    ことばって、こうやって使うものだよ。

    「私のいるここからは、あれはかくかくしかじかに見えるよ。そっちから見えるものを教えて」
    「ぼくのいるところからはこれこれしかじかが見える。ぼくのいる場所は、きみのいる場所から3キロ真東で80メートル高い」
    「二つの視点を総合すると、あれは××な姿をしてるということになるか」
    「もっと他の視点からみた情報が欲しいね」

    …というのが、言葉の本来の機能だと思う。
    言葉を発する者同士の信頼を基盤として、初めて意味のある会話が成り立つものだと思う。
    そしてこれこそが、友情というものの機能なんだと思う。

  4. DoorsSaidHello says:

    「糾弾的知性」の反対語は「止揚的知性」であるとガメさんが言ったのを数少ない手がかりにして、「糾弾的知性」とは何か、についてずっと考えている。今のところ、止揚的知性は新しい高次の解決を探すことが目的の知性であり、糾弾的知性は既存の解決に優劣をつけることが目的の知性である、と考えている。

    止揚aufheben、という言葉はせいぜいが哲学の講義で目にしたくらいの馴染みの薄い言葉だ。weblioによれば「対立する二概念を、より高い概念に発展させる作用」となっている。

    でも英語でupholdと言われると、何人もの人が頭を寄せて、天井から吊した赤い玉と青い玉を見上げながら、ああでもない、こうでもないと矯めつ眇めつして議論し、色はともかく球体であることは同じではないか、と述べたりしている風景が目に浮かんでくる。止揚とはこの矯めつ眇めつをみんなですることで新しい高次概念を作ることだ、と考えることが正しければ、「止揚的知性」とは知恵と視点を交換し合って高次の解決を探ろうとする知性だ、と言ってもいいのではないか、と思う。

    大学の時、政治学の授業でバズストーミングという手法をよくやらされた。何人かのグループで、与えられた課題について矛盾を気にせずに連想をどんどん述べ合い、どんどんメモを取る。制限時間の終わりに、沢山のアイディアから使えそうなものをいくつか選んで整理し、グループのストラテジーとする、というやり方だった。通常のグループ討論では、最初に出たアイディアに引き摺られやすい。又はグループ内の力関係が、アイディアの採用に影響しやすい。ひとりがいくつものアイディアを出せるバズなら、全体を見渡す際により高次に立ってまとめられる、ということだった。これが、みんなの知恵を出し合って新しい切り口を見つけようという「止揚的知性」なんじゃないかと思う。

    後に英語圏で英語学校に行った時に、クラスでよくグループワークをやらされたが、最初にアイディア出しを5分やってそれから整理するというやり方は、バズそのものだなと思った。英語の世界では、ポケットの中身を全部出して見せて中のお菓子を分け合うみたいな、「シェア」という考え方がほんとに普通なんだな、と思った。ガメさんが「止揚的知性」と述べた時にイメージしたのは、英語学校でわいわい過ごしたこの5分間だった。そこには勝ち負けのない、より魅力的なアイディアを探そうとする楽しさだけがあった。

    翻って、「糾弾的知性」とは何だろうか。

    糾弾的知性の部屋では、赤い球を持った人はみんな赤いTシャツを着て部屋の片側に集まり、青い玉を持った人はみんな青いTシャツを着て部屋の反対側にいる。そして口々に、青のどこがいけないか、赤のどこがおかしいかを指摘し合っている、という風景が浮かぶ。誰も「同じくらいの大きさの球体だね」なんて言わない。差異だけが問題にされ、優劣が競われる。「糾弾的知性」とは勝ち負けを決しようとする知性だ、と言えるかもしれない。

    日本語での議論では、「正しさ」で対立候補をねじ伏せようとする風景をよく見る。というか、俎上のアイディアはすぐに対立する二つに収束させられて、あとはつぶし合いになっているのをよく見る。だから「糾弾的知性」は二項対立的であり、発想が「あれかこれか」である知性、と言うこともできるかもしれない。

    更に踏み込んで言えば、二項対立的な知性であれば当然、「正しくない」のは敵方のアイディアである。言い換えれば、問題は常に「自分の外側にある」。正されるべき間違いは自分の中には無いのだから、自分を疑ったり自分を責めたりする必要がない。裏返せば「糾弾的知性」とは、自分の悪よりも他人の悪を問題とする知性なのである。パラドキシカルだが、「私は糾弾的ではない」と述べるその態度こそが糾弾的知性だということになる。

    「私もまた糾弾的なのだろう、ではどこが、どのように?」というのが今の私の問いで、この答えを出せばもっと有効な議論ができるのなら、私はぜひ自分の「糾弾的知性」をしっかり捕まえて、矯めつ眇めつしたい。

    (なのでガメさん、私の理解を私のことばで書いてみたよ。)

  5. euca says:

    亀さんは誰にも読めない言葉だからと言って日本語でたくさん書いて完全には伝達不能であるのにお手紙をたくさん書いている。
    今日は具合が悪いので歌を作ったり絵を描いたりしました。言葉は一見うまく言えたようでも不満足で不器用な気持ちになり、絵は下手でも心が鎮まって満足する。ツイッタもうろうろしたら、やっぱり糾弾(罪や責任を問いただし、非難)している人がいた。多分尊敬できるまともな人同士で、言い過ぎた所を責めていて言葉の受け取りが雑になってそんなに怒らなくていいのになと悲しくなった。人権を否定する人以外には協力を前提に寛容にならなければただでさえ分断されている社会なのに良くないと思う。
    でも、世界はすばらしい場所なのだとときどきは思い出して、たまにお手紙を書こうかなという気になる。

  6. katshar says:

    140字では言えないと思って途中でやめてしまったのは、
    正確な絵を描くように言葉を使わなければいけない場合があると気付いたということです。

    訓練さえた画家でなければ正確なデッサンをすることはほとんど不可能で、
    それは観た物を描く時に自分の中にもっているイメージで置き換えてしまうからなんだよね。
    デッサンやクロッキはそれを知って捨て去るためのトレーニングとも言える。

    同様のことが聴く方にも起こるだろうか、と考えていたけど、
    単純なことで、ちゃんと話せない言葉は聞き取れないというのが聴く場合のそれにあたるようです。
    対象と絵との間に起こるのと同じ問題が何かの意味を言葉にする時にも起きているようで、
    自分の手持ちの意味が邪魔をして、聴いたまま、あるいは読んだままに
    誰かの言葉が作り出すはずの意味を自分の中で再構築することができない。
    絵の場合は出来栄えを見たらまさに一目瞭然でも、
    言葉の場合はそれがわかりにくい。
    糾弾的になってしまうのは、その辺りが関係あるのかもしれない。

    なんだかやっぱりうまく言えてないようなのは、
    文字数の問題ではなかったのかもしれません。
    とりあえずここまででコメントして、もう少しよく考えてみます。

  7. mint says:

    aufheben ということについて

    ガメさんの文章を読んで、「糾弾的知性」という言葉(むしろ「糾弾的ではない」とはどういうことか)の意味が突然くっきりとイメージできるようになりました。そして、みどりさんが最後に問いかけているのは、言葉で言葉を語ると、必ず起きる問題なのだと思います。

    それに対して、DoorsSaidHello さんの分析は、「止揚的知性」という言葉のイメージを私の頭の中に今までにない新しい形で、浮き上がらせました。aufhebenという哲学用語を、このように説明されたことは初めてで、こういう風に考えることもできるのか、と新鮮な驚きでした。

    私も、何か抽象的な言葉を考える時、いつも、元々の意味に立ち返るといいのではないかと思っています。それで、DoorsSaidHello さんにならって私も考えてみると、aufheben とは、「拾い上げる」ということ。すると私には、床に広げた赤い玉と青い玉を見下ろして、ああでもない、こうでもないと議論する人々の姿が浮かんできたのです。

    DoorsSaidHello さんの鮮やかな分析から連想した、「止揚的知性」のイメージを、私も私の言葉で書いてみました。

  8. ubaab says:

    ある事象について人が深く考えるとき、その知性の持ち主に何かしら被支配的な被害者的意識が潜在する場合に「糾弾的」に働くのではないかと考えました。日本国籍をもち日本語で考える人には、程度の差はあれ「糾弾的知性」が働かない人はいないのではないか。とくに日本が米国に隷属しており、奴隷の長たる日本政府要人が国民を完全な奴隷と化す強攻策を打ち出していることが明らさまに目に見えてきている現状では。

    「止揚的知性」をもった日本人も過去にはいて、私の知る限り丸山真男や加藤周一が浮かびます。丸山真男は死の直前まで、自分が被爆者であることを公にしなかった態度にそれが表れている気がするし、加藤周一は西洋の事情と思想に通じていたので、国体の面々と比較しそれを呆れ哀れんだ印象をもちます。

    一方ガメ夫さんが止揚的知性を自然と体得しているようにみえる要件に、ガメさんがイギリス連合王国(旧帝国)の上流階級出身でかつ自分で作った財力をもっていることに関係があるように思います。誰からも支配される身ではなく、物事から離れ俯瞰する立場にあり好奇心旺盛で物事をよりよく理解しようと努力をしている。同じような立場にあって、でもガメさんを違う人にしているのは、その想像力の大きさなのだろうと思います。

    だから、日本人も日本が本当の独立国家になったときに自由な想像力が湧き、糾弾的ではない止揚的な知性をはぐくむことができるのではないか?

    そして思うのは、ガメさんのような人となんと日本語で普通に言葉を交わせているのは、人類史上起こってきた小さな珠玉のミラクルのひとつなのだということ。この粒は日本語だから世界の人にとっては見えないのだけれどね。((^*))

  9. misho104 says:

    知性に対して,糾弾的である,止揚的である,というような形容が可能である,ということを前提としているようだけれど,むしろ,一般に人間は,他人の発言を解釈するときにその発言に込められた主張を解する能力を持たない,と考えた方が正確ではないかなあ。(140字なのでツイッタでやるべき発言)

  10. K says:

    どんな話にも、話し手を中心とした読み筋がある。それにも関わらず相手の話を全て自分の読み筋に引き込み、そのうえで話の優劣を論じる。こうした知性の振る舞いを「糾弾的知性」と呼ぶとすれば、それは「独り善がりな知性」とも、言い換えられるのではないかと思いました。

    昔、何かの本で読んだことだけれど。

    旅人が行きがかりで、身なりの貧しい人とおしゃべりをすることになった。話は弾んでお昼時になり、旅人は食事に誘われた。その時、彼は「この身なりの貧しい人は結局のところご飯を恵んで欲しいのだな」と思い残念な気持ちになった。でも、食事が終わりその貧しい人が「今日は私の奢りなんだ」とお店の人にお金を払っているのを見て、自分に絶望した。

    こんなお話がありました。ここでは、やりとりが次のように進んでいます。

    (1)地元の人は、旅人を食事に誘った。
    (2)地元の人は、旅人に食事をご馳走したかった。
    (3)旅人は、貧しい人は親密さを利用してつけ込むものだと考えている。
    (4)旅人は、地元の人が昼食を自分に対してたかっていて、それは許し難いと考えた。

    旅人である聴き手は(1)の振る舞いを、振る舞いの本人である(2)の読み筋から、それとは異なる(3)の読み筋へと引き剥がして、(4)であると理解して憤っています。

    糾弾的知性とは、こうした知性の一連の流れを、(4)に注目した場合の表現だと思います。でも、こうした一連の知性の働きにおいて最も回避することが困難な箇所は(3)であって、この点に注目すると、独り善がりな(他者の存在しない)知性、と名付けることができるように思うのです。

    なぜ、(4)ではなくて(3)に注目したのかと言いますと。

    (1)話し手のお話し
    (2)話し手の読み筋
    (3)聴き手の読み筋
    (4)話し手についての聴き手の理解

    例えば。

    (1)ある若者の振る舞いは
    (2)単に彼特有の話し方にすぎないのであって
    (3)しかしそれをある職業集団の規範を踏まえた振る舞いと考え
    (4)その若者を称揚する

    ここには、相手の話を聞いているのではなく、自分の主張で、相手を塗りつぶすような知性の働きがあります。この例のように、一見すると(4)が相手を責めるものでなくとも、(3)独り善がりな知性の働きがあれば、ガメさんはそれを糾弾的知性、と指摘しているように思う。なので、(3)に注目して理解することを考えました。

    ただし、独り善がりな知性から離れること。聴き手が自分の読み筋を棚に上げて、話し手の読み筋に沿って聴く、ということは、とても難しいと思います。

    まだ、人間の脳はお互いに直結していない。だから今のところ、相手が何を話しているのかということについて、基本的には、あくまで聴き手が用意した何らかの読み筋に沿って理解するほかないと思うからです。

    この困難を前にして、人は(a)から(c)のように、様々な工夫をして、向き合っている。

    (a)恐らく多くの人が採用している方法は、いわゆる良識を身につけることであったりすると思うのです。いわば最も汎用性のある(3)を身につけること。例えば、リベラルな、左派的な、保守的な見方、世代や風習、職業集団に固有の規範、とか。

    でも、この方法では、それは自ら、自分の世界に鍵をかけることに等しい。いわば、独り善がりの知性です。

    おまけに、そうした汎用性のある(3)を身につけた人の知性は、ジュークボックスのようで。入力に対してすぐに出力が返されるけど、その度にレコードは針で削られて音はどんどん歪んでいく。

    (b)二つ目の方法は、思考の体力と、誠実さと、時間と、幸運が必要で手間のかかる方法だけど。その都度、話し手に対して固有の読み筋を、聴き手の側がつくっていく方法。時間と手間がかかるけど、聴こえるのは、常に新しい、作曲された音になる。

    私にとって、そもそも知性がある人、というのは、こうした方法で、人や世界に向き合って生きている人のことでした。ただし、この方法を採用しても、それでも、どうしても、どこかで聴いたメロディに合わせて、新しい音を、古い音の中で聴いてしまう。

    (c)三つ目の方法は、前の二つとは異なって、意識を超えて直接、体の中に入ってくる経験を頼りに、そこから言葉と、理解の読み筋をつくっていくこと。

    ミドリさんはあの時、世界に対して(a)の方法でアプローチしていたのだと思います。

    聴く、見る、感じるといった行為は、過去の経験に縛られて、そのほつれた糸の先で何かに触れる、という経験でもあると思います。丁寧に経験を積むことで、世界に触れるためのフィルターは明晰なものになってゆく。

    今、とても明晰で、解像度の高い望遠鏡で世界を見ているけれど、それを置いて、裸眼で景色を見渡すと、最初は目眩がするかもしれないけど、そのうちに目の奥の疲れが取れて、少し違った景色が見えるのかもしれません。

    ここまで書いて気付いたのだけど。ガメさんにとって、「他人の話を聴く」状態でものを見るとは「ふと目を通して脳裏に焼きついた映像を見る」ことと同じなんだよね。(c)のような経験なのだろうか。

    私はこれまで、人間以外の自然、例えば山や、海や、空の声をそうやって聴こうとすることはあったけれど、人間に対して、どこまで、他人の話を聴いていたのだろう。

    このブログの冒頭に貼り付けられた写真は、長く見つめることができませんでした。苦しくて、長く考えることが辛い。思考の流れが止まるような気がする。それは、きっと、(c)のように、この映像が、言葉になる以前の経験として、体に入ってきているからかもしれない。

    たぶん、知性でこうした経験はできない。とはいえ、不十分であっても言葉を捨てられず、そのことを言葉で話してしまうように、不十分であっても知性を捨てることはできないと思う。

    でも、人の出発点はたぶんここにあって、知性を頼りすぎてしまうと、あるいは、知性の手前にあるこの経験に時々であっても帰らないと、歩き方を見失うようで怖くなるのです。

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