Monthly Archives: October 2015

ミショへの手紙_1

人間の目は猛禽の目であるのをきみは知っていますか? というところから話を始めるのはどうだろうか。 視界を犠牲にして、防護を犠牲にして、相手との距離を測る測距儀の役割を人間の目は担っている。 多分、枝から枝に飛び渡るための、この人間の目の機能は、しかし人間を途方もなく攻撃的にした。 その攻撃性は、地上の生物のなかでは桁外れのもので、石を研いで、集団でおおきな獲物を囲い込んで追い落として、十分に食糧を得られるようになると遊び半分に狩りを行うようにさえなった。 ホモサピエンスはネアンデルタール人たちを嬲り殺しにするのをヒマツブシにしていたと述べている若い男の研究者がいるんだよ。 論文自体は上長のアドバイスで日の目を見なかったが、英語フォーラムで公開されて、ぼくは、どちらかといえば、ネアンデルタール人が滅びた原因へのヒントより、この研究者の人間の残酷性への憧憬に気をひかれて一気に読んでしまった。 残虐性は人間の目を美しくした。 いつかモニが小さい人をつれてホールウェイに立っていて、物音に気がついてぼくのほうを振り返ったことがあった。 母子で、引き継がれた「燃えるような緑色の目」が、こっちを見ていたのさ。 暗い場所で、そこだけスポットライトがあたったような輝く目。 ぼくは、やあ、とかなんとか、とても他人行儀な挨拶をして笑われながら、人間の欲望は人間を美しくするのではないか、と脈絡のないことを考えていた。 最も強く欲望するものだけが、最も美しい場所にたどりつくのではないか。 人間の目は怖い。 この脳に直截つながった「露出した脳」は、人間についてのすべてを教えている。 のみならず、人間の本質をも教えてくれている。 「おまえは敵だ、わたしはおまえを殺したい」 人間の文明の歴史は、この人間の本質との格闘につきていると思える。 SEALDsを支持しないという言明に至った経過を言語化しろ、というきみの仰せだが、いろいろな意味で難しい注文です。 だから何回かに分けて、長々と話すことになるのを許して欲しい。 直截の原因は簡単で、例えばぼくは「物理学」という集合のおおきさなら、子供のときから(物理学者である)大叔父を透してみる癖がついている。 この人は、きみが直截に見知っている人間でいえば、オダキンにとてもとても似ている人です。 もしかすると、アホなトナカイの、かぶり物をかぶって、「ミショだよおおーん」をしていた岩本祥にも似ているのかも知れない。 いや、きみは「鈍感さん」揃いの物理研究者にしては19世紀数学者的に詩的なところがあるからオダキンや大叔父とは違うか。 わが友オダキンは「聞き上手」で、「俺はアホだから」という余計な謙遜がうるさいが、それを取り払ってしまえば、知性の人です。 そうして、彼の知性の最もすぐれた点は、考えの全体が「物理学的思考」に戻ってくることであるのが見ていてわかる。 戦車兵が小さな窓から戦場を凝視するように、あるいは艦隊の司令長官が「海」全体を戦場という観点からしか見ていないように、オダキンは本人が意識しない場所で物理学的思考、あるいは、もっと基礎的な(コントロールや対偶というようなレベルでの)科学の基本に帰ってくる。 めんどくさいから端折ると、どんな人間にも、世界を眺める展望台が与えられていて、その展望台をどこのどんな場所にしつらえるかは、ひとりひとりの人間にまかせられている。 ナマケモノで知力が低い人間は、感情のまっただなかに展望台をつくって、日の丸をわざわざ望遠鏡のなかで拡大して「なんて美しい旗だろう」と呟いている。 知力の高いきみのような人間は、ある日、ふと宇宙全体の構造がほかでもない自分自身に似ているような気がしてきて、いてもたってもいられなくなる。 この望遠鏡じゃなにも見えないじゃないか! と苛立ちはじめる。 そうして、SEALDsの若いひとびとは「政治」を透して、ものごとを見始めてしまったのだと思います。 政治の論理、と言ってもよい。 ぼくのSEALDsというグループを見つめるための望遠鏡は三浪亭という、一個の人間として世界を眺めていられる人間で、こういう言い方がきみには最も判りやすいとおもうが、長かったデモの一日のあとで、ふと空をみあげて、なんて美しい青空なんだろう、と考えて、長かった一日の政治性に満ちた出来事をみんな忘却できる人間だった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/15/letter5/ SEALDsに対しては、ことの初めから日本にいる友達から、「ガメ、あれは操り人形だから信じてはダメだよ」 参謀がいるのさ。 どうして辺野古のひとびとはbrutalに殴られ、酷い目にあうのにSEALDsは、ただ囲まれているだけなのか考えてみるべきである、と主にトーダイおじさんたちから忠告を受けていた。 でも、仮にも運動である以上、そのくらいはどうでもいいやん、というのがぼくの返事だった。 … Continue reading

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もういっかい

小津安二郎の映画「大学は出たけれど」がヒットしたのは1929年で、映画の題名はそのまま流行語になっていく。 1929年は、どういう年かというと一年前に日本が張作霖爆殺事件を起こして、さすがに国内でも天皇を含めたひとたちが危惧をもちはじめて、アメリカを初めとした西側諸国が「どうやら日本は無法国家になりつつあるらしい」と気づき始めた年です。 このあたりから、だんだん世界中の人間の目にはデタラメになってゆく日本の国家運営の、軌条を外れた暴走の駆動力になったのは、要するに不景気で、この不景気を解決するためには満州保持を金科玉条にした戦争しかない、というのが日本人の殆ど潜在意識的な総意だった。 朝日新聞が戦後に良識派の名前をなすのに最もおおきな力があったのは「天声人語」という看板コラムでしたが、このコラムの黄金時代をつくったのは荒垣秀男という記者です。 このひとが社内でのしあがってゆくのは、この頃書いた記事が人気があったからですが、内容をいまみると、 「眉間から入った弾が頭蓋骨と皮膚のあいだをクルリと通って後頭部からぬけたのをホンの軽傷と思って戦っていた…北山一等卒」 「爆弾の破片で足の肉をすっかりとられながらも突貫して行った相沢一等卒」 というような記事であったことが日本語ネット上にもたくさん残っている。 戦争を礼賛して大喝采を博した。 一方では、永井荷風の二月十一日の日記(「断腸亭日乗」)には、 「東京朝日新聞社の報道に関して先鞭を『日々新聞』につけられしを憤り営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹には甚冷淡なる態度を示しゐたりし処陸軍省にては大に之を悪み全国在郷軍人に命じて『朝日新聞』の購読を禁止し又資本家と相謀り暗に同社の財源をおびやかしたり之がため同社は陸軍部内の有力者を星ヶ丘の旗亭に招飲して謝罪をなし出征軍人慰問義捐金として金拾万円を寄附し翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしと云この事若し真なりとせば言論の自由は存在せざるなり且又陸軍省の行動は正に脅嚇取材の罪を犯すものと謂ふ可し」 とあって、新聞社が高級料亭で権力者と会合して、どんどん報道を枉(ま)げていっていたのがわかる。 読んでいて面白いのは、では当時の世の中が好戦的な気分にあふれていたかというと、そんなことはなくて、世間の気分の主調は「厭戦」であり「反戦」です。 だが景気をよくするためには戦争屋へ「ゴーサイン」を出すしかない、という「分別がある層」の暗黙の「本音」が存在した。 「戦争は反対だが景気をよくするためには闇雲に反対するのは共同体を無視した理想論にすぎない」と言われた。 「戦争は嫌だ」の声は「では、おまえはこの不景気の対策をどうするというのか。東北では若い娘たちが売春婦に売られていっているのだぞ。 おまえは、それをなんともおもわないのか」という声に抑圧されてゆく。 振り返ってみると、この当時の日本に必要であったのは、満州経営という投機的な、いわば思いつきによる「一挙に経済を打開する」政策ではなくて、軍事費に象徴的な国権国家的な浪費を削って産業構造を改革することにしかなかったが、当時は「そんなことは不可能だ」「悠長にすぎる」ということになっていた。 「自信がなかった」というのがほんとうの本音でしょうが、石橋湛山のような極く少数の人間が「貿易立国」を唱えたのに対する世間の大多数の反応は、「そんな空想にしかすぎないことをだいのオトナが唱えるなんて、ばかばかしい」というものでした。 結局、バクチ路線が破綻して、若い日本人を薪でもくべるように大量に殺して、1945年に、すってんてんになって、他に方策のとりようがなくなって貿易立国をめざして、あっというまに大成功を収めるまで、相手にされなかった。 「歴史は繰り返す」というが、現実の歴史は意外とそんなことはない。 同じ失敗の歴史を繰り返した国は破滅して地上から姿を消している。 いまのチュニジアには、世界でも一、二を争う繁栄を誇ったカルタゴというフェニキア人が建設した国(植民市)があって、この国は自己の非を認めない国だった。 滅びるべくして滅びる体質というか、たとえばカルタゴの将軍だったハンニバルは、「カルタゴの将軍は戦いに失敗して負けると処刑されるが、ローマの将軍たちは、国民に、自分たちの方針の過ちで難しい戦争になってしまったのに良く生きて敗兵をつれて帰ってきてくれた、とねぎらわれる」と敵であるローマをうらやましがっている。 失敗を認めず、個人の失敗を許さなかったカルタゴは、いつのまにか自分たちよりも強大になっていたローマの力を無視して、あるいは気がつかないふりをして挑発し続けた結果、ローマと戦争になり、敗れて、徹底的に破壊されて歴史から完全に姿を消してしまう。 英語人がひとしく、この歴史から学習することは、 「歴史上の過誤を認めないものは滅びる」 「国は、滅多に滅びはしないが、戦争だけは国を根本から破壊することができる」 ということでした。 どんなにひどい不景気も、不景気だけでは国はなくならない、という教訓は、このあと、歴史の至る所に発見される。 ごく近いところをとっても、アルゼンチンもギリシャも、韓国も、経済が破綻したからと云って国そのものがなくなったかというと、世界地図を広げてみれば、前二者は相変わらずの不景気でふらふらしながら、韓国は逆に破綻以前よりも、生まれ変わった繁栄する社会として、いまでもちゃんと存在している。 アベノミクスという思いつきに国を挙げて飛びつくという、世界中がびっくりするようなケーハクな行動に出た日本は、その通常は現実に実行してみたりはしない非現実風な通貨減価策を実行してみせて、世界中の人間を楽しませ、「中入れ」に出た戦国大名に対する戦さ功者そのままというか、投資家たちに「濡れ手で粟」の言葉そのままの楽ちんな利益をむさぼらせて、予想通り無惨に失敗して、国民ひとりひとりが70年にわたって貯め込んだ資産を国家的な賭博で使いはたして、「いや、おれはまだ負けてない」とブラックジャックテーブルにしがみついて「もう一勝負!」と叫ぶ賭博依存症の人間そのままに、まだおなじ失敗を、今度は個人資産の裏付けが無い純粋な借金によってチップを買ってテーブルに積み上げようとしている。 そうすれば株価は上がるに決まっているので、またぞろ投資家たちはテーブルに戻ってきて、このナイーブな国からオカネをまきあげようと手ぐすねひいているところです。 政府や日銀の役人たちとは異なって、私企業家は、オカネをすると会社がなくなってしまうので、構造が変わらず、いま50代の人間たちの年金を払ったが最後、沈没するに決まっている市場に再投資するわけにはいかないので、あがった自社の株価のゆいいつの使い途として、海外の同業他社の買収に動いている。 円安で目減りしているが、「倍払っても、ここで海外の同業他社を買っておかなければ生き残れない」とemailを書いてきた人がある。 オーストラリアやニュージーランドでも、ビール会社や食品加工会社は、どんどん日本の会社が買っていきます。 ニュージーランド人は怒っているかというと、そんなことは全然なくて、「どうせ本体が潰れるに決まってるから、そのとき買い戻せばいいのさ」と、のんびり構えている。 日本の人達が、戦前の歴史を忘れて「自民の圧勝でアベノミクスも大成功」だと浮かれていたときに、おもわず浮かれてるおっちゃん相手に怒ってしまったが、日本語で考えていると、つい日本社会で起きることが「我が事」のように感じられてしまうことがあっても、ドアをノックして家のひとが「食事ができました。モニさん、待っておられますよ」と言われると、途端に我に返って、まるで夢からさめた人のようで、そーだった、おれは日本人じゃなかった、ニセガイジンでなくてよかった、日本語が日本人よか上手なだけで、英語人じゃん、あーびっくりした、と考えて、顔を洗って、鏡を見て、まだへろへろな、にやけた産毛のながい顔であることを確認して安心する。 顔が志村喬になっていたら、どうしようかとおもった。 また、ソバカスが増えたのい。 … Continue reading

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日本的

むかし、日本に初めてやってきたとき、五円玉がおもしろくて仕方がなかった。 穴が開いている硬貨というものを見たことがなかったので、こんなに面白いオカネがあっていいものだろうか、と思うくらい好きだった。 鎌倉ばーちゃんに、あの穴にひもを通して財布にしていたときの名残だと教わってカンドーした。 義理叔父は妙なことを知っていて、満月というものは腕をいっぱいに伸ばして五円玉の穴を通してみると、ちょうどぴったり穴に収まるのだと言ってやってみせる。 日本では誰でも知っている有名なことだと述べていたが、他では聞いたことがないので、ほんとうなのかどうなのか。 もう行けなくなってしまったが、あれほど興味があった国なので、いまでもよく日本のことを思い出す。 友達によると、なんだかよくわからないがツイッタでは見知らぬ「左派」の人が、わざわざメンションを寄越して「大庭亀夫が、ニセガイジンなのは、すでに知られていることですが、そんな人をリツイートしていたりして大丈夫ですか?」と心配してくれるのだそーで、友達は怒っていたが、いまでもよく中傷を繰り返しているらしい、もともとの「ニセガイジン」唱道者「はてな」のapeman さんたちが代表の、なにも根拠がなくても、「自分がこうだとおもったから、こうだ」で、シナリオ通り、どんなことでもでっちあげられる日本の「左派」らしくて笑ってしまったが、そういうことばかりやっているから日本の「左派」は信用をなくしてしまったのに、全然懲りてないらしい。 尊敬する年長の友人たる村上憲郎も、年中大庭亀夫について、おなじような嫌がらせがくると言ってくさっていた。 村上憲郎は、もともと「左派」どころか、ばりばりの中核派で、いまの何をどうしたいのか、社会をどこに持って行きたいのか、じゃ、あんたは社会を共産主義にして、また共産主義と全体主義が同義になってゆく経過を自分の社会を実験台にして再現してみたいの?な、主張が模糊とした「左派」とは異なって、暴力革命を呼号して暴れ回っていたひとなので、この薄汚い手を使っているひとびとがいちように「左派」を名乗っていることに、ますます不愉快になるもののよーでした。 逆に、本人に述べても、くさるだけなので言わなかったが、このブログのコメントに、 「あなたは村上憲郎をほめているが、このひとは学生の頃…」と述べて、長大な誹謗のコメントを送って来た「元京都大学生」の人もいたが、この人も「左派」だそうで、なんだか、日本の「左派」というのは根拠がない中傷誹謗を、個人に向かっておこなったり政府に向けておこなったりするだけの中傷屋集団の総称なのか、と思えてきてしまう。 ネット上の日本は、毎度、そういうことばかりで、卑劣というのもアホらしい、なんだか薄汚い、唇のはしから涎が垂れていそうな人が、自己のしまりがない悪意に満ちた人格から垂れてくる鼻水や涎を、他人にこすりつけようとして右往左往している場所だが、現実の社会のほうは、もうちょっと良い場所だったような記憶がある、ということを引き出しに入っていた五円玉を見て考えていたのです。 ママチャリ、というのもあった。 いつかコモ湖からイタリアのピエモンテのアウトレットにクルマででかける途中、コーナーをまわって森を出たら、そこは一面の水田で、そのアジア的な感じのする美しさに息をのんでしまったことがあった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/25/piemonte/ そのときに「これは、どう見ても日本の景色だ」と感じたのは、水田が最もおおきな要素だとしても、あぜ道を「ママチャリ」に乗って、のんびりこいで走っているじーちゃんがいたからで自分でも持っている自転車はピナネロやコメンサルで、ロードレーサーやマウンテンバイクだが、日本の「ママチャリ」がある風景が好きだったのを思い出す。 おおげさなことを言うと、ママチャリは日本と特に英語圏「西洋」の文明のリズムや、姿勢をあらわしていると考えることがある。 ママチャリの、あの、のったらのったらしたリズムは、イルリメさんが「タメ」と言っていたが、そこに連なっていて、ドンドン、チャ、ドンドン、チャ、で、タタタタタとたたみかける英語人のリズムと異なっている。 もちろんママチャリ生活リズムに郷愁を感じるのは、ぼくだけではなくて、他の日本に滞在していたことがある「ガイジン」も同じ事で、どこの国でもママチャリを輸入して売っている店があって、日本から1万キロ離れた小国のニュージーランドにもあります。 https://can.org.nz/article/mamachari-bicycles-in-wellington-and-beyond ヨーロッパにもママチャリ姿勢の自転車はたくさんあるが、背丈の違いのせいばかりでなくてフレームがおおきくて、サドルを高くして乗るので、どうしても背筋がのびてかっこよくなってしまう。 かっこよくてはダメなので、ママチャリは、ドタッとした、あの格好のほうが、ぼくはよいのではないかと思っている。 イタリア人と日本人だけが、いわゆるママチャリ姿勢で、のおんびりこいでいるのは、まるで正反対のふたつの文明に、意外な共通点が隠れているからでしょう。 戦前の風俗を記した文章を読んでいると、戦前の日本の都市の「往来」というものが、どんな感じのものだったかわかる。 道幅が広い、土埃が立つ見通しのよい通りに、ちょうどバルセロナの公園と通りをかねた大通りと同じように、ところどころ、輪をつくって話に興じている人や、地面に絵を描いて遊んでいる子供達がいる。 歩いていく人間たちは、そのあいだを縫って歩いて、いまのように厳格な「左側通行」「右側通行」というようなことはなかったようです。 悪童たち、といっても、いまのイメージと違って最年長者はいまでいえば高校生くらいの、グループが、たとえば「お妾さん」が通ると、通せんぼをして、「おい淫売、通れるもんなら通ってみろ」と嫌がらせをする。 お妾さんのほうでは、下を向いてただじっと我慢する。 もっている小物入れをはたき落としたり、肩をこづいて、いったん嫌がらせを始めるとなかなかやめない。 そういうときに往来の人達が悪童たちに注意する、やめさせるというようなことは起こらなかったようで、黙ってみているか、ひどい人もいて、一緒になって遠巻きに、「妾のくせに、昼間っから通りを歩いてるんじゃねえ」くらいのことは言って笑いころげていたもののよーである。 泉鏡花のような人達は、そういう日本的な人間性の残酷さを、畸形な美につないでいくことが上手で、たとえば、 「弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛を むしる、腹を抜く、背を刮 く……串刺じゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎で焼く、活きながら鱠にも刻むげなの、やあ、殿。……餓じくばまだしもよ、栄耀ぐいの味醂蒸じゃ。  馴れれば、ものよ、何がそれを、酷いとも、いとしいとも、不便なとも思わず。――一ツでも繋げる生命を、二羽も三頭も、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。  誰もそれを咎めはせまい。咎めたとて聞えまい、私も言わぬ、私もそれを酷いと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便もいとしいも知らねばこそいの。――何と、殿、酷い事を知らぬものは、何と殿、殿たちにも結構に、重宝にあろうが、やいの、のう、殿」 という科白に顕れるような、弱いものは踏みしだかれて当然、地にはいつくばさせて、因習のなかに個人を閉じ込めて打擲する残酷美を肯定するような、無惨さを美しいと感じる感受性を日本人はいつも保持してきた。 フランス人友達のU(男・30代)は、新派芝居が好きで、若尾文子と京マチ子の大ファンで、芝居がかかれば明治座へ必ず足を運ぶが、やはり、この人が新派に感じる「美」も、西洋の目からみれば、なんだかもう滅茶苦茶な、踏みつけにされるいっぽうの魂の美で、なるほど感じることは同じなのだな、と話していていつも思う。 土埃の往来で、取り囲まれて嫌がらせをされる「お妾さん」を自業自得だという目で、物見高く見ていた戦前の日本人は、いまの満員電車でベビーカーを押して入ってくる若い母親を睨めつけるサラリーマンたちに、そのまま受け継がれているだろう。 … Continue reading

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Diwali

マリーナから通りに出ると、なんだか、いつもよりインドの人の数が多いような気がする。 インドの人は質素で、ふだんは派手な服を着ている人が少ないというエスニックグループとしての特徴があるが、今日は、目もさめるようなサリを着ている人がたくさんいます。 初めに気がついたのはモニで、 「ガメ、今日はDiwaliだな」という。 おお、panipuri!と、こちらは反射的に大好きなインドスナックpanipuriを思い浮かべて、もうハンドルを切ってアオテアセンターに向かっている、わし。 モニは、「ガメにはdiwaliがそのままpanipuriだな」と、わし考えを見破って、くすくす笑っている。 笑いなさい。 この世界にpanipuriに勝てる人間がいるだろうか? (いいやいない) パニプリは、日本で言えばたこ焼きなのではあるまいか。 ロンドンのチェーン店「マサラ・ゾーン」はメニューに載せているが、普通のレストランは載せません。 小さなプリ(まんなかに空気を入れておいて、揚げて、ぷっ、とふくらませたパン)の上に穴が開いていて、そこにタマリンドジュースを注ぎ込んで食べる。 https://en.wikipedia.org/wiki/Panipuri たこ焼きとおなじくらい大好物なので、これを見逃すは勇なきなり。 ほんとうは、Diwali は午後7時くらいからが本番で、大ステージの上ではダンサーたちが踊り狂い、アオテアスクエアを埋め尽くしたひとびとは熱狂して、子供たちは、ぐあああああ、になって、わけがわからないなりに興奮する頭上に花火も飛び交うDiwaliらしい狂熱は夜のものだが、いまは6時で、まだ明るくても、わしにとってはDiwali=Panipuriなので、ぜんぜん気にしません。 Diwali はヒンズーのお祭りだが、オークランドのそれは、ムスリムも中国の人もヨーロッパ系人も入り交じって、通りを埋め尽くした屋台と、スクエアがそのままラッシュアワーの山手線になったみたいな、チョーものすごい数の、さまざまなひとびとでいっぱいになる。 2002年に始まって、年々、規模がおおきくなる。 今年は広いアオテアスクエアが身動きできないほどの数の人でいっぱいになっていた。 スクエアのまわりの駐車場は空きなしなのはわかりきっているので、カランガハッピロード、むかしは売春街で、いまは、オタク相手の店や、60年代フラワージェネレーション風の服を売るブティックというような、「少し変わった」店が並んでいる通りの、横路地の下にある、めだたないところにある駐車スペースにクルマを駐めて、ついこのあいだ殺人事件があった公園を通ってアオテアスクエアに向かう。 「ガメは屋台の食べ物がほんとうに好きだな」と、あきれるモニさんを尻目に、3軒目にして4皿目のパニプリを食べながら、「一個、食べてみる?」と、屋台の食べ物には手をださないモニさんが「いりません」と言うのを知っていて、訊いている、わし。 夫婦といえども礼儀正しくなくてはなりません。 うん、と言われてもあげないけど。 シークのひとびとが、現今、ヒンズー人との緊張がまた高まっているのを反映して、ちょうどステージに顔を向けているヒンズー人の大集団と向かいあう場所に陣取って、抗議のデモをおこなっている。 だらしなくパニプリを頬張りながら、どーして、こんな重大な問題を知らなかったのかしら、ダメじゃん、と考えるわし。 モニは、知っていたそうで、「ニュース見てないのか?」と言う。 ここのところゴシップニュースばかり夢中になって読んでいたので知らなかった、と述べると、 アリアナグランデが金髪になってしまった、とか、そんなことばっかり言ってたからな最近、と笑われてしまった。 インドの人たちと一緒になって通りでインドのダンスを踊っている欧州系人たちを見て、ニュージーランドも変わったなあーと考える。 じーちゃんみたいだが、でも、ほんとうにたいへんな変わりようなのだから、仕方がない。 むかし、わしは白い人ぶわっかりの文化で、退屈で、あきたので、ネットの電気信号的な風のうわさによれば多文化の融合反応が起こっているトロントに越そうかと考えたことがあった。 ニューヨークやシドニーは、多文化とは言っても、ちゃんと混合されていなくて、モザイクというか、セグメントというか、共存はしていても、いまひとつ面白くないので、トロントに行けば、もっとちゃんと混ざっていてオモロいのではないか、という目論見だった。 寒いそうで、おまけにトロント人に聞いたら夏は湿気がすごいというので行かなかったが。 ところが馴染みのある町のオークランドで夢であった文化の「融合」が起き始めた。 だいたい2001年くらいからのことです。 あれから、もう15年も経つ。 20世紀が遠い過去のことに感じられるのは、その間(かん)の変化の大きさを物語っている。 わしガキの頃は、まだ、ウエールズ人とイングランド人とスコットランド人が、お互いを国民性を挙げて喧嘩することもよくあって、オランダ人に対する、例えばアジアからの移民のひとびとからは不可視の、しかし激しい差別があった。 インドや中国から移民が流入することによって、特に人口の1割を新しいアジア移民が占めだした頃から、目立って寛容になって、というよりも気にしなくなって、一緒になって祝い、一緒に悲しむようになった。 インドの人が持ってきた生産性が高いソフトウエアの技術と中国系と台湾系が持ち込んできたハードウエアの流通スキルに、ヨーロッパ系のエンターテインメント文化(例:The … Continue reading

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旅立つ人

さよなら、と手をふる人に、なんども振り返りながら手をふっている人がいる。 前を向いて、後ろをふりかえらずに発ってゆくひとがいる。 もちろん、心のなかで泣き崩れてしまっているのが、手に取るように見えてしまっているひともいる。 ほんとうは、混雑した通路のなかで、そっと人混みにまぎれて、いつのまにか見えなくなってしまうような別れ方がよいが、どんな場合でも、そんなふうに、うまくある場所やひとたちに別れを告げられるわけではなさそうな気がする。 きみは、ある日、自分を理解してくれる人達に背中を向けて、あるいは、自分を憎む人達に対してまでも、自分の背を見せて、きみがずっと過ごしていた場所から立ち去るだろう。 きみが、すべてのやさしさを拒絶したい、と考えたのは、きみが人間というもののやさしさを、他人よりも、ずっとよく知っているからだった。 ひとりでいるときの人間は、誰かと一緒にいるときの人間とは、まったく異なる言葉を使っている。 その言葉は、自分に向かっているのでさえない。 言葉は、水に沈んでいくように、沈黙のなかに沈んでゆく。 青い空の高みを流れてゆく積雲の言葉で、絶えず変化して、不思議な形象をいくつも見せたあとで、なにごともなかったかのように風に乗って立ち去って行く。 自分の故郷なのだけど、もうここにいるわけにはいかなくなってしまった、と、そのひとは書いている。 ガメには判らないだろうけど、嫌いじゃなかったんだよ。 ガメは馴れあいを嫌う。 きみは決して認めようとしないが、知力に劣る人間も嫌っているのではないか。 ぼくは、この国の愚かさが嫌いではなかった。 大学をでて、いまの仕事について、ずっと忙しかったけど、 ぼくがやらなければ、誰にもやれない仕事だから仕方が無いとおもっていた、と言っても、ガメならきっと笑わないで聴いてくれると思う。 それとも「自負心」なんて、20世紀の遺物だと言って笑うかい? ぼくは、きみなら、案外、微笑いながら聴いてくれそうな気がしたから、この手紙を書いているんだけど。 きみは、いつか、「日本の歴史は、つまり『中国でないこと』にすべてを賭けた国の歴史で、中国人に対する理不尽な嫌悪は、要するに日本という国のアイデンティティなのであるとおもう」と言ってたけど、 そして、「中国は多分、ムスリムと並んで、西洋世界がひさしぶりに観る、根本的に異質な文明の理屈で西洋世界の前にたちはだかるだろう」とも言っていたとおもうが、ぼくもそれには同意できるとして、ガメがひとつ忘れていることがある。 日本もまた、西洋世界とは異なって、中国とも異なる文明で、ただリフレクションのなかで異なっているだけではなくて、やっぱり独立に特異な文明でもあるんだよ。 明治以来、ぼくたちは西洋語の文脈において考えることになれている。 ガメは、全体主義と自由主義と言い、「天然全体主義」という変わった表現までするが、それは無論、西洋語の文脈に照らしてみているからで、たとえば武士道は、西洋語の文脈では、自由主義ではありえなくて、やはり全体主義的な美学です。 集団サディズムでもある。 ガメがいつも指摘するように、途方もない厳罰主義で、これも指摘のとおり、日本人が決して自分の非を認めない悪い癖は、行きすぎた厳罰主義から来ているに違いない、とぼくもおもう。 「間違いを認めて謝る」ことと「相手の足下にひれふして屈服する」こととの区別がつかないのも、要するに、そういうことだろう。 でも、それは「全体主義」なのだろうか? 中世の武士は、近世にはいってからの武士とは、まったく文化的に異なる。 絶対王政的な、(というのは、きみの指摘によると日本的なアイデアらしいが)織田信長の支配が登場するまで、日本の「武士」は、つまりは武装小農場主で、卑俗な言い方にこだわれば、自営業者だった彼らは、近世の武士の対極の存在であるかのように利己的だった。 喧嘩が両成敗であったり、「御恩と奉公」を強調したのは、利己的な集団を御すための、当時のボスたちの知恵にしかすぎなかったように見えます。 倫理ではなくて支配のためのツールで、特に思想的深みなどはない。 それが日本のなかでも特異な三河文化の奥から現れた徳川家によって、ことさらいがみあいの多かった地方性から生まれた、統制の知恵で、日本じゅうを埋め尽くしていく。 きみが言っていた「何もしないためならなんでもする」日本人の顕著な特徴は、ぼくも、改革へのミーティングのテーブルのまわりにならぶ、誰彼の顔を思い出して、あまりにほんとうなので笑ってしまったが、個を失わせるさまざまな工夫によって、言い方を変えれば、ひとりひとりの人間をいったんのっぺらぼうにして、まったく同じ顔に描きかえることによって統制する、というのが近世以降の日本の為政者の考えだろう。 三河は特に、一向一揆という大事件があって、最近臣の家来にまで槍で追いかけ回された経験があったはずの徳川家康は、そのときは宗教の顔を借りていたが、個々の人間のがわの欲求から人間が行動するときの破壊性を、身にしみて知っていたのだとおもいます。 日本がつくりあげたのは、情緒を共有することによって、個人を、いわば融解させて、全体のなかに溶かし込んでゆくという巧妙な支配の方法だった。 宗教を神経質なほど警戒して、江戸時代には、他のことに較べて、びっくりするほど、いわばマジメに弾圧したり、近代になっても大本教を激しく弾圧して神殿をはじめとする施設を軍隊を派遣して物理的に破壊するという、恐怖に駆られた人のような、日本人らしくない行動に駆りたてたのは、やはり一向宗の記憶なのではないかとおもうが、ともかくも、そうやって、日本は近代をつくりあげてきた。 おっしゃることはもっともです、と前置きする。 皮肉ではなくて、という。 批判ととってもらっては困るが、とマジメな顔で言ってみせる。 … Continue reading

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無知と偏見

ムスリムに改宗した欧州系のニュージーランド人が嫌がらせに耐えかねて住んでいたオーストラリアに戻りたいと述べている。 http://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=11526707 かねて中東人の友達たちから、ニュージーランドはオーストラリアに較べるとムスリム人への差別がはるかに少ない、と聞いて、うかつにも信じ込んでいたわしは、がっかりしてしまった。 通りやスーパーマーケットで嫌がらせをするニュージーランド人たちに女の人が多いのも、意外な感じがするが、ニュージーランド人に限らず、自由主義社会の女のひとびとは、ムスリム社会での女の人たちの権利が小さいのを怒ってムスリム社会そのものへの激しい嫌悪を抱いている人がおおいので、こっちは、つまり、そういうことなのだろうと察しがつく。 いろいろな国の事情がわかるにつれてインドや日本の文化に対して嫌悪感を持つ女の人が、どんどん増えているのと、根はおなじことでしょう。 ニュージーランドのケンブリッジのワーキングクラスの出身、と自己紹介しているのは、富裕な農場地帯の、ビンボな家の生まれ、という意味です。 オークランドの南で、と書いているのは、南はオークランドのなかでも、ビンボな地域で、家庭内暴力やギャングの抗争が蔓延する、アジア人やポリネシア人、アフリカ人に対する差別意識が強い地域に住んでいることを意味している。 ‘White power!’は、ニュージーランドのバカガキがよくアジア人やポリネシア人に対して投げつける言葉で、わしなどは、わびしいくらいアホな表現なので、聞くたびに笑ってしまうが、 いつだったか、明け方近く、CBDのパブで友達と酒を飲んだ帰り道に大通りでアジア人の学生たちに、「White power!」と叫んでいる若いヨーロッパ系人の集団に、「アホか、おまえら、英語を勉強しろ」と述べたら、ひとりは英文学の学生だというので、げんなりしたことがあった。 わしが信じていたよりも、ふつうに、ひんぱんに使われているようでした。 「フェミニスト」には意味の変遷がある。 エマワトソンが、素晴らしかった国連での演説 「Heforshe」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/09/23/heforshe/ で、まず単語の意味を定義しなおすことから始めなければならなかったのは、そのせいです。 日本語の「フェミニスト」は、もっと単純に誤訳で、カタカナになった途端に意味が異なる使い方にあまんじなければならないのは、「ナイーブ」とおなじ。 フェミニストは、だから、通常女のひとだが、フェミニストには民族差別的言動をする人がときどき存在して、だいたいムスリムの話になったときに、一気に民族文化的な軽蔑にまで行き着いてしまうことが多いように見えます。 中東人の世界を少しでも知っていれば、なんだか書いていても当たり前すぎてバカバカしい感じがするが、エジプト人とシリア人は、まったく異なる文明のなかで生きていることはすぐに判る。 エジプト人は、日本語の表現でいうと「ざっかけない」というのか、下町のド親切なおっちゃんやおばちゃんぽいというか、なにかわし身の上に良いことがあると、「この、この、この」とニコニコしながら肩で押してくる感じというか、沖縄の人みたいで、社会全体が、ひととひとの肌をこすりあわせて人間の関係を暖かくしているようなところがある。 悪い方は、「オカネに汚い」という。 プーケのトゥクトゥクドライバたちと一緒で、£50だと判りきっているのに、同じ店員が同じ客に£200だぜ、と述べるところから出発する。 ものの値段が一意に決まっておらず、いちいち延々と交渉しなければならないので毎日の生活が疲労困憊であるという。 言う、というのは誰が言うのかというと友達のエジプト人の医者がそう述べている。 ニュージーランドに住んでもう5年になるのに、いまだにエジプト人のオカネにまつわる「クレクレ」のしつこさについて愚痴をよく述べるので、よっぽどすごいのね、という印象が出来てしまっている。 ハリウッド版のクレオパトラを主演したエリザベステーラーみたいな顔の人が、つばをとばしながら、「ガメちゃんね、エジプト帰ると、ほんまにたまらんのやで」と訳したくなるような言い方で故国について愚痴るので玄妙です。 シリア人は、マジメで、オカネの支払いも、カイロやイスタンブルのヨーロッパ側のような町とは異なって、ちょうど日本のように一意に決まっている。 交渉しなくてもよい安心感がある。 レバノン人は、この両者とも異なって…と無限に書いていくことが出来るが、そんなことをやっていても仕方がないので、ここで打ち切るが、欧州系人はあまりに中東に対して無知なので、レバノン人も、エジプト人もシリア人も、十把一絡げに同じ「中東人」に見えてしまっている。 ヘンな説明のついでに、もっとひどい例をひとつあげておくと、このブログに何度も出てくるように南カリフォルニアにおけるわし商売のパートナーは中東人たちだが、この人たちはキリスト教徒です。 アジア人のひとたちなどは、イラク人、レバノン人と言っても、わしビジネスパートナーと、その一族などは、みな「真っ白」な人たちなので、イラク人だというとぎょっとするらしい。 金髪で碧眼のイラク人、というものを想像したことがないように見えるが、ペルシャにもアラブにも、「踊るイラン人」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/10/01/persians/ で記事に書いた、見た目は欧州系人となにも変わらない中東人もたくさんいる。 と、ここまで書くと、気がついたとおもうが、この改宗したニュージーランド人の女の人に向かって「White power!」と叫ぶバカタレは、だから二重の意味でバカである。 Niqabの下に隠れた金髪で白い肌のAmina さんが、差別的な言葉で罵られて、「’Oh ya … Continue reading

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あれから

子供のときに、母親にせがんで「東京駅ステーションホテル」に部屋をとって泊まったことがある。 まだ改装前で、部屋は古びていて、よく観ると壁紙がはがれているところがあったりして、侘しいものだったが、窓からは東京駅が一望に見えて、鉄道模型が好きだったガキわしとしては、それだけで満足だった。 イギリスからニュージーランドに移動する途中に寄る町として、シンガポールも魅力があったが、東京もおなじくらい魅力的で、その魅力較べの重大な要素には鉄道があった。 どうしても乗ってみたくて、やはり母親にせがんで、寝台列車に乗って、何も用事がないのに青森まで行って帰ってきたこともある。 寂れて、小さな町で、といっても子供の偏見で、なにしろおぼえているのが「ミスタードーナッツ」だけなので、われながら記憶があてにならない。 ご多分にもれず、京都に行ったり、奈良に出かけたりする母親について、あるいは、稀には父親と母親の両方に随行して、見知らぬ町にでかけて、日本はどこにいても洪水のように人がいてすごいところだなあーと考えたり、 ヘンなものばかりあるので、こんなに面白い国はないと考えたりした。 成田の上空にさしかかると、九十九里浜の、長い、まるで筆でさっと描いたような長い浜辺がみえて、遠くには富士山が見えている。 待機旋回を終えて、着陸のための進入路に入ると、日本の特徴の、びっくりするほど暗い緑色の森が見え始める。 この頃のシートはよくできていて、背もたれを倒したままで着陸しても何も言われない会社が増えたが、ぼくが子供の頃は、まだ、クラスによらず背もたれを直立させねばならなかった。 空港につくと、外国人の長い列は、進むのに日本人の列の3倍は時間がかかって、行儀良くしているのがたいへんだったりした。 余計なことを書くと、ずっとあとで、5年間11回の日本遠征をしたときには、逆に長期滞在ビザをもっている外国人の旅客は極端に少なくて、パスポートコントロールのカウンタはひとつか多くてもふたつだったが、殆ど並ぶということはなくて、横の、多分、韓国系や中国系日本人のためのものだとおもうが「特別滞在許可者」とかなんとかいうへんてこりんな名前の、なかなか進まない長い行列に並ぶひとたちを気の毒に思ったりしたが、長期滞在ビザの行列は短くて、心のなかで密かに成田で降りることの特典に数えていたのをおぼえている。 日本の入国管理官は、親切な人がおおくて、問題があったことはない。 へんな奴が多かったEUになる前のフランスや、ときどき、とんでもない人がいるアメリカとは異なって、公平に言って、感じのいい人達であると思います。 空港から出ると、そこはもう、ほんとうにパラダイスで、なにしろハイテクオタクガキなので、NEXから始まって、シャトルなんて、あんなダサいものは絶対嫌ですで、新幹線、秋月電子、ビックカメラ有楽町、うむむむむ、カッコイいで、興奮しすぎて、よく妹にバカにされた。 奈良ホテルに泊まって、夜更けに興福寺にでかけたのを、いまでも、つい先週のことのようにおぼえている。 満月の夜で、皓々と照りつける境内を、日本ならダメ母親ということになるだろうが、母親につれられて散歩した。 ふだんは9時には絶対にベッドのなかにいなければいけないことになっていたので、妹とぼくにとってはたいへんなことだった。 いまは囲いが出来たと聞いたが、その頃はまだ囲いもなにもなくて、信じがたいことに、夜中でも建物にあがろうとおもえばあがれた、五重塔の階の下に立って、月を見つめていた。 ふと気がつくと、まわりには、無数の、といいたくなるくらいたくさんの鹿が集まってきて、一緒に月を眺めている。 青い月の光に照らし出された、到底、現実とは思われない幻想的な光景だったが、あとで聞いてみると、かーちゃんはとーちゃんと、ふたりだけで、やはり奈良ホテルに宿泊して同じ経験をしたことがあって、妹とわしとに、同じ経験をさせて驚かせようと考えたもののよーでした。 その頃から、ずっと日本が面白くて、モニと結婚してからも、二度に渡って、数ヶ月を過ごした。 日本語が上達して、日本語世界の奥のほうに分け入ってみると、特に外国人だとまったく思われていなかったインターネット世界での見聞で、表面とは異なって、日本の社会は地獄に最も似ているのが判ったが、 日本社会の一員になろうと考えたことがなかったからでしょう、一度は日本人でやってみようと考えたことがあるらしい従兄弟とは異なって、 たいした衝撃があるわけではなかった。 なるほど香港人の友達がむかし言っていたように「日本は住みにくい国」なんだなあーと思っただけでした。 この香港から、初めは横浜に住もうとおもって一年間やってみて、あきらめてニュージーランドに移住した友達は、 「Things are much harder there」と述べていて、そのときはもう、そういう事情をいろいろな中国系人から聞いて知っていたので、日本人の有名な中国人蔑視のことだと受け取っていたが、後で聞くと、そうではなくて、賢明な人のことで、日本人同士もお互いに蔑視しあって、どちらが偉いか競い合っているような、地獄そのままの社会、という意味だった。 ぼくのほうは、地獄とは思わなかったが、表面の礼儀正しさとはだいぶん違うようだ、とは感じていた。 家でみている日本語インターネットの世界が日本人の「内心」で、現実にでかけていって相渉る社会のほうは、「建前」ということなのかしら、と考えるていどのことだったが。 こんな昔をなつかしむ文章は最低だが、なんだか日本のことを、うまく思い出せなくて、なにも憶えていないような気がしてきたので、書いてみることにした。 日本には「放射脳」という、現代日本人の気質がにじみだしているような言葉があるが、なにしろ福島事故の処理を投げ出した結果、盛大に拡大しつつある放射能汚染が怖いので、行く気が起こらない。 そんな、ぼくは現に東京に住んでいるのにひどいじゃないか、第一、きみと同じ外国人たちが東京にはたくさん来ているんだぜ、という声が聞こえそうだが、グローバライゼーションで、世界じゅう「イオン」になっている、と言えばいいのか、どこに行っても、似たような街並みで、中心繁華街では誰もが英語を話して、店もブルガリ、シャネル、グッチ、…同じ名前が並んでいて、ニューヨークもロンドンも一緒くたになりそうなくらいひどい様相を呈している世界のなかで、東京は、ただひとつ、まったく異なるヘンテコな都会であること維持している。 そのヘンテコさとオーセンティックな和食めざして、世界中からカネモチもビンボニンも東京めざしてやってくる。 「あの程度の放射能ならダイジョブ」と思っているわけではなくて、自分の周りを見渡しても汚染の度合いを知っていてでかけるのは2,3人くらいのもので、あとは情報としてまったく知らないからでかけている。 十分に(という言い方はヘンだが)汚染されているイタリア東部を旅行するのとおなじことで、ポルチーニを満喫してから、チェルノブイリ汚染を思い出して、げげっになっている愚かな元物理学者の大叔父と同じことです。 … Continue reading

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