カレーと難民

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居抜きっていうんだよ、

日本にいたとき、ずっと、頼まれもせんのに集団で「父親がわり」をつとめてくれていた「トーダイおじさんたち」のひとり、Sさんが言う。
天気が良いので散歩のついでに訪ねていった、夏の軽井沢の、Sさんの別荘地の敷地の森のなかにだしたテーブルのうえで木洩れ陽がゆれている。

イ・ヌ・キ?

そう、居抜き。
食べ物屋さんをやっていたひとが店をやめた場所を、造作も厨房もそのままで次の人が借りることなのね。

寿司ネタのガラスケースがそのまま残っていてね、と可笑しそうに笑ってから、ちょっとなつかしそうな顔になります。
500円、だったんじゃないかなあー、ランチ。

Sさんと友達は本郷から、何度も何度も足を運んだようでした。
「その頃は、まだ日本人は辛いものを食べる習慣がなくてさ」というので驚いてしまった。
だって、銀座のデリーって、義理叔父が生まれた頃に出来たんじゃなかったでしたっけ?と訊くと、
だって、あそこはぜんぜん辛くないカレーを出してたんだよ、行ったことないの?
という。
普通の人が辛いもの食べるようになったのは、ごく最近の習慣だよ。
ぼくが学生の頃は、アジャンタはもうあって…

「あ。あの麹町の?」

いや、その頃は九段でね、パレスホテルってあるでしょう?
あのホテルの脇の長い坂道をあがっていくと、坂の頂上に、木造のカッコイイ建物あって、そこで、ものすごく辛いカレーをだしていた。
でも、アジャンタだけじゃないかなー、辛いカレーをだしてたのは。

ほら、いつかガメと一緒に「たいめいけん」て、日本橋のレストランに行ったでしょう?
きみは、豚の生姜焼きとロースカツを食べたのに、足りないと言い出してカレーライスを食べていた。

「よくおぼえてますね」と、わしが言うと、
「だって、あんなにものすごい食欲の人間をそれまで見たことがなかったから」と言って笑っている。
余計なお世話ですがな、全部おごってくれたからいいけど。

あのときガメは、「なんだ、このカレー、スパイスなにもはいってなくて、カレー味の水みたい」とぶつくさ言っていたが、
「ぼくが、ですか? 上品な、このぼくが文句を?」
まあ、いいから。

あの「カレーライス」は実は、たいめいけんの昔のレシピでね、
ぼくが子供の頃は、「辛口」と言ったって、あんなものだったんだよ。
実際、親に三越の本店に行くから一緒にこないか?と言われると、
「たいめいけん」の辛いカレーが食べられる、とおもって、よろこびいさんでついていったものだった。

で、アンコールワットはどうなったんですか?
と話が遠くまで来てしまったので、Sさんを話の元に連れ戻すと、一瞬、え?という顔になったが、そうだったそうだった、と言う。
惚(ぼ)けてきたのではないか。

このカレーが辛くて、とまた遠くをみる表情になる。
なんとも、表情が忙しいおじさんです。

さつまいもが入っていて、鶏肉の塊がごろんと入っていて、
と言いかけて、付け加えた次のひとことが「トーダイおじさん」たちの特徴で、ほんとは、ぼくはカレーが苦手でさ、と苦笑している。

毎日、必死で通って、頼むから辛さを加減してくれって頼んでるのに、ぜんぜん容赦されない感じの、ひと口食べると涙がでるほど辛いカレーを命がけで食べて、とおおげさです。

おれたちは店主がカンボジア難民だって知ってたから、少しでもオカネをあげなけりゃとおもって、学生のあたまの悪さで、
そんなことを考えるんだったら、当時でもあったボランティア団体でも見つけて直接はなしをすればいいのにさ、
善いことをするのは照れ臭いし、第一ボランティアなんて偽善的な感じがして、
「偽善的なんですか?」
いやガメは、びっくりするだろうけど、どういえばいいかなあー、善いことをするなんてのは、顔の皮が厚い嫌な野郎で、そんなことは、まともな人間はしないものだ、というのがおれたちの常識だったんだよ、と主語がぼくからおれにかわって、可笑しそうに笑っている。
永久革命に興味をもたざるもの「善」を語るなかれ。

はあ。

その頃は、人口が日本の4分の1しかないオーストラリアでさえ14万人も受け入れて、日本よりも遙かにカンボジアから遠いアメリカは82万人だかなんだか受け入れていて、国際社会は頑なに難民ひきとりを拒否する「アジアの盟主」気取りの日本への非難の大合唱だった。
日本人は悪魔だと書いた新聞もあったよ。
ニューヨークタイムズ、だったかな。

到頭、圧力にまけて、政府は1万人のカンボジア難民の受け入れを決めた。
それで「アンコールワット」が出来たのさ。

ガメは信じないだろうけど、日本人は、親切で、ぼくたちだけじゃなくて、初めは「においが気持ちわるい」と言って我慢して食べる状態だったのに、レストランはいつもいつも満員だった。
オカネを払うときに「がんばってください!」という人もいたけど、たいていは、無言で支払って、店主がよそを向いたときに、そっと千円札を難民への寄付の箱に押し込んだりしていた。
毎日、お昼を食べにいくたびに、そんな調子で、ぼくはなんだか日本人であることが誇らしい気持ちになって、代々木にでかけてお昼ご飯を食べた午後はいつも心が明るかったものさ。

カッコイイですね、というと、
うん、カッコイイ、とつぶやいてから、不思議なことを言い出す。

ある日、大盛りを注文したおっさんがいてさ、一口たべて死にそうな顔をしてたから、やっぱり難民支援のつもりで来てた人だと思うんだけど、
払うときに「いやあー、うまかったよ」と胴間声で言ったところまではよかったけど「800円です」という店主の声を聞いたとたんにキレちゃって。

え? だって、おまえ、普通盛が500円なのに、大盛りは800円かよ。
だって、チキンのおおきさだっておなじなんだよ?
大盛りは800円なの?
店主が、メニューに書いてあります。
大盛りはランチメニューじゃないから、高い、とたどたどしい日本語で述べると、おっさんは激昂して、叫びだした。
おれは、おまえらを助けようとおもって昼飯をここに食べにきたのに、おまえのその態度はなんだ!
難民なのに!
おれたちは、おまえらを救ってやったんじゃないか!
分際を知れ!

おれは下を向いて、急に不味くなった鶏肉を骨からはがしながら、
なんだか泣きたい気持ちで、残りのご飯を食べて、そそくさと店をでていった。
そのときが最後で、それきり行かなくなっちゃったんだ。

Sさんは、そう述べて、記憶の苦みをのみこむように、水を飲んで、それが癖で、ほっぺたを掻いてみたりしている。

いまインターネットでみてみると、カンボジアを支配下においたクメール・ルージュが、当時800万人だった人口のうち推定140万人—180万人の自国民 を虐殺したのは1970年から1975年のことです。
そのうえに、200万人を越える国民が餓死の危機にさらされていた。

日本が国際社会からのすさまじい圧力に屈する形で1万人の難民を受け入れるのを決定したのは1979年のことだ、と書いてある。
そのうち、日本に定住を希望して就職したのは1045人。

Sさんの話をおぼえていたので、新宿から渋谷に行く途中、代々木で下りて、
レストラン「アンコールワット」を探してみたら、Sさんがおぼえていたのとは違う場所に、おなじ名前のレストランがあったので、これかなあーと考えたが、入らなかった。
見つけたらカレーを食べてみようとおもって代々木でおりたのに、なぜ食べなかったかはわかりません。

新宿駅の南口まで歩いて、マクドナルドだかなんだか、退屈な食べ物を食べて帰ったのをおぼえている。

こうやって思い出しながら書いていて、なぜシリアから400万人の難民が脱出した今回は、日本への非難が起こらないか、いろいろ考えてみたがわかりません。

ただ、この30年に起きた変化は、おおきなものだったのだなあーという、ひどくマヌケな感想が起きるだけで、自分と日本のあいだにも、すっかりおおきな距離ができてしまったのだなあーとおもう。
すごく遠い国、よく正体がわからない国になってしまった。

まだ日本語は話せるけど

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