Monthly Archives: March 2016

Happy Birthday

夏の終わりの青い空の下を、でっかくて真っ白な積雲の下を、屋根が開くクルマを走らせている。 (CBDへ、注文したティアラを取りに行くのさ) (チョー、幸せな気分) 明朝(みょうちょう)は、モニの誕生日である。 貘も麒麟も、鯀でさえ鳳凰と一緒に森から出てきて、モニさんの誕生した日を祝う。 ユニコーンとドラゴンが肩を並べて、モニさんが生まれた日を描いた絵本に見入っている。 (この赤ん坊は、きっと世界で最も美しい人になるだろう) (この美しい人の夫になる男に、いまから嫉妬しないわけにはいかない) モニは、どんな人も巻き込んで幸福にする渦巻のような人だ。 どんな人も、選択の余地もなく、強制的に幸福になる。 モニの顔を見たとたんに、瞬間に花がひらく薔薇のような笑顔になるベトナム料理屋のおやじよ。 なんだか切ない声でモニのふくらはぎに顔を押しつけるエジプト猫よ。 ちょー特製の笑顔を向ける、小さな人たちよ。 明日は、モニの誕生日である。 (真っ黒くろすけも総出でお祝いする) (幽霊たちも、障子の向こうから現れてお祝いする) (もののけたちも) あなたと一緒に住みたいけど、あなたは結婚するには、どう考えても若すぎると述べた日のことをおぼえていますか? おとなのふりをして、ぼくはなんてバカだったんだろう。 気取り屋で、皮肉屋で、太陽の光が、ぼくの脳髄を横切ると、どのスペクトルも屈曲してしまう。 まっすぐなものがなにもなくて、リーマン幾何学みたい、なんちて。 身体ごとぶつかってくる、魂ごと、まるごとぶつかってくる、あなたの「真っ直ぐさ」に、ぼくは怯えていたのだと、いまは判る。 モニは、あらゆる障害を文字通り乗り越えて、まるで障害など何もなかったかのように、まっすぐに、ぼくに向かってきた。 ものすごい勇気。 投企。 男などには、到底もちようがない真摯で、あなたは生きてきた。 そうして、モニは、ぼくをすっかり幸福にしてしまった。 頭のてっぺんから爪先まで。 頭のてっぺんから爪先まで! それが、どんなにすごいことか、きみにはわかるかい? モニ (夢を食べてしまうという)貘もヒポポタマスも、お祝いする。 サイも象さんも、祝杯をあげる。 馬さんたちもラクダさんたちも空に向かって祝辞を述べていなないている。 空想上の動物たち、いっせいに現れて、モニのために、お祝いの言葉を述べている。 モニ、わしのなかに渦巻き流れよ。 永遠に流れ落ちる水のように。 渦巻き流れよ。 (小さな人々と一緒に) モニ、誕生日おめでとう。 … Continue reading

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モニに会いにいく

モニに会いにいく。 10年前の「おれ」。 マンハッタンという都会の砂浜の、ちっちゃな一粒。 迷子の粒子。 小さなひと粒が、この世界につぶされてしまわないで生きていくには、たくさんの「支え」が必要だった。 小さな頃の、親の溺愛の記憶。 裏庭の小川を友達たちと行ったりきたりした思い出。 ガメは、いいもわるいもないでしょう? あなたは、そのままでいい。 よりよい人間であろうとすることに、どんな意味があるの? ガメが、世界で最悪の人間でも、でもわたしは、それでも、わたしはあなたを最高に愛している。 ガメこそが人間であると考える。 そのままでいい。 わたしは、あなたのすべてを許すでしょう。 モニに会いにいく。 10年前の「おれ」。 都会という砂浜の、ちっちゃな一粒。 迷子の粒子。 クリスマスプレゼントを腕の中に抱えて、雪が降るマンハッタンで、 ぼくは、そんなふうに考えていたのさ。 ダメでもいい。 もう、身捨てられても、別れて一生を別別に暮らすことになったっていい。 でも、どれほど自分がモニを愛しているかだけは、どうしても伝えたい。 あなたのためなら、死んでもいい、と考えたことを伝達したい。 どうしても、それだけは伝えたい。 死んでもいい。 雪が降って。 雪が降って。 雪が降って。 雪が降って。 個人が幸せになること以上のことが、 モニが幸せになって ふたりで幸せになる以上のことが、この世界に、あるのか。 モニに会いにいく。 10年前の「おれ」。 都会という砂浜の、ちっちゃな一粒。 迷子の粒子。 チェルシーの南の端にある、ぼくの馬鹿アパートを出て、パークアベニューの、クソ通りを歩いて、アップタウンをめざす。 (雪が降って) (降り積もって) … Continue reading

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福島第一事故がもたらしたもの

(自分のなかの)日本語は、まだ健全なままだという気がするが、日本の社会については思い出せることが、とても少なくなってしまった。 去年、欧州の帰り途、数日だけ日本に寄った。 楽しかったが、その「楽しさ」は完全に観光客のもので、日本語の捷径を伝って、日本の人たちの心のなかへ歩みいっていくような、むかし、もっと日本の人たちに心が近かった頃の、あの不思議な感覚は、もう失われていた。 あれだけの時間とエネルギーをつかって理解しようとした見知らぬ文明が、こうもあっさり心に広がる野原のようなところから、根を失って、書き割りのような、比較文化の研究対象のような、生命のない絵画に変わってしまうのは寂しいような気もするが、いっぽうで、「そんなものか」という気もする。 もともと仕事でも学問の対象でもなくて、ただのひまつぶしだったのだから、相応の終わりかたであるのかもしれません。 日本の衰退は、例えば経済においては人口減少が根本原因だが、その人口減少さえ、より根底的な理由の結果にしかすぎなくて、もともと無神論的文明である日本の文明が、アニミズム的な「畏れ」のある精神のありようや、武士道という全体主義的な倫理規範を失って、「真実への畏怖」の気持をもてなくてなってしまったことが文明の衰退の原因ではないかと思うことがよくある。 みなで一緒に見てきた身近な例をあげると、ぼくを攻撃し誹謗中傷することを繰り返すトロルの最も悪質な3人の、現実社会における正体をしらべると、それぞれ、 私大講師、数理科学研の准教授、理研研究者で、 もちろん英語世界にも無数にトロルは存在するが、トロルの正体が「知識層」と分類される人間であることはありえないし、仮にこの3人のように正体が露出してしまえば、社会の側がさまざまな「見えない圧力」をかけて、税金で食べている寄生虫とみなして、職業もキャリアも、間違いなく、そこで終わりになるが、日本では、「裏の顔」でやっていることについて「表の顔」で呼ぶことも失礼だとかの、とんでもない未開社会の理屈で、3人とも、相変わらず、「自分は秀才だが、おまえらみんなバカ」の楽しい人生を過ごしている。 日本社会の根本原因が理解されるのと一緒に、それが死に至る他はない病で、日本のひとびとがどんなにジタバタしても、日本のアイデンティティそのものである「日本文化」が、関節が硬くて、お辞儀の動作しかできない、動的な現代社会に対応できない「天然全体主義」で、それこそが原因なのだと判ると、「なにを言ってもむだ」と考えるほかはない。 真実を指摘されると、判で捺したように、いっせいに相手をウソツキ呼ばわりして、reliabilityを足下から掘り崩して、みなで顔を背ければ大丈夫という日本では通用する手が、慰安婦問題でも、南京虐殺でも、性差別でも、そして福島第一事故処理でも、日本社会の外では、かえって日本全体への不信を起こして、それこそ日本語社会全体のreliabilityの喪失となって現れてきていることは、言うまでもない。 しかし、そんなことを議論して、どうなるというのだろう? この頃、この零細なブログで、日本社会について「ほんとうのこと」を述べるのをやめてしまったのは、無論、ぶざまなくらい頭の悪い上記の3人トロルのようなおっさんたちを揶揄かうのに飽きたことよりも、言ってもムダなことは言う必要がない、という30歳を越えた人間の老化現象で、おなじ日本語でも「ちゃんと言葉が通じる友達たちと遊ぶ」ことにしぼったほうが楽しい、というところに退化したからだと思われる。 零細なブログだが、アクセス数でいうと、年がら年中「閉鎖・引越」を繰り返したあとのいまのブログで250万を越えるくらいはあって、読んでいる人の数は、分析を見たことはないが、多分、アクセス数なりで、「友達たち」が引用するtweetの殆どがブロックしているせいで見えないという、とんでもない使いかたのtwitterのテレビ視聴率みたいな思想であるらしい「フォロワー数」が、とても小さいので、よくトロルたちが嘲笑しにくるが、自分のほうからすると、嘲笑されている「7000」という数字でも多すぎて、相変わらず1000くらいのフォロワー数で、「友達たち」が100人くらい、がいちばん良いのではないかと思っている。 振り返ると、単純に受け狙いで遊んでいた以前の英語ツイッタアカウントは、ここに書くのが気恥ずかしくなるような、ものすごい大数のフォロワー数だったが、後半はうけるのが返って苦痛で、いかにもムダな時間の過ごし方におもえて、ときどきは、チョー面白い人と知り合えたりもして、現実社会でも会って、もったいないと思わなくもなかったが、閉鎖してしまった。 母語でSNSなんて学べることがなくて時間の浪費である、という吝嗇な気持もあったかもしれません。 日本が抱えている最悪で最も根底的な問題は、意外に思うかもしれないが、ぼくから見れば福島第一事故と、その処理で、この問題を(いま社会全体がそうしているように)故意に軽くみつもって知らないふりをして看過していくか、正面から対策して国家の財政が破滅するか、ふたつにひとつしか選択肢はない。 支配層の奥深くで意思の決定を行っている人間たち…それは決して首相や大臣たちではないが…が考えたのは、要するにそういうことで、ゴルバチョフがインタビューで「チェルノブルで私が直面した問題は、国民を犠牲にするか国家が破滅するかという選択で、私は国家の破滅を選択する以外に方法がなかった」と述べていたが、日本支配層はゴルバチョフとは正反対の選択を行(おこな)った。 ところが日本におけるthe best & brightest であるはずの秀才たちが予期しなかったことが起きた。 人間の「真実への畏怖の本能」を甘くみたことで生じた「言語の空洞化」で、マスメディアをはじめ、目立ちたがりの科学者や知識人、はては芸能人まで動員して、戦前からのお家芸の「世論形成」に成功したのはいいが、その次に起きたことは、言語の真実性の全面的な崩壊で、日本語による思考そのものの信頼性が破綻してしまった。 言語全体の詭弁化、と言ったほうが判りやすいかもしれません。 歴史上、初めて、というわけではなくて、古代ギリシャの最後期の日々、あるいは朱熹が起こした学問に支配された東アジア社会というような言語が真実性から乖離することによって社会全体が真実性を失って停滞・崩壊した例は歴史上いくつかある。 日本の近代が、衒学的訓詁的で秀才崇拝という悪い病気をもちながら、比較的健全な世界でありえたのは、現代日本語自体が原典を読むための「注釈言語」で、「外国の考えを珍重する」という社会的習慣をもっていたからで、「知識人」自体が「外国文明の翻訳・紹介者」という性格を色濃くもっていた。 日本の近代文学・近代言語が「イワン・ツルゲーネフの小説を翻訳しうる語彙と文体」をつくることで誕生したのは典型であると思います。 福島事故を正語によって正視することによってしか、日本の倫理規範、ひいては言語能力の再建は出来るはずがない。 アベノミクスが見事なくらい徹底的に基礎を破壊して貯えを干あげてしまい、「他国なみ」に脆弱にしてしまった経済と財政よりも、この日本語の言語としての崩壊のほうが遙かに深刻で、いったいどんな解決の方法があるのか、いっそ英語に言語を変えてしまうのか、あるいはエズラ・パウンドに倣って沈黙の民になるほかないのか、見当もつかないが、まだ日本語をおぼえているあいだは、少しおくれたり、道路からそれて、森のなかに彷徨いこんだりしながら、日本の人の傍らを歩いていければいいと願っています。 昇る太陽の姿が見えないので、どちらに向かって歩いているのか、方角すらわからないけれど。 (画像は大庭亀夫の「遊んでばっかし」の日常がよく判る。ダービーの画像。ワインを3本飲んで、なあーんにも、判らない午後)

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勇者大庭亀夫はかく語りき2

「目がさめる」って、こんなにぼんやりした感覚のものだっけ? (生きているのか、死んでいるのか) (それに、ここは、いったいどこだ?) 毛唐というけどな。 どうして、おれの腕には金色の産毛が生えているのか。 妙に長い腕、長い指、おおきな手のひら… 第一、こいつは、どんだけ長い身体なんだ。 いったい、おれは誰だ? おおお。 思い出したぞ。 こいつ、この鏡に映っている、ふざけた野郎は「ガメ・オベール」とか自称している奴だ。 ニセガイジンなのか。 おれを、バカにしているのか。 どんなバカでも「ガメ・オベール」がGameOverで、もう終わっているおれの人生へのあてつけなのは判る。 終わっている? なに言ってんだ。 あいつら。 「世界」とかいうものを代表しているつもりの、気取り屋のマヌケたち、 あいつら。 あいつらは、おれがもう死んだのだという。 「大庭さんも良い人だったが、精いっぱい生きてみたが、 報われなかった。 でも、それなりに全力をつくした立派な一生だった」 馬鹿野郎! 勝手に、おれを葬るな。 おれは、ここにこうして生きて… あれ? おれの肉体は、いったいどこにいったんだ? 庶務の早苗ちゃんに会いにいかなくてわ。 「年の差なんて、たいしたことじゃないじゃないか」と言いに行かなくてわ。 早苗ちゃんは、おれが寄り添うたびに、なんだか嫌そうな顔をするが、 きっと、おれが好きなので、好きすぎて、防御反応を示すのだろう。 俺はなあ。 こら、お前、聞いてんのか。 頑張ったんだよ! それなのに、ちょっと会社が傾いたら….えっ? 傾いたら、どうしたって? 言いたくねえよ、そんなもん。 いかん。 ついコーフンしてしまった。 なんだっけ? ああ、そうか。 … Continue reading

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