魍魎(もうりょう)

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ひとが変わってしまったのだ、という。

ある朝、目をさましてみると、夫が顔を覗き込んでいて、
おい、「P」へ行こう、と話しかけている。
P、というのは24時間開いているウクライナ料理を出すカフェで、夫婦の、週末の午後の散歩の途中で寄ってみることがある。
朝食をカフェで、ということですか?と聞いてみると、
そうではない。
おれは酒が飲みたいのだ。
それも強い酒がいい。
ヴォッカが飲みたい。

慌てて起き上がって仕度をしながら、だって、あなたお酒は飲まれないじゃないですか、と言ってみても、返事もせずに、無言で急かすように玄関の脇に立っている。

いざ外に出ると、そういうことは、ついぞ無かったひとなのに、大変な早足で歩いていく。
ついていくのにたいへんで、ときどき駆け足にならないと、ついていくことができなかった。

日本料理屋が並ぶ通りを抜けて、ウクライナ・カフェに着く頃には息が切れて、眩暈がするようだった。

テーブルにつくとペリメニを頼むところまでは同じだが、ほんとうにヴォッカを頼んでいる。
顔見知りのウエイトレスが怪訝な顔をするのも構わず、ヴォッカを頼んで、
持ってこさせると、一気に飲んで、お代わりを頼む。
もう一杯、もうひとつ、どうも頼むのが面倒だな、ダブルというのも出来ますか?

あんまり、たくさん頼むので、しまいにはウエイトレスが笑いだして、ボトルをここに置いておくから、気がすむまで飲んで、支払いは自分で決めてください、と言い出した。

結婚してから、いままで、十二年のあいだに一度もお酒を飲む夫の姿を見たことがないので、呆気にとられてしまう。

結局、ヴォッカを1本まるまる飲んで、そのまま、すっくと立ち上がると、カフェの表に出したテーブルのすぐそばにあるベンチに寝転がって、鼾をかいて寝てしまった。

それから、どうなったの?と聞くと、
1時間くらい寝ていたかと思ったら、なんでもない顔でもどってきて、
洋梨のコンポートが付いたパンケーキを食べて、コーヒーを飲んで、また歩いてアパートに戻ってきて、それだけなのだという。

記憶もしっかりしていて、しつこく問い詰めてみても、ヴォッカは美味かったが、もう十分飲んだから、一度だけでいい、と言うだけで、まったく普段の顔に戻っている。

日本にいるときに、こういうことがあった。

おでんが食べたいとおもって、銀座7丁目の、おおきなカウンターがある、昔からのおでん屋に寄った。
アジアの食べ物には、そういう料理が多い。
おでんも、たいへん嫌な臭いがする料理だが、不思議で、臭いは嫌でも、食べてみるとおいしいのが判っているので、慣れてみると、嫌な臭いがプンとすると、ああまた、あのおいしい味にありつける、と期待している。
席に腰掛けて、菊正の燗ををつけてもらって、病みつきの大根やこんにゃく、卵と頼んで、手のひらをこすりあわせるような気持になる。
日本の「おやじ文化」ほど、わがままで、心がときめくものはない、と心から思い知る。
マンハッタンの若いねーちんたちが、東京の「居酒屋」に行って、「おやじ」がやりたいと述懐するわけである。
おやじの生活は暴君の悦楽に満ちているのではないか。

ひと心地がついてから、ふと気が付くと、カウンタに顔を並べた客たちや、調理する白い上っ張りの人々の様子が変である。
ちらちらと見やる視線の先を見ると、見て直ぐにスコットランドで買ったと判るコートを着た、上品な身なりの銀髪の老人が座っている。

猛烈な勢いで、おでんが山盛りになった皿から食べていて、ガツガツ、というが、なんだか口にかきこんでは呑み込むような、すさまじい勢いで食べている。

耐えかねたように、銀座の商店の主人なのでしょう、いかにも地元の、ロータリークラブにでも入っていそうな風采の眼鏡をかけた男が、
「食べ方ってものは、難しいものだな」と声にだしてつぶやくと、
カウンタのなかの若い「大将」も、驚いたことに、
作るほうも汚い食べ方をされると嫌になっちまいますよ、と答えて、
見ていて、ガツガツと食べる老人が気の毒な感じがした。
思い上がっているのではないか、と日本語で考えて、なるほど「思い上がる」という表現は、こういうときにあるのだな、と得心する。

そういう、常連客と馴れ合いの店の人間との嫌ったらしいやりとりは気にもとめない様子で、見ているあいだだけで5人前も食べていただろうか、あっというまに、すさまじい量のおでんを平らげると、老人は、「おあいそ」と述べて、現金で代金を払って、引き戸を開けて出ていった。
店のなかに、ほっとした空気が流れて、老人の意地汚い食べっぷりが、どれほど店内に緊張をつくっていたかが判って、面白い気がした。

ところが、おでん屋のあとに、女のひとが出てこない、東京には珍しくスコットランドの「地ウイスキー」が置いてあるバーに寄ってみると、先刻のガツガツ老人がバーに座っていて、目があったので目礼すると、きょとんとしている。
さっき、おでん屋で会いました、と日本語で述べているのに、
日本人には珍しい綺麗な発音の英語で、なんのことか判らないが、どちらからいらした方ですか?と言う。
礼儀がきちんとしていて、気持の良い人なのが判ったので、しばらく話して、
だんだん酔っ払って、楽しい時間を過ごした。

とても楽しかったが、先刻の、おでんをガツガツとかきこんでいた老人と目の前の容儀の良い老人とがどうしても一致しない。
不思議な気持がとれないので難渋してしまった。
老人がバーを出るときに、聞くともなしに聞いていると、「おあいそ」とは言わず「お勘定をお願いできますか?」と述べていた。

なんの説明もなく、ただそこに放り出されたような現実、というものが記憶のところどころにあって、庭のラウンジャーに寝転がって、ぼんやり青空を見ているようなときに、そういう記憶にいきあたると、さて、あれは、どういうことだったのだろう、と考える。

しばらく考えてみて、やっぱり説明がつかないので、そっと、また記憶の棚にもどす。
いちど、埃をはらって、性懲りもなく、「説明がつかない現実」を考えているときに、そもそも現実に説明をつけようとするのは人間の言葉の病気のようなものではないか、と考えた。
世界を論理によって整頓して、排列して脳髄の暗がりに並べる人間の性癖は、おもえば意味がなくて、そんなことをしなくてもいいはずの行為であるに違いない。

そういうことに思いあたると、たしかに青空を見る前には現実だった庭も家も、
あるいは小さい人達の歓声でさえ、ふっと消えてなくなって、
気が付いてみると自分は宇宙のまんなかに放り出されて、
途方にくれているような気になるのです。

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One Response to 魍魎(もうりょう)

  1. Yuho says:

    コメントをここに書いてね書いてね、で笑ってしまいました。やっぱりガメさんのブログは最高だなあ。夢追います!

コメントをここに書いてね書いてね

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