垂直な暖かさについて

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なんだか変なところに来てしまった、と考える。
よく知っているつもりの路地を歩いていて、角を曲がったら、見たことがない通りに出てしまった。

この雑踏には、どこか、見慣れない、奇妙なところがある。

心のなかの、生家で、曾祖母が
「おとなになるということは、そういうことなのですよ」と述べているが、あのやさしかったひとは、もうとっくに死んでしまっているはずなので、あの声は、全身が善意のかたまりであった曾祖母の魂とは異なる、善意を装ったなにものかの声なのではないか。

生まれてから初めて声になった日本語は「ありがとう」だった。
まだ子供で、おつかいに行くと、いつも盛大によくしてくれるベーカリーの家族に、なんとか自分の気持ちを伝えたかった。
もちろん英語でも、そのくらいは相手にもわかって、通じるが、それだけではいけないような気がした。
Thank you.

ありがとう
では、違う言葉なのだということを、7歳のぼくは、もう知っていたのだと思います。

自分の日常では使う機会がない言語を習得するということは奇妙なことだ。
普段の日常で接する誰も日本語を理解するひとはいない。
義理叔父と従兄弟は日本語がわかるが、ただそれだけで、ときどきオークランドに表敬訪問にあらわれる義理叔父の友達や、稀には日本にいたときに知り合いになった(主に美術関係の)人と日本語で、部分的な会話を日本語で話す。

あまり機会がない日本の人が相手のときですら、英語で、なぜそうなるのかといえば、日本の友達も、そちらのほうが気楽で、嬉しそうに見えるからです。
ずっと昔は、日本語で話しかけているのに、英語で返答されると、気持が傷付いたが、おとなになるということはそういうことで、それもどうでもよくなってしまった。

日常に使う機会がない言語で考える、ということの豊穣さを知ったからです。

オダキン (@odakin)という人と大喧嘩をしたことがある。
未成年の若い女びとを危険に陥れるような趣味の「二次元絵」を趣味にしていていいと思っているのか、ということを巡る大喧嘩で、
なぜ、ふつうなら「悪趣味じゃん」ですむはずのことで大喧嘩をすることになったかいうと、オダキンは、ここから見ると日本語の良心そのもののような人で、意固地で、そんなに頑固に「男の子の意地」だとか、セクシズムの観点からも根本的に間違っていて、なに言ってんだ、とおもうが、なぜか、どうしても友達として感じられて、理屈には歯がたたない感情の強力さで、多分、自分の大学時代の友達よりも近しい情緒の同盟を感じてしまう。

日本語フォーラムに参加している、女の人達は、あくまでも、正当にも、あんな天然セクシストおやじ、という。
そしてそれはほんとうだが、セクシストであることさえ意匠と感じさせる、本質的な共生の感覚を持つ。
こんなことを言えば自分がフォーラムを追い出されてしまうが。

だから「期待しすぎるのだ」とも言えるが、それとも違って、オダキンに対しては、なぜきみはぼくなのに、ぼくと違う考えを持つのか、と述べているのと同じで、SNSに投稿する毎度の食事から考えて、不健康な炭水化物ばかり食べて、
学問という中毒にひたっている研究者のおっさんに対して、激しく腹をたてていたのだ、という気がする。

(しかし、もともと運命が決まっている友人を嫌いにはなれないのだ!)

あるいは、これも、たまたま研究者だが、ミショという知能がなみはずれて高い頭がぎくしゃくしている友達がいて、もっか、絶交されているところだが、こちらからも一回絶交したことがあるので、ミショのことだから「タイじゃん。文句あっか」と思っているかもしれないが、それはそれで、絶交されていても、まあ、そんなものだろう、と暖かい気持でいられるという、ヘンなことになっている。

それやこれや、考えてみると、物理的に会ったことがない日本語の友達たちが普段の現実の、英語世界の友達たちよりも好きであることを発見して驚く。
日常とは平板なもので、多分、日本語が現実の世界ではまったく使う用途がない言語であることが幸いして、
気が付いてみると、
オダキンやjosicoはんや、すべりひゆやミショや、ナス、千鳥 @charadriinae というような日本語の「仮想世界」で出会った人たちのほうが、普段、skypeやビジネス用のビデオシステムの向こうにいて、年中まくしたてている、古い輩(ともがら)よりも近しい友達と感じている。

とても不思議なことだが、なるほど、友達というものは、そういう仕掛けのものだったのかとおもう。

ぼくの魂は現実の世界から、仮想の世界のほうへ「切実さ」が移行してしまったもののようである (←モニと、小さな人々を除く)

控えめに言っても、ぼくは「変わった人」なのだろうが、それでもいいような気がする。

ゲーマー

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/

の常で、ディテールがそげ落ちてしまった世界で、モニと小さな人々と並んで
「日本語人たち」が、ぼくの世界にはいる。

日本語人たちは、普段のぼくが住んでいる、チョーえらそーな「ガメ世界」とは違うルールで、自由に指弾し、「ガメ、それじゃダメだ」と述べる。

日本の文明からの声で、
なんだ、結局、「絶対に役に立たない言語を習得する」というはずだったのに、
役に立つどころか、魂におよぶムダになっているんじゃん、と、苦い、甘い、
日本語人とぼくにしか判らない気持ちがこみあげて、
裕かな気持にひたります。

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