Twitterで見たこと

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前にも書いた覚えがあるが、座ってコンピュータを使う机の上にはみっつのモニタが載っている。
左から27inchのiMacがふたつで右にHPにつながっているDELLの30inch。
「座って」というのは、カウチに寝転がってMBPの11inchか13inch、あるいは(重いのであんまり使わないが)15inchを使っていることも多いからです。

Appleファンというわけではなくて、なにしろPCゲーマーなので、エイリアンシリーズがある「PC部屋」が別にあるが、ここでは関係がない。
日本語を使うのは左側のiMacか11inchで、別にわける必然性はないが、なんとなく、気分的に使うコンピュータが日本語と欧語、英語で分かれている。
気分的なものです。
ぜんぜん可愛げのない若い友達の「みしょ」(@Sho_Iwamoto)が、いかにも可愛げがない友達然として、最近はヘブライ語でツイートを送ってくるので、わしも右から左に書くカッコイイ言語を一個憶えたいなあーと思って、ペルシャ語専用のコンピュータをつくろうかと思っている。
ゲームを一個だけ、Prince of Persiaをいれておけばムードが出ていいのではないか。
右から左に横スクロールするPrince of Persiaがないものか。

twitterは、いまは日本語でしか使っていない。
昔は英語もやっていたが冗談をいいくたびれてやめてしまった。
もともと起きてから寝るまで全部の時間を浪費している人間の「ムダな時間」は定義するのが難しいが、それでも「時間のムダ」であると感じて続ける気がしなくなった。
日本語のほうは潜在意識に「外国語の勉強になっている」という、しょもない「せこい」気持ちがあるのでしょう。
自分でも考えてもやるせないが、そういうやるせない気持はおいて、ほうっておけばいつまで経ってもやっている。

英語は(日本語もそうなのではないかと想像するが知らないので、英語は、といっている)個人的なおしゃべりはtextingが中心で、twitterは有名な人物が「自分はいまこれをやろうとしている/やっている」ということを中心に自分のファンに伝える、というようなことへ流れていって「個人TV局」のような役割に移ってきているように見えます。
政治的な発言ですら、視聴率稼ぎなんじゃないの?と言いたくなるような、単純に受け狙いで述べているツイートが増えている。
内容だけみると、twitterは日本語くらいがいちばん充実してるんちゃうか、と考えることがある。
程度が高い、というようなことではなくて、真剣に使っている、というか、マジメに話している。
日記文学以来の伝統なのかしら、と思うようなツイートもたくさんある。
もっともtwitterはネット業界では「セキュリティのマネジメントがぜんぜんダメ」なので有名で、ハラスメントを続ける人間をいつまで経っても止めないので頭にきてtwitterに対して訴訟を起こす人たちもいて、日本でいえばだんだん2chに似てくる雰囲気に嫌気がさして、もっとずっと零細なwhisperやなんかに出ていってしまう人もいれば、もうフェースブックだけでいいわ、という人もいる。
日本語以外では、残念ながら「落ち目」の会社であるのは否めない。
ビジネスモデルが一向につくれないので、身売りするしかないね、という意見もだいぶんあります。
最近になって株価が暴落したりしているのは聞いた人も多いと想像する。

ユーザのほうは、ひとつの広場から次の整備された広場へ移動すればいいだけのことで、あんまりどうということはない。
「twitterがなくなると困る」というのは、よほど特殊な人でしょう。

意外な人に出会うことがある。
静かに暮らしていたい人であるのがわかりきっているので名前を書くわけにはいかないが、美術が好きな人で、じっと見ていると、まるで自分であるような気がしてくる。
「あり得た自分」という意味です。
そのひとは美術は仕事でこちらは素人だが、結局は、モニとふたりで、「美しくて静かなもの」がたくさんある町に移って、こういう生活になってゆくだろうな、と考える。
そういう人をtwitterのように、文字通り、喧噪な場所で見つけるのは玄妙な気がする。

気がつくと研究者を職業とする人が増えてしまって、なんだか話し相手が偏っている。
よくないなあーと思ったことがあるが、考えてみると、なんのためにどんなバランスをとりたいのか判んないじゃないと気がついて、ほっぽらかしにすることにしてしまった。

最近では最もよかったのは、若いtwitter友達である「三浪亭 @zhengmu21 」を通してSEALDsの運動が少しだけ見える窓を獲得したことで、たとえば最近まで全体主義そのもので、1972年までは形骸としての民主制もなかったスペインですら、そのへんのおっちゃんやおばちゃんがデモに行く

なぜなら、スペイン人といえども欧州人で、欧州にはあちこちに自由な民主社会が転がっていて、現代民主社会はデモと選挙が両輪であるのは誰でも知っていることだからです。
SEALDs が出たばかりの頃、したり顔で「選挙をないがしろにしていて民主主義が判っていない」と述べる人がいて、なんだか複雑な笑いがこみあげてきたりしたが、それはどっかのヘンな先生がいる学校で習った民主主義で、選挙みたいに頼りにならないものを使ってかろうじて自由主義社会を保っている国に住んでいれば一目瞭然、不完全極まる制度はデモを繰り返すことによって、かろうじて保たれている。

民主制度が生まれた国の土壌は、たとえばヘンテコな例をだすと、UKやNZならば王立なんちゃらというようなオカネモチばかりのヨットクラブがあって、マリナがあって、どうも新しいマリーナのオーナーがちゃんと補修をやらない。
このあいだなんかバースのポールが折れてヨットに倒れかかってきた。
幸い数インチの差でヨットの脇に落ちて、ヨットに被害はなくてよかったが。

しかも噂によると、管理会社がなくてトラスティーだけであるのをいいことに、勝手にバースの持ち主達に負担を要求しようとしているようだ、ということになると、準備して、あっというまに抗議グループをつくって、「来週の金曜日にクラブでミーティングをやるから来てね」とemailが来る。
するとオモロいというかなんというか、普段は自分が抗議の矢面に立って、こんな給料でどうやって家が買えるのか、ケチジジイと言われてくさっているじーちゃんばーちゃんたちが、ベントレーやレンジローバーで乗りつけて、抗議団体のメンバーとしてサインアップしにやってくる。
嬉々として「Aye!」と手を挙げて、抗議運動を開始する。
やがて通りに出て、「public」の理解を得るためにフライヤーを配りだす。
開発工事を強行しようとすれば、いいとしこいて、ゲートの前に座り込む。

ふだん吊し上げられるオカネモチたちにしてかくのごとし。
あるいは小国間貿易協定にしか過ぎなかったはずのTPPがアメリカの加入によって、まるで異なる性格の貿易協定に変えられているのを発見して驚いたニュージーランド人たちがテキスティングで情報を交換して、通りに集まって「建物に入ろうとする」という形で抗議の意志をみせる。
この動画
http://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=11513376
にある手を後ろに組んで、少人数ずつ、警官隊の隊列に胸からぶつかってゆく、というのはNZではよくやる、というか定石の「非暴力デモ」のやりかたです。

SEALDsは、だから、ぼくの眼には、「理念が必要な政治活動」では噴飯もので、ふつうのひとびとが、どこの自由社会でも、毎週どこかでおこなわれている「ふつう」のことが日本でも始まった、というだけで戦争法が通ってしまったから腰折れになるだろう、という人もいるが、それでは困るので、ふつうの習慣として定着していくのでしょう。
「それにしては数が多くて60年安保みたいな左側の全体主義的盛り上がりみたいに見えるけど」と言う人がいそうだが、憲法をシカトする政権があらわれて、70年平和だった国を無理矢理戦場へ連れて行こうと言うのだから、数が少なければ、そっちのほうがどうかしている。

SEALDs が急進的な運動に見える人は、要するに自分が「普通の社会」を知らないだけで、ここは日本からは距離的にも文明的にもチョー遠いところなので、割と簡単に見えて、日本が天然全体主義の特殊社会であることを図らずも鮮明にあらわしてしまっている。
「狂泉」の故事をおもいだすまでもなく、みなが狂って、パーなんだよーん、いえーいハッピー!になって、でも後からやってきた若いひとびとは、古い井戸の水を飲まなかったので、日本の社会を囲繞する「日本語の壁」のなかで育まれた集団狂気にとらわれなくてすんだのでしょう。

twitterで観ていても、この人、なんでこんなこと信じてるのかしら、と思う人と、普通にものを観て考えていられる人のあいだには明瞭な線があって、「英語が理解できるかできないか」であるように思われる。
やはりtwitterで面白いことがあって、それまでは英語が読めるのだと信じていた有名なブロガーの人が記事を訳していて、勝手につけた日本語のニュアンスが全然ヘンテコリンな的外れで、え?ええええ?と思ってずっこけたことがあった。
やはりヘンなものは誰の目にもヘンで、しかもその人の日頃の「わしは言語の人じゃけん」スタイルから、目立つ「ヘン」だったので、ふだんこのブロガーの人とツイッタで友好に会話するニューヨークにずっと住んで英語で生活しているらしい人が、「それはいくらなんでもおかしいのでわ」と述べていたが、このニューヨークに住んでいる人は大庭亀夫とおなじ「温和で成熟したおとな」なので、それ以上めだたぬよう、そっと自分が観てしまったものに蓋をしていたようでした。

どうやら、当初考えていたのと違って「英語が理解できない」というのは日本という社会にとっては大変なことなのだ、と判りはじめてきたのは、この頃からで、「英文和訳」を早く全廃して、どうしても英文和訳をやりたければ「国語」の教科に編入し変えないと、国を誤るのではないか、と考えるようになったのも、だからtwitterのおかげ、と言えなくもない。

twitterが「バカ発見器」だというひとがたくさんいるが、ぼくは、そう思いません。
くだらないのは「バカ発見器」という「人と人とを分断するための言葉」をわざわざ使おうとおもう、日本という天然全体主義社会に痛めつけられたあげくの悲鳴の表現を使う本人のほうで、ちょうど「普通のひとびとの集まり」であるSEALDs (と、その周りで抗議するひとびと)が見渡すかぎり天然全体主義に染まった日本社会のなかで、ゆいいつの希望であるように、現況ではtwitterは英語世界とはちがって、でも日本語よりも更に先鋭に政治抗議の道具である中国語ツイッタとはまた違うありかたで、日本という有名なマスメディアが救いようがないくらいダメな国で、ひとびとが懸命に「ほんとうの情報」を求めようとしたり、人間らしい気持ちに出会おうとしたり、聴き取りにくい声に耳を傾けたり、自分でも、なんとか勇気をふりしぼって、何事か言ってみようという場になっている。
少なくともぼくにとっては、ツイッタがなければ到底想像もつかなかった「日本人」の姿がそこここに見え隠れしていて、いったんは集団サディズムと衒学的冷笑のなかに沈んで死んでしまったのではないかと考えた日本語の社会に、まだたくさん希望が残っていることを見せてくれている。

さっき述べた「静かな場所に立っている人」は、遠くの喧噪のようにツイッタを観ているはずで、あの人の年齢の頃には、あそこにいけばいいのだ、と思うことがある。

その場所に急がねば。

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One Response to Twitterで見たこと

  1. そういう意味で言うと、インドは民主主義の国なのです。
    デモもストも、意思表示の手段としてちゃんと存在し、実行されている。

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