ある物理学者の友達への手紙5

paint on the wall

ひさしぶりにきみに手紙を書こうと思うと、なんだか緊張してしまう。
いまはギリシャにいるそうで、このあいだ手紙を書いたときは、きみは松江で、松江はぼくにとってはラフカディオ・ハーンとセツさんの町で、
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/04/odakin2/
まるでギリシャの神様が呼んでいるようで、少し不思議な気がします。

別に気にしなくてよいが日本語フォーラムのひとたちのなかには、きみの悪趣味を「棚上げ」にして絶交をたたんでしまったぼくの態度に不信を感じているひとびともいるようです。
訝っている。
自分でも何をやっているんだろう、と訝っているので、他の人がみて不信を感じるのはあたりまえで、訝りの神様も頭を傾げて、なんでしょうこれは、と友情の神様とふたりでヒソヒソと密談をしているに違いない。

絶交の原因を、日本政府と中国政府の一世一代の知恵だった尖閣方式を採用して「棚上げ」にしたほうは、論理不明の、東洋的対処だけど、
先週、ひさしぶりに喧嘩できることになったのに調子をこいて、
「きみは知識階層としてやるべきことをやってない」と述べたのは、ぼくがチョーバカだった。

だってさ。
考えてみれば、ぼくが、いまでもきみの悪趣味のせいで、ほんとうはぼくより遙かに年長なのに同じ年齢と感じてしまうきみをインターネットの大量にプラスティックバッグやシリンジや発泡スチロールが漂流する海のなかで発見して、きみと会うのは初めてだが、ぼくときみは友達であるに違いない、と述べたのは、きみとマキノさんという未だに見知らぬ人とのふたりだけが、科学研究者と社会の関わりにおいて、福島第一事故のあと、正しいと感じたからでした。

福島第一事故のあと、「真正科学教団」と名付けたくなるような、一群の異端審問官じみた「科学の徒」が出て、子供を両腕で抱え込むようにして放射能を怖がる母親たちの「聴き取りにくい声」を強圧的に黙らせて、ぼくをびっくりさせたことがあった。
推すべきドアは引いて、押し車は引っ張る、なんでもあべこべな日本の愉快な伝統の一環なのか、「いま福島を汚染している放射能が安全だというなら、それを証明してくれ、住んでいて、病をえて、死ぬかもしれないのはわたしたちなのだから」という、ぼくの明るい灰色の頭で考えると当然向かうべき理屈の方向にいかずに、「放射能を怖がりたいのなら、よく科学を勉強して、放射能の危険を証明してからにしろ」という、可笑しくもない噴飯ものの、科学をただの自分が得た特権と感じている愚かな人間特有の言いがかりに付和雷同していたときに、「そんなん、ヘンなんじゃないかなあー」と述べている研究者らしい人がいて、よく眼を近づけてみると、かなり思い切ったことも述べていて、これはどうしても友達になってもらわなければ困るな、と考えたのが初めだった。

どうも、日本にいたときの観察によれば、日本の伝統社会では組織のなかで目立って立派なことをやった人を「えらいじゃん」と指をさして褒めると、居づらくなるらしい。
だから、この辺でやめておくが、もともとが魔術師のギルド的世界の大学というコミュニティを考えると、要するに職業的な地位を賭けてしまってもいたわけで、そのそもそもの発端を忘れて「役割をはたしていない」と言うのは、言う奴が悪い。

絶交しているあいだ、落ち着かなかったよ。
例のtumblrは、なにしろ棚上げにすることにした二次元絵の絵柄が嫌いなので、それが遮蔽幕になって行かなくてすんだが、ツイッタのほうはときどき覗きに行って、週末、単身赴任先から帰って、ぶちくたびれたおとーさんが、嫌がる息子と娘の、ふたりの子供をなだめすかして、ユークリッド幾何と解析を教えている姿が目に浮かんで、オダキンはえらいなーと考えたりした。

フォーラムの、オダキンとの「棚上げによる関係の復活」について不満な大仲良しの友達にも書いたが、ぼくはもともとmad scientistにかぶれて科学をはじめた友達が多くて、この人達は科学の力のほうは怪しいまま科学者になってしまったが、madのほうは、すくすくと才能がのびて、研究機関や大学という収容所がなければ、刑務所に閉じ込められていたはずの、ヘンな奴が多い。
むかしは世の中というものがよく判っていなかったので、この種族のメンバーたちをパーティに呼んで、知性が暴走して浮きまくって、えらいことになってしまったことも何回かあった(^^;

だからオダキンだけを悪趣味を理由として絶交することは、よく考えてみると、日本語世界と英語世界を分断して生活しているので外からは判らないが、自分の立場からみると、はなはだしく説明がつかないことだった。
だから「落ち着かなかった」のかもしれません。

科学者としての社会のなかの責任は、科学的方法に寄り添っておこなわれるべきで、日本で、いわば(結果的には)政府・東電側に立って政治性の強い発言を行っていたなかでは野尻美保子さんだっけ? あのひとは、科学者としての文法に沿って発言しようとしているように感じられた。
あとの人は「科学のほうから来ました」で、日頃、スポットライトがあたらないのに、福島事故でおもいがけず注目される機会ができて、すっかり舞い上がってしまって、科学でもなんでもない科学を装った政治活動に邁進して、コピーライターと対談して、すっかり上手に利用されてしまうひとまでいて、痛ましい感じがしました。
その結果は、巨大な嘘の覆いを政府がかけて隠してしまった、注意して記事を読んでいれば、誰にでもわかる福島第一事故の惨状のなかで、声を殺して被曝しつづけている、福島のひとたちの生命を、抑圧する道具になって、悪い言いいかたをすると「アーリア人種」という、いま振り返るとバカバカしいのを通り越して、ドイツの科学って狂信者の手でふりあげられたファッショの束のことだったのか?と言いたくなるような「科学的事実」を振りかざして、文字通りの政府の手先になっただけだった。

きみと絶交しているあいだに、日本の社会には希望がでてきました。
SEALDsという若いひとたちの小さな集団で、このひとたちが企画したデモは、ぼくが知っている限りでは、たとえばイギリスのデモよりも洗練されている。
あんまり言わないほうがいいのかも知れないが、観ていると、誰か顧問みたいな人がいるのね、と感じるほど、やることが自由社会の文法にかなっていて、過去に日本社会がなんども苦い思いをした、党派性が排除されて、見事な運動になっている。
こっちも、たくさんは言わないほうがよさそうなので、最小発言にとどめるが、彼らが叫んでいる前面に、相変わらず世界共通の警官の無表情で、税金でむだに鍛えたでかいガタイで並んで、装甲車を並べた後ろの鉄扉の、そのまた向こうにある政府のがわにも、安倍政権を苦々しく、とうよりも日本の民主社会の危機、と捉えているひとびとがいて、若い人をうまく使って、というよりも呼応して、なんとか昔の宏池会のような、保守本流をいまの右翼政党化した自民党に呼び戻して、まともな保守政党に再生しようと考えている人がいるように見えます。

ぼくはもう日本の社会はダメだな、とおもっていたんだよ。
自由主義社会をめざせるようになるどころか、天然全体主義の国民性にアメリカ軍(←政府、ではないことに注意)が箍(たが)のように、孫悟空の頭の金環のようにはめていった「民主制度」という日本人の好戦性を復活させないためのおまじないも、当のアメリカ軍が、なにかあっても極東にまわせる軍隊が足りなくなったのと、それどころかイラク・シリアやアフガニスタンでも兵力が足りなくなってしまったという自分の都合で、世界中を見渡して、「おお、あそこに日本というマヌケな国がある。利用しなくてわ」で、なんでもいいから理屈をつけて兵力を供出してくれで、もともと欧州以外の「外国」には何の関心もないオバマ大統領の「ぼくは内政問題解決のために大統領になったんだもんね」の、よく考えてみるとものすごく無責任な外交への態度を利して、どうやら国務省と軍のベースで、日本の政府を足で蹴って、戦争法案を通してしまった。

ぼくの手元にはインターネットで見つけた一枚の、いかにも「良い家の子供」然とした写真があります。
それは南カリフォルニアの留学時代に撮った安倍晋三という名前の青年の写真で、やさしい、繊細そうな、でもオカネモチのどら息子特有の、あんまりいろいろな考えをもてない人特有の表情で微笑んでいる。
きみは腹を抱えて笑うだろうけど、ぼくは自分がどら息子で、しかも子供時代からの友達も全部どら息子なので、よく判るのね。
「手のひらにさすように」わかる。

前にもちょっと書いたが、そのあまり考えがない、この人の父親の安倍晋太郎さん自身の観察によれば「情がない」(←ははは。わしと同じ)
青年の魂が、自分では「国家のためによかれ」と思って、山手線のベンチで、もういっぱいなのに、お尻を割り込ませるように尖閣諸島に腰掛けて、じりじりと腰を落として、ついに周りの人間を押しくらに詰めさせてしまうと、どっかと腰掛けて、あまつさえ、大股を開いて爪楊枝を使いだすような隣国の態度に憤慨して、「美しい国」という表題を掲げて政治制度を改革しようとしたのに、現実の国民の反応は、「カネくれ、おれのカネはどこだ。おまえ、おれにカネを寄越すのが役目だって、わかってんのか?」ばかりで、あっというまに嘲笑の渦にたたき落とされて、下痢男だの、低偏差値だのと言われて悪罵の限りをつくされれば、どれほど傷付いて「国民」に対して軽蔑心を抱くようになるかを想像するのには、たいした想像力がいるとは思わない。
「こんな薄汚いバカの群に民主制度を与えるなんて、国を滅ぼすもとだ」と考えたのでしょう。

ちょうど手近にはビル・クリントンの手法をまねて、ブリットニースピアーズをスターにするのと同じマーケティング手法で、バラク・オバマを大統領の座につけた「マーケティング集団」の例があった。
人気をつくりだすためには日本では「オカネ」をばらまくのがいちばんなので、日本の膨大というのもバカバカしいくらい膨大な、個々の国民が戦後営々と貯め込んだ個人資産を抵当にして、通貨減価策をつくって、「国民のカネを株式市場を通じて国民にばらまく」という面白い政策を採用した。
もっともバーナンキの失敗を知らなかったわけはないので、多分、初めから「戦争法案を通すまでの時間稼ぎ」のつもりだったでしょう。

安倍晋三さんのようなタイプの政治家には悩みがあって、宮沢喜一に付いていたような、官僚の最優秀部分は随いてきてくれない。
ゆいいつの例外は田中角栄で、この人は人心収攬の天才だったので、あっというまに官僚政治のチャンピオンになってしまったが、安倍晋三さんは、そういうわけにはいかなかった。
ゲートの向こう側でSEALDsの若い人達を「希望」と感じているのは、この人達かも知れなくて、やろうと思えば聞いてみられるが、そこまでの興味は起こらないので、聞いてみたことはありません。

ぼくがSEALDsを見ていて、ここまでですでにたくさんのことを、この若いひとびとから学習してきたけど、「若い人間の叡知はどのような形をしているのか」という、時々かんがえる問題を、また考えるようになった。

SEALDsが登場して、最も瞠目的におもしろかったのは、右から左までショービニストからフェミニストまで、容赦がないくらい、ほんものでない知性のメッキを綺麗に剥がしてしまったことで、それはつまり、突然あらわれた「真の知性」が、いままでぼんやりと「知性的」と感じられていたインチキな知性を色あせてみえるようにしてしまったことを意味している。
それはたいへん不思議なことで、あるいは大学で若いひとびとを教えているきみのほうが、よく判っている仕組みなのかも知れません。
いつか、訊いてみたい気がします。

オダキンは聞き上手なので、なんだか、だらだらと話してしまった。
アテネはぼくも行きたいとおもってるの。
政治も社会も経済もデッタラメなのに、ふつーに暮らしているギリシャ人たちに対するきみの観察と、たくさんツイッタにあげてくれた画像を見て、そうだろーなー、やっぱり来年はギリシャに行かなくては、と考えました。

ありがとう。

でわ

(いまとなっては、この続き物記事のタイトルはチョーかっこわるいが、
自分に対する「アホなんじゃね?」という気持ちもこめて、このままにしておきまする)

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

3 Responses to ある物理学者の友達への手紙5

  1. ubaab says:

    SEALDsの寺田ともかさんの7月15日のスピーチを繰り返し聞いているうちに、なぜかイーヨー(大江健三郎の長男のニックネーム)のユーモラスなセリフ、それは家族にとっていつも深い深い意味をもつ重要なメッセージであるのですが、それらを聞きたくなって、「新しい人よ、目覚めよ」の色褪せてきた本をぱらぱらと開いていました。イーヨーとその妹弟との会話から、自分たちを超えた世代の人間として認める大江。そして、最後のページにいたって今の私にとって意味をなす詩が飛び込んできました。以前は理解することができなかった。Blakeの詩の一節から

    Rouse up, O, Young Men of the New Age! set your foreheads against the ignorant Hirelings!
    目覚めよ、おお、新時代の若者らよ!無知なる傭兵どもらに対して、きみらの額をつきあわせよ!なぜならわれわれは兵営に、法廷に、また大学に、傭兵どもをかかえているから。かれらこそは、もしできるものならば、永久に知の戦いを抑圧して、肉の戦いを永びかしめる者らなのだ。

    SEALDsに代表される若いひとびとは、世に出た「新しい」ひとびとなのだという気がする。この詩が書かれて200年がたった2015年の日本社会においての。
    戦後70年間は日本社会を武力をもたないことになっていた。だから肉の戦いを長びかせる必要はなかった。社会のあちこちで傭兵たちは、体制の作った都合のよいタテマエを押し付け続けるために言葉を使い、日本語を腐らせて知の戦いを抑圧してきたのではなかろうか。
    けれど今肉の戦いを再開させようとしてきた政府に対して、きっと新しい人は最大の危機感を感じているのだとおもう。

  2. ubaab says:

    訂正です。英文および訳はBlakeのMiltonという詩の序文で、詩の一節ではありません。

  3. ubaab says:

    何度もすみません。そして大事なことに大江は新しい時代を「核の時代」といっています。
    「ブレイクにみちびかれて僕の幻視する、新時代の若者としての息子らのーそれが凶々しい核の新時代であればなおさらに、傭兵どもへはっきり額をつきつけねばならぬだろうかれらのーその脇に、もうひとりの若者として、再生した僕自身が立っているようにも感じたのだ。「生命の樹」からの声が人類みなへの励ましとして告げる言葉を、やがて老年を迎え死の苦難を耐え忍ばねばならぬ、自分の身の上にことよせるようにして。」

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s