Monthly Archives: June 2016

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1 ひさしぶりに三島由紀夫の「春の雪」を読んだ。 谷崎と三島とは日本文学のふたつの華で、このふたりの絢爛たる日本語を読んでいるときくらい「日本語をやってよかったなー」とおもうことはない。 言語表現としては西脇順三郎や田村隆一を読んでいるときのほうが、より高みのある、恍惚とした観念の塔にのぼることが出来るが、詩の欠点は、言葉にひたりきる時間が短いことで、日本語の馥郁とした香気に浸るには、どうしても散文でなければならない。 言葉は意識という時間のたゆたいをつくっている。 言葉がなければ時間も存在しない。 人間は自分を理解するに足るだけの言語を構築することによって自分自身を理解しはじめるのであって、そのとき初めて自分という存在が生じる。 人間として存在し始めるのは、そこからで、それまでは人間といえども、人間化が可能な動物、とでもいうべきものなのであるに違いない。 言葉が稀薄な人間は存在として稀薄である。 言葉が粗悪な人間をみると、名状しがたい、「人間になろうとしてもがいているなにか」に見える。 人間を人間たらしめているのは言葉で、他のものではない。 感情などは、観察すればわかる、犬のほうがよほど純粋に豊穣に持っている。 2 いつか、炭水化物は身体によくないような気がして、しばらく食べるのをやめていたが、炭水化物にも依存性があるのか、ときどき無性に食べたくなるので、トーストを焼いて、バターとベジマイトを塗って食べた。 きみはもともと連合王国人なのだから、マーマイトであるべきだ、という人がいるかも知れないが、いかなる因果にやありけむ、ぼくはベジマイトのほうが好きである。 そうしてベジマイトの醍醐味はパンと一緒にやってくる。 きゅうりのサンドイッチとベジマイトを塗ったトーストは、自分の一生そのものみたいな食べ物なので、毒でもなんでも、やめてしまうことはないだろう。 この炭水化物も人間にとっての「言葉」のようなものなのだ、とヘンなことを考える。 人間を人間たらしめているなにか。 人間が存在を依存しているなにごとか。 人間が人間たる所以。 人間にはたくさんの秘密があるのではなかろうか。 3 日本語は自己愛にひたるのに向いている言葉である。 谷崎的な世界。 谷崎は男語の世界をまったく信用していなかった。 言い方を変えると、日本語においては女の言葉だけが真実を語りうるのだと知っていた。 言われてみれば、日本語はもともと翻訳語として以外は、女が生みだした言葉なので当然のことなのだが、そんな簡単なことも谷崎潤一郎が現れるまでは隠蔽された事実として存在した。 日本の男達の野蛮性は、少なくとも部分的には、言語の欠落に由来している。 妙にしゃっちょこばった、現実から乖離した観念的な思考しか出来なくて、なにをどう考えても「机上の空論」に戻ってしまうのは、もともとスムースに機能する言語をもたないからだろう。 日本語人の男が話すのを聴いていると、年老いた、駄々をこねる子供のような、不思議で歪(いびつ)な印象を受ける。 論理がまるでデタラメで、懸命に「イヤイヤ」をしている人のようである。 「イヤイヤ」をする人の顔を見ると、老人で、そのかけたがえたような印象が、「日本人の印象」になっている。 老いた子供。 (彼にとっての)悪戯としての性的興味に満ちた、スケベニンゲン。 それは畢竟「愛」ということがよく判らずに成長してしまった人間の姿であって、母親に愛されるばかりで、誰かを男として愛する、という立場を持たなかった人間の姿である。 「無限に許す女」というイメージが19世紀のロシア人や20世紀の日本人は好きだが、公平に述べて、それは甘やかされた人間の妄想であるとおもう。 英語人なら「Grow up!」と述べるだろう。 人間はおとなになれば、子供っぽい、口に指をくわえた幻想から出て、女も人間なのに違いないという現実になじまなければならない。 … Continue reading

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Rising Sun

コーデル・ハルのノートを眺めていると、戦争に至る人物群のなかで、ひと際、日本人全体への嫌悪に満ちていたのが判る。 この「国連の父」という祝辞のなかで死んだ人がグルーの報告や来栖・東郷の述べる事をまったく信用しなかったことは日本の真珠湾攻撃に直截むすびついた。 ハルの念頭にある日本人は「嘘つきで攻撃性が強い倫理がゼロの民族」で、その日本人全体への印象は終戦後も変わらなかったが、見ていて印象に残るのは、ハルの日本人観は、例えばキッシンジャーに受け継がれて、いまのアメリカの、外交上の「基本民族観」のようなものになっていることです。 朴槿恵の対日強硬方針は日本の人にショックを与えたが、そこで訝しんでいた人は朴槿恵が日本の陸軍士官学校の卒業生だった朴正煕の娘であることを忘れているので、問わず語らず、韓国の人にとっては「朴槿恵は日本贔屓なのではないか?」という疑いはつきまとって離れない疑問だった。 日本の苛酷な支配の下で、娘を軍隊付きの売春婦にするために連れ去られ、路傍で「態度が悪い」という理由にもならない理由によって殴られ続けた韓国の人にとって「公式の場で日本に対して宥和的な態度を示すこと」はタブーであって、光復節、日本の圧政からの解放を国家のアイデンティティとする韓国にとっては「公式には日本になれなれしくしないこと」が国是であるのは当然のことです。 「日本贔屓なのではないか」という国民の疑いは、だから、朴槿恵にとっては、常に政治家としてのアキレス腱だった。 あるいはアメリカ駐日大使として太平洋戦争前に戦争を回避するための様々な建言を行ったジョセフ・グルーへの英語世界での現在における評価は「口の巧い日本人に言いくるめられたおひとよし」にしかすぎない。グルーが誰の目にも「日本贔屓」であったことは、皮肉なことに、やはり日本贔屓の傾向があったフランクリン・ルーズベルト大統領を対日強硬策へ押しやることになった。 二日間、日本語を離れて、クライストチャーチへ出かけた。 友達と会って久闊を叙して、やっと始まった市街の復興で、いくつも出来た、旧来よりも遙かに審美的にも味覚的にも新しい、コンテンポラリーヨーロピアン料理を中心としたレストランで、ランチとディナーと、一緒に食事をして、楽しい時を過ごした。 未来の焦点であるナイジェリアの人々は、どう過ごしているか、今度、broodsが帰国公演をやるみたい、コロンボストリートにオーストレイジアでいっちゃんおおきいウィスキーショップが出来たから行ってご覧よ。 最もおおきな契約を担っているのはイタリアの会社で、そのせいで、街にはイタリア人がたくさん溢れている。 おかげでイタリア料理の質が向上してるんだ。 クライストチャーチは、地震から6年、ようやく復興のピッチが早くなって、CBDの半分はまだ廃墟で瓦礫の山のままだが、それでもあちこちに将来を見越したチェーンホテルが開業したりして、もう5年もすると、「新しいクライストチャーチ」が完成しそうだった。 フラストレーションで、それまではついぞ聞いたことがないクラクションの音をよく聞いたりして、苛立ちが隠せなかったひとびとも、穏やかな顔つきになって、チョーのんびりで有名なカンタベリー人に回帰しつつある。 町の南を縁取るポートヒルに登ると、満天の星空で、やっぱりオークランドよりも星の数が多いよね、とバカなことを考える。 そういえばリトルトンに住む友達にも長いこと会っていないが、今回は無理だな、次のときに訪問しよう。 モニとふたりで、叢に仰向けに寝転がって、星を見る。 シューティングスターが空を横切って、こんなに町に近い場所なのに流れ星が見えるなんてクライストチャーチはやっぱり田舎だと述べて、ふたりで笑い合う。 口にはださないことにしたが、こんなに楽しい生活をデザインしてくれて、ありがとうモニさん、と考える。 ところが、モニさんのほうは、急に上体を起こして、 「ガメ、ほんとうにありがとう」と言うので、すっかり驚いてしまった。 Uberで空港に行こうとしたら、「呼べるクルマが一台もありません」という表示が出てびっくりする。 タクシーを呼んで、uberが来ないのはどういうことなんだろう、と聞くと、朗らかな女の運転手の人が、「ああ、uberが町にやってきてから2ヶ月しか経ってないんですよ。わたしはuberもタクシーも使わなくて、普段はバスしか使わないからどんな様子か知らなかったけど」と言う。 「自分のクルマも運転しないんですか?」と驚いて訊く。 「運転は仕事だけ」と答えて笑っている。 最近はクライストチャーチでさえ、公共交通機関を使う人が増えた。 時代が変われば社会も変わる、と歌うように述べている。 メモリアルアベニューはオーバーブリッジを架けるための大工事ちゅうで、空港のアイコンであるスタンドの上のスピットファイアーが工事の音をうるさがっているように見える。 オークランドに着いて、uberでナイジェリア人の運転手と大笑いしながら帰ると、すっかり楽しくなって、日本語の世界を覗いてみようと考える。 初めに目にはいったのが 発言元のアカウント遁走してますな。 https://t.co/QX7nwuSDSq — ブリンツオイルン (@qummoff) June 14, 2016 で、相変わらずというか、日本語世界で2日や3日インターネットから離れていると、いつも、例外なしに「言い訳ができなくなって逃亡中」ということにされている。 日本語は、こうやって眺めていると、小心で吝嗇な都知事や、首相や、リベラルや右翼や、ありとあらゆる事象を対象に悪罵がとびかい、中傷が蔓延し、誹謗を固定ツイートにしている人間のクズを絵に描いたような人までいる。 … Continue reading

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