ミショへの手紙_1

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人間の目は猛禽の目であるのをきみは知っていますか?

というところから話を始めるのはどうだろうか。
視界を犠牲にして、防護を犠牲にして、相手との距離を測る測距儀の役割を人間の目は担っている。
多分、枝から枝に飛び渡るための、この人間の目の機能は、しかし人間を途方もなく攻撃的にした。

その攻撃性は、地上の生物のなかでは桁外れのもので、石を研いで、集団でおおきな獲物を囲い込んで追い落として、十分に食糧を得られるようになると遊び半分に狩りを行うようにさえなった。

ホモサピエンスはネアンデルタール人たちを嬲り殺しにするのをヒマツブシにしていたと述べている若い男の研究者がいるんだよ。
論文自体は上長のアドバイスで日の目を見なかったが、英語フォーラムで公開されて、ぼくは、どちらかといえば、ネアンデルタール人が滅びた原因へのヒントより、この研究者の人間の残酷性への憧憬に気をひかれて一気に読んでしまった。

残虐性は人間の目を美しくした。
いつかモニが小さい人をつれてホールウェイに立っていて、物音に気がついてぼくのほうを振り返ったことがあった。
母子で、引き継がれた「燃えるような緑色の目」が、こっちを見ていたのさ。
暗い場所で、そこだけスポットライトがあたったような輝く目。

ぼくは、やあ、とかなんとか、とても他人行儀な挨拶をして笑われながら、人間の欲望は人間を美しくするのではないか、と脈絡のないことを考えていた。
最も強く欲望するものだけが、最も美しい場所にたどりつくのではないか。

人間の目は怖い。
この脳に直截つながった「露出した脳」は、人間についてのすべてを教えている。
のみならず、人間の本質をも教えてくれている。

「おまえは敵だ、わたしはおまえを殺したい」

人間の文明の歴史は、この人間の本質との格闘につきていると思える。

SEALDsを支持しないという言明に至った経過を言語化しろ、というきみの仰せだが、いろいろな意味で難しい注文です。
だから何回かに分けて、長々と話すことになるのを許して欲しい。

直截の原因は簡単で、例えばぼくは「物理学」という集合のおおきさなら、子供のときから(物理学者である)大叔父を透してみる癖がついている。

この人は、きみが直截に見知っている人間でいえば、オダキンにとてもとても似ている人です。
もしかすると、アホなトナカイの、かぶり物をかぶって、「ミショだよおおーん」をしていた岩本祥にも似ているのかも知れない。
いや、きみは「鈍感さん」揃いの物理研究者にしては19世紀数学者的に詩的なところがあるからオダキンや大叔父とは違うか。

わが友オダキンは「聞き上手」で、「俺はアホだから」という余計な謙遜がうるさいが、それを取り払ってしまえば、知性の人です。
そうして、彼の知性の最もすぐれた点は、考えの全体が「物理学的思考」に戻ってくることであるのが見ていてわかる。

戦車兵が小さな窓から戦場を凝視するように、あるいは艦隊の司令長官が「海」全体を戦場という観点からしか見ていないように、オダキンは本人が意識しない場所で物理学的思考、あるいは、もっと基礎的な(コントロールや対偶というようなレベルでの)科学の基本に帰ってくる。

めんどくさいから端折ると、どんな人間にも、世界を眺める展望台が与えられていて、その展望台をどこのどんな場所にしつらえるかは、ひとりひとりの人間にまかせられている。

ナマケモノで知力が低い人間は、感情のまっただなかに展望台をつくって、日の丸をわざわざ望遠鏡のなかで拡大して「なんて美しい旗だろう」と呟いている。

知力の高いきみのような人間は、ある日、ふと宇宙全体の構造がほかでもない自分自身に似ているような気がしてきて、いてもたってもいられなくなる。
この望遠鏡じゃなにも見えないじゃないか!
と苛立ちはじめる。

そうして、SEALDsの若いひとびとは「政治」を透して、ものごとを見始めてしまったのだと思います。
政治の論理、と言ってもよい。

ぼくのSEALDsというグループを見つめるための望遠鏡は三浪亭という、一個の人間として世界を眺めていられる人間で、こういう言い方がきみには最も判りやすいとおもうが、長かったデモの一日のあとで、ふと空をみあげて、なんて美しい青空なんだろう、と考えて、長かった一日の政治性に満ちた出来事をみんな忘却できる人間だった。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/15/letter5/

SEALDsに対しては、ことの初めから日本にいる友達から、「ガメ、あれは操り人形だから信じてはダメだよ」
参謀がいるのさ。
どうして辺野古のひとびとはbrutalに殴られ、酷い目にあうのにSEALDsは、ただ囲まれているだけなのか考えてみるべきである、と主にトーダイおじさんたちから忠告を受けていた。

でも、仮にも運動である以上、そのくらいはどうでもいいやん、というのがぼくの返事だった。
街宣車が日本共産党のものだったって言うけど、使えるものは、なんでも使うさ、と考えた。
そう、うるさく言っていては何も出来やしない。

だから、そういうことではない。

奥田という人が国会に呼ばれて、なぜ選ばれたのかと三浪亭に訊ねたら「公募でした」という答えで、それはぼくが初めに抱いていたSEALDsのイメージを説明して裏付ける答えだった。
ぼくはそのときには、もう誰が何をしているのか判っていたと思います。
奇妙なこだわりで、事態を調べ上げなかったのは、日本に対する無関心であるよりも、最も若い友達の三浪亭と、まだ話していたかったからでしょう。

野間という人がいて、良くも悪くも、どこにでもいる政治好きおっちゃんです。
あんまり、いろいろなことをこの手の人に言う気はしない。
同じイギリスにいれば、イッパツぶん殴るくらいはするかもしれないが、でも本人を見ると、ぼくがマジメにぶん殴ると、その場で死んでしまいそうな貧弱な体格の人です。
「すごむ」ことが思想であるような、そういうひとり。

三浪亭が、この人のツイートをリツイートしていたので、「もう、そこまでは勘弁してくれ」というのが正直な気持ちなのかも知れない。
そこまで、自分の友達を底なしの沼にひきこまないでくれ、ということではないだろうか。

政治がいかに人間性を破壊するかということを考えて暗澹とした気持ちになっただけだと思う。

ロンドンでも、ウエリントンでも、デモにはホイホイでかけて、ニュージーランドの警察はそういうことはないが、ロンドンの警察はあの通り下品な警察なので、「おい、おまえ、おれの身体にちょっとでも手をかけたら、ぶち殺すぞ」というチョーお下品なことを警官に述べたりもするが、もともとは、ぼくは政治などは嫌いで、「政治」「経済」と聞くと、なんだか使命感に燃えてしまって、思想の木靴を履いて、床の上をドタドタと駆け回り始める人間を心から軽蔑している。

だから傀儡師たちなのか、本人たちの意志なのかどうか知らないが、
「とりま、通りに出て声をあげた」集団だった、SEALDsが、いまでは惨めで、凡庸な政治集団に変容したことを、「やっぱりそうなるのか」という気持ちと「残念な」という気持ちとの半々で見ている、ということではないだろうか。

もうすぐモニさんがニュージーランドのパスポートをとる資格が出来るので、そうしたら、またなつかしいノーマッド暮らしに戻って、きみにも会えるかもよ。
そのときは日本語ブログをたたむときだが、もう、いいだろう、という気持ちが、ぼくにはあります。
ほら、聖書も述べている

時、満ちて

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7 Responses to ミショへの手紙_1

  1. 残酷さに慣れる訓練 says:

    獰猛さというものは、獰猛さの主体である者からはダイレクトに視えないので(猛禽は己を獰猛であると自覚しない。それは自意識を持たないということとは異なる)、己が獰猛であると感覚するには、己と同じ/近縁な者を視ることを通して他者に内在するものを自らも持っていると感得するしかないのだと思います。
    己を外から観る、或いは己自身の裡をのぞき込むということは、文面として書くことは出来ても実行することはとてもとても難しい。
    なので、例えば私がガメさん(と呼んでよろしいですか?)の文章を読むのは、ガメさんという他者を通して自分の裡にあるもの(と同種のもの)を見出しているということになります。

    >人間の目は怖い。
    >「おまえは敵だ、わたしはおまえを殺したい」
    >人間の文明の歴史は、この人間の本質との格闘につきていると思える。

    私も同種の考えを今日まで持ち続けています。東西の様々な護符などを見るだけでも、眼あるいは視線に対し、人間が古より攻撃し捕食する力の宿りを感じていたことが読み取れます。ただし、それは視られることへの恐れから導き出されたものであり、視る側の者として自らが持ちうる攻撃性については過少に見積もられてきたのではないかと考えます。
    多くの人間は(しばしば私も含めて)、己の攻撃性や獰猛さに疎い。視えていない。そもそも関心が無い。
    多くの人間は(しばしば私も含めて)、己の目は怖いと自覚することは少ない。

    SEALDsに関して、私はネットや報道を介した通り一遍の情報しか知りません。ですから何も言えません。知人の一人がSEALDsに共感して一緒にデモをしていることを暫く前に知った程度です。
    彼のtwitterアカウントを偶然発見し、彼が対面コミュニケーションではついぞ見せたことのないような激しい党派的・排他的な姿を見せていることに少なからず驚きました。私は彼の穏やかでおとなしい姿しか知らなかったから。彼は仲間とともに行動し、仲間を通して自分の裡にあるものを視ているはず。しかし彼が自ら気に留めないものは、やはり視えないのだと思います。

  2. misho104 says:

    あれはトナカイです。

  3. misho104 says:

    あれはアホなトナカイではなくトナカイです

  4. みどりのひと says:

    こんにちは.

    以前「あれから」に対して適当なHNでコメントを残して去ったことがあるのですが,
    人様のブログに落書き(真面目に書いたけれど)だけを残すのも失礼な気がして,
    e-mailとTwitterアカウントを作ってきました.
    みどりのひと@YN_FEM (旧 通りすがり)です.

    私は,永田町の周りに多くの人が集まっていた時期に,
    居てもたってもいられなくなり一度だけ足を運んだことがあります.
    その時は件のSEALDsは居なかったのですが,
    どちらかといえば高齢の方々が多く集まって,声を上げていたのを覚えています.
    勇んで現場に向かったはいいものの,結局その輪には何処か馴染めずそのまま帰ってきてしまいました.
    今の政権には怒りを覚えるし,決して許せない,のにこの違和感は何だろう?
    駅ですれ違う,集会に向かう人帰る人にはそういうものはあまり感じなかったのに.
    (行ったのは木曜の夜だったので,休日に行っていたらまた感想も違ったかもしれません)
    あの日,そのままとんぼ返りした私は,今までずっとその原因を考えていました.
    ついでに言うと,「今の」SEALDs(という組織)に対してもどこか違和感を感じているところがあります.
    自分の中で陳腐化しただけなのかもとも思いましたが,どうにもしっくりきません.何だろう.
    その答えの一つが,ガメさんの今回のブログの内容なのだと読んでなんとなく分かりました.
    私は「政治」が好きではないようです.
    あのとき私が引き返したのも,行き交う個人たちには違和感を感じなかったのも,
    その場に政治を感じたからなのだと思いました.

    ガメさんの仰る通り,これから向こう半世紀は,日本は大変です.
    これまで積み上げたものが,一瞬にして壊されてしまった.
    無関心が生み出してしまった鬼(社会)によって,賽の河原のように.
    (※生み出したのは我々なのだから「壊して」が正しいのでしょうが,悪しからず.)
    原発事故の対応,人権軽視の姿勢やその他多くの行いによって,
    内側からも,外側からも,生きづらい国になっていくでしょう.
    本当に,見苦しい様を見せてお恥ずかしい.(自戒をこめて)

    この国に残ってこれから社会に出ていく若い人々(24になる私も含め)は,
    これを内側から変えていかなければなりません.
    (出来ることなら逃げてしまいたいけど,何せ鎖が多くて全部断ち切る気になれない)
    といっても,もう今後暫くこの国では市民運動は出来そうにもないので直ぐには無理です.
    まずは,せめて家庭や友人たちの近しい輪の中で,個人が自由に生きられるような環境を作っていきたいと思います.内にも外にも誠実であるような,そんな人に成長できるように.
    幸せになりたい.

  5. seika says:

    日本の若い人々の多くが「平和」や「反戦」という言葉やデモに触れたがらないのは政治に飲み込まれるのを恐れているからです。日本でこれらのことを政治と切り離して扱うのが難しいこと、そして政治のもつ凶暴性を知っているから。
    だからそういう意味でもSEALDsは稀有な存在だった。政治など意識せず正面から立ち向かった。「政治のことを分かっていない」と政治老人どもから非難されていたが、その分かっていないところが俺は好きだった。

    が、彼らを好きでいられたのも短い間で終わりました。
    物理的な距離のせいでSEALDsのデモに参加できませんでしたが、政治につかまるのが怖い自分の中の臆病さは、それをどこかで有り難く思っていました。
    そして傍観者である自分に情けなさと無力さも感じました。結局こうなってしまったのだと。

    ガメさんの喪失感もいかばかりかとお察しします。

    ところでもうご存知でしょうか。日本民主党の幹部、岡田議員がSEALDsと「共闘したい」そうです。公然と選挙に利用できる手駒として見ていると言われてるんですよ、この真新しさも何もない自民のコピペ政党から。もはやSEALDsは巨大な政治に包囲されている。絶望的なスターリングラードの戦いの中にいるようで、見ていられない。

  6. 匿名ジジイ says:

    93で亡くなった父親の介護をしていた時に、私を息子と認識できなくなった彼と目を合わせた事が有った。不思議な事に、背筋が凍るほどの恐怖を感じたのを覚えている。彼の目の中には、本当に何も無かった、悲しみも、怒りも、人としての感情のかけらが一つもなく、ただ、空虚な眼でじっと私を見ていた。60年以上、生きてきて、眼を合わせて本当に背筋がぞっとする経験をしたのは初めてだった。若い時に、荒くれて、命の危険が有るかもしれないと、緊張した事が何度か有ったが、その時の相手の眼の中には殺意が有った。私を殺そうとする意思がはっきりと眼の中に読み取れた。 父親の眼の中には、何も無かった、ただ、漆黒の闇を見つめているようで、ぞっとした・
     3・11のあと、何度も、官邸前に出かけて、同世代、または、それ以上の年齢の人達が集まり、声を上げているのを見たが、その眼は、怒りに燃えていた。又、国会議事堂前にも行ったが、
    底でも、参加している老若男女の眼には、意思が読み取れた。落胆しながらも、僅かな希望にすがって、未来を見つめている願望が有った。
    このまま、進めば、人々の眼の中に希望も諦めも怒りも悲しみも無くなるような気がして、時折ぞっとする。個として、出来る事をしながら、じっと見つめるしかないとは、思うが、せめて、
    若い人の眼が虚無の暗闇になる事だけは、願い下げだと思う。
    この国は本当に、少しずつ、腐り始めているのは、間違いないと思う。

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