アート

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わし家では、ときどき宿泊した客の「ぎゃあああー」という 悲鳴が響き渡ることがある。
いけねー、教えておくのを忘れていたと考えるが、まあ、よい思い出にもなることだから、と自己弁護する。
心臓が弱い客は、泊まるのを遠慮してもらったほうがいいだろうか、と考える。

例えば、かーちゃんととーちゃんや妹夫婦がオークランドにやってくるときは、比較的に長期の滞在なので日本の感覚でいうと隣町のパーネルというところにある、以前住んでいた家に泊まってもらうことが多いが、通常の客は、モニとわしがいちゃいちゃしている区画から少し離れた部屋に泊まってもらう。
ニュージーランドの、というよりも英語世界全体のスタンダードに従って独立したバスルーム、バスタブとシャワーがあって、トイレもあります。
のみならず、庭に面したドアを開けると、これも独立した小さなテラスがあって、いきなり庭に出られるようになっている。
スイートになった続き部屋にある冷蔵庫から勝手にワインやシャンパン、あるいは健康的な客ならばミルクやペリエをとってテラスの小さなテーブルで飲むこともできる。
ビンボになったら料金表をつくってペリエ1本2000円というような阿漕な商売をしようと思うが、幸い、まだそういう財政の危機は経験したことがない。

ホテルと異なる点は絵やプリントがやたらいっぱい掛かっている。
美術品は、あんまり何も考えないでどんどん買っていいことにモニもわしも決めてあるので、だんだん増えてきて、なかには飽きるものもあって、飽きたものは客部屋におく、という傾向がなくもない。

絵は明るいものが多いので客にも評判がよい。
「まさかホンモノではないですよね?」という客がいたので、もちろん違いますよ、そんなオカネないもん、と、きっぱりオオウソをついたことがあるが、
実は全部「ホンモノ」です。
むかしは教科書的に有名な、もう死んだ画家の絵を買うことが多かったが、最近は画家の作品を本人から買うことが多いので、疑問の余地なく「ホンモノ」(←なんとなく下品な表現)である。
客室用に描いてもらったものもあって、このあいだは仲の良い絵描きに2mx3mの絵を描いてもらった。
夕暮れの海を表現(←推測)したデザインに近い抽象画で、実は、この友達の絵描きはこの注文を嫌がった。
このひとは力が強い強烈な絵を描く人で、若いときにはアートフェスティバルの主宰者に「絵が強すぎるから遠慮してくれ」というバカなことを言われたこともある。

ワイン半分くらい飲んで、軽いタッチでいくべ、と注文したら、ガメがいうことだからやらなくはないけど、やだなー、家具職人になったみたいだ、とこぼしていた。
ワインを二箱差し入れしたら、文句が止まって、あっという間に描いてくれたが。

素晴らしい絵で、客ベッドで目をさますと、目の前に夜明けの海が広がっているようです。
もともとは魂の力がこもっている、例えばフランシスベーコンが好きだったが、まさか家の壁にあんなものを掛けていくわけにはいかないので自重して、と書いていて、アメリカのコメディアン、スティーブマーティンは家のそこここにフランシスベーコンを掛けているのだ、という話を思い出したが、そういうわけで、明るい絵を心掛けて掛けてある。

絵は良いが、客にとっては困ったことに、ところどころに彫刻が立っている。
ホールを歩いて、ふと目をあげると、そこに2mはあるアンディウォーホルが筋肉マンになったような若い男がぬっと立っている。
「あれは心臓が止まる」と言われているよーです。

あるいはカウチに腰掛けて、へー、ガメって、いいとしこいて、まだこんな本を読んでるんだ、相変わらずアホだな、あいつ、と思いながら手元の本から目をあげて天井をみると空中ブランコ乗りが、いままさに跳躍しようとしているところで、不意をつかれた目撃者は、そのまま絶命しそうになる。

家の主は、温和で成熟したおとななので、決して客の悲鳴を楽しんでいるわけではなくて、夜中に絶叫が遠くから聞こえてくると、下をむいて本を読みながら、「やった」と、静かに、小さな声でつぶやいているだけである。

前には、客用のトイレの真横に、シートの上に座るひとを見つめて、なんだか斑な若い男が立っていたが、これは真剣に怒る客、妹だが、が現れたのでやめた。
今度は、その代わりに「天井の隅から上半身を突き出して、こちらを見ている長い髪の若い女」の彫刻を頼もうかとおもうが、突然目を光らせたりするとアートでなくなってしまう、という守旧的な芸術家友達の意見に阻まれて実現していません。

学生のときに、訪問して、知り合った「若い画家」が、どんどん有名になったりして、インタビューに出ていたりするのを見るのは楽しいもので、なにによらず知っているひとが成功するのが大好きなわしとしては、なんだか幸福な気持になってしまう。

画廊や卸会社の情報を交換したり、アートフェスティバルの前夜祭で思い切りのんだくれたりして、芸術家もゲージツカも一緒になって、みんなで楽しい時間をすごす。

本を読むことや、数学とおなじで、美術も好きになれば病膏肓で、モニの希望もいれて、旅行もコンサートやオペラとギャラリーめぐりを中心に予定をつくればよいのではないか、ということになった。
小さい人達を伴っていく場合には、スミソニアンの航空博物館や、小さなところならば、NYCやボストンの数学博物館にも行かないわけにはいかないので、お上りさんみたいだが、そういう目的地めぐりだけで日程は案外長大なものになってしまう。

むかし、Cueva de El Castillo

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/

に行ったときに、芸術表現への衝動というものが、人間にとってどれほど本質的なものか実感した。
あの頃はクロマニヨン人たちの残した壁画だということになっていたが、そのあとの調査で、ネアンデルタール人のものも混じっていることがわかって、大騒ぎになったが、なおさらで、教科書が述べる狩りを祈った呪術性であるよりもなによりも、たとえば有名な酸化鉄で描いた手のひらやディスクは、ただ純粋な芸術表現への衝動で出来たものに見えた。

わし友の千鳥(@charadriinae)も、千鳥はクルマを運転しないので、あんなド田舎まで遙々バスを乗り継いで行って、心の深いところで感動した、と述べていた(千鳥はモニとわしが気づきさえしなかった山の頂上の「小さな平地」にまで行ったのだ!)とおもうが、わしもあのあと、なんだか人間の世界におけるアートの位置、みたいなものが少しずれてきてしまった。
中心のほうにずれたので、酷い人ならば「趣味みたいなものではないか」という怖ろしいことを述べる人までいる芸術は、実際には、例えば数学や諸科学よりも人間の根源価値の中心に近いところにあるのではないだろうか。

現代人の皮肉な知性は“Vissi d’arte”と、あからさまに述べられてしまうと、据わりが悪いような、もじもじした気持になってしまうが、現実には芸術だけが人間の本質的な価値なのだ、ということは単純な事実なのではないか、とこの頃考える。
実際には、芸術以外の事象のほうが「余計なこと」なのであると考えたほうが、この世界の矛盾をうまく説明できるような気がする。
正しい仮説は、いつも予想外のところでカムフラージュに覆われてみえるが、たいてい、よく考えてみると誰も光をあてたことがない認識の角度が存在するから、誰にも見えないので、現実は現実として、不可視のまま、ごろり、と横たわっているものである。

絵は楽しい。
粘土をこねて、その辺にある草や木、あるいは外れて使い道がない飾りボタンを表面におしつけて文様をつくって陶器や磁器に焼くだけで、面白い。
あるいはTシャツが足りなくなって、赤ゴジラや、「大庭亀夫」と大書したTシャツをシルクスクリーンでつくって遊ぶだけで半日くらいは軽く過ごせてしまう。

人間の知性がつくりだしたロケットは、やっと月に人間を送り込める程度で、フェルマーの大定理の後ろに隠れていた島宇宙の相関さえやっと窺い知るくらいですら青息吐息でも、もしかしたら、人間の魂の愚かさがうみだした一幅の絵のほうは、銀河の外からやってきた知性が息をのむようなものであるのかも知れません。

神も

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