Monthly Archives: January 2016

十一階で

わたしは、あの人のそばにいるのが好きだった。 なぜだかは誰にもわからなくても、あの人のいる部屋にいるだけで、なんだか明るい気持になるのです。 みなが、用事をつくっては、あのひとに会いたがった。 ところが、あの人は、誰にも会いたがらないのです。 どこまでも風変わりな、奇妙な人でした。 空虚の都市。 ロンドンもニューヨークも、店の持ち主が丹精を込めて磨き込んだような店は消えて、定規で描いた線描画のような、大味の、MSGが大量にはいった料理とでもいうような、どこにあっても変わり映えがしない店がならびはじめて、わたしは街をでてゆくことにした。 初めはサンフランシスコに行こうとおもっていたが、あそこも同じかもと思い直して、どうせ馴染みのない、遠くの街に行くのなら、誰も思いつかないような、とんでもない遠くの、かけ離れた文明に行ってもいいとおもった。 ええ、だから東京に行ったんです。 仕事をやめようと決めて、あの人の部屋のドアをノックすると、あの人は相変わらず黒猫を膝に抱えて、のんびりひなたぼっこをするようなかっこうでコンピュータのスクリーンを観ている。 そこに映っているのはボンドと株価のクオートとチャートなんですけどね。 トレーダーたちが食い入るようにf言葉を連発しながら観ているのとは異なって、 あの人は、ずいぶんのんびりと、まるで薔薇の花が目の前で咲く瞬間を待っているひとのように、ぼんやりスクリーンを眺めているだけなんです。 ひとことくらい質問をしてくれるといいのに、これもいつものことで、 ああ、と言ったきり、しばらく無言で考えていて、「ビザは?」という。 これからあてをつくるんです、と言うと、 それは、ぼくがなんとかしよう、とこともなげに言ってのける。 あの人と暫くでも付き合って、そういうときに、安請け合いを述べているのだ思う人はいません。 いままで一緒に仕事をしてくれたお礼に、ファーストクラスのチケットと、ビザと、…と言ってから、びっくりするような金額を口にするので、わたしは目を瞠って、もしかすると口も半分くらい開いていたかもしれません。 面白そうな顔で、わたしを眺めると、 「東京は、楽しい町だから、きっと好きになるよ」と言うのです。 わたしは、初めの頃、あの人のことがまるで理解できなかった。 それどころか、なんどやめようとおもったか。 あの人はひとをからかうんです。 それも、ひどいやりかたでからかう。 相手の限界を見極めて、恥ずかしさで死にたくなる限度に近いようなからかいかたをすることもある。 初めは意味がなく見えたり、ただの対人作法上の失策に見えたことが、あとでふり返ると、周到な罠になっていて、では罠で相手を陥れようとしているのかというと、ただの、ちょっとした悪戯..少なくとも、あの人自身にとっては… 人間という種自体の知能テストをしているような、ひとのわるい、それでいて、どこかに暖かいところがある、あの人特有の悪戯にしか過ぎない。 観ていてわかるのは、特に、人格が低劣な人間が嫌いで、そういう人が、あの人に目をつけられてしまうと…「目を付ける」というような言い方を、あの人は嫌うでしょうけど、わたしには、そんなふうにしか見えなかった…目をつけられてしまうと、相手は、もがけばもがくほど、自分の愚かさ、魂の卑しさが露呈されてしまう。 しかも、相手はいちどだって、それに気が付かないのですよ! あの人の意地悪は、そのくらい巧妙なんです。 まるで、生きたネズミを手に入れて、午後いっぱい、それで遊ぼうと決めた猫のように、ごく無邪気に、目をつぶし、爪を食い込ませて、だんだん弱っていくのを楽しむ人のようでした。 相手が邪な人間だと決めたときの、あの人は、それは、到底観ていられないくらい残酷な人でした。 東京は、素晴らしいところだった! 初めのうちは、なにもわからないので、ELのような雑誌を見て、青山や神楽町の、おもしろそうな、「ガイジン」が集まるところへは、どこへでも出かけた。 初めの半年は、頭が喧噪そのもののように浮揚してしまって、ものがちゃんと見えていなくて、溺れそうだった。 でも落ち着いてくると、東京は、とてもいい町なんです。 銀座というおおきな繁華街の、狭い通りの筋のほうに入って、ふと路地をみると、小さな店の、小さな看板が出ていて、これはいったいなんだろう、と考えてはいってみると、「鉛筆の店」だった。 鉛筆の店! 世界じゅうの鉛筆という鉛筆が、小さな小さな店のなかに並んでいて、わたしは鉛筆というものを使う習慣がないので買わなかったけれど、銀座っていい町なんだな、と考えて、すっかり嬉しくなってしまった。 … Continue reading

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夏の午後

チャンスなのである。 なにが「チャンス」かというと、盛夏には、芝生のあいだからにょきにょきとイタリア料理のニョッキのように立ち現れる雑草が伸びる速度が増大するので、ふだんは「ガメさんがやると虎刈りになるからダメです」 「このあいだなんか、酔っ払って芝刈りするから、蛇行した虎刈りになって、あとでたいへんだったじゃないですか」 などと屁理屈を述べてやらせてもらえない、大好きな「芝刈り」を、家人どもの目を盗んでやってしまえる。 あの刈った芝の匂い、太陽の光が降り注ぐなかでかく汗…わしにとっては芝生を刈る午後は陶酔の時間であって、最も似ているものを探すと、______ とでもいうべきで、とても、18歳未満の人も読んでいる、このブログには書けない激しい悦楽であるとおもわれる。 裏庭の表のほう、では表現がヘンだが、庭のいちばんでっかい部分は、イギリスの古式にならって、通りからは、まるで見えひんところにある、わし家では、庭の主要な部分は裏にあるので裏が表です。 ややこしいから、もう説明をやめるが、イギリスの古式、で思い出したので余計なことを書くと、この辺りは昔からイギリス移民が住みつくところだったので、1910年代や20年代に建った家がいくらもあります。 ところが、むかしやってきたオカネモチUK人が建てた、イギリス人らしくまとまりのないデザインの巨大な家のなかには、南面して建っているものがいくつもある。 外の通りからは想像もつかない瀟洒なサンルームが建物の南側にある。 ニュージーランドは南半球にあるので、「サニサイド」は北側であって、南側は北半球で言えば北側になる。 統一感のない家のデザインや増築ばかりしていて、なんだか訳がわからなくなった建物の外観と並んで、イギリス人は2万キロ離れてもイギリス人で、その融通が利かないこと、まことにイギリス人のごとし。 閑話復題。 Ride-on mower という。裏庭の最もおおきな部分は、ぎゅわああああーんと唸る芝刈り機を手で押していると、やってられないので、座席がついたチビトラクタみたいなかっこうの乗り物に乗って、窓から顔を覗かせているモニや小さい人達に手を振りながら、芝生を往復する。 すると、いかなる魔術にやありけん、芝がみるみるうちに平滑されて、雑草はどんどん薙ぎ倒されてなくなってゆく。 いったんブーゲンビリヤの花棚の下か、ガゼボでサングリアを飲んでから、やおら立ち上がって、今度は手押し芝刈り機で散在するちっこい芝地を訪問する。 夏は、芝を刈っても三日もすると、芝生一面にバタカップ(buttercup) https://simple.wikipedia.org/wiki/Buttercup の黄色い花の海が出来てしまうので、可憐な花を容赦なく、血も涙もなく薙ぎ倒して蹂躙する悦びは、刈られた芝の、この世のものともおもえない良い匂いと並んで、夏の午後の、神経がひくひくする悦楽なのです。 ベジガーデンが眺められるところに置いてある小さなテラスの、小さなテーブルの脇の、チークの椅子に腰掛けていると、モニさんが、トレイに載せて冷たい紅茶をもってきてくれる。 コリアンダー、花が咲いちゃったね、 ときどき剪定してたのに。 いつかヨーロッパから帰ってきたらミントとイタリアンパセリがジャングルになっていて、人間の背丈ほどになったパセリをかきわけて現れた近所の猫がライオンのようだった。 あそこにある洗濯干しは、もう使わないが、キングフィッシャー https://en.wikipedia.org/wiki/Kingfisher が辺りを睥睨するに使うので、まだ壊せない。 そういえば、この頃は、ファンテイル https://en.wikipedia.org/wiki/Fantail をみかけない。 まさか猫さんに襲われたのでは。 庭を眺めながらの話は、話しつきるということがなくて、話しているうちに太陽の光が夕暮れのオレンジ色に染まる。 人間はやるせないくらい愚かで滑稽で、単純至極でもあって、今朝はニューヨークの友達から、「株価があがってよかった。死ぬかとおもった」 「これで楽しい週末が過ごせるぜ、いえーい」と書いたemailが到着していて、 ははは、いい年こいて単純なやつ、とおもいながらemailを開いていくと、ロンドンでも、パリでも、シドニーでも、「いえーい!」をしている。 バブルがいつまでも続くわけはない。 これが最後の「いえーい!」な週末なのではないか。 でも、ひとがうまくいって喜んでいるのを見ているのが好きなので、世界じゅうから聞こえる「もうかっちゃったあー、きゃっきゃっ」なひとびとの声を聞いているのは嫌な気がすることではありません。 どのひとにとっても、今日いちにちでも、いいのだとおもう。 今日の、この午後だけでもいいのかもしれない。 … Continue reading

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DAVID BOWIE

「サラ」というスナックは、いまでも(青山の)墓地下にある。 世界なんか滅びてしまえばいいのさ、と考えていた(40年前)17歳の義理叔父は、よく、その店に出かけたのだそうです。 午前2時の「サラ」では、すっかり酔っ払った沢田研二と萩原健一が、客目もかまわず猥談で盛り上がっていて、 「結局、見ていたら朝の5時まで、ずっと猥談していた」と義理叔父が証言している。 ぜんぶ同じ頃に起こったことなんだよ。 「防衛庁」の正門前に有った「ハニービー」では、毎朝明け方近くになると、 アグネスチャンがカウンターのいちばん左の端っこで勉強していて、右側にはマネージャーが座って、ひとびとの好奇をブロックしていた。 午前2時になると、いっせいにやってくるオカマたちが、アグネスチャンの肩を叩いて、「がんばりなさい」と励ましていった。 坂をおりて、そして、赤坂の闇に潜り込んで、見附まで歩いて、一ツ木通りにいくと、そこには「MUGEN」と並んで「ビブロス」があったのだと言うのね。 1973年の夏、そこで義理叔父は、DAVID BOWIEを見たのだという。 「山本寛斎とチークダンスを踊っていたんだよ」 でも、英語記録でも、そんなときにデビッドボウイが日本に来たなんて記録ないよ、とわし。 「でも、そこにいたんだから、それをぼくが見たんだから、仕方がないのさ」 その頃、(もちろん、その頃はふたりとも知らなかったわけだけど)将来、大女優になるガールフレンドとふたりで、すぐに連れ戻された家出のさなかの義理叔父は、行く所がないので、朝が白みはじめた金曜日のビブロスにいた。 ところが、そこではロンドンブーツをはいて、髪をオレンジ色に染めたデビッドボウイがデザイナーの寛斎とチークダンスを踊っていて、 「それは未来への出口みたいに見えたんだ」と義理叔父は述べている。 Look up here, man, I’m in danger I’ve got nothing left to lose I’m so high, it makes my brain whirl Dropped my … Continue reading

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北へ

1 モニさんのcitizenshipを取りに行って来た。 簡単に言えば、モニさんのニュージーランドパスポートを取りに行った。 モニさんは、朝、すごく緊張していたが、面接官はチョーいい人で、まずモニさんをリラックスさせようとして、自分もフランスに行ったことがあること、素晴らしい経験であったこと、自分がフランス人に対して大きな敬意を抱いていることを、しつこいくらい述べていた。 部屋を出るときに、「じゃあ、モニがパスポートをもらえる確率はかなり高いのですね?」というと、そのひとは、 「もし、モニさんがパスポートをとれなかったら、わたしはダイビックリであると思う」と言った。 (われわれは、夜遅くまで語りあったものだった) (いま、このときの世界で、住むのにいちばん良い国はどこだろう) (髪を赤く染めて、ふくらはぎの裏側一面にでっかいタトゥーをいれて、それでも、誰もふり返らない国がいいよね) (ぼくは、ハンバーガーがおいしい国じゃないと嫌だな) (オーストラリア!) w 日本語だと、「内務省」だと思うが、待合室にいると、いろいろな人がいる。 東欧人とロシア人が目立って多い。 もうメッチャクチャ緊張して、ロシアのパスポートを握りしめてる女の人がいたので、リラックスさせようとして、ロシア語で話しかけてみる。 こんなに、待たせられるのは、たまらないよね。 その人は英語で答える。 ええ、ほんとうに! でも、このくらいはなんでもない。 わたしの国においでなさい。 わたしの国の役所の非能率はひどくて、こういうことをするのに、まる一日かかります。 「よりよい生活」を求めて、この狭い事務所スペースにつめかけたひとびと。 自分にも幸福になる権利があるのだ、と信じているひとびと。 もう涙ぐんでいる、わしを見て、笑っているモニ。 ガメはヘンなやつだな。 あなたは、いったいどうやって、この苛酷な世界を生きてきたのか? でもさ。 わしは、いつだって、幸福になろうとして全力をつくす人々が好きである。 人間が自分自身を幸せにしようとする努力は素晴らしいと思わないか? もちろんですよ、 と面接官が答えている。 わたしたちは、ニュージーランドをこの世界の希望にしようとして頑張っている。 こんな小さい国では無理かもしれないけど、ひとりでも多くの人を助けようとしている。 あなたがたのような欧州人カップルには判らないことかもしれないが、この新世界は、自分の国の政府のせいで自分の生活の設計ができないひとびとで溢れている。 ひとりでも多く、そういう人々を(ニュージーランドパスポートを渡すことによって)助けられれば、と考えている。 家に帰って、芝の上にラウンジャーを出して、フランス人たちが届けてくれたワインを飲みながら、ニュージーランドという国の勇敢さについて、モニと話した。 青空に、積雲。 なんという美しい空。 2 (わたしどもの息子が、あなたに御迷惑をおかけして) … Continue reading

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神のいない経済_金融革命篇

”Is God Dead?”という有名なTimeの特集が話題になったのは、1966年のことでした。 https://en.wikipedia.org/wiki/Is_God_Dead%3F だいたいこの頃から、「神を仮定した社会では、いろいろなことをうまく説明できないのではないか?」とひとびとは考えはじめて、たとえば40年経った2006年の連合王国は、クリスチャンの国というよりは無神論者の国であると呼んだほうが良い国になります。 1907年、アメリカ経済が大崩壊の危機に瀕したとき、アメリカ人たちが均しく考えたことは、「なぜアメリカでだけ、これほどひどい経済パニックが起きるのだろう?」ということだった。 見渡してみると、欧州各国には「中央銀行」というものがあって、通貨量や公定利息を調節するというような手段を通じて一国の経済を守っている。 連邦銀行の起源で、ここで注意しなくてはならないのは、つまり、本来の中央銀行の機能は、連邦銀行(FRB)でさえ「景気をよくする」ことではなくて「経済社会を守護する」ことだったことです。 「ゾンビ篇」で説明したように、「景気がよくなる」ことと、ひとりひとりの国民の生活の経済的質が高くなることは、ふたつの根本的に異なることであって、それをおなじに見せかけるために発明された「トリクルダウン」という詭弁は、歴史のどこを探しても、現実になったことはない。 まともな思考力がある人間は、津波によって原子力発電所がメルトダウンを起こしたからといって、津波に対する防護壁の高さと強度を増して「安全対策」だと称しはしない。 渡しから渡しへフェリーちゅうの舟の、舷から財布を落とした男が、小刀を取りだして舷側に切り込みをいれているので、何をしているのかと訊ねると、「落としたところに印をつけているのだ」と答える有名な笑い話があるが、要するにそういうことで、 経済危機といえば取り付け騒ぎの延々長蛇の列を思い浮かべ、ティッカーを血走った目でみつめる株トレーダーの絶望的な表情だけを脳裏に描いて、それだけが「経済危機」であると思うのは、いかにも間が抜けている。 戦後アメリカにおいて、初めて政治的圧力で経済の「見せかけ」をよくすることを連邦銀行に強要した大統領は、リンドン・ジョンソンだが、英語では「cave in」という、この政治の側からの乱暴を観て観ぬふりをするFRBの怯懦は、やがてアメリカの悪癖になっていきます。 すなわち、景気が悪くなって大企業や銀行の業績が芳しくなくなってくると、通貨の供給量を増やし、利息を下げ、見た目の経済繁栄を演出する。 金融が原始的な段階にとどまっていて、たとえばアメリカでいえばポールボルカーのような、大企業や銀行家たちからの激しい攻撃と国民のあいだの不人気をものともしないFRB議長がひとり出れば、経済が立ち直っていた頃ならば、それでも究極的な崩壊は避けられたが、ちょうど核爆弾の発明とおなじことで、デリバティブという、理系のひとならブラック=ショールズ方程式の導出から逆に、なぜそれが金融に有効なのかを考えるほうが早い金融クレジットの、文字通り桁外れの創出技術、単純なモデルでもクレジットの伝統的な定義の50倍を超える投資を可能にする金融工学技術の発明は、大量破壊兵器的な効果を、経済の戦場にもたらすことになった。 CDO、Collateralized Debt Obligationという。 ホームローンを例にとると、 むかしは、貸し手の銀行が借りての収入や担保を慎重に検討して、はたして相手が、20年、ときには30年に及ぶ返済をつづける能力があるかどうか見極めてローンを審査決定する。 むかしは政府の役人であるとか、大学の教師、医師、大企業の一般職のような「堅い」職業がホームローンを組むのに有利だったのは、このせいです。 デリバティブの時代になってからは、ホームローンを受け付けた市中銀行を素通りして、ホームローンはまっすぐ投資銀行に行く。 ローンを現実に引き受けるのは投資銀行に投資している世界じゅうの無数の投資家たちです。 わが友オダキン(@odakin)が契約書にサインしたホームローンは、実は地球の反対側でデヘデヘしながら小さい人達と芝生を転げ回って遊んでいる冷菜凍死家大庭亀夫が引き受けているのかも知れない。 こういう数学や物理学を動員した金融のダイナミックな仕組みは、理屈としては、極めてうまく出来ていて、人間に巨大な繁栄を約束したはずだった。 なにしろ旧来の経済の仕組みなら200年は軽くかかりそうな繁栄に一足とびに、十年かそこらで達成できるので、ちょうど馬に交通を頼っていたところに内燃機関が登場したような技術革新でした。 真に、革命と呼べる変化だった。 見過ごしていたのは、人間のgreed(≒貪欲)で、この過小に見積もりすぎた要素のせいで、いま世界中の国で目の前にある「富める国の貧困社会」が存在する。 判りにくいかも知れないので、アメリカ経済を例にとって説明する。 1929年の大恐慌のあと、銀行や証券を野放しにしておくと、不道徳というよりは野放図な悪徳をなんともおもわない人間達が経済を破壊してしまうことを学習したアメリカ人たちは、 Glass-Steagall Act https://en.wikipedia.org/wiki/Glass–Steagall_Legislation という規制法案を成立させます。 これがゲームの基本的なルールになる。 1998年、CitigroupとTravelersの合併は、金融世界における独占企業の成立で Glass-Steagall Actに明白に違反していた。 ところがFRBのグリーンスパン議長は、まったく何もしないまま一年間、肩をすくめてやりすごしてしまう。 … Continue reading

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神のいない経済_デリバティブ篇

1 最も簡単な例として保険ということを考える。 きみだって家を買えば火災保険や地震保険をかけようとおもうでしょう? 1970年代ならば、家の所有者であるきみだけが保険をかけることができる。 いまは、どうか。 保険セールスと不動産紹介を兼ねている町の小さな不動産屋で、学生のとき下宿を紹介してもらった昔からよく知っている不動産屋さんで保険の契約書にサインしたきみは、晴れ晴れした気持で達成感に浸っている。 築12年の中古物件だけど、家が持てたなんてサイコーだ。 おれの給料じゃ、たいへんだけど、がんばってローンを返そう。 保険もかけたし、明日から頑張ろう。 ところが、この保険は実はきみの手を離れて保険会社に渡った瞬間から、もっとたくさんのひとの手に渡っている。だいたいチョーおおざっぱに言って、きみが支払う3万円は少なくとも150万円の資金として金融の世界で流通しているはずです。 なぜ、そんなことが可能なのか? まず頭にいれておかなければならないことは、1980年代を境にして、以降の金融は、ちょうど橋を架けるのとおなじ工学事業である、ということです。 この工学は「デリバティブ」という考えに基づいて成り立っている。 興味があるひとは、wikipediaのしょもない記事くらいを手がかりにするくらいでも、いろいろなドアを開けて、十分な数学的能力があれば、という前提で、そんなに苦労しないでデリバティブの土台になっている思想を理解できるでしょう。 科学系のひとは、めんどくさいので、ブラック=ショールズ方程式を導出して、なぜこれが金融に適用できるのか考えたほうが早いかもしれません。 https://en.wikipedia.org/wiki/Black–Scholes_model 冷戦時代には軍事関連に就職するのが最も収入が高かった物理学や数学を専攻した学生/若い研究者たちは、冷戦後は、群れをなして、この新しい工学に向かいます。 その結果、金融家たちが扱えるクレジットの金額は、それ以前とは比較にならない膨大なものとなり、当時の需要を遙かに越える投資運用資金が出来ることになった。 アダムスミスの言う「神の見えざる手」などでは到底処理できないクレジット、つまりはオカネの供給ができあがってしまう。 一方では、キャピタリズムにおいては、昨日の記事でも述べたように、資本家が自分が成功すると信じたものへ資金を投下して、リスクを冒して、うまくいけばオカネが増え、失敗すればゲームから退場することによって全体の健全が保証されている。 アメリカの金融史の歴史で言えば、1907年、まだ連邦銀行(FRB)が存在しないころの金融崩壊に直面して、欧州に倣って、中央銀行を設立してから、1929年の恐慌をきっかけとした規制強化を経て、ボルガーがFRB議長だった頃までは、ゲームのルールが明瞭で、自分が稼ぐためだったら、ひとが見ていなければなんでもやる資本家たちを厳しく掣肘していた。 1998年になると、奇妙な、極めて有名で劃期であることが起こる。 ビルクリントンが大統領のときのことです。 CiticorpとTravelersが合併する。 Citigroupという世界最大の金融会社が誕生する。 Glass=Steagall Act https://en.wikipedia.org/wiki/Glass–Steagall_Legislation を知っている人は多いとおもいますが、この併合は1929年に始まった大恐慌の教訓から生まれた、このGlass=Steagall Actに明白に違反していた。 違法な合併だった。 ところが当時FRB議長になったばかりだったグリーンスパンは、ボルガーも含めたさまざまな財政人からの圧力を、肩をすくめてやりすごして、一年間なにもしないですごす。 たくさんの人が違法な巨大金融会社の誕生を訝っているうちに、翌年、1999年に、 Gramm=Leach=Bliley Actが成立して、既成事実を追いかけて新法案が出来る。 違法な合併が後出しの法律によって合法になる。 いまふり返って考えてみると、この法案をCitigroup救済法案と陰口を利いた、当時の金融人は、21世紀になってマフィアよりもイタリアのマフィアよりも遙かに傍若無人な行動にでる後年の金融人たちに較べれば、ずっと感覚が健康だったのかもしれません。 このときクリントン政権にいて、違法なCitigroup成立を押し通したRobert Rubinは、政府の閣僚を退いたあと、CitigroupのVice ChairmanとしてUS$126 … Continue reading

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神のいない経済社会について_ゾンビ経済篇

ニュージーランドは、繁栄の頂点にある。 社会全体が見る見るうちに豊かになって、ひとびとの身なりはオカネのかかったものになり、高級住宅地の交叉点に立っているとマセラティやフェラーリ、ベントレーが何台も走り抜けてゆく。 マリーナに行けば、おおきなバースの列には数億円という価格のブルーウォーターを航海できる55フィート級のボートが並んでいる。 身体障害のある子供を抱えた若い母親は、大量に市場に流入したUSドルのために15年で価格が270%上昇した家を買えず、高騰した家賃も払えないせいで、空き地にテントを張って自分と子供2人、計3人の家族で暮らしている。 ゴミが一面に散らばった土地の一角で、それでもテレビの取材があるからでしょう、 せいいっぱい身ぎれいにした赤い頬の男の子がはにかんで立っている。 別のインタビューでは、倉庫で在庫管理や出庫の仕事をしている夫の年収は手取りでは18200ドル、日本円になおすと、1ドル80円として、146万円にしかすぎない。 ところで、一家が借りている小さな家の家賃は、どのくらいかというと、この人の場合、年間で16000ドルで、つまり、信じがたいかもしれないが、収入の90%が家賃に消える。 おおげさに驚く必要はなくて、たとえばバルセロナでも、シドニーでも、こういう家計はふつーのことです。 食費は、妻が、ふたりの子供の育児をしながら、苦しい家計の足下を見るような低賃金で、時間給労働をして稼ぐ、日本とおなじでスーパーマーケットのレジ、というような仕事が多い。 もともとひとりあたりの年収は、常に5位以内にあった「豊かな国」ニュージーランドは、50年代の後半から、端的に言うとジーンズが普及してウルが売れなくなったことと、途中で「本国」の連合王国の経済的保護を失って、「あとは自分で勝手にやってくれ」と突き放されたことで、急速に没落して、英語圏のなかでは例外的なビンボ国になってゆく。 にも関わらず1980年代のなかばまでは「ワーキングプア」が存在しない稀な先進国でした。 ビンボはビンボなりに幸福に暮らせる社会だった。 国民の大半を占める「中間層」と極めて高い所得税を社会に対する責任の一端として黙々と支払う富裕層、そして、そのふたつの層から流れ落ちてくるオカネで再起をめざす失業した貧困層、という形の社会だった。 「仲間意識」が異常なくらい強い社会で、連合王国もサッチャーが出てくるまではおなじだったが、お互いを助けあうことそのものに社会の役割が集中していた、と言ってもいいかも知れません。 NZ$の価値は、1983年を起点に考えると30年で3割減になっている。 20ドルで買えたものが、30ドルださないと買えない。 その間、賃金は、頼りなくヘロヘロと上昇しただけです。 ニュージランドの典型的な30代のカップル、大卒で、子供がふたりいて、住んでいるのは一戸建て、というようなカップルは収入が900ドル/週、つまり年収にして47000ドルであるはずで、この収入は、この6,7年はあまり変わっていないはずです。 テレビの番組のなかでは、この7年間几帳面に家計を記録しつづけてきた夫が、エクセルのシートを指さしながら説明している。 2004年には3400ドルだった食費が2012年には8580ドルになっている。 1850ドルだったガソリン代は、おなじ8年間に3420ドルに上昇した。 だいたい、NZ式定義の「中流」の、どのカップルに聞いても、あと週1000ドルあれば、オカネのプレッシャーを感じずに暮らせて、少しは貯蓄もできる幸福な生活が出来る、と感じているようです。 この感覚は物価の上昇にあわせて賃金が上がるのならば「こうでなければならなかった」賃金上昇の、現実には起こらなかったプロジェクションと、ぴったりあっている。 1950年代を通じて、続々とイギリス人たちがニュージーランドに移民していったのは、「ニュージーランドに行けば、マジメにこつこつ働きさえすれば一戸建の家が買えて、子供たちが裏庭で駆け回って遊んでくらし、大学まで行ける暮らしができる」というイギリスでは有り得ない夢が実現できたからでした。 最も近い隣国のオーストラリアまで2500キロという、当時は致命的ともいえる距離に隔てられた孤絶した小国で、しかも産業が牧羊以外にはなかった国で、みながイギリスの中間層以上の生活ができたのは、簡単にオカネの面でいうと税金の66%が国庫に入る社会だったからです。 いまではグローバリズム経済のなかでオカネの流通も国際化しているので実体がまるっきりつかめないが、ビクトリア大学のリサ・マリオットなどは3割程度しか国庫に入っていないのではないか、という。 Struggling classという。 1950年代や60年代ならば「国民の大半」という言葉を使えた中流層のことで、いまは数もぐっと減って、おまけに階層として安定したものとは見做されなくて、この国にはかつては存在せず、いまでは経済全体を支配している超富裕層にとどくことは望めなくても、富裕層をめざして必死にstruggleして、運がよければ富裕になり、でも半分以上は、そこから貧困層におちてゆく過渡的で流動的な「中間層」になってしまっている。 煉獄、と言えばいいのか。 ニュージーランドでは、国民の貧困と富裕への二極分離が起こり始めた原因は、30年前のマルドゥーン首相の頃でした。 「Think Big!」という。 国民が総活躍して、全力をだしきれば、自分達は一流国に返り咲ける。 ニュージランドは再び、豊かな、美しい国をめざすべきである。 もっともマルドゥーンのマヌケさは、いまの日本政府とおなじで政府がすべてをコントロールして国民を「指導」するのが最善だと信じて、一個のコントロールフリーク政府と化して、政府の方針を国民に押しつけていったことで、一瞬は目新しいものへの期待でよくなった経済は、旧式然とした考えがうまくいくわけはなくて、根底から崩壊してしまう。 ニュージーランドは、誰がみても立ち直れないのではないかと思われるほどの貧困に陥っていきます。 デヴィッド・ロンギが政権につく。 多分、ニュージーランドの歴代首相のなかで最も有名なカリスマ的な人気があったひとです。 … Continue reading

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