時間という贈り物

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一日を過ごすのと一生を過ごす事に本質的な違いがあるわけではない。
朝起きて、ぼんやりした頭で、プライオリティをつけて、50個なら50個ある「やらなければならないこと」や「やりたいこと」のうち、上から三つくらいならやれるかなあ、と考える。
えっこらせ、と起き上がって、まず一日の重大な準備である朝食にとりかかる。

プライオリティに頭の精細な働きが必要な事柄が含まれていないときは、コーヒーより先にシャンパンを開ける。
オムレツとハムとベーコン、エッグベネディクト、
ときにはパンケーキにしてもらうこともあるし、フレンチトーストを出してもらうこともある。
夕食などは、めんどくさいからとばしてしまうこともあるが、朝食だけは、そういうわけにはいかない。
ガソリンがなければ、クルマはすすまない。

別に学校で勉強しなくてもいいが、勉強しないと、朝食ぬきで一日を過ごしているようなもので、やりにくくてしようがない。

「一日をすごすこと」と「一生をすごすこと」には他にも類似がたくさんあるが、最も本質的なのは「時間がない」ことだろう。

父親は合理を好む人なので、もともと息子が仕事につくことには反対だった。
大学に残るのならともかく、ビジネスのようなことをするのは時間の無駄だという。
不動産を分けてやるから、そこからあがる収入で食べていけばよいではないか、という。
自力で生活するほうが楽しそうだったので断ってしまったが、父親のほうが正しいのか、自分の判断が正しかったのかがわかるまでは、まだ20年くらいかかりそうな気がする。

それでも、ただ収入をうるために一日8時間を労働するというのは、論外だった。
そのくらいなら銀行強盗で反社会的な大金を手にいれたほうがよいのではないかとマジメに考えた。
そして南米に行く。
イーブリンウォーの「大転落」ではないが、そちらのほうが大企業に勤めたりするよりは人間的な一生が送れそうな気がする。
死後に天国か地獄かという選択が現実であったばあいには天国にはいかれないが。

アメリカの人などでもニュージーランドやイギリスの社会に住んでいると、20年くらい住んでようやく、社会の底に流れる底意地の悪さや冷淡さに気付いて、失望して、ぞっとするらしいが、ひとつだけいいことがあって、社会として「他人に余計なことを言わない」社会である。

それはおかしいんじゃないか、と考える事でも、「あなたが言っていることはおかしいとおもう」と相手に述べる習慣がない。
むかし子供のときに、カンタベリーの「牧場の家」があった村に中国系移民の一家が越してきて、首の赤い若い衆が、色めき立って、ドアに鶏の死体を釘付けしたり、逆さの十字架を燃やしたり、という嫌がらせが続いたことがあった。

ある日、羊の生首が投げ込まれていて、たまりかねた中国人一家の主人が近所のスコットランド系人一家に相談に出かけてきたところに、居合わせた。
中国系夫婦が羊の生首が投げ込まれていた、と訴えると、
大男の主人が、「マグパイがくわえて飛んできて落としていったのではないか」と応えたので、内心「イギリスとおなじやんね」と笑ってしまったことがある。

不正直だから嫌いだ、とアメリカから移民してきて故国に帰ってしまう人達がいる。
アメリカ人の観点からは現実を明瞭に述べないニュージーランド人の態度が「許しがたい不誠実」に見えるからです。
ニュージーランド人やイギリス人は、国民性で、「うわべを取り繕うのが最も重要で、取り繕っているうちに、なんとかなるものさ」という気持がある。
実績上は、そうしているうちにものごとがどんどん悪化して、どうにもならなくなることのほうが多いが、国民的信念というものは、そうそう動かせるものではなくて「うわべ第一」で、とうとう21世紀に至ってしまった。

日本は、ざっかけなさを好むというか、フランクなのが売り物の社会で、仲がよくなると「肥ったんじゃない?」と遠慮なく述べて、それが親しみをあらわす表現であったりする。
ネット上でも、おやじトロルたちが典型だが、うるせーなほっとけよ、と言いたくなることを毎日毎日他人に絡みつくようにして述べる人の大群が存在する。

Don’t take it out on me.
と英語なら言うが、現実世界でのおやじトロルたちの姿が明らかになってみると、経歴からみて、若いときには期待されて、自分でも自負していたのに、失敗して、誰にもなにも期待されない立場になって、自分が人生で失敗したことがよほど悔しいらしくて、他人を糾弾することによって、自他の敬意を回復しようとする人がたくさんいる。
相当に頭が悪い人でも、行為の惨めさは理解できるはずだが、自画像の悲惨さには目を瞑る能力というものがあるらしい。
自分でも自分の人生は、トロル行為を頂点として終わりと観念しているらしいが、傍の者にとっては、不愉快であり、迷惑で、日本語社会では、何かを発言することが、そのまま不快な時間を過ごすことになってしまうのは、このおやじトロルの集団のせいである。

トロル行為くらいのことでも、日本語では特に重大な破壊者として、言語、ひいては社会の思考の能力を奪ってしまうものになっているので、みなに周知できる形で論じてきたが、もう飽きたというか、周知されると、実はそれが最も重要なことであるのが全員に実感されて、2,3の悪質な例について、みなで時折思い起こして反撃すれば、つまりはそれだけの存在でしかないことも判ってきた。

不愉快で頭のわるい、気色わるいおやじたちを相手にするのは、楽しい経験ではなかったが、特にムダな時間だったとは思っていない。
「何もしないためなら何でもする」日本社会が、では、実際には、どういう層の、どういう人間達によって形成されたか、眼前に明瞭に見えるようになったのは、やはり日本語世界で知り合った友達たちの努力によっている。
これからも、どうせ、それしか能がないおっさんトロルたちのことだから、棺桶のなかで静かになるまでやるだろうが、侮辱しようとする対象のほうが、個々ばらばらの存在でなくなると、最近は妙に丁寧な言葉に口調を変えたりしていて笑ってしまう冷笑や悪罵を述べる度に、自分のくびにかけた縄を自分の手で少しずつ絞める結果になるのを発見していくだけだろう。
「日本人の普通の人の良識」をバカにした結果で、あんまり同情の余地があるともおもえない。

小さな人達の初期養育専用にあてると決めていた期間が終わったので、モニとぼくには莫大な時間がまた手に入る事になった。
日本語をあまり書かなくなったので「日本人に愛想をつかしたのか?」と心配する手紙をいくつかもらったが、そんなことは全然なくて、単に家で足下で、父親のふくらはぎに噛みついて遊んでいたりする小さな人々とべったり一緒にいなくてもよいことになったので、出かけて遊んでばかりいて、ダービーだのアートフェスティバルだの、週末はウエリントンのバーに飛行機で遊びにいったり、無人島に上陸して、ふたりで夜空を眺めながら、あんないけないことをしたり、こんな人に言えないことをしたりしていて、日本語どころではなくて、よい日本語友達がたくさん出来て、遊びたいが、時間の制約で、ちゃんと遊べないだけです。

前にも述べたことがあるが、黒澤明の「生きる」の終盤、末期ガンの主人公が「自分が生きた証し」として、文字通り命をかけて立案した「どぶを暗渠にして、その上に小さな公園を」という小さな事業計画に、ようやく味方したいと考える同僚達が現れて、階段をのぼって、助役に嘆願しようとする主人公に「公園案を誹謗する一派がいる」と言う。
主人公が「わたしには、もう時間がない。彼らを相手にしている時間は、私にはもうない」という有名なシーンがある。

おやじトロルたちのような、本来は幼稚すぎて笑いのたねにしかならない存在は、それで、どうでもいいにしても、それならば職業はどうなのか、本を読む時間はどうなのか、と考えていくと、人間に与えられた時間はぞっとするほど短い。
60年という「意識が明晰な時間」を手にする人は稀なのではないだろうか。
心理学的な事実として、詩人はだいたい30代までの10年、数学者は40の声を聴くまでの20年、最も時間を大量に手にしているのが画家で、これは80年という。
一般的な明晰知性については、どうだろう、40年くらいのものではないだろうか。

そのなかでプライオリティを割り振って、一日の終わりに、「今日は楽しかった」と思う日を一日ずつふやしていくしか一生の過ごしようはなくて、それが、例外なく「死」という誰にとっても巨大な悲劇で終わることが運命づけられている人間の一生を、なんとか生きるに値するものとして過ごす、ゆいいつの方法なのでもある。

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、というが、その意味は年齢を重ねるにつれて段々深くなって、30歳ともなると、井戸を覗き込んで、底が見えない漆黒ほども深くなった言葉の意味に、すっかり戦くような気持になるのです。

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