日本的

むかし、日本に初めてやってきたとき、五円玉がおもしろくて仕方がなかった。
穴が開いている硬貨というものを見たことがなかったので、こんなに面白いオカネがあっていいものだろうか、と思うくらい好きだった。
鎌倉ばーちゃんに、あの穴にひもを通して財布にしていたときの名残だと教わってカンドーした。
義理叔父は妙なことを知っていて、満月というものは腕をいっぱいに伸ばして五円玉の穴を通してみると、ちょうどぴったり穴に収まるのだと言ってやってみせる。
日本では誰でも知っている有名なことだと述べていたが、他では聞いたことがないので、ほんとうなのかどうなのか。

もう行けなくなってしまったが、あれほど興味があった国なので、いまでもよく日本のことを思い出す。
友達によると、なんだかよくわからないがツイッタでは見知らぬ「左派」の人が、わざわざメンションを寄越して「大庭亀夫が、ニセガイジンなのは、すでに知られていることですが、そんな人をリツイートしていたりして大丈夫ですか?」と心配してくれるのだそーで、友達は怒っていたが、いまでもよく中傷を繰り返しているらしい、もともとの「ニセガイジン」唱道者「はてな」のapeman さんたちが代表の、なにも根拠がなくても、「自分がこうだとおもったから、こうだ」で、シナリオ通り、どんなことでもでっちあげられる日本の「左派」らしくて笑ってしまったが、そういうことばかりやっているから日本の「左派」は信用をなくしてしまったのに、全然懲りてないらしい。
尊敬する年長の友人たる村上憲郎も、年中大庭亀夫について、おなじような嫌がらせがくると言ってくさっていた。
村上憲郎は、もともと「左派」どころか、ばりばりの中核派で、いまの何をどうしたいのか、社会をどこに持って行きたいのか、じゃ、あんたは社会を共産主義にして、また共産主義と全体主義が同義になってゆく経過を自分の社会を実験台にして再現してみたいの?な、主張が模糊とした「左派」とは異なって、暴力革命を呼号して暴れ回っていたひとなので、この薄汚い手を使っているひとびとがいちように「左派」を名乗っていることに、ますます不愉快になるもののよーでした。

逆に、本人に述べても、くさるだけなので言わなかったが、このブログのコメントに、 「あなたは村上憲郎をほめているが、このひとは学生の頃…」と述べて、長大な誹謗のコメントを送って来た「元京都大学生」の人もいたが、この人も「左派」だそうで、なんだか、日本の「左派」というのは根拠がない中傷誹謗を、個人に向かっておこなったり政府に向けておこなったりするだけの中傷屋集団の総称なのか、と思えてきてしまう。

ネット上の日本は、毎度、そういうことばかりで、卑劣というのもアホらしい、なんだか薄汚い、唇のはしから涎が垂れていそうな人が、自己のしまりがない悪意に満ちた人格から垂れてくる鼻水や涎を、他人にこすりつけようとして右往左往している場所だが、現実の社会のほうは、もうちょっと良い場所だったような記憶がある、ということを引き出しに入っていた五円玉を見て考えていたのです。

ママチャリ、というのもあった。
いつかコモ湖からイタリアのピエモンテのアウトレットにクルマででかける途中、コーナーをまわって森を出たら、そこは一面の水田で、そのアジア的な感じのする美しさに息をのんでしまったことがあった。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/25/piemonte/

そのときに「これは、どう見ても日本の景色だ」と感じたのは、水田が最もおおきな要素だとしても、あぜ道を「ママチャリ」に乗って、のんびりこいで走っているじーちゃんがいたからで自分でも持っている自転車はピナネロやコメンサルで、ロードレーサーやマウンテンバイクだが、日本の「ママチャリ」がある風景が好きだったのを思い出す。

おおげさなことを言うと、ママチャリは日本と特に英語圏「西洋」の文明のリズムや、姿勢をあらわしていると考えることがある。
ママチャリの、あの、のったらのったらしたリズムは、イルリメさんが「タメ」と言っていたが、そこに連なっていて、ドンドン、チャ、ドンドン、チャ、で、タタタタタとたたみかける英語人のリズムと異なっている。

もちろんママチャリ生活リズムに郷愁を感じるのは、ぼくだけではなくて、他の日本に滞在していたことがある「ガイジン」も同じ事で、どこの国でもママチャリを輸入して売っている店があって、日本から1万キロ離れた小国のニュージーランドにもあります。

https://can.org.nz/article/mamachari-bicycles-in-wellington-and-beyond

ヨーロッパにもママチャリ姿勢の自転車はたくさんあるが、背丈の違いのせいばかりでなくてフレームがおおきくて、サドルを高くして乗るので、どうしても背筋がのびてかっこよくなってしまう。
かっこよくてはダメなので、ママチャリは、ドタッとした、あの格好のほうが、ぼくはよいのではないかと思っている。

イタリア人と日本人だけが、いわゆるママチャリ姿勢で、のおんびりこいでいるのは、まるで正反対のふたつの文明に、意外な共通点が隠れているからでしょう。

戦前の風俗を記した文章を読んでいると、戦前の日本の都市の「往来」というものが、どんな感じのものだったかわかる。
道幅が広い、土埃が立つ見通しのよい通りに、ちょうどバルセロナの公園と通りをかねた大通りと同じように、ところどころ、輪をつくって話に興じている人や、地面に絵を描いて遊んでいる子供達がいる。
歩いていく人間たちは、そのあいだを縫って歩いて、いまのように厳格な「左側通行」「右側通行」というようなことはなかったようです。

悪童たち、といっても、いまのイメージと違って最年長者はいまでいえば高校生くらいの、グループが、たとえば「お妾さん」が通ると、通せんぼをして、「おい淫売、通れるもんなら通ってみろ」と嫌がらせをする。
お妾さんのほうでは、下を向いてただじっと我慢する。
もっている小物入れをはたき落としたり、肩をこづいて、いったん嫌がらせを始めるとなかなかやめない。

そういうときに往来の人達が悪童たちに注意する、やめさせるというようなことは起こらなかったようで、黙ってみているか、ひどい人もいて、一緒になって遠巻きに、「妾のくせに、昼間っから通りを歩いてるんじゃねえ」くらいのことは言って笑いころげていたもののよーである。

泉鏡花のような人達は、そういう日本的な人間性の残酷さを、畸形な美につないでいくことが上手で、たとえば、

「弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛を
むしる、腹を抜く、背を刮
く……串刺じゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎で焼く、活きながら鱠にも刻むげなの、やあ、殿。……餓じくばまだしもよ、栄耀ぐいの味醂蒸じゃ。
 馴れれば、ものよ、何がそれを、酷いとも、いとしいとも、不便なとも思わず。――一ツでも繋げる生命を、二羽も三頭も、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。
 誰もそれを咎めはせまい。咎めたとて聞えまい、私も言わぬ、私もそれを酷いと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便もいとしいも知らねばこそいの。――何と、殿、酷い事を知らぬものは、何と殿、殿たちにも結構に、重宝にあろうが、やいの、のう、殿」

という科白に顕れるような、弱いものは踏みしだかれて当然、地にはいつくばさせて、因習のなかに個人を閉じ込めて打擲する残酷美を肯定するような、無惨さを美しいと感じる感受性を日本人はいつも保持してきた。

フランス人友達のU(男・30代)は、新派芝居が好きで、若尾文子と京マチ子の大ファンで、芝居がかかれば明治座へ必ず足を運ぶが、やはり、この人が新派に感じる「美」も、西洋の目からみれば、なんだかもう滅茶苦茶な、踏みつけにされるいっぽうの魂の美で、なるほど感じることは同じなのだな、と話していていつも思う。

土埃の往来で、取り囲まれて嫌がらせをされる「お妾さん」を自業自得だという目で、物見高く見ていた戦前の日本人は、いまの満員電車でベビーカーを押して入ってくる若い母親を睨めつけるサラリーマンたちに、そのまま受け継がれているだろう。
ネット上の集団で連携した中傷行為も、新派芝居を見れば、いくらでも出てくる日本特有のサディズムのいまの時代の姿を借りた表現で、そういうサディズムにひたっているかぎりは、日本社会では卑劣な行為でないことになっているのも、つまりは「美しい国」の伝統の一部で、これからも変わりがあることはないようにおもえる。

昨日のツイッタをみると、このふたりがオダキンにからんでいるが、名前とアイコンをみると、ふたりとも、もう長い間、ぼくとぼくのフォロワーに嫌がらせにつきまとっている常連トロルである。
オダキンは、こういう人々を頭から軽蔑しているので、取り合わないが、まともな人間だと錯覚して受け答えして、イヤな気分で一日を過ごさなければならなくなった友達がいたのをおぼえている。
こういう人は、どんどん別アカウントをつくっているので、いまボランティアの人たちが進めていることが進展して、実際には誰と誰がどんなアカウントを使って何をしているのかわかるまでは、相手にするだけムダだとおもう。

もう8年くらいになるのではないだろうか、日本語を通して日本社会とつきあってきた感想は、日本が自由社会になるというようなことは未来永劫起こらないのではないかということで、どちらかというと、日本の社会の民主制とは異なって、国をひとつに保つという大義名分で強固な全体主義体制を敷いている中国のほうが自由主義になる可能性は強いと感じる。

村上という日本からニュージーランドに移住した人が、子供が日本の捕鯨をタネにいじめられてクラスのなかで孤立無援に陥ってイジメにあったとき、
「おれは、犬も食うぞ、文句があるか」と言って自分の息子を助けてくれたのは、中国人の同級生だったと述べていた。
他にもおなじような証言は、あちこちの国に、たくさんあって、どこの国でも日本人の子供がいじめられても日本人の同級生は後難をおそれて傍観するだけで、「助けようとおもったんだけど、勇気がでなくてごめんね」と事後に述べにくるだけで、矢面に立って、日本人を庇うのは中国人の同級生だと話は共通している。

嫌韓運動が典型だが、この「ものごとが一向によくならない」感じは、要するに日本人が卑怯者の集まりだからだよ、と中国系人たちは解説するが、それは西洋や中国文化の観点に立ってみるからで、他の文明圏の人間が見たら腰を抜かしそうな非人間性が大手をふって歩いているのは、もともとの日本語と日本文化に内包されている性質なのだと考える。

そうでなければ、南京虐殺を認めない、だから制裁として世界遺産に認めたユネスコに渡していた「お給金」を止める、慰安婦はビジネスでやってたんでしょう?厚かましい、難民は仕事もせずにカネがもらえてうらやましい、というような日本人の、いま話題になっている「態度表明」が生まれてくるわけがない。

嫌韓運動について言うと、「ちゃんとプロテストをしている。みなが嫌韓なわけではなくて一部の人間なのに、そんな言い方はひどい」と、わざわざ英語で英語世界の新聞や雑誌に投稿する。

こういうと、また日本の人は「傷付く」のだろうが、いつもいつも被害者の日本の人が気の毒でなくもないけれども、遠くからみていると、すべての話はおなじ淵源から出ていて、はっきり言ってしまえば、日本の「右派」が南京虐殺はなかった、と言うのも、「左派」が「右派は歴史修正主義者だ」と述べるのも、おなじことで、「相手が気に入らない」と述べているだけのことで、彼らの述べる「証拠」や論法など、なんでもかんでも自在にでっちあげているだけにしかみえない。
まったく信憑性を持っていない。

ボスであるらしいapemanさん、つまり能川元一さんが、5年に渉って中傷を繰り返して、あまりにしつこいので、ではニセガイジンと言い続ける根拠は英語であるらしいから、英語で話しましょうと述べて、数時間にわたって英語で話しかけても、今度は返事ひとつない。
そこまでの罵りの勢いはどこへやらで、黙り込んでしまう。
やれやれ、これで少しは静かになってくれるかとおもうと、今度はほとぼりが覚めた頃になると、そんなことはまったくなかったような顔をして、また、
「ガメ・オベールはニセガイジンだが」と取り巻きの「はてな知識人」たちと言い出す。
上で引用したふたりは、なかでも特にしつこい、しかも陰でぼくのフォロワーのひとたち相手に嫌がらせを繰り返すグループだそうだが、なんというか
、それで「安倍内閣糾弾」とか言われると、安部晋三さんが、チョーまともな人に見えてきてしまう(^^;

内藤朝雄やオダキンに言われるまでもなく、あんまりヘンな人を相手にしていては、返ってナマケモノでよくないだろうが、相手にするには理由がなくもなくて、ぼくにとってはどうでもいいことでも、ここには案外、日本社会の根源的な問題があるのではないかと疑っているのです。

日本のひとたちは、黙っているだけのことで、まさにいま述べた理由によって日本の「左派」は単なる糾弾依存症者として、まったく信用されなくなっているのを、ぼくは知っている。
だから、この問題を追及しようという馬鹿げた考えはなくて、いまから泉鏡花や北村透谷、あるいは側面から映し出す鏡としての岡本綺堂や江戸川乱歩というような作家の作品を通じて、西洋的な定規で日本社会が自由主義でないことを嘆いても、多分、意味がないのではないかということや、日本の「天然全体主義」が、実際には「日本文明」そのものであることを見ていこうとしています。

念の為に言うと、「悪い」と言っているのではない。
鄧小平がCNNの記者に問い返したように「なぜ中国という異なる文明が、きみたちの文明に自分の身体をあわせなければいけないのだ?」という反問は常に有ってよいとおもう。
もっと言えば、たとえば日本の幕末の「攘夷」にだって、もしかしたら、観念的な反発以外の文明的な直観があったのかも知れない。
福沢諭吉たちの、「アジアはやはりダメだ。これからは脱亜入欧だ」のほうが、結局は、いまの事態を引き起こした原因なのかもしれない。

上に挙げたようなトロルたちも、いまボランティアの人達がすすめているように、実名を公開させて、社会的に追い込んでゆく、という努力もネットをクリーンに保つための努力としてはよい始まりだとおもうが、それとは別に、そもそも、なぜ日本語では英語や欧州語では自他ともに最底辺と認める人間たちが暗がりで行うことが、大手をふって通りを歩くように行えるのか、根源的な理由があるのではないか、ということを考えていく意味がありそうな気がする。

腕をのばして、五円玉の穴にトロルの姿がぴったりおさまるところで、比をとってみれば、トロルの文明的な実像がどこから影がおこっているかみえてきそうな気がします。

日本の人は、いまのように動き出すと、そういうことは社会として徹底的にやる性質なのでトロルたちは、いずれ社会的な制裁を受けるのは確実だが、それとは別に、いまのうちに、文明上の淵源をさかのぼってみるほうに興味があります。

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13 Responses to 日本的

  1. 晩秋 says:

    母のことばかり書いていますが、ほかに書きたいことがないのだ。

    私にとって苦手な「日本的」なこととは、言わなくてもよいことを口走ってしまう人たちが多い。年寄りだからという言い訳はない。年齢は関係なかった。

    母が亡くなったあと「でも保険金を貰えたのよね?」や「ペットが死ぬのとどっちがつらい?」などという醜悪なことを言ったのは日本の人だけであった。10代であった私は「どうしてこの人たちは、いっそのこと何も言わないということを選択できないのであろうか」と憎悪に近い感情を持ちました。

    私のお母さんはね、子供の頃、新派の花柳章太郎にお芝居は好きかいと訊ねられて「うち、古くさいお芝居は嫌い。本、読んでるほうがええ」と応えて「学者いうあだ名をつけてもろたんえ」と屈託なく笑っているような人でした。

  2. euca says:

    無知と偏見でもちょっと考えたのですが、無知な幼児でも「That’s not fair!」 (なぜか英語) という生まれつき?の感覚があって、偏見は他人から得た知識だと自分の経験からは思う。
    キャッチボールか何かで、小さい子の方を応援してて、「判官贔屓だね」と言われたのを覚えている。「ハンガンビイキ?」聞き慣れない音だったからか。ドッジボールで男の子が私に思いっきりボールをぶつけた時には、年上の男の子が「女の子には優しくぶつけないとダメだよ」と言った。ダウン症の子も一緒に遊んでたし、いじめられてなかったと思う。外国からきた子も外人とも言われず、遊んでた。母の職場の障碍のある人が家に遊びに来て割り算を教えてくれた。最初ちょっと戸惑った気がするけど、すぐ慣れた。
    田舎と都会に住んで、たまたまかもしれないけど田舎の女の人の方が抑圧されていて意地悪する人が少し多い気がした。
    ちょっと大きくなるとサディストや犯罪者がいるんだなってわかったけど。
    ネットも現実であるので、唖然とするような差別やサディズムも現実で、日本語が特に酷いそうで、おまけに全体主義で…って全部書く元気ない。

  3. 匿名ジジイ says:

    私にとって、日本的な事は集団行動、皆で力を合わせて事を成し遂げるのは、楽だけど、集団の中に入ると全ての行動が集団に制約される。組織の人間として、ふさわしくない、そういう考えは組織を乱す、組織の決定だから、個人の意見を認める事はできない、、、など、、天然全体主義とはよく言ったのもだと思う。農耕型村社会の中で生きていると実感する事が多々有る。 あと、組織の中での馴れ合い、前任者の間違いを指摘すると、組織の和が崩れてしまう。前例を踏襲するのが当たり前、こんな社会に民主主義が根付く事は無理なんじゃないかと、思う事が多すぎる。他人の優れた意見は、徹底して無視、伸びそうだったら、足を引っ張る。現状の変更を嫌い、自分たちの立ち位置が変わるのを、いやがる社会。とても、グローバル化は無理だと思う。まあ、自分が死ぬまで、じっと、観察して、出来る事はやって、記録していきたいと思ってる。

  4. hanahahananari says:

    興味深いと思ったのが
    私が鏡花を読んで冗長で意味不明と感じた部分って、ガメさんたちの言う畸形の美の部分だったかもしれないということ。
    読み直してみよう。
    意識して読んだ時、私はその部分を一種の美として感じられるのだろうか?

    もしかして
    ベビーカーや痴漢にあう人から目をそらす行動と同じ流れで読み飛ばしていたのではないか。
    不愉快だから意味が分からないと自動的に分類していたのか。
    だとしたら、弱者を虐げる光景に行き会ったとしても、きっと私はその光景を日常生活の雑音として処理して素通りができるだろうし、いままでもそうだった可能性が高い。
    (自分が田舎で女の子供という立ち位置で育ったことも影響があるのかもしれない)

    あるいは音とリズムに酔って内容がまるっと入らずに素通りしていたのだろうか。
    素通りするために音とリズムに思考を埋没させたのだろうか。

    醜悪なものを美しく見せるのも文化なのだろうけど、
    一見繊細優美な仮名文字とやわらかい言葉の響きがもともと無残の美を内包しているとしたら
    鏡花を読み直すことで私は更に”日本”が嫌いになるのかもしれない。
    そのことすらも日本語で考えているのだけど。

    おもしろいな。
    こういうことを他言語で書ければいいな~と最近はおもうのでした。
    (蛇足)

  5. うどんかつ says:

    おいらは日本人は小さい頃から学校教育や部活動を通して卑怯者になる訓練を受けているんだと思う。先生は理屈で生徒を納得させるんじゃなくて、自分の方が立場が上だから四の五の言わずに言うことを聞けと言う。部活ではたった1学年上の人間が大威張りして、たった1学年下の人間は媚びへつらわなければいけない。外国ではどうなんだかは知らないけど、日本的な「自分より立場が上の人間には媚びへつらい、立場が下の人間には威張り散らす」傾向は教育で作られてると思うな。

    おいらは中学生の時に野球部に入ってたんだけど、ある時試合でボロクソに負けたんだよね。監督をしていたのは事あるごとに怒鳴るタイプの教師だったから、あ〜〜こりゃ怒鳴られるぞ〜と身構えてたら全然怒鳴らない。それどころかニコニコして「今日は残念だったな、また頑張りましょう」なんて言ってる。なんだこいつあんまりボロクソに負けたんで頭おかしくなったのか?と思ったけど後で理由が分かった。その時は保護者たちがいたから怒鳴らなかったわけです。保護者達が帰って、生徒と教師だけになった途端に猛然と怒鳴りだした。保護者(自分より立場が上の人間)の前では媚びへつらい、生徒(自分より立場が下の人間)の前では威張り散らすわけですな。

    その時、中学生の時はその教師の振る舞いになんとも思わなかった。そういうもんなのかと思っていた。大人になって思い返してみてやっと、あぁあいつはクズ野郎だったんだなと理解することができた。でも、おいらはその教師の振る舞いを卑怯だと思うが、日本社会の価値観ではそれは普通のことなのかもしれない。

    • 星野 泰弘 says:

      科学の進歩した国なのだから、何でも録音して証拠に残せば良い、と思うが、
      教育現場でも医療現場でも司法でも警察でも反対する。
      現金の賄賂は少なくなっても、
      いろいろな非中立的な運用裁量のやり取りの賄賂が欲しくてたまらない。
      日本とは、そういう国だ。

  6. Chung Yong Suk says:

    私は、韓国人で厳密に言うと北朝鮮人でもいいんですが、将来の日本の若者に悲観的ではありませんよ。別れた奥さんが日本人で子供たちは日本人として生きていきますが、この子と仲間は昔の人達に比べ賢いように感じています。彼らには彼らなりの苦難は当然ありますがその前の世代よりも、スマートに世の中を渡って行くと思ってます。だから我々少し上の世代がやるべき事は、私達が幼い時よりも良い時代を次の世代に残すことじゃないかと思ったりします。理想論かも知れませんが、それをやめれば私が私でなくなります。

  7. 残酷さに慣れる訓練 says:

    日本に生まれ、この歳まで日本で生きてきてつらつらと思うことですが、大多数の日本人は自身の悪意さえも「これは私が生み出した悪意である/この悪意は誰のものでもない私自身のものである」と自らに帰せしめることがないんですね。己の意思すら己で背負いことをしないんです。「責」を負うことをのらりくらりと避ける。
    己の情動すら「みんな」に還元してしまう。
    「みんな」が正しく、そこから遊離したものは遊離しているが故に排撃される。苛められる子供は「(みんなに)苛められるのだから何かしら苛められる根拠がその者自身にあるのだろう」と、排撃される状況自体を排撃の理由にされる。こういう認識の顛倒がごく当たり前に出来上がってしまいます。

    いわゆる「公正世界信念」と「世間に瀰漫する主体性のないその時々の気分」が常に化学反応を起こし、ガスのように個人を包み込んで視界を遮っているように見えますよ。日本の社会は。
    私は先祖代々日本国籍の日本人ではありますが、このガスのように取り巻いて振り払うことの出来ないものによって少しずつ力を吸い取られている感覚があります。抵抗しようとしても掴めないんですね。ガスだから。手ごたえが、無いのです。

    • 星野 泰弘 says:

      近隣住民の苦情→自治会代表の要請→警察の出動、となると、
      面子にかけても、警察官は手ぶらで帰れない。
      何とか、違法性を絞りだそうとする。
      そういった用のために公務執行妨害罪とか威力業務妨害罪とかいろいろある。
      昭和の時代から、
      意見が対立して収拾がつかなくなると、
      いきなり、「はい、賛成の人、手を挙げて。賛成多数で決まり」とか、
      「まとまらないので長が決めます。はい、終わり」とか、
      「賛成意見と反対意見の中間を取ります」とする。
      日本人に論理など無意味だ。

  8. 星野 泰弘 says:

    著作権を主張できる金儲けに絡んだ情報に価値ある情報が駆逐されつつある。
    日本語のネットでは地図画像すらも手に入りにくくなりつある。
    江戸時代などから生き延びた権力を風刺した逸話などの古典の名作や故事成句も消滅しつつある。
    今の日本語は、獣の吠え声のような用に進化しつつある。
    「共感するから仲間に入れてくれ」「みんな集まれ」「みんなで攻撃しよう」の三つくらいに
    日本語の語彙も収束してゆくのではないか?

    • 星野 泰弘 says:

      「新作」を出し続けなければ、知的財産権を主張できないから、
      日本の情報は横並びの新作だらけだ。
      大した進歩もないのに、ライバルメーカーの新作にシェアを奪われまいと、
      横並びに、消費者を攪乱する「新作」を横並びに発表し続ける。
      「マネシタ電器」からの伝統だ。

  9. ゆーり†(Juliusy_0720) says:

    中学卒業のころに父親が家族全員日本人にしようとして帰化申請をしたことがあったのですが、その手続きの過程で、へんな表現ですけれども日本人以上に日本人になることを強要される内容だったようで、結局諦めてしまい帰化しなかった、という経験があります。
    とても不自由になるような気がしたそうです。今はそれでよかったなと思います。まあ、空気が読めず、回りと合わせることが苦手で自分の意見を言うとよくいじめられましたけど。思ったことを言うとよくいじめられたのでなぜだったのかその時はほんとうに理由がわからなかったのですが、どうやら唖然とするほど簡単な理由で、つまり日本人じゃないからってただそれだけでした。なんだか外国人が自分の考えを日本で表明するためには特別に許された権利が必要なようです。 それが何なのかは今でもわかりません。最近てでは日本人同士でもそういうそういう不毛な認定ゲーム やっていますから。なので日本人であることは非常に不自由なことだと思うようになりました。

    • ゆーり†(Juliusy_0720) says:

      あ、色々間違えてpostしてる。
      最近てでは➡最近では
      そういうそういう不毛な➡そういう不毛な
      こういう間違いを平気でしてしまう。
      そうするとやっぱりガメさんすごい日本語使いだな、と改めて驚嘆する。
      日本語でブログ書いて、「間違ってたら直すだよ~」とかさ、日本語が好きで日本の良いところも悪いところも述べてくれる稀有で
      愛すべき人であるのに、何故にそんなに誹謗中傷されるのか全くわからないですよ。
      なにか特別な権利が必要ですか?

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