夏の午後

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チャンスなのである。

なにが「チャンス」かというと、盛夏には、芝生のあいだからにょきにょきとイタリア料理のニョッキのように立ち現れる雑草が伸びる速度が増大するので、ふだんは「ガメさんがやると虎刈りになるからダメです」
「このあいだなんか、酔っ払って芝刈りするから、蛇行した虎刈りになって、あとでたいへんだったじゃないですか」
などと屁理屈を述べてやらせてもらえない、大好きな「芝刈り」を、家人どもの目を盗んでやってしまえる。

あの刈った芝の匂い、太陽の光が降り注ぐなかでかく汗…わしにとっては芝生を刈る午後は陶酔の時間であって、最も似ているものを探すと、______
とでもいうべきで、とても、18歳未満の人も読んでいる、このブログには書けない激しい悦楽であるとおもわれる。

裏庭の表のほう、では表現がヘンだが、庭のいちばんでっかい部分は、イギリスの古式にならって、通りからは、まるで見えひんところにある、わし家では、庭の主要な部分は裏にあるので裏が表です。
ややこしいから、もう説明をやめるが、イギリスの古式、で思い出したので余計なことを書くと、この辺りは昔からイギリス移民が住みつくところだったので、1910年代や20年代に建った家がいくらもあります。

ところが、むかしやってきたオカネモチUK人が建てた、イギリス人らしくまとまりのないデザインの巨大な家のなかには、南面して建っているものがいくつもある。
外の通りからは想像もつかない瀟洒なサンルームが建物の南側にある。

ニュージーランドは南半球にあるので、「サニサイド」は北側であって、南側は北半球で言えば北側になる。

統一感のない家のデザインや増築ばかりしていて、なんだか訳がわからなくなった建物の外観と並んで、イギリス人は2万キロ離れてもイギリス人で、その融通が利かないこと、まことにイギリス人のごとし。

閑話復題。

Ride-on mower という。裏庭の最もおおきな部分は、ぎゅわああああーんと唸る芝刈り機を手で押していると、やってられないので、座席がついたチビトラクタみたいなかっこうの乗り物に乗って、窓から顔を覗かせているモニや小さい人達に手を振りながら、芝生を往復する。
すると、いかなる魔術にやありけん、芝がみるみるうちに平滑されて、雑草はどんどん薙ぎ倒されてなくなってゆく。

いったんブーゲンビリヤの花棚の下か、ガゼボでサングリアを飲んでから、やおら立ち上がって、今度は手押し芝刈り機で散在するちっこい芝地を訪問する。

夏は、芝を刈っても三日もすると、芝生一面にバタカップ(buttercup)

https://simple.wikipedia.org/wiki/Buttercup

の黄色い花の海が出来てしまうので、可憐な花を容赦なく、血も涙もなく薙ぎ倒して蹂躙する悦びは、刈られた芝の、この世のものともおもえない良い匂いと並んで、夏の午後の、神経がひくひくする悦楽なのです。

ベジガーデンが眺められるところに置いてある小さなテラスの、小さなテーブルの脇の、チークの椅子に腰掛けていると、モニさんが、トレイに載せて冷たい紅茶をもってきてくれる。

コリアンダー、花が咲いちゃったね、
ときどき剪定してたのに。

いつかヨーロッパから帰ってきたらミントとイタリアンパセリがジャングルになっていて、人間の背丈ほどになったパセリをかきわけて現れた近所の猫がライオンのようだった。

あそこにある洗濯干しは、もう使わないが、キングフィッシャー
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingfisher
が辺りを睥睨するに使うので、まだ壊せない。

そういえば、この頃は、ファンテイル
https://en.wikipedia.org/wiki/Fantail
をみかけない。
まさか猫さんに襲われたのでは。

庭を眺めながらの話は、話しつきるということがなくて、話しているうちに太陽の光が夕暮れのオレンジ色に染まる。

人間はやるせないくらい愚かで滑稽で、単純至極でもあって、今朝はニューヨークの友達から、「株価があがってよかった。死ぬかとおもった」
「これで楽しい週末が過ごせるぜ、いえーい」と書いたemailが到着していて、
ははは、いい年こいて単純なやつ、とおもいながらemailを開いていくと、ロンドンでも、パリでも、シドニーでも、「いえーい!」をしている。

バブルがいつまでも続くわけはない。
これが最後の「いえーい!」な週末なのではないか。
でも、ひとがうまくいって喜んでいるのを見ているのが好きなので、世界じゅうから聞こえる「もうかっちゃったあー、きゃっきゃっ」なひとびとの声を聞いているのは嫌な気がすることではありません。

どのひとにとっても、今日いちにちでも、いいのだとおもう。
今日の、この午後だけでもいいのかもしれない。
ほんとうは、須臾の「一瞬」ですら十分なのかも。
ただ幸福でいたいだけのひとりひとりの人間たち、幸福な瞬間があって、健康で、友達との仲違いもなくて、お財布も充足して、子供たちが駆け回る声を聞きながら、メールボクスを開いて年甲斐なく「いえーい」とタイプする友人たちの顔を思い浮かべて、なんだか、ニコニコしてしまう。

モニさんが、飲み終わった紅茶を片付けたトレイを、家の人に渡して、かわりにシャブリの水滴に覆われたグラスを受け取っている。

芝生を刈ったあとの、もうひとつの「良いこと」は、刈り揃えられた芝の上で燦めく太陽の光であるとおもう。
乱反射する緑色の光の海。
まるで神様が発明したクロロフィル銀紙のようです。

「Touch wood!」
どうも他人の心のなかの声が聞こえるらしい、モニさんが言う。
わしも、冗談めかさず、厳粛に、椅子の肘にさわる。

この世界の平和と繁栄が続きますように。

乾杯!

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