半拍おくれで考えてみるということ

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ロンドンでバリスター(法廷弁護士)をしている仲の良い年長の女友達と話していたら「バカだな、ガメ、To Do Listは仕事をやらないためにあるんだよ」と言われてびっくりしたことがある。
なあーんでー、と相変わらずマヌケな返答をする、わし。

仕事にプライオリティをつけるでしょう?という。
「へえ」
プライオリティ・ナンバーワンから2,3,4,と付けるでしょう?
「へえへえ」
そうすると、私の場合、一日にやるべきことが40は絶対にある。

まあ、おばちゃんの高い地位ならそうでしょうね、と内心で考えるわし、「おばちゃん」みたいな言葉を口に出すと、この人は法廷弁護士のくせに暴力的な人で頭をひっぱたかれる(←UK社会では異常なことだが事実)に決まっているので声に出していいません。
目下、頭で考えたことが、頭頂15cmくらいのところにホログラフィックに表示される映像装置を研究中だが、ああいうものは作らないほうがいいかもしれぬ。(注1)

「40も仕事が出来るわけがないから、上から3つやれればいいということにしてあって」
なるほど。

「ところで、仕事には、途中までやって放っておくと、自然と解決がみえてくるものや、ときどき考えたほうがうまく解決するものがあるのよ」

ここに至って、おおおお、と集中力が湧き起こる、わし。

と、この調子で書いていくと30分かそこらの会話がヘロドトスの「歴史」みたいになってしまうので、やめるが、このときの会話が、ずっと頭に残っている。

このブログを昔から読んでいる人は皆知っているが、わしは、なんというか生まれてからずっとチョーひまな、ヒトには稀な一生を送ってきたので、「忙しい」という状態に陥ったことがない。
冷菜凍死が職業だが、これも昔から読んでいる人には薄々わかっているとおもわれる。
ふつーの「投資家」とは、えらく違うスタイルです。
主な部分は大家さんがときどき数学やってるみたいな、ヘンな投資スタイルなので、伊達に「凍死」と当て字しているわけではありません。
一年の労働時間を一日に換算すると「3分」とかな生活なので、忙しいのはPCゲームを遊んでいるときだけであるよーだ。

而して、そのわしにして、おばちゃん(←まだ言ってる)の考えは示唆的である。
To Do Listを一気に仕事をやらないために使ってるのかあー、ふうううーん。
おばちゃん、見た目よか、賢いじゃん。

昔、「時間とどう付き合うか」という記事を書いたことがある。

「時間を取り戻す」_経済篇
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/01/03/time/

tumblrを周遊して遊んでいたら、この記事は4000リブログと付いていたり、300リブログと付いていたり、いろいろなヴァージョンのリブログが流通していて、普段はチョー零細なブログにも、ちゃんと読んでいてくれる人があるのが判って、ありがたいこっちゃ、ナンマンダブナンマンダブと考えたが、タネを明かせば、もともとこういう「時間」への考えは、フラメンコの手拍子から思いついたことだった。

知ってますか?フラメンコのチョーかっこいい手拍子。
通常の拍より少し早くて、遅くて、旋律とは異なる、でも並行した時間の流れをつくっている。
もともとはフラメンコのものだが、スペイン人たちは現代音楽でもだいたい同じ拍と曲の関係の伝統のなかで生きている。

いま、ちょっと見てもオンラインで出てこないので、あとで自分で探してみてほしいが、この一群の手拍子のスタイルのなかには、英語人の目でみて、
「ほんまに、これで手拍子て言えるんかいな」と言いたくなる、なんかテキトーに手をたたいてるだけなんじゃないの?な手拍子があります。

ところが、慣れると、この手拍子のほうが、音楽というものへの洞察が深くて、スペイン人は「時間」というものへの他の文明とはおおきく異なる理解を持っているのが判ってきて感動する。
「自分の意識の流れと世界の意識の流れは速度が違って当たり前なのだ」と常識のようにして知っていて、その叡知の深さに呆然とするような気持ちになってしまう。
朝から晩までバルカン砲のような超高速でくっちゃべっているだけではないのね。
長い歴史を持つ文明をみくびってはいけないのだ、と感銘する。

SEALDsは、わしの目からみると、日本では初めて、ベ平連がなりかけてうまくいかなかった前駆体だったのかも知れないなあーと思う程度で、あとは前例がない「普通の人」の集団だが、昨日、SEALDsについて、いつもの、日本語ネットの様子を知るために設定してある、ときどきは入れ替える、web観測定点を周回していたら、ぶっくらこいちまっただよ、というか、
「デモのやりかたを知らない」
「理念がない」
「理論がない」
に始まって、
三浪亭(@zhengmu21)も、げんなりしていたが、
「デモは民主主義に反する」
というチョーおもろい(SEALDsの人達、面白がってごめんね)のや、
「SEALDsが言っていることは憲法違反だ」というアベノミクスとAKB48を支持しているという経済学者(?)の人がいたりして、
なんというか、日本て、やっぱりファンタジーいっぱい、夢のワンダーランドなのではないかしら、と考えた。

「車道まで広がって過激だ」というのもあったと三浪亭が書いていて、
「舗道の左側を歩いていたから左翼だ」ちゅうのはなかった?と訊こうとおもったが、三浪亭たちがマジメに運動をやっているのに、そういう悪ふざけはいけないよね、と考えて自粛したりしてるうちに眠くなって寝てしまった。

「共産党が後ろにいる」と言われたのにも三浪亭は腐ったらしいが、共産党が後ろにいたり、前にいたり、肩におんぶされていたりする参加者がいても、どうでもいいんじゃないの?と、わしなどは思うが、そういうめんどくさい「政治運動とは、どんなものか?」というような話は、今度のことにして、見てみると、なんだか、その場のおもいつきで色々に言い立てて、これでは言われるほうはたまらんちんであるな、という気がひしひしとした。

光藤雄一さんが述べている

なるほどなあー、と思う。
わしは人間の嫉妬というものに鈍感なほうだが、それでも「ひょえー」と思うことが普段の生活でなんどかあって、懸命に隠しているので、見えにくいが、嫉妬がそもそもの秘匿された憎悪の原動力で、言葉は単なるその表徴にしかすぎないことを、おもいつきの「忠告」や「批判」を言い散らしている本人はまったく気がついていない、ということくらいは、わしでも、もう知っている。

時間が考える対象の寸法に合っていないのではないか?
と考えた、ということです。
即答するべき問題がある。
インド料理屋に出前の注文をして、インディアンホットにするかエクストラホットにするかベリーホットかミディアムホットかキィウィホットか、それともマイルドがいいの?と辛さの程度を訊かれた場合、頭のなかに嗜好が格納されているので、一秒の半分で「インディアンホット、プリーズ!」と応えればよい。
そこでじっくりされると、贔屓のインド料理屋がおとーさんになってしまう。(注2)

だが国会前で声を枯らして、自分が自由で居続けるために、政治好きでもなんでもないのに三々五々集まって、勝手に写真まで撮られて、抗議をしている、言い換えれば、m.(@makkina)さんが述べている

程度のことからくる(しかし背景の社会文化を考えると深刻な)デモへの誤解で、「若い女の子が『ケツに乗って』なんて、お下品な」とお上品なクソババア(←チョー言葉わるい)に言われるのでは、「普通の人間」をやめたくなってしまうだろう。

少数の「普通の人間」と圧倒的多数のリベラリストやナショナリスト、ショービニストやフェミニストの識別スティッカーをデコに貼った「天然全体主義者」の対立という、世界に稀な、面白い図式のSEALDsの運動が、どこに行くのかは、わしは知らない。
三浪亭という小さな窓から見ているだけなので、見えていないことがあるのかも知れない。

でも、その小さな狭い窓から見えている若い人々は、紛れもない、自分の社会で良く見知った人達で、あの奥田という人は、つまりシドだな、三浪亭はピーターである、と置換して、するりと場所に入れ替われる。
長くなっているが、もうひとつ付け加えると、もともといまの自由社会は、「一言おじさん」たちが虫が好かないらしいSEALDsの面々のような人々がつくった社会で、フランス革命のようなタイプの革命、まして赤色革命は歴史上では結局は失敗に終わった革命であることは欧州人なら誰でも知っていることで、いまの欧州的社会主義は、その失敗の苦い記憶をかみしめることによって成立している。
ただ普通の人間が普通にデモするくらいのことで「理論がない」などと言われたらトロツキーですら頭にアイスピックをおっ立てたまま、あの世から飛び出してきて抗議するだろう。
そんな理論、あみだせるんだったら、苦労しねえよ。

SEALDsに対する、いろいろ意匠を粉飾して「理論」とか「忠告」とか言っているが、要するに「おれの好みじゃねーんだよ」という意見は、だから、実際には日本を軍事占領して自由化したアメリカ人に対するambivalenceと同根のものであるように思われる。

「あっ、言いたい、文句ぶちたい」と思ってから、1/3拍〜1/2拍くらい、「うっ」と待つのはたいへん良い分別なのではなかろーか。

To Do Listは、やらずに、言わずに、わざと放置して待つことのリストに向いている。
ひとつの思考対象に対して、ちゃんと、落ち着いてうまく考えられる、ひとつづきの時間の幅を与えられないまま押し出されてしまう言葉は、ちゃんと聞こえなくて、なんだか騒音のようなものになってしまう。
リストに並べておいて、これはこのくらいの時間にすっぽりはいる、と並記しておけばどうか。

自分の頭のなかと時間とのメンテナンス方法については、さっきの

「時間を取り戻す」_経済篇
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/01/03/time/

に書いたので、もう繰り返しません。

タン、タン、タン

タタン、タン  
     タタン

タタ

リズムですよ、リズム。

でわ

(注1)ほんとは語感どおりの「おばちゃん」て英語で言えないけどね

(注2)倒産

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3 Responses to 半拍おくれで考えてみるということ

  1. Ikuko Goto says:

    フラメンコの手拍子と時間を結びつけて考えるなんて、またもや驚かされました。実は今、志摩スペイン村に来ていてフラメンコを観たばかりだったので、おっしゃることが、なるほどと感じられました。この記事も大好きです。亀殿には本当に恐れ入ります。

  2. T/SF says:

     2009年だったとおもう、名古屋のライブハウスでとあるパンク(?)バンドを観にいった。オープニングアクト的な扱いで演奏した競演者がものすごくかっこよくて、ぐらんぐらん踊っていた。目当てのパンクバンドが出てくる段になって観客から拍手が起きると、バンドのボーカルがいらついた調子で「あんたら、もっと踊れたやろ」「さっきのバンド、めちゃめちゃよかったやんけ」と口にした。わたしはステージ前方上手にいて、下手側のバックステージ(っていうの? 楽屋からステージに出てくる通路)で踊ってる――リズムをとってるとかじゃなくて、ほんとに踊ってる――その人をみていた。たぶん本気だったんだろうとおもう、MCのうえでのパフォーマンスの面があったにしても。なんだかピンときてない様子でのひとが多かった。演奏がはじまるやいなやモッシュが起こって、そのまま30分くらいもみくちゃになった。
     2010年だったとおもう、名古屋のライブハウスでアニメの曲を歌う歌手を観にいった。新曲がかっこよくて、ぐらんぐらん踊っていた。チケットが完売になっていたみたいだから、お客さんはそれなりに入っていたはずだけど、気がつくと自分の周りには空間ができていて、ほかの観客は一様に腕を突きあげて、タオルなんか回しちゃったりして。わたしはそういうのいやだったから終始身体だけ揺らしていた。
     2010年だったとおもう、名古屋のライブハウスでアンプラグドのライブを観にいった。なんだか懐かしいような歌ばかりで、何曲も観客が合唱した。スコッチを飲みながらわたしも歌った。
     2009年だったとおもう、静岡のライブハウスで踊っていたら、あとから高校生とおぼしい男女に「すごい踊ってましたね」と声をかけられた。よっぽど奇態な動きだったようで、声をかけた側もかけられた側もなんだかこっぱずかしかった。でも、なんでそーしない人が多いのかな、ともおもったのだった。

  3. DoorsSaidHello says:

    昔、色々な音楽を聴くのに凝っていた時期があったんだけど、一番影響を受けたのがアフリカのポリフォニーで、一日中かけっぱなしにしていた。ポリフォニーって、違うメロディで違うリズムの歌を、同時に歌っているんだけど、全体で一つの大きな音楽になるように作られているので、ちゃんと調和があるのね。あるんだけど、リズムが違うので、Aの歌とBの歌は、例えば20秒に一度和音になる。Cの歌が、Aと和音になるのは15秒に一度だけど、Bとは30秒に一度。だからABCが同時に和音を奏でるのは60秒に一度。さらにDは、そしてEは…と複雑なリズムを作って行き、一時間もある長い曲を聴いていると、何十分かに一度、大きなグルーブが来る。それはぞくっとするような経験なんだよ。

    一日歌っていても、ぴたっと他とピークが合う瞬間が一度しかない歌、というのももきっとあるんだろうな。でもその瞬間は、きっとものすごく感動的なグルーブなんだろうな。

    半拍遅れどころか、いつも三拍も四拍も遅れて反応が出る私だけど、きっとそれに意味が生じる瞬間があるのだろう。だから長く生きて、その瞬間を待たなくちゃ、と若かった私は思った。その瞬間があったのかどうかは、後になってみないと分からないのかもしれないし、自分では分からないのかもしれないけれど。

    子どものころからテンポが遅いので親からは「亀」と呼ばれていた私が、亀を名乗る人に、テンポについて話しかけている不思議。もしかして、これがその瞬間なんだろうか知らん。

     追伸、TO DOリストで三つできる人は優秀です。私は頑張っても二つ半しかできません。
     二伸、SEALDsについての中傷が「日本を軍事占領して自由化したアメリカ人に対するambivalenceと同根のもの」という指摘は、ものすごく鋭い、気がします。くさす人々は、要は自由になんて用がない人々なのでしょう。みんなが自由で対等になったら、嵩にかかって威張ることができなくなるから。「軍事占領されたこと」よりも「自由化された」ことに不満を持っているのだ、と考えると説明が付きやすい気がします。

コメントをここに書いてね書いてね

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