Monthly Archives: May 2016

笑う兵隊

スティーブン・スピルバーグやトム・ハンクスたちが制作した太平洋戦争を舞台にしたセミ・ドキュメンタリ「The Pacific」を観ていると、終盤の沖縄戦で「オキナワ人」と沖縄県人を呼んで、日本人と区別して考えていたのがわかる。 他の本や記録も同様で、沖縄人と日本人をふたつの別別の民族だとして扱っている。 兵士達はブリィーフィングや情報将校が作製した資料によって両者を区別して考えるにいたったのかといえば、そうではなくて、洞窟からアメリカ軍側に走って逃げようとする沖縄人を後ろから機関銃で射殺し、あるいは胴体に爆薬を巻き付けさせて、避難民の群れに混ぜ、沖縄人たちもろともに米兵を爆殺する、あるいは夜闇に乗じて沖縄人の家庭を襲って、妻や娘を強姦し、食糧を強奪して一家皆殺しにして去る、日本軍の明らかに沖縄人に対する、外国人、しかも敵性の外国人としての扱いを観て、自然と「沖縄人と日本人は別」と印象したもののようです。 日本語の記録だけを読むと、まるで沖縄人と日本人が共に圧倒的な軍事力のアメリカ軍と非望の英雄的な戦いを戦ったように書いてあるが、英語側の記録には、沖縄に上陸した途端、老婆に抱きつかれて「助けてください。日本軍が、食糧をすべて持っていってしまった」と慟哭して訴えられる様子や、両親と兄を日本軍に殺されて泣き叫ぶ女の子の姿が頻繁に記されている。 どんなやりかたで日本軍兵士が沖縄人を殺戮したかについては、死体の山の下に隠れて奇蹟的に生き延びた沖縄人の子供たちが戦後何十年も経ってからアメリカのテレビ局のインタビューに応えて残した証言がいくつもある。 殆どの場合、夜に山の洞窟を出て集落へ跫音を忍ばせて降り、分隊規模で数家族を急襲して、まず成人した男を殺す。 食糧を庭にあらいざらい持ってこさせて、掠奪が完了すると、妻や娘を強姦する。 最後は庭に整列させて手榴弾で殺戮する。 息の根が残っている者がいると、銃で射殺してまで念入りに殺してから立ち去ったのは、中国大陸での日本兵とやり口がおなじで、つまりは、どこかに訴えでられて証言されると面倒なことになるからです。 海軍陸戦隊指揮官だった大田実の 「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」 という、たしか海軍次官への電報は 有名だが、帝国陸海軍は、いざ民間人が相手のこととなると軍紀が弛緩して上官に従わない兵士が多いのが特徴的な軍隊だったので、もしかすると本人は配下の兵が何をやっていたのか知らなかったのかも知れないが、いい気なもので、やってることは桁外れに非人間的な行為であるのに、いつのまにか悲壮な美談にすり替えられて、いま日本語ウィキペディアを見たら「十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった」 という戦後のベストセラー戦記作家吉田俊雄の文章からの引用があるが、なにしろ、若い特攻隊員の純心に感動して特攻機に同乗して死んだ慰安婦や、「国のために喜んで死んだ」沖縄県民の話が大好きな日本人趣味そのままで、なんだか読んでいてげんなりしてしまう。 ふつうのアメリカ人から観ると、太平洋戦争はどのように見えているか?ということを示そうとおもって、 「ふたつの太平洋戦争」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/ という記事を書いたら、案の定「筆者は、カミカゼのせいで原爆を落とすことになったのだと主張しているが」とあちこちで書かれて「やっぱり」と笑ってしまったが、 口角泡を飛ばして自分の主張を述べ立てるのに忙しくて、そもそも他人の話を聴く習慣がないのか、わざと曲解してみせているのか判らないが、落ち着いて読めば「筆者の主張」などは最後の 「もういちど、なぜ、あの太平洋戦争がふたつの異なった戦争として歴史に存在するのか、考えてみることにも、少しは意味があるのではないかと思います」 以外はなにもなくて、ただ、種を明かせば、数冊の歴史の本といくつかの著名なドキュメンタリーにネット上でのアメリカ人との議論を土台に、今日、アメリカ人が持っている「太平洋戦争」のイメージに最も近いものの姿を書いてみようとおもってだけのことだった。 日本の「愛国者」が信じたくない事実を書いたときの反応の定番というか、 「他の国だってやってることじゃないか」「日本人は白人の人種差別に対してアジアを開放するために戦っただけだ」ほか6つくらいある常套の詭弁を別にして、 日本語で書かれた太平洋戦争についての記事は日本が加害者であったことをうやむやにして、なあああーんなく被害者のような表情をつくって、必死に抵抗したが勇戦むなしく負けてしまいました、というような話が多くて呆れてしまう。 強姦しようと思ったら相手に股間を蹴られて気絶した犯人が女に襲われた、おれのほうこそ被害者だとマジメな顔をして述べているようなもので、橋下徹や石原慎太郎の広報活動が功を奏して、この「日本話法」はいまでは英語世界にも知れ渡るようになってきている。 戦争は、その当事国の文明の形を尖鋭な形で教えてくれる。 「零戦をあまりに愛しているので、零戦が好きだという人間が全部嫌いなのだ」と述べた宮崎駿は日本の文明のたおやかさへの愛情と、その裏側にある好戦性に代表される日本文明の攻撃性への嫌悪を述べている。 兵器の形ひとつとっても海軍でいえば金剛の改装に典型的に観られるような「一艦完結主義」、あるいは重巡洋艦に特徴的なすさまじいトップヘビーの重武装、運用費や維持費のことは忘れていました、と言わんばかりの、ただパナマ運河を念頭においた机上の観念を鉄で具現化してしまったというほかない、動かすだけで国家財政が傾いてしまいそうな大和と武蔵の建造。 もっと細かいほうに目を移せば1000馬力級の延長上で改造を重ねて2000馬力級エンジンをつくろうとして失敗するところや、そんな兵器をつくったら兵士が弾薬を浪費するという理由で突撃銃の採用を見送ったり、いまの日本社会の種々の問題と同じ影の形を持った日本の病根が判りやすい形をなして顕れている。 アメリカを長い不景気から救いだした真珠湾攻撃に始まった対日戦争は、アメリカ人にとって未だに語り継がれる「The Good War」で、その後のベトナム戦争や湾岸戦争で良心が割れて砕けそうになるたびに、自分たちの歴史にも完全に邪悪な相手を打ち倒すために戦った歴史があるのだ、という戦争を正当化するときの良心の源泉になっている。 一方では、降伏を肯んじない狂気の軍隊を相手にして、女であるとみれば強姦して、中国人、韓国人、オランダ人、あるいは赤十字の看護婦として各所にいたオーストラリア人イギリス人やアメリカ人まで見境無しに集団強姦を繰り返して、そのうえ、捕虜に対して残虐な虐待を繰り返した日本兵への記憶は、戦争の色彩を、欧州戦線とは異なる薄汚いものに変えて、太平洋戦争を題材にとるのは長い間、商業上のタブーで、「思い出したくない戦争」として人々の歴史的な記憶の底で澱んでいる。 「太平洋戦争ものはヒットしない」が英語世界の娯楽産業では常識なのは、そういう事情によっています。 日本の人には安倍政権をみつめる英語人の気持が判りにくいのは、考えてみると、まるで正反対と言ってもいいような第二次世界大戦観を日本語を「絆」にして日本語人が共有しているからで、おなじ戦争だと言っても、観ているものが異なれば、異なる戦争を観ていることにしかならない。 日本にとっては不幸なことに、アメリカが冷戦に気を取られているあいだに、日本では少年雑誌、青年雑誌、単行本、映画をほとんど総動員して、「歴史の常識」を構築してしまったが、その直截の結果が安倍政権の再選とアメリカ政府を失望させて、その結果太平洋戦略を「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」のほうへ加速的にシフトさせた靖国参拝で、眺めているほうは、虚構化された歴史認識が具体的にはどんなふうにひとつの社会の身体に毒としてまわって、どんなふうに殺していくのか、目の当たりにして息をのむことになった。 ときどき、日本語は、こわい言葉だな、と考えることがあります。 日本語を共有しながら人間性を保つことは可能なのだろうか? … Continue reading

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川へ飛び込む

1 新竹へは一度行ったことがある。 子供のときのことで、ぼんやりとしか憶えていないけどね。 両親と、コンピュータ会社の役員をしているドイツ人のおっちゃんと一緒にデスクトップPCのケースを作っている会社を訪問していったのだと思う。 「台湾のシリコンバレーなのです」と誰かが述べたのをおぼえている。 案内してくれた台湾の人の運転が荒っぽくて、怖い思いをした。 もう、そのくらいしか憶えていない。 同じ年だと思うけど、薄暗い、台北の小路に、ほんとうはそんなに暗かったはずはないが、記憶のなかでは暗い店が並んでいて、ちょうど鳥のための止まり木のような形をした台の上に鎖につながれたオランウータンが、どの店にもいるんだよ。 そうして蛇を地面に叩きつけて殺している人たち。 何層にもこびりついた蛇の血で赤いアスファルト。 ずっと後で、なにかの本で、あれは店の繁栄を願って台湾のひとびとが飼うオランウータンなのだ、と書いてあったが、そのときは、ただただ怖くて、オランウータンたちが気の毒で、いっぺんに台湾が嫌いになってしまった。 あとになって何回か台北へでかけたときに、茶店でお茶を御馳走になったり、さまざまなお茶の違いについて説明をうけて、台湾を見直したというか、台北人の典雅に触れて、なるほどこの人達の文明度は高いのだと実感した。 ブラシ、書道の筆の店でもおなじで、奈良の人は「中国の筆は作りが粗くてダメなのだ」と述べていたが、そんな違いは判らないから、端的にいって、ぼくの毛筆の知識は、2時間くらいも説明してくれた、そのときの、英語に堪能な女の店員に教わったことがすべてです。 きみが新竹の研究所へ出張しているのをツイッタで見て、あの台湾の暗い町を思い出してしまった。 招待されて出かけた住宅地への途中の町並も、台湾名物なのだという「エビ釣り」に連れていってもらった町も、記憶のなかでは途方もなく暗くて、日本の町も冷たい白い光のなかで暗くて寒々としているが、それよりもさらに暗くて、台湾というと、その「暗い町並」を思い出す。 2 ladaさん(@spicelada)とccさん(@_cc_bangkok)という夫婦がいて、この人達のツイートは面白い。 初めて見かけたときは、たしかマラッカに住んでいて、そこからランカウイやペナンと移り住んでいた。 しばらくベトナムにも住んでいたりして、見ていると、サイト制作の仕事をしながら、アジアの国のあちこちに会社をつくって、旅行の趣味と仕事を兼ねているものであるらしい。 食べ物の写真がいっぱい載っていて、それがどれもおいしそうで、連続したツイートを眺めていると、いつもマレーシア料理屋にでかけたくなってしまう。 昨日はマレーシア料理のディムサム(点心)という不思議な昼食を夫婦で載せていて、夫婦で載せているのだから、なんとなくお互いに素知らぬふりをしているので遠慮していたが、もう夫婦であることをばらしてしまってもいいのだろうと考えて書いているのだけど、中国料理のディムサムとはまるで食べ物が違っていて、写真を眺めているだけで飽きなかった。 ディムサムの体裁をとっているのだからマレーシア料理ではなくてニョニャだと思うが、それにしてもおいしそうで、第一、オークランドでは見たことがない料理で、たくさんマレーシア料理屋やニョニャのレストランがあると言っても、やっぱりマレーシアに出かけてみないと判らないのだな、と考えた。 他の片言(へんげん)にも面白い所があって、「中国の点心とは異なってチリソースで食べるのだ」と書いていたが、オークランドではどこの中国料理屋も点心はチリオイルと醤油がふたつに仕切られた小皿に入ったものが基本で、残りは店員にお願いして、チリソース、黒酢、紅酢、ウスターソース、タイ風の甘味があるチリソースのなかから自分の好みのものを持ってきてもらう。 「中国の点心とは異なってチリソースで」ということは、中国の町では点心をチリソースで食べないのか、と思って、読んだ後、暫く煩悶してしまった。 「孤独のグルメ」という日本のテレビドラマを観ていたら、白胡椒と米酢で餃子を食べていて、そんなことが出来るのか、と実験してみたら、白胡椒はあんまりおいしくなかったが黒胡椒と米酢は意外なくらいおいしくて、びっくりしたが、では点心は、そもそも何が本来のソースなのか、それとも本来のソースなどはなくて、中国の人らしく、個人に依っててんでんバラバラなのか、しばらくインターネットで調べてみたが、結局は要領を得ないで終わってしまった。 きみの新竹でのお昼ご飯は、大皿に点心が盛られてでてきたところで写真を撮って 「うまそう」と書いていたが、見た目がもうおいしそうでなくて、これは期待できないよね、と思ってタイムラインを眺めていたら、案の定、「それほど、おいしくなかった」と食後の感想が書いてあったので、きみらしいと思って笑ってしまった。 新しく遭遇したものを先ず信頼して、ポジティブにとらえて、そのあとの反応が率直で飾らないのは、自分では知らないかもしれないが、きみの特徴です。 受験秀才の頭の悪さとはかけ離れた知性が感じられて、なんだかいつも暖かい気持になる。 3 いまは秋で、雨ばかり降っている。 雨ばかり降っている、というと一日中、降り込んで暗い午後を想像するが、オークランドの天気は変わりやすい点でブリテン島と良い勝負で、秋などは、どんなに雨が降っても一度は太陽が顔をだすヘンテコな天気で、馴れない人は発狂しそうになるという。 ぼくは相変わらずで、怠けてばかりいて、月曜日に実行するはずだった用事が火曜日になり水曜日になり、今度はパーティだのなんだので、ミュージカルのEvitaが来るので観に行かねばならないとか、シドニーのモダンダンスのカンパニーがアオテアセンターで興行をぶつのでガメとわたしの切符を買ったとモニが述べたり、 あれやこれやと遊んでいるうちに、次の月曜日になったりしていて、われながら生産性がない。 きみも、もううんざりして、「お手上げ」な気持になっているらしく見えるが、岡目八目、ありゃ、そんなことやったらエライことになってしまうではないか、とハラハラしながら眺めていた日本社会は、すっかりとんでもないことになっていて、もう、一世代というような時間では回復できないところまで一見平穏な表面の皮膚だけを残して、内部の腐敗は、手の施しようがないところまで、すすんでしまったように見えます。 ここまで病状が進行してしまえば、議論というようなことはする気になれないので、ときどき若い友達や女のひとびとに向かって、可逆的にものごとをすすめられる地点をいま過ぎた、とか、なにしろきみの国の政府は、他国の首脳に向かって、彼らの耳には聴いた途端にオオウソであると判ることが自明な事柄を、報道されたニュースを通じてしか事態が判らない自国の国民を欺く目的だけで堂々と発言してみせるというくらい不誠実な政府なので、念のためにいうと、あれはもちろんウソで、英語の記事はこんなふうになっている、ということはあっても、それを起点に議論するということは、やってももうムダなのでやりたくない。 日本は、骨の髄までしみ込んだ、ほぼ情緒と一体化してしまっている天然全体主義が祟って、リベラルからライトウインガーまで、目的語をいれかえれば両者の主張や修辞がそっくりそのまま同じになってしまうくらい、ひどい状態になってしまっているように見えます。 全体のほうからではなく、個人の内部から事象を観ることが出来るのは、世代的に言えば20代の人々まで遡らねばならないので、そこまで社会が保つかどうか。 あるいは、社会のなかで力を与えられていない彼らが、あと20年、歴史の地中深く根を生やしたような、文明全体で人間を作り変えてしまう日本固有の全体主義文化によって潰されないですむものかどうか。 日本の歴史上、初めて現れた若い自由人たちが、全体主義の此岸から暗い、流れの速い川に飛び込んで、自由社会の彼岸に無事泳ぎ着けるかどうか。 … Continue reading

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老いるということ

「天人にも五衰がある」と、三島由紀夫が述べている。 増一阿含教第二十四や仏本行集経第五を引いて、大小の天人五衰について述べるが、 1 清らかだった衣服が垢にまみれはじめ 2 髪飾りが輝きを失ってくすみ 3 両の脇の下から汗が流れはじめ 4 嫌な体臭がにおうようになり 5 本座(本来いるべき場所)への安住を楽しまなくなる と言う。 三島という人は若いときから「老いる」ということに対して異様な恐怖を抱いていた人で、だんだん読んで判ってくると、その恐怖は自分自身の老いた人間への抑え切れない嫌悪から来ているのが判って、その老人への激しい憎悪は、どちらかといえば生理的なものです。 ミトコンドリアのエネルギー生産の過程では活性酸素が不可避的に発生する。 簡単に最も基礎的な知識をおさらいすると、人間の活動エネルギーは ATP(アデノシン三リン酸)からリン酸がひとつ分離されてADP(アデノシン二リン酸)になる過程で発生するが、「破壊者」活性酸素もこのときに生じて、ミトコンドリア自体も内部から攻撃されて老化する。 ミトコンドリアのDNAやタンパク質がこのとき傷つけられて、細胞の機能が低下し、そのことが老化のおおきな原因になっている、と考える研究者がいる。 コエンザイムQ10やα-リボ酸のようにミトコンドリア内のエネルギー生産を手伝うだけでなくて活性酸素を取り除く物質もあるが、そのことで寿命自体が伸びるということはないようにみえます。 極小的な仕組みから目を離して、生命維持活動を全体から見ても、寿命を延ばすことと老化を遅らせることには、あまり連関がないようで、そういうことについて書かれた本を読んでいると、ふと、「天人五衰」を思い出すことがある。 いずれにしろ、仕組みはちゃんと判っていないが、老化が避けることができないのは誰でもが知っている事実で、会話する老人同士が、なんだか秘密めかした共犯的な雰囲気を常に醸し出しているのは、「老い」という、秘められた病を共有しているからであるのに違いない。 老人の特徴は、 1 細かいことに拘泥してペダンティックである 2 事象に対して批評ばかり述べていて自分では何もしない 3 他者に対する、理由のない、内側から突き上げてくるような憎悪と苛立ちを持っている 4 自分と自分の一生に対する評価が甘い 5 自分より若い世代に対して、自分には経験がないことにさえ説教をしたがる 6 自分の「若さ」を誇る というようなところだろうか、こういう特徴は老人たちを見ていると、殆ど逃れられないトラップに似ていて、ある日突然老いるわけではなくて、昨日よりは今日、今日よりは明日、と、ごくゆっくりと、しかし着実に連続的に老化することに、人間が必ず老化に絡め取られる秘密があるようです。 内心、「わたしは老いていない、肉体は衰えたかもしれないが、感性は若い」と考えることはすべての老人に共通しているが、そんな都合がよい現象が起きるわけはないのは明かで、草間彌生のように、老いにとってかわるデーモンがあれば「老い」などはたちまちのうちに取るに足りない矮小物に変わるが、そうでなければ、人間は、自分の老いを静かに見つめているほかはない。 「ものぐるひ」という。 何ものかに魂が取り憑かれた状態で、日本人は、この状態になることによって、死を怖れず、老いを意識から消し去ることができるのを古代から知っていた。 中年をすぎて、一心に芸術に狂って、自己をみても鏡に映らない状態を現出するのは、紫式部や清少納言にはもう観られて、やがて源俊頼にいたってはっきり方法として意識されるようになる。 アイザック・ニュートンやアルベルト・アインシュタインの一生も明瞭な「ものぐるひ」の生涯で、あるいはトーマス・マンは欧州版ものぐるひとでもいうべき思想を生涯隠匿していた。 そういう「ものぐるひの系列」に観念を少し高いところにポンと放り投げて、その観念の雲のうえにひょいと飛び乗ることが簡単に出来たバートランド・ラッセルのような人を加えてもかまわない。 そうやって考えると必ず老いて死ぬ運命にある人間のゆいいつの「老化」への適応方法は、知られている運動によってミトコンドリアを増加させることによって「若返る」方法よりも、一生の前半で、自分にうまく取り憑いてくれてコントロールしてくれる魔物をつくっておいて、それが絵でも、哲学でも、陶器でもかまわない、自分と手の主体がいれかわるほどの「ものぐるひ」で、自分が若いのか老いているのか、肉体はただの乗り物で、ブレークダウンして動かなくなるまでは、どっちでもいい状態にもっていくことが唯一の向き合いかたであると思われる。 人間の肉体を「乗り物」に変えるには魂がなければならないが、結局、一生の前半に「魂」を形成して、衒学的な態度や冷笑的な態度、糾弾魔的態度や批評的態度を捨てて、ものぐるひに至ることが、麻薬的に見えて、案外正当な「老いかた」なのかもしれません。

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移動性高気圧3

この5年間は広い意味での産休とモニさんがニュージーランドの市民権を獲得するための条件づくりとで、地球の表面をふらふら歩いてまわる、それまでの生活とはまったく異なる生活で、ときどきオーストラリアの町やウェリントン、クライストチャーチに出かけたり、強行なスケジュールでヨーロッパへ出かけて、用事が終わると怒濤のようにもどってくるとかで、本来の、どうせロンドンへ行くのに乗り換えるんだから東京に1ヶ月いて遊んでいこう、とか、シンガポールで行き帰り2週間ずつプールサイドで寝てくらそう、というような生活はやめていた。 小さな人々にとっては最も大切なのは家という暖かい絶対的に安定した巣のなかで親とべったりくっついている時間で、その「溺愛の記憶」が、小さな人々の「自己」の核になって、くだらない人間やプレデターがたくさんうろうろしている世界を横断する根源的な力になるのは判り切っているからです。 さすがに後半は飽きてきて、酒ばかり飲んで、オークランドのワインショップの繁栄の基礎をつくってしまったが、そのかわり、以前は習慣にすぎなくなりつつあった世界を一周してもどってくるタイプの旅行を、また楽しみにできるようになった。 何度も何度も同じところに行って、滞在もだんだん延びて、最後には住居を贖って短期間にしろ住んでしまう、というパターンなので、「まったく行ったことがない町」が意外とたくさん存在して、たとえばマレーシア系人たちがこぞって推薦する、名前を忘れてしまった小さな町に行ってみたいと考えるが、ついでに、こちらも行ったことがないペナンやクアラルンプールのような大きな町や、たいへん西洋化された行楽地のランカウイにも寄っていきたい。 あるいはロサンジェルスには仕事の用事で何度も出かけていても、隣のサンディエゴは観たこともない。 計画しているうちにモニとふたりで顔を見合わせて笑ってしまうほど、行きたいところがあちこちにあって、めんどくさがらなければ、今年の後半からは、また、旅から旅で、「移動性高気圧」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/24/drivinginitaly/ のモニさんとのバカップルな旅が始まりそうです。 もっとも旅行地図から姿を消してしまった町や国もあって、あれほどおおきな存在だった東京は、やはり怖いのでのんびり1ヶ月滞在する、というようなことは考えられなくなってしまった。 日本では福島事故はもう過去のことになっているようで、ちょうど沖縄戦とアメリカによる1972年までつづいた占領のあとに「沖縄の人の貴い犠牲は忘れません」で、あとは歴史の重い蓋を載せて封印してしまったのと性質は似て、「福島の人に寄り添って」絆を感じるだけでよいことになって、あまつさえ、放射性物質を日本中にばらまいて、みんなで食べればあぶなくない、異様な国になってしまった。 日本の人にとっては「全然、平気」な放射能も、そう言いたい、起きてはいけないことが起きてしまったことに他人にふれられたくはない人間の自然な気持はわからなくはないが、こちらは放射能が怖いので、むかしのように、有楽町のガード下の焼き鳥屋で、きゃっきゃっと機嫌がよい猿のように騒いだり、帝国ホテルの部屋でバスローブを着て、あるいは素裸で、シャンパン付きの朝食を自堕落に食べて、何日もデヘヘヘヘをしているわけにはいかなくなってしまった。 いままで生きてきて、最も残念なことのひとつが福島第一事故で、あれさえなければなあー、とたびたび思う。 東京は、昔から、というのは子供のときに初めて暮らすことになったときから、両親(ふたおや)のような町で、一緒に遊んで、さまざまなことを教わって、なによりも、どんな場合でも溺愛に近い愛情で、風変わりな子供を抱きとめてくれる町だった。 良い記憶しかなくて、毎日が興奮の連続で、楽しくてしかたがなかった。 2011年の3月に、自分の一生の一部として当然存在し続けると信じ込んでいた東京が生活地図から失われて、欧州との往復も、いまはずっと西にずれたドバイ経由ということになっている。 あるいはテロの標的の確率がおおきいところには、たとえば小さなひとびとを連れていくわけにはいかない。 世界は明らかに混乱期に入りかけていて、アメリカのように豊かな国でさえ、ドナルド・トランプのようなならず者を有力な大統領候補に押し上げてしまうマスレイジが満ちて、そういう社会的な鬱積は、やはり(特に旅行者が好んで訪れるようなおおきな都会では)細部にあらわれて、どう言えばいいか、町全体の空気がいがらっぽくなるものであるように感じられる。 もっとくだらない理由に目を移すと、かつては「隙さえあれば立ち寄って遊ぶ」町だったシンガポールは、統計上のGDP成長率を小さいほうに誤魔化す必要を感じるほど繁栄に繁栄を重ねて、その結果は、なんでもかんでもぶわっか高い町になって、おまけにタクシースタンドは延々長蛇の列で、こっちはUberがあるのでなんとかなるのかも知れないが、繁栄に飽きた人のなかにはぞんざいな態度になる人もあったりで、かつてほどの魅力がない町になってしまった。 ただの大都会、というか、どこに行ってもおなじ、譬えていえばショッピングモールのような都会で、そうであるならば、わざわざあの熱地獄に耐えにでかける意味はない。 マンハッタンも友達が次々に郊外や他の町に引っ越して、むかしよく出かけた町ではバルセロナは変わらないように見えるが、モニとふたりで話しあって、スペインならば今度はマドリッドにしばらくいてプラドに通おうということになっている。 イタリアは、なにしろ大好きな国なので、また出かけるに決まっているが、イタリアという国の重大な欠点は、クルマの運転が荒っぽいことで、多分、イタリア人は何らかの理由によってジキル博士とハイドのような二重人格で、ハンドルの後ろに座ると、歯が尖りだして、眉がゲジゲジになって、ギハハハと哄笑しながら対向車に突進したくなるものであるらしい。 だから今度はローマにずっと滞在して、裏通りに通暁しよう、ということになっている。 モニさんが「オーロラが観たい」と希望するので、ニュージーランドのサウスランドでもオーロラは見えるが、ついでだから冬の北欧へ行けばどうかと考える。 寒いうえにずっと夜なので敬遠する、というが、ベーオウルフを読めばすぐに了解されるとおり、日がな一日つづく深い闇のなかでの生活こそが北欧で、自分でも、どうしても一度経験したい生活なのではある。 オークランドにずっと腰掛けていて、インド人街に詳しくなって、サンドリンガムやフラットブッシュやパパトイトイで、なんだか理不尽なくらいおいしいタンドリ料理に舌鼓を打ったり、といってもほんとうにそんな下品なことをするわけではなくても、表現がおもしろいので舌鼓でいいが、チャイを菓子屋のテラスで堪能したり、あるいはベトナム料理屋で魚の丸揚げに目をまるくして、すげー、うめーを連発したり、夜のエリオットステーブルでチェビシェをつつきながらマルベックを飲む生活も、やってみるとチョー楽しいもので、オークランドという町の最大の取り柄であるハウラキガルフにボートを出して、モニさんがハミングしているのを聞きながら甲板に寝転がって日本語ツイッタにうつつをぬかすダメダメな毎日が好きでたまらない。 でもほんとうは、モニさんもわしも、正体は漂泊者で、漂泊者が深刻に聞こえすぎるならば、ノーマドで、世界を好奇心というラクダに乗って、砂漠を越え、草原を横切って、肩を並べて、どこまでも移動してゆくのが好きなのであるらしい。 ふたりでほっぺたをくっつけあうようにして、コンピュータのスクリーンのなかの地図を観ている。 ヴァージンやアメリカンエアーが来てからエアフェアが下がったね。 さっき電話してみたらマイアミでケーディクローガン見せてもらえるって言ってたぞ、ガメ、と話ながら、心はもう定着の生活からさまよいでて、海を渡って、コルクの森や、赤い岩の砂漠を歩いている。 旅へ

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断片1

1 30歳を越えて自分が生きているのは不思議な気がする。 (もう33歳になってしまう!PMよ、BKよ、助けてくれ!) 「予定」は実行されないほうが普通だが、それにしても、30歳になる前に自然死によって死ぬことを予定していたのに未だに生きている自分の一生を訝る気持がある。 記録が残っている自分の先祖のなかで最も気に入った人は、娼婦の恋人に恋い焦がれて、あとを追って、ローマへ渡航して、そのままそこに住んでしまった人だった。 賭博と飲酒が家系をなしている、わし家のなかでも突出してダメだった、この人をわしは愛して、この人のように生きたいと念願してきたのに、モニさんという、中世の修道女のような人に、なんだか「べた惚れ」(←表現の感じが判らない日本語)してしまったことによって、この大転落の夢も潰えてしまった。 (耳元ではスウェーデンの歌手Lalehが繰り返し、「わたしはわたしでいたいだけだ」と述べている) (I see you in the mirror such a coward, why did you even smile?) (I’ll just be myself) ボロいジーンズのポケットに手を突っ込んで、セントヘリオスの海岸で、 憮然として波打ち際に突っ立っているぼくは、だから、なんだか無理をして空を見上げているのです。 空を見上げてばかりいるのは地上で起きていることを見たくないからなのではないか。 モニさんを大好きになったことは、わし人生の全体を変えてしまった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/monique/ わしは「結婚」などはケーベツしていたし、「貞操」なんてみると、ぶはははな人間なのに、モニさんは、わしとはまったく異なる信念に生きている人で、 わしを震撼させる。 モニさんは「たった一人の人間としかセックスはしない」という信念の人だが、では、毎週末、綺麗なねーちゃんを見つけてはチン〇ンを突っ込んで、全然知らない部屋のベッドで土曜日の朝に目をさましていたチョーだめなわしの人生はどう評価されるのか? 17歳のモニに、よく説教されていたわしの姿を思い出す。 なんだかチョー駄目な人なんだけど。 正しいことに意味なんてあるのだろうか? 2 日本語でしか自分の心象を書かないのは、それが「誰にも読めない言語」であるからなのは、前にも書いた。 英語人は「言語バカ」なので、わしの日本語を誰かが解読してしまう心配はなくて、好きなことを書いていられる。 普段の生活では、わしが日本語を理解することを知っている人はいない(あるいはチョー少ない)ので、安泰であると思います。 … Continue reading

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ふたつのパスポート

I (name) swear that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth the Second, Queen of New Zealand, Her heirs and successors according to the law, and that I will faithfully observe the laws of … Continue reading

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オダキンへの手紙1

魚臭いにおいがする地下鉄の駅の階段をあがって交叉点にでると、そこは日本で、なぜぼくは日本にいるのだろう、と訝っている。 たしかに東京の街角に立っているのに、空気は、ディーゼル排気で汚染された、大陸欧州の街の空気で、いがらっぽくて、すれ違う東アジアの顔つきのひとびとを、でも、カタロニア人であると知っている。 日本語で日本のことを考えるのは、なんてへんてこなことだろう。 ぼくが日本語の世界に浸りこむように耽溺してきたのは、思い返してみると、やはり子供のときの「日本というパラダイスの記憶」だった。 ぼくはとても世界の東のはしっこで、地図から落っこちそうになりながら存在している、胸をそらせて、なんだか威張った形をしている島で出来た国が好きで、シンガポールを経由して南半球に行きたいと述べる両親にせがんで、成田の、不便な空港に降りて、数日を東京や鎌倉で過ごしたいと主張したものだった。 そうこうしているうちに、ぼくはバスク語よりも難しいという、その国の言語に通暁するようになった。 通暁、なんて言葉を使うと、笑われてしまいそうだけど、この6年間「こんなに巧い日本語を書ける外国人がいるはずがない」という、いかにもゼノフォビア文化のひとびとらしい理由でニセガイジンと集団でとりまかれて悪罵を浴びせられてきたのだから、居直って、自分で「日本語に通暁しているのだ」と述べても、神様も許してくれるのではなかろーか。 かーちゃんシスターの夫は日本のひとで、ぼくは、このおっさんが昔から好きだった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/05/02/girioji/ ニホンジンと聞くと、まず、この容貌の冴えないおっさんの顔がおもい浮かぶ。 年が二十余も離れているのに、東京で一緒にほっつき歩いた。 おっさんは、見栄なのか、それとも少しはマシな理由によるのか、日本語よりも英語で話すことを好んだが、ときどき、例えば物理的な動きというようなことになると英語の表現がおもいつかなくて、日本語で話すことがある。 ジャックスやテンプターズ、浅川マキ、三島由紀夫、てなもんや三度笠に、ヘイヘイポーラ、夢で会いましょう、シャボン玉ホリデーで、このおっさんが熱に浮かされたようにまくしたてる「日本」は、ぼくのパラダイスの記憶と合致していて、いいとしこいて、高校生の情熱で饒舌に日本を賛美するおっさんとぼくは、数寄屋橋の交叉点やすき焼きの「岡半」の座敷で、文字通り「話し狂った」ものだった。 あるいはこの「ヘンなおじさん」とスポーツウーマンで流線形なかーちゃんシスターとのあいだに生まれた子供は、マブダチで、子供のときから、葉山の氷屋で卒倒したり、鎧擦の山を見上げながら溺れかけたり、木崎湖の波が死んだひとびとの手招きに見えて、ふたりで宿に駆け戻ったり、そんなことばかりやっていた。 でもほんとうは、この父子とも、ほとんど英語での会話で、こうやって考えていても、自分の日本語がどこから来たのかは判らない。 「てにをは」を間違えない外国人がいるわけがないとか、あんなに関西弁が出来る外国人が存在するはずがないとよく言われるが、あの日本語教科書でばかり勉強すれば、日本人向けの英語教科書の裏返しで、中国の人でもなければ、自然な日本語が身につくわけはなくても、たとえば「てにをは」で言えば、あれは実は英語では冠詞の役割を念頭におけばいいのだ、とひとこと日本語の先生が言ってくれれば、間違わないですむようになっていく。 あるいは日本語を学ぶにつれて「標準語」は生活から剥離した奇妙な言語だと感じるようになって、日本語は方言じゃないとダメだと考えて京都弁を学習して、「けえへん」ではなくて「きいひん」のほうがいいな、とニコニコしながら考えたりして、隙さえあれば使うが、関西人の人から見ると、ほんとうは、とても奇妙な「つくりもの」の関西弁で、ちょっと聞いただけで、「嘘京都弁やん」と思う体のものだそーです。 そうこうしているうちに、フクシマのあとだったか、きみに会ったのだった。 日本風に描写すると、戸山高校をでて東京大学の「理一」に入ったのでしょう? 物理に狂って、はてには、物理研究者になった。 未成年性愛を連想させる二次元絵が好きで、そのことで、nastyな大喧嘩をしたことがあった。 オダキンの全人格を否定する勢いで、馬鹿野郎をしたが、でも、絶交したあとでも、きみのtumblrやtweetを、こっそり眺めるのが楽しみだった。 それはなぜだろう?と考えていて、この記事を書く気になったのだと思います。 ぼくは「アスペルガー人とゲーマーズ」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/ に書いたように、分類すればゲーマー族で、ルールが与えられれば、そのルール世界の定石を見いだして、ありとあらゆるゲームにあっさり勝ってしまえる。 英語世界の学校教育で言えば「飛び級制度はないが飛び級はできる」チョーへんな連合王国の制度や大陸欧州、アメリカ、ニュージーランドの制度を総攬して、ああ、こうすれば16歳で大学を卒業できるでねーの、と考えて実行するし、経済世界においても、オカネの交叉点の、この辺に立っていればウシシに儲かるのだな、と「手のひらにさすように」簡単にわかる。 でもゲーマー族は、ゲームに勝つ方法に長けているので、現代世界の一生に経済的に勝つということがたいしたことではないと知っているんだよ。 選択の問題で、ふだんあんまり言わないでいる(言うと、ぼくまでヘンな人だと思われてしまうからね)が内藤朝雄や自称においても「コミュ障」で天文研究者のもじん@mojinどんやオダキン@odakinのような「堀下がってゆく」知性と較べて、というか較べようはなくて、全然異なる一生を歩いているのだという自覚はあります。 「物理学者への手紙」というタイトルは、カッコワルイと感じるようになったので、今度は「オダキンへの手紙」と改題しただけで、ただの続きなんだけど、日本語世界で会った人のなかでは、josicoはんと並んで、オダキンのことをよく考える。 ぼくには、折に触れて、自分のいままでの一生の経過を点検する癖があって、あのときはこうすべきだったのではないか、とか、ああいう考えは失敗につながるものだった、と思って、ダメじゃないか!と考えたりして、モニに、「ガメはなんで過去のことを考える癖があるんだ?」と不思議がられるが、癖は癖なので仕方がない。 お好み焼きを食べながら突然暗い表情になったり、カヤック行の途中で、突然放心してこけたりしているのは、そういうときで、自分でもヘンな癖だと思わなくもない。 大叔父はオダキンと同類で、同じ物理学者で、学問に打ち込むだけの人生で、旅から旅、大学から大学へ渡り歩いて、このあいだ死の床にある大叔父の妻である人と話していたら、「ガメちゃんには話しておいていいと思うが、わたしたちは離婚したことがある」と述べていた。 英語世界では人間のつながりが大事で、一箇所に定住すればするほど生活の質が豊かになっていくが、研究者の妻ではそれが達成できなくて、酒に溺れたりで、アメリカ時代には、到頭耐えきれなくて離婚したもののよーでした。 大叔父は鈍感なひとで、いまでも自分が研究者として懸命に生きてきた結果、娘は自分を憎悪の対象としてしか見なくなって、妻は、苦しみに苦しみを重ねて生きてきたのを、ちゃんとは判っていなくて、「ガメ、真理に生きるということは、なんて素晴らしいことだろう」とノーテンキなことを述べている。 研究者として精進するオダキンの生活は、もしかしたら、自己の生活を破壊してしまうかもしれない。 でも、その右と左の中間ではない、右なのか左なのか、そのはしっこの延長の、遙か彼方に「安定」を見いだすオダキンの魂が、ぼくを日本語を媒介して呼び寄せたのだとおもう。 そういう機微を不思議に感じて、この記事を書いている。 (閑話休題) オダキンと内藤朝雄は、深刻な知性を持っている。 … Continue reading

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ドナルド・トランプとヒラリー・クリントン

ドナルド・トランプが共和党の候補確定になって笑ってしまった。 笑っている場合ではないが、やはりアメリカ人たちのいまの頭のなかを想像すると笑いがこみあげてくる。 事態に英語人の嫌な皮肉の琴線にふれるところがあるのだと思います。 トランプという人は、会ったことがある。 この人はニューヨークでは有名な「パーティ男」だからで、パリスヒルトンの男版というか、特に東欧人系のパーティに行くと必ずと云っていいくらい立っている。 立っているだけではなくて演説をぶちこくのが好きな人で、とんでもない意見ばかりだが、日本でいえばちょうど石原慎太郎で、デッタラメな主張に、ちゃんと喝采がわく人だった。 ここにアメリカ人たちが囁きあっている「恐怖のシナリオ」というものが存在して、ドナルド・トランプとヒラリー・クリントンの一騎打ちの形勢になったところでクリントンがemailの一件、あるいはいまは手続きに合っていると見做されている、例えば中国政府筋からの献金が問題にされて失脚する。 「そうなるとトランプがアメリカの独裁者として君臨することになる」と、わし友たちはスカイプの向こう側でユーウツそうな顔をしている。 アメリカの民主主義には、常に不安定なところがあって、マッカーシー旋風 https://en.wikipedia.org/wiki/McCarthyism を見れば判るが、ときどき観念や感情にひきずられて、社会がまるごと、とんでもないところまで行ってしまう。 共和制ローマ的で、激情から政治システム自体を破壊する傾向がある。 1930年代も危なかったが、アメリカにとっては幸運なことに、極東の小国で軍事力だけが肥大した、いまでいえば北朝鮮の大型版のような国だった日本が宣戦してくれたことで、健全な形で国がひとつにまとまった。 第二次世界大戦がThe Good Warと言われるようになった所以です。 エラリークインという人が書いた小説には 「そんなレーガンがカリフォルニア知事選に勝つみたいな現実味がないことが起きるわけがない」と誘拐犯の悪党が述べるところがあって、レーガンが知事選に立候補したときにカリフォルニア知事になりうるとマジメに考えた人はいなかった。 ロナルド・レーガンはカリフォルニア知事どころか、後年、アメリカの大統領になってしまうが、この人も、ドナルド・トランプと変わらない、デタラメな発言ばかりの人で、「冗談がうまいだけで大統領になった」と評された人でした。 この人がなぜ第40代大統領に選ばれたかについては、アメリカ人ならばたいていは見当がついていることがあって、第39代大統領のジミーカーターが知性的でありすぎたからでした。 アメリカ人は、よく、「アメリカはジミーカーターによって、『善い人』を大統領にしてはダメなのだ、と学んだ」という。 ジミーカーターは、すべてにおいて穏健であることを好んで、外交についても慎重を極めたが、それがアメリカ人たちの神経を踏みつけることになった。 カーターにしては大胆な「イーグルクロー作戦」でイラン人質救出に失敗すると、それまでの「弱腰外交」にフラストレーションをつのらせていたアメリカ人たちの不満が爆発します。 その結果、大統領にレーガンを選んでしまうが、あれほどただの受け狙い男に見えたロナルド・レーガンの下でアメリカは繁栄を回復する。 いまのアメリカ人たちが「どうも大統領というのは、少しくらいバカで乱暴な男のほうがいいようだ」と考えはじめた嚆矢になっていると思われる。 レーガンは、もちろん、インチキな失敗も多い人で「スターウォーズ計画」などは、いまから考えると噴飯物を通りこして、アメリカ人という人々はコンピュータソフトウエアへの理解を根本から欠いているのではないか、と疑わせるに十分な頭の悪さで、中南米に対する「レーガンドクトリン」などは、日頃の発言どおりの破落戸ぶりをみせて、レーガンの頭のなかにある幼稚な世界観をうかがわせるに十分だった。 ところがレーガンが「悪の帝国」と呼んだソビエトロシアが、「100の価値のものを加工して70の価値にする」と揶揄された社会全体の生産性の低さからくる経済停滞に加えて、KGBと軍人たちが強行したアフガニスタン出兵の出費と、なによりもゴルバチョフ自身が「国が経済的に崩壊するか、嘘で塗り固めて国民を犠牲にするかの選択、わたしには国民を救おうとする以外には選択がなかった」と後でインタビューで述べているチェルノブルの核発電所の爆発で、崩壊してしまった。 レーガンが歴代の大統領のなかでもベスト5に入る人気大統領として、いまでもアメリカ人たちに思い出されるのは、そのせいでしょう。 ある種類のリベラルの人が聞いたら激怒するだろうことを述べると、いま名前があがってるなかでバーニー・サンダースが大統領候補としては最悪の選択であると思うが、それを議論するためには、政治というものそのものについての長い議論が必要で、このブログ記事では書けはしないし、自分の日本語語彙が政治用に出来ていないので、英語であることを必要とする。 以前に述べたように英語でものを書くのはオカネをもらわないとやらないことにしているので、その点でも、ブログで何事かを述べることはないと思われる。 日本では、どういう理由からか、当然、最も心配しなければならないことについて言及がないが、日本の人が心配しなければならないのは実は、ドナルド・トランプが大統領になってもヒラリー・クリントンがなっても、日本にとっては良いことがひとつもないことで、このふたりは、安部晋三の浅薄さに辟易しながらも、戦後の同盟体制を維持するために、じっと耐えに耐えていたバラクオバマとは異なって、 「日本を甘やかす結果になって、そのせいで日本の全体主義化を許してしまった」戦後の体制を見直そうという点で一致している。 「日本は好きだが、防衛費は全額負担してもらう」とノーテンキに述べているトランプは判りやすいが、政治的に老獪なヒラリー・クリントンは、実際には(どう転ぶか判らないトランプに較べても)日本を目立たないように切り捨てる準備を行っている点で、日本の安全保障にとっては危険な存在であると思う。 「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/24/hillary-clinton/ 日本にとっては危険だが、自分に立ち返って、特にNZパスポートの保持者として述べると、この提案はヒラリー・クリントンの外交能力の凄まじいほどの切れ味を示す提案であって、オーストラリア政府やニュージーランド政府が、にやにやしながら飛びついたのは当然であるように思えます。 バラクオバマが慣例を破ってジョンキーと一緒にゴルフのラウンドをまわったことは世界中のジャーナリストを不思議がらせて、ゆいいつ彼らがたどりついた推測は「TPPの話だったのだろう」だったが現実は異なっていて、彼らが話し込んでいたのは対中国を意識した「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」についてだった。 日本政府が靖国神社参拝に象徴されるように国家社会主義化を隠さなくなったことは、日本人たちは英語解釈の問題にすりかえて、とぼけてしまったが自由主義諸国にとっておおきな衝撃だった。 disappointment https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/01/02/disappointment/Continue reading

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日本語のたのしみ

なんだか、ものすごくくだらないパーティだったので、20分もいないで、主宰のひとに挨拶を述べて帰ってきた。 ロータリークラブみたい、というか、「オカネモチの上品な社交を目指している人々」が集まるパーティ特有の、上滑りな、表層だけの文化性のデモストレーションをしあっているような見苦しさで、話しかけてくる人々も退屈で、招待状をゴミ箱に放り込まなかったことを後悔した。 結局、パーティにいるはずだった時間がまるまるモニさんとのデートになって、よかったと言えなくもない。 パーティには夕食もでることになっていたので、食事の予定もなくて、どうしようか、とふたりで話しあって、むかし出かけたことがあるオーストリア風のインテリアのレストランに出かけることにした。 ガメ、日本にいた頃のことをおもいだすな、とモニさんが笑っている。 英語国の欧州風に装飾したインテリアのレストランで、なぜ日本のことを思い出すのか怪訝におもっていると、 東京にいたときは、ふたりで、こんなふうに、あてもなく町を歩いて、予約もなしにレストランに入ったものだった、と言うので、ああ、と得心する。 モニも、あの気軽さが好きだったのか。 「スーパーお手伝いさん」のYさんには来てもらっていたが、なにしろ200㎡だかなんだかしかない小さなアパートで、住んでもらうわけにはいかないので通いで、むかしから風来坊で、訳の判らないビンボアパートに住んで、ひとりでフライパンをふるって暮らしていたりしたわしとは異なって、小さいときから家のために働く人とともに暮らしたことしかないモニにとっては、広尾山と軽井沢を往復する、ふたりだけの生活が、新鮮で、知らない人が聞いたら笑うだろうが、「人間って、こんなふうにも暮らせるのか」というほどの経験であったらしい。 マンハッタンの、汚いヴィレッジのアパートメントの地下で、クオーターを4枚突っ込んで、洗濯機を蹴っ飛ばしていたりしたわしとは、どだい、生活への概念そのものが異なるもののよーである。 モニさんにとって東京が「懐かしい町」なのは、そういうことで、ブログ記事にも書いたが、深夜の国会議事堂前で、まるでスカートにじゃれつくような銀杏の葉と一緒にスピンするモニや、人形町の路地で、ピンセットで江戸時代を探すような目でカメラを構えるモニをおもいだす。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/20/hurdy-gurdy-man/ 鮨がおいしかった! というようなことのほかは、たとえば軽井沢の「山の家」を出て、佐久の奥へ出かけて、舗装道路のまんなかに敷物をひろげて、シャンパンを抜いて、サンドイッチを広げてピクニックをした。 日本は面白い国で、観ればすぐにわかる、というか、一面、紅葉に覆われていて、何週間もクルマが通ったことがない立派な舗装道路が建設されている。 じめじめした森のなかの地面よりも、アスファルトで整地された、そういう道路のほうがずっとピクニックに向いていて、モニとぼくは、よくそこでピクニックをして遊んだ。 もうひとつ良かったのは、日本が統計上の、あるいは統計にあらわれない真の犯罪発生率がどうであれ、気分として安全な社会で、たまには具体的に述べればモニさんは、cmでいえば182cmかそこいらの身長のはずだが、靴をはくと187cmくらいで、そうすると、雲海に頭が出た人のようなもので、たいていの日本人は頭髪しか見えない。 わしとは異なってモニさんは失礼なことはわしにしか言わないので、まさか口にだしては言わないが、付き合いが長いことの良い点で、言わなくてもモニさんが時々笑いをこらえて「日本の人は小さいなあー」とおもっているのが判る。 モニは細こい人なので、ほんとうはどうなのか判らないが、物理的に日本の男びとを「怖い」と思うことはなかったようで、ばらしてしまうと、日本のお巡りさんが自転車をこいで移動するところまで「かわいい」と言って写真に撮ったりしていた。 日本が安全な社会であることは、やはり日本の宝であるとおもう。 深夜に近い日比谷線で急に「ガイジン、帰れ!」と言われて、殴りかかられたことがある。 蹴ったりもしていたが、なんというか、子供が殴りかかっているようなもので、腕をつかんで、日本語で「やめなさい」と述べていると温和しくなった。 あるいは、これもブログ記事に書いたことがあるが、泥酔して、新橋の裏通りの道路の真ん中に正座して、全裸で、下着から背広まできちんと角まで畳んで積み重ねて「申し訳ございません。わたしは酔ってしまいました」と深々と頭を垂れて道行く人びとに詫びている若い会社員がいる。 そういうことを思い出しても、日本はワンダーランドで、楽しかったなあーと思う。 上海に来いよ! 日本よりも、ずっと面白いぞ! と上海で英語教師をしているエマ(←仮称)が述べている。 上海はサイコーだぜ、ガメ。 おれはインターナショナルスクールからあてがわれた「高級」マンションに住んでいるが、昨日は轟音で目がさめた。 なんだったか想像がつくかね。 階段が3階から11階まで、なんの理由もなく崩壊した音だったんだよ! 3階から11階まで! おまけに、このコンドミニアムには共有プールがあるんだけど、作った奴が排水溝をつけるのを忘れたので、いつも空っぽのままなのさ。 ガメ、遊びに来いよ、こんなに面白い町はない。 小籠包、うまいぞ、と書いてある。 こういうことは、いつも、うまく言えないが、世界はどんどん変わっていく。 東アジアで言えば、いまはもう日本の時代ではなくて、香港や上海の友達と話していると、フォーカスが、すこおおおしだけ移動して、中国の都市やシンガポール、ペナン、というようなところに移動しているのがわかる。 日本は、だから、すっかり田舎になってしまったのかも知れないが、それでも、東京は、ぼくにとっては特別な町なのだから仕方がない、と考える。 20世紀が21世紀に変わる前のロンドンと同じで、ぼくが知っている東京はもう存在しないのかも知れないが、それはそれでいいか、という気がする。 2000年に東京へ5年ぶりに出かけたとき、「丸ビル」がなくなっていたのでチョーぶっくらこいてしまった。 あのビルの裏側には「サラリーマン竹葉亭」があって、本店ならば3000円ださなければ食べられない鰻重を、ときどき縁が欠けている丼にいれて、1200円で出していて、コミューナルテーブルに並んで鰻丼をかきこんでいるサラリーマンたちの姿が好きで、よく、せがんで、連れていってもらったものだった。 … Continue reading

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静かなひと、もの言わぬ人が好きだという奇妙な性癖は、いまでも変わらない。 いくらみなでunderstatementが、subtleであることが、と言っていても英語社会は西洋社会なので、自己主張がうまくできない人間は避けがたくアホだとみなされる。 自分自身は自己主張が巧みなほうで演説をぶちこく大会でも好成績で討論でも相手を圧倒し、口が悪達者というか、相手の論理を先回りして待ち伏せしている人のように伏線を張り巡らせて論破する、というチェストーナメントみたいなことまでする。 しかし、奇妙なことに口べたな人が好きである。 目でわかる。 どうしても言いたいことがあって、喉元まで出かけて、なんとかして勇気をだして声にだして述べたいのに、あきらめて、下をむいて立ち去ってしまう人がいる。 議論の場に8人もいれば、たいていひとりは、そういう人がいる。 自分の興味は、常に、そういう人のほうにある。 理由は、自分の議論の明晰については過剰に自信があるからでしょう。 「聴き取りにくい声」には、いつだって明晰を上廻る切実が伴っている。 夕暮れ、広尾山の家をでて、根津美術館の方角へ急ぐ。 赤く染まった空の下を、白い息をはきながら歩いている。 別に急ぐ用事はないが、珍しくモニとは別行動でひとりなので、自然と急ぐ足取りになっている。 目指している場所さえ判然としなくて、小原ビルなのか骨董店なのか、裏通りのカフェのひとつに行こうというのか、まだ考えないまま、田宮虎彦の小説を思い出して、ああ、ここがスラム街があったところだな、と考えたり、根津という人は略奪者ではなくて、古美術品に相応の支払いを立てたというが、どういう人だったのだろう、と考えたりしながら大股で歩いてゆく。 ところがブルーノートに出たあたりで、ひとりの若い男の人が立っていることに気が付く。 その人は不思議な人で、信号の傍らにただ茫然と立っている。 信号が緑色になっても渡らない。 あるいは、周りの風景を見ていない強い印象を与えている。 よく見るとまわりの人も、その若い男の人にまったく注意を払っていないので、まるでその人が立っているところだけ切り取られた異次元の空間のように見えなくもない。 存在自体が「聴き取りにくい声のような人」で、目をこらさなければ見えてこない、という風情の人である。 そういうとき「死にたい」という、その人の声が自分の身体の奥からはっきりと聞こえてきて、混乱した気持になる、ということがあった。 自分の内心から聞こえる、他人の声。 悩んでいる様子もみえないし、まして、車道に飛び込もうとするわけでもないが、 その立っている姿から、明瞭な声になって心に語りかけてくる。 東京では、そういうことがよくあったような気がする。 いまごろになって、英語世界の生活にもどって6年もたってから、日本の人は顔に表さないだけで苦しくてたまらなかったのだ、と気が付いた。 マヌケどころではない迂闊さだが、居直ると、文明が異なる、ということはそういうことなのでしょう。 あの無表情と、よく日本語では誤訳されて「神秘的な微笑」ということにされてしまうmysterious smileの仮面や、まるで自分のいっさいの精神活動を停止する能力があるような通勤電車の人々の仮面のような表情の向こう側には、鈍い、でも根底にまで届く「痛み」が存在して、その痛みが自我を閉じ込め、絶えず抑圧して、自分が「全体」の規格にあうように変形されることに耐えて、自由な魂を殺すことによって「全体」に受けいれられることへの苦痛そのものが日本の人の日常だったのではないだろうか。 日本人の特殊性ということに気持を奪われすぎていて、使う言語が異なり、習慣が異なり、教育が異なっても、おなじ人間なのだから「自分が解放された状態」もおなじで、その状態から遠く離れた状態におかれて、「全体」の部分としての存在である姿勢を強いられて、「痛み」だけが蓄積した心というものに思い至らなかった。 日本語世界に蔓延する冷笑も、あるいは、単純に「痛み」に耐えかねた精神がきしむ軋轢音なのかもしれません。 イギリス人の冷笑と日本人の冷笑が、前者が相手の存在をまったく無価値とみなす深刻な態度であるのに較べて、後者はどことなく「優越の演技」の幼稚な身振りのにおいがするのは、もともとが日本人の冷笑は自分の現実に向けられたものだからなのかもしれない。 もう日本の社会の記憶すら遠くかすかになってしまったので「だから、どうするべきだ」ということにまでは頭がいかない。 どうでもいい、と述べているわけではなくて、これだけ長い日本語との付き合いなのだから、どうでもいいわけはないが、考える手がかりがない、といえばいいか、日本が断片的にしか思い出せないので、全体像を伴って、いわば日本語の側に立って、日本を考えることが出来なくなってしまった。 そのかわり、「日本人の痛み」のほうは、感じられて、その痛みは、いまはもう社会ごと魂の底にこびりついたような鋭い痛みになって日本語全体を共鳴させて絶叫しているように見えます。 その痛みを通って、その痛みの向こう側に出なければ。 「わたしどもの息子が ご迷惑をおかけして」と夢のなかにあらわれて述べた老夫婦は、 いまでは遠い昔から日本語のなかに住む言語の精霊だと見当がつく。 あれは詫びを述べに来たのではなくて、いまの日本語の崩壊は一時のことで、また日本語は再生されてゆくから、もう少し待っていてはくれないか、と述べに来たのでしょう。 沈んでゆく畳や、障子にうつる山影や、縁側に後ろ姿をみせて腰掛けている漁師や、あのすべてのイメージは、たくさんの日本人の痛みのなかから姿をあらわせて、なんとかして子孫を明るみに引き出そうとした日本語自体の努力なのではないだろうか。 … Continue reading

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