日本語twitterで学んだこと

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英語人が仮に日本語という壁を透視できる視力を持っていたとすると、そこに見えてくる日本人の姿は「すごくヘンなことを集団で信じているひとびと」だろうと思う。

日本語の習得に有害に思えたのでブログもツイッタも英語をいっさい使わないようにしていたが、ツイッタでは英語を「解禁」にしたのは、もう日本語は大丈夫なのではないか、といううぬぼれと、ツイッタの英語アカウントはずっと前にやめていたので、いまの日本語専用アカウントを使って少しづつ日本語と英語を近づけていけば、インターネットを通して知り合った日本語人の友達たちにも良いことがあるか、と考えたからでした。
長い文章は、二度ほど書いて「日本人が書きやすい英語のお手本」を示そうと思ったが、「教えよう」という態度が災いしたのか、いつものおっさんトロルが大量に発生して「日本人の英語」「下手で見た途端に母語でないとわかる」が始まったので、うんざりしたのと、もともと英語世界でも「文章はオカネくんないと書かない」方針でやってきて無料で書くと、損をしたような、吝嗇な気持が湧いてくるので、この先は判らないが、いまのところ「大庭亀夫名義の英語の文章」は、お目にかからないのではないかと思う。
余計なことを書くと、トロルおっさんたちのなかには、マジメな口調で「英語で長い文章を書かないから判定できないが」と滑稽なことを述べている人がいたが、
どんな言語にも共通な原理を知らない無知をさらけだしているだけのことで、
短い文ほど、(へんな言い方をすると)書く人の「実力」があらわれる。
たとえば外国語ならば、長い文章のほうがぜんぜん楽で、他人の表現を丹念にコピーして書いていくのならともかく、特に日常の話題になると、外国語では、うまくいっても「性格が異常な人」にみえてしまう。
大庭亀夫という人のツイッタなどは、その良い例であると思います。

多分、「大学受験」というもののせいで、どうにも歪んだ性格の、陰険な人が多い日本の社会だが、清明な性格のひともたくさんいて、観察していると、他の社会とおなじで、どこかのんびりしたところがある人が、もともとの日本語社会の根底にある「マジメさ」とのバランスがとれて、よい人格を醸し出すもののようで、この夏の晴れた空のような人格のほうの日本のひとびとは、一般的に述べて、英語人よりも内省と明るい外向性の釣り合いがよくて、このうえのない魅力をもたらしている。
そういう日本語人友達と付き合いをやめる理由はないので、案外ずるずると付き合って、一緒にお互いの一生に起きる変化を共に生きることになるのではなかろうか。

この5年ほどはオークランドの家でのたのたしていることが多かったのは、つまりは産休と育児休暇で、小さい人たちが、これからの気が遠くなるほど長い人生を生きていくためには、財産よりなにより、毎日ぎゅっと抱きしめてもらったり、無条件に、四六時じゅうチヤホヤされる、圧倒的な愛情の記憶が、なによりのセキュリティだったからで、そのあいだは机に向かって正面のディスプレーでベンキョーしながら、右側にあるディスプレーで日本語と、ここにあまり書きたくないもうひとつ自分にとっては外国語の言語で、遊んでいた。

英語と日本語とX語のみっつがみっつのディスプレーにそれぞれ出ているわけで、言語間で思考そのものに癖が出来ていることは一目瞭然で、それが面白かった。

年齢から言って「日本のおっさん」というくくりかたが、いちばんいいと思うが、このグループには特徴があって、
「冗談は、まったく通じない」
「からかわれる、ということに弱い」
「他の人間をのべつまくなしにウソツキ呼ばわりする、とんでもない失礼が習慣になっている」
「性差別は無意識化して、差別していることすら気が付いていない」
「英語能力を人間の能力指標だと思っている」
で、並べてみると、なんのことはない、英語人が日本人に持っている先入観そのもので、いまの英語人たちがもっている「日本人像」は、この年代のおっちゃんたちが築き上げたものだということが判る。
これに「自分の生活がない」という項目を付け加えてもいいが、これは案外インターネットだけのことで、仕事に熱中していなければならないことがモラルの根源らしい日本社会のなかで、現実社会で失敗して、現実の生活で失われた自己評価をインターネットの世界で獲得して、代償的に自分の誇りを保つ、ということなのかも知れません。

年中ウソツキ呼ばわりされて、愉快なわけはないので、日本語でものを考えているときには、不愉快で、瘴気祓いで、スカイプやなにかで居合わせた友達たちと話して日本人おやじトロルたちのバカっぷりを述べて、大笑いするということはある。
もっとも、始めたばかりの英語のツイートで、もう気が付いた人もいるとおもうが、英語人から見ると、まるで三流ハリウッド映画に戯画化されて描かれる「日本人の頭の悪さ」を誇張して演じているようなひとびとなので、深刻に嫌悪されているわけではなくて、オートツイートで(自分では自分が何をやっているか判らないらしいが)トロル行為にひたりこんでいる人などは、いっそスラップスティックな豪快なバカッぷりと受け取られて、ひたすら大庭亀夫の英語をくさしている人のほうも、大庭亀夫のtweetを、わざわざ図解までして自分の英語が受験英語でしかないことを示すに及んで、到頭、「日本の人の不思議な頭の構造の見本」としてフォーラムに本人の背景や履歴とともに永久保存されるに至った。

英語人の根源的なひとの悪さをしらないので、見えない所でなにが起こっているか、起きうるかということへの想像力が働かないのでしょう。

もっとも日本に興味がある英語人たちにとっては、この「おやじトロル」たちは、なぜ日本の社会がここまで落ちぶれたか、なにが原因だったのか、を考えるうえでの良い教材で、日本の人たちにとっても、若い世代にとって、極めてわかりやすい形で、年長世代の世代的な頭の悪さが可視的に理解されて、よかったと思われる。

日本は途方もなく軍隊に似た社会で、その社会の構造が21世紀的な変化についていけなくなったことに日本の衰退の原因はある。
軍隊なみに将校と兵卒に社会が二分されていて、東京大学、京都大学、一橋大学…と続くいくつかの大学出身者が将校の役割をはたして、いくつかの有名私大卒業生が下士官、その他は苛酷な労働に耐えて過労死にまで追いやられる兵卒と明瞭に社会が分かれている。
1945年になっても、まだ日本の海軍将校は香水をつけて、気取りまくった調子でしゃべっていた、とアメリカ兵が呆れた調子で述べているが、いまでも日本社会の、ある種類の将校たちの途方もない傲慢と無責任と頭の悪さはおなじで、なんのことはない、同じ失敗を繰り返しているだけです。

希望はある。
例えばおっさんトロルひとつとっても、それまでは「見たくない」という気持が先に立って目を背けていたひとたちが次次に立ち上がって、「自由でいたい自分達にとって、おまえたちは邪魔だ」と言い始めている。
日本には絶えて見られなかった「社会の自浄作用」が起こり始めていて、天然全体主義が蔓延したままここに至った社会に自由主義が生まれつつある。

あるいは、日本のもうひとつの深刻な問題である性差別にしても、どうやって身につけたのか、「普通の感覚」を保っている人がポツポツと現れはじめて、実際に見て見たければ 「f」というひとの「@francesco3」というアカウントを見に行けばよい。
まるで普通のこと、「わたしを侮辱するな」「わたしは自分のやりたいことをやる」と述べているだけなのに、おやじトロルが群がって「攻撃的な女だ」「普通の女からも嫌われているとおもうよ」と、例の、日本人おっさんにおきまりの、事実を歪曲した、しつこくてねちねちした罵声を浴びまくっているが、なにか気持の切り替えがうまいかなにかで、fという人のほうは、普通にしていられて、こっちもこういう人が現れはじめれば、1911年頃のイギリスやニュージーランドと同じ状況で、「ではわたしも」と考える人が次々と出てくるのだと思う。

ツイッタを通して、日本の徹底的にダメなところや、文化に根ざした、目を瞠るようなよいところを眺めながら、さて、自分が日本語人で、20歳くらいの人間だったらどうするだろうか、とよく考える。

いろいろな雑誌や本に日本について言及されたものを読んだ人も多いだろうが、意見は一致していて「いまの無能な将校たちが去るまで日本の低落は続く」という。
そうすると無能な将校たちが、どのくらい先の将来まで威張っていられるか、という見積もりにもよるが、だいたい日本が立ち直りだすのは、途中でスカッと破滅できれば別だが、そうでなければ、どん底が2025年あたりだとして、早ければ2040年くらい、遅くて2050年くらいになるだろう。
以前には2025年くらいから立ち直り出すチャンスがあった。
やはり、おっさん世代が熱狂的に支持したアベノミクスで経済体力を使い果たした日本は、いまや寝たきり老人じみて、物質面の回復力が底をついてしまっている。
一からやり直しどころか、いまワガママを極めている、おっさんたちが垂れ流す経済上の「下のもの」を拭いながら、背負って、しかも大借金を返していかなければならないという難行で、そんなことがやれるかどうか覚束ないが、やれるとして、いまの頭のわるいおっさんたちが完全に立ち去らなければ日本は社会として再生するきっかけがつかめない、という英語世界の常識に、賛同する。

いま20歳の人たちは、日本が希望を持ち出す頃には、50代になっているわけで、「人身御供世代」というか、「神風特攻隊世代」というか、あとあと「あの世代がいちばん大変だったね」と同情される世代なわけで、どこの社会でもよくあることだとも言えるが、個人の立場からすると、一回しかない一生を、おっさん将校たちのせいで台無しにされて、「おれら、もう作戦の知恵がないから、おまえ、若いもんの純粋さを発揮して、アメちゃんの空母に突っ込んでこいや」と言われているわけで、やりきれないというか、やってられない。

では、どうするか、といえば、もうここまでくれば、いつか書いた
「ラナウェイズ」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/28/runaways/
になるしかなくて、
「個人のための後退戦マニュアル」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/choke_point1/
で書いたような、このまま日本に残る、という選択肢は、特にビンボで社会的なアドバンテージがない人間にとっては、自分に貧困を押しつけることで、人間の一生の、最大でゆいいつの目的である「自分を幸福にすること」というゴールの達成を難しくする。

日本が大好きでも、いったん外に出て、健全な社会の土壌で自分を成長させて、他国でつくりあげた人間性や技能、あるいは資産でもよいが、を持ち帰って、やりたければ、日本の再生に協力するのが自分にとっても、日本という共同体にとっても最もよいと思う。

初期育児と産休が終わって、モニとふたりで、あれもやろう、これはどうだろう、と今年の後半から再開する予定の冒険生活の話をする。
ふたりで、出会ったばかりの頃、散々旅行をしたので、今度は案外英語社会のどこかに居座ったまま「冒険」をするのではないか、という気がする。
外は経済的な嵐が吹き始めていて、陽が陰っているが、モニもおなじことで、
ふたりとも、穏やかな晴れた日も好きだが、嵐も大好きで、また楽しいことがいろいろありそうです。

ぼくは、josicoはんやオダキン、ミナのような特定の親しい友人を念頭に置くとき以外は、主に日本の若い人や女の人に話しかけるつもりで、このブログを書いてきた。

だんだん机の前に座っている時間が少なくなるので、ブログやツイッタにも影響があるだろうけど、いなくなりはしないから、一緒に、話ながら歩いて行こう。

きみとぼくのふたりだが、数えてみると3人いる。
あの先のほうを歩いている茶色のフードをかぶったひとは、いったい誰か

きみは、あのひとの名を、まだ忘れないでいましたか?

では

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