普通のひと

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例えば、ネナガラ (@nenagara)というヘンなハンドルネームの人が好きである。インターネット上だけの付き合いだが、何年になるのか、もう忘れるくらい長い付き合いの人です。

どんな人かって?
知り合った頃は輸入中心の貿易会社のサラリーマンで、自分で自分を紹介するのに「退屈なサラリーマン」だと述べていた。
ふつーの人。
ふつーであることがテーマであるかのような人。

ところが、この「ふつーのサラリーマン」の芯の強さに、やがてぼくは舌をまくことになる。
例の、はてなを居住地とした、おやじトロルたちが大挙して押し寄せてきたときに、まるで当たり前のことのようにして、そばに立っていてくれたからです。

あるいは、すべりひゆという人がいる。
もともとは京都人で「小学生のときは太秦の敷地に置かれていた実物大のゴジラの足を横目に見ながら通学していた」という。

ゴジラは東宝の主役なので、ほんとうはガメラの足だったのではないかと思うが、
イタリア人と結婚して、ずっとヴェネトに住んでいるところが、やや普通の日本人と異なっているだけで、ネナガラと同じ、やはり、ふつーの人です。

なにかの科白に感心したのでしょう、つきまとっていたおやじトロルの何人かをRTし、フォローしたりすることがあって、「おい」と述べると、
ははは、という答えが返ってくる。

でもこの人も、いつも側に立っていてくれて、日本語をやめたときには、あるいは、そういうときにだけ、長い長いemailを送ってきてくれる。
諦めないで、続けてほしい。
わたしは、あなたの文章が好きなのだから。

当然だが、ぼくの日本語への信頼は、いちにもににも、ネナガラやすべりひゆたちへの信頼に依っている。
依拠している。
聴き取りにくいが、耳をそばだてれば、明瞭に聞こえる、はっきりとした発音の「静かな声」を、このひとたちは持っている。

そうして、そういう「聴き取りにくい声」を内在させていることは、ほとんど文明が文明であるための定義である。

窒息して、そのままヘドロのような言語社会のなかで息が絶えそうになるとき、
その「聴き取りにくい声」がするほうへ、懸命に泳いで、やっとそこで水面に顔をだして息をつぐ。
サイレーンのように大きな声ではない。
まして政治や社会について演説する、拡声器から聞こえてくるような割れ鐘じみた音であるわけはない。
静かな声。
「でも、それはちがう」と述べている、静かな、きっぱりとした声。

要するに、そうした声を聞くためだけに異なる言語を学習しているので、まして、
英語/欧州語世界で起きることどもを紹介して悦にいっているひとびとなど、(当たり前だが)どーでもよい。
一顧だにするに値しない。

もしかすると、日本人は自分達が西欧化されたアジア人であることに意味をみいだしすぎていて、自分達が自分の足でたった極小文明であることの誇りを忘れているのではないかと思うことがある。
福沢諭吉は自分たちの西洋化へのすすめを韓国人や中国人が頑迷に聞き入れないのに苛立って「脱亜入欧」と述べたが、遠慮をやめて言うと、当の欧州人からみて、これほどバカバカしい主張はない。

文明を模倣できると考えるのは、うわすべりな軽薄な考えにすぎない。
例をとれば、ローマ人の文明はギリシャ人に対する批判のうえに出来上がったので、ギリシャ文明の模倣のうえにローマの文明が出来上がったと考えるのは、いくらなんでも表層的に過ぎる。

ローマの文明を例に挙げたついでに、ローマ人の文明の独自性について述べると、ローマ人の文明の特徴は、その「時間」にある。
3時間かかることには、(たとえ2時間で出来ても)3時間という時間を、なみなみとかける、古代ローマ人の時間感覚は、その感覚のみによって当時の「世界」を征服するほどの発明だった。
あとでイタリアを旅行してまわるようになってから、古代ローマ人とは似ても似つかない。30分でフルコースのランチとワインを平らげるイタリア人たちを観察して、ずっこけてしまったが、もともとはどんなふうだったかは、幸いなことにローマ人たちは、自分達の生活についてたくさんの記録を残しているので、読んで安心することができる。

「煉瓦を積むように」時間をかけることが出来た、偉大な文明の素顔は、時間を縮めてものごとにあたることをしないローマ人の時間感覚に依っている。

そうやってつくられた文明の最大の成果は、いま挙げたネナガラやすべりひゆの「ふつーの人たち」で、逆に、魯迅を読めばわかるが、文明が破壊されると普通の人びとを、その社会は失ってゆく。
小ずるく立ち回って、このあいだから話柄に挙げている日本人のおやじトロルについて言えば、一方ですました顔で反体制・反歴史修正主義とインテリゲンチャふうのことを述べながら、上下に跳ねながら歯をむきだして悪罵のかぎりをつくす猿そのまま、匿名アカウントをつくって、ウソの限りをつくして相手を陥れるようなことを平然とする。
おおきく述べると、それは日本語世界が文明を喪失しつつある徴候であって、「普通さ」が「異様さ」に取って代わられる経過を、いまこのときの日本語人は目撃しているのだと考えられる。

ぼくは日本語を勉強してよかったと思っている。
なぜ「よかった」と考えているのか、自分で自分を観察してみると、意外と簡単なことで、ネナガラやすべりひゆやjosicoはんやナスに会えたからだという結論に行きつく。
「普通の人」と知り合いになれるということは、なんて素晴らしいことだろう、と思う。

しかも言語によって「普通の人」のありようは、とても異なる。
スペインの西部に行くと、窓から顔をだした老婦人に「お暑いですね」と述べると、花が開くような笑顔になって、腕を広げて、「ええ、ほんとうに! なんという暑い夏でしょう!」という。
まるで舞台に立っている女優さんのようです。
スペインに何ヶ月かいると、しかし、それがたとえばガリシアでは、普通のボディアクションなのだと納得されてくる。

あるいはイタリアのウンブリアで、曇って雨が時折降る天候の日に、テラスに立っている老女に「ボンジョルノ」と述べると、この人は挨拶の言葉の原義にもどって、「あんまりボンジョルノでもないわね。まあまあだとおもう」とイタリア人特有の仏頂面をつくって述べている。

そういう細部から外国語学習者は、その言語社会の偉大さをかぎとってゆく。
ありていに述べて、そういうディテールを持ち得ない、あるいは抑圧して、政治や社会や経済の「おおきなこと」ばかり述べたがる言語社会は、野蛮な社会で、学習するに値しない。そういう社会では、ひとりのネナガラやすべりひゆにも巡り会うことが出来なくて、これは言語なのか、それとも、ただの人間の温もりもない記号か、と思い迷うことになる。

酔っ払って、前後も不覚になると、大庭亀夫は日本語世界を訪問して、いえーい!をしに戻ってくる。
なんだかバカぽいが、その行為の背景は、日本語という言語世界への信頼があるのです。
間違っているのかもしれないが、「脱亜入欧」を脱して、日本が我に返る瞬間が訪れるだろうと、まだ信じている。

その瞬間を一緒に訪問しよう、一緒にこの堂々巡りに似た文明の袋小路を議論しよう、と思っている。

「普通のひと」が、まだそこに立っているから。

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2 Responses to 普通のひと

  1. 6yuedeyu says:

    僕の仲間たちはすごい人たちだけれど「普通」を失ってないのね。僕はそんなこと分かっていたはずなのに何者かになろうとして、否、何者でもないと思って沈んでいました。
    「普通」でいることってある意味で難しいんだよね。でも普通でいいやと思えたらもう少し自分に優しくできそうです。

  2. ttaronet says:

    深い。旧世界的な感性ですね。(いい意味で)

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