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ひさしぶりに三島由紀夫の「春の雪」を読んだ。
谷崎と三島とは日本文学のふたつの華で、このふたりの絢爛たる日本語を読んでいるときくらい「日本語をやってよかったなー」とおもうことはない。

言語表現としては西脇順三郎や田村隆一を読んでいるときのほうが、より高みのある、恍惚とした観念の塔にのぼることが出来るが、詩の欠点は、言葉にひたりきる時間が短いことで、日本語の馥郁とした香気に浸るには、どうしても散文でなければならない。

言葉は意識という時間のたゆたいをつくっている。
言葉がなければ時間も存在しない。
人間は自分を理解するに足るだけの言語を構築することによって自分自身を理解しはじめるのであって、そのとき初めて自分という存在が生じる。

人間として存在し始めるのは、そこからで、それまでは人間といえども、人間化が可能な動物、とでもいうべきものなのであるに違いない。
言葉が稀薄な人間は存在として稀薄である。
言葉が粗悪な人間をみると、名状しがたい、「人間になろうとしてもがいているなにか」に見える。
人間を人間たらしめているのは言葉で、他のものではない。
感情などは、観察すればわかる、犬のほうがよほど純粋に豊穣に持っている。

いつか、炭水化物は身体によくないような気がして、しばらく食べるのをやめていたが、炭水化物にも依存性があるのか、ときどき無性に食べたくなるので、トーストを焼いて、バターとベジマイトを塗って食べた。
きみはもともと連合王国人なのだから、マーマイトであるべきだ、という人がいるかも知れないが、いかなる因果にやありけむ、ぼくはベジマイトのほうが好きである。

そうしてベジマイトの醍醐味はパンと一緒にやってくる。

きゅうりのサンドイッチとベジマイトを塗ったトーストは、自分の一生そのものみたいな食べ物なので、毒でもなんでも、やめてしまうことはないだろう。
この炭水化物も人間にとっての「言葉」のようなものなのだ、とヘンなことを考える。

人間を人間たらしめているなにか。
人間が存在を依存しているなにごとか。
人間が人間たる所以。

人間にはたくさんの秘密があるのではなかろうか。

日本語は自己愛にひたるのに向いている言葉である。
谷崎的な世界。
谷崎は男語の世界をまったく信用していなかった。
言い方を変えると、日本語においては女の言葉だけが真実を語りうるのだと知っていた。
言われてみれば、日本語はもともと翻訳語として以外は、女が生みだした言葉なので当然のことなのだが、そんな簡単なことも谷崎潤一郎が現れるまでは隠蔽された事実として存在した。

日本の男達の野蛮性は、少なくとも部分的には、言語の欠落に由来している。
妙にしゃっちょこばった、現実から乖離した観念的な思考しか出来なくて、なにをどう考えても「机上の空論」に戻ってしまうのは、もともとスムースに機能する言語をもたないからだろう。
日本語人の男が話すのを聴いていると、年老いた、駄々をこねる子供のような、不思議で歪(いびつ)な印象を受ける。
論理がまるでデタラメで、懸命に「イヤイヤ」をしている人のようである。
「イヤイヤ」をする人の顔を見ると、老人で、そのかけたがえたような印象が、「日本人の印象」になっている。
老いた子供。
(彼にとっての)悪戯としての性的興味に満ちた、スケベニンゲン。

それは畢竟「愛」ということがよく判らずに成長してしまった人間の姿であって、母親に愛されるばかりで、誰かを男として愛する、という立場を持たなかった人間の姿である。
「無限に許す女」というイメージが19世紀のロシア人や20世紀の日本人は好きだが、公平に述べて、それは甘やかされた人間の妄想であるとおもう。
英語人なら「Grow up!」と述べるだろう。
人間はおとなになれば、子供っぽい、口に指をくわえた幻想から出て、女も人間なのに違いないという現実になじまなければならない。

女は「おかあさん」ではない。
女のひとは、きみの前に、きみと変わらないひとりの人間として立っている。

4

Christine and The Queens

は、目撃した人たちに、「こんなことがありうるのだろうか?」という衝撃を与え続けてきたが、最近、あれは結局、あくまでも自分独自であろうとする欧州人の伝統の延長にあるのだ、と考えるようになってきた。

こういうと日本語人は非難の嵐で、「いったいなんという傲慢か」と述べるだろうが、やはり、「文明」と名付けうるものは欧州にしか存在しないのではないか。

欧州人が述べていることはただひとつで「私は私で、それだけが私にとっての価値なのだ」と述べている。
そして文明の力とは、それをまっすぐに信じられることである。

社会なんて、おれの知ったことかよ。

きみは言うだろう。
「だが、欧州を蒸留したような国であるアルゼンチンで起きたことをみるがいい」

OK。
でも社会が破滅したからと言ってアルゼンチン人たちは破滅したりはしなかった。
人間であることに対して社会がはたしうる役割は小さい。
きみにそれが「ピンとこない」のは、きみが何だかよく判らないうちに、自然に全体主義的思考を身につけてしまっているからではないか。

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自然に帰る、のだとおもう。
モニさんの提案で、ミッションベイの砂浜で、波打ち際の水に足をひたして巨大な解放を感じるぼくは、部分的に「自然に帰る」死を受けいれているので、いわば死ぬ準備をしている。
人間の素晴らしさは人間がいつか必ず死ぬことに起因している。

神などは、どれほどのものだろう

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4 Responses to New

  1.  2005年に「春の雪」が映画化されたので初日に観に行ったのですが、あまり出来がよくなかったので終演後やれやれと帰ろうとしたところ、となりの席の若い女性から声をかけられました。その方は韓国の方で三島由紀夫の大ファンでほとんど日本語で読んだそうで、韓国では彼の死が誤解されて作品は上演されないのだと聞きました。日本語のガイドをしながらお金を貯めて年に1度日本に来て三島作品を観るのが楽しみなのだと言っていました。
     中国大連市の旧満州鉄道の本社ビルが今は満鉄の資料館になっています。関係者が高齢化したため今は訪れる日本人も少なくなってしまいましたが、3年ほど前私が参りましたとき日本語の上手な方が大連の若い男性がガイドをしてくださったのですが、日本人中高年の団体が来ていてガイドさんがパンフレットを取りにいっている間にその中のひとりが「ああやってへいこらしてるけど俺たちがいなくなったら悪口言ってるんだろうな」と言ってみんなで大声で笑っていたのですが、戻ってきていたガイドさんがドアの陰で頃合いを見計らってからにこにこ出てくるのを見てしまいました。彼らが帰ったあとなんとなくきまづくて「不好意思…」と言いかけたら、ガイドさんが「没事。日本人の男性いつもああね。彼らは司馬遼太郎大好きだから全部日本語で読んだよ。仕事だからね。彼らには見せなかったけど総裁室みせてあげるよ。」そう言って案内してくれました。

     また日本語が’長くなってすみません。外国語で読書をするのはとてもたいへんで私も最初はどうしてこんなことを始めちゃったのかなと思うのですが、やがて内容に没頭して涙が本の上にぽたりぽたりと落ちると「ああ、途中でやめないでよったな」と思います。今日の記事を読んで、亀殿の長い日本語とのお付き合いに思いを馳せているうちに’上記のおふたりを思い出しました。 

  2. DoorsSaidHello says:

    私の庭は良い庭だった。
    私の好きなあらゆる木があって草があった。
    季節には4時間も作業服を着て庭にいて、汗びっしょりで煉瓦敷の小道に寝転がった。
    私の庭だからどこで寝ても誰の邪魔にもならないのはいいな、と思った。
    空が青かった。

    失って何年かして気づいたのだが、あれは私の中の「自然」の小さな再現であった。
    私は自分が「自然」だと思う場所を自分で作った。
    それはたぶんその中で静かに死にたかったのだろうと思う。
    庭造りは死に場所の準備であり、私は死ぬ準備をしていたのだ。
    まだ人生の半ばであったのに。

    庭を失い、用意した死に場所から立ち去って思うのだが、
    生きるとは明日をも知れないと言うことではないのだろうか。
    明日じぶんがどのような形になっているのか知らないということは不安だけれど、
    それこそが生の本質なのではないかと思う。

    もしもあのまま庭が完成するまであそこにいたら、
    私は自分の死を待つ人生を生きるか、
    庭を捨てて新しい人生を始めるかの選択をしただろう。
    おそらく庭は捨てられる運命にあった。

    私の人生は中絶させられたわけではなかったことが、今はまた分かる。
    生きる限り漂流するんだ。
    年老いたのにまだ生まれ直すなんて、なんて滑稽で素晴らしいんだろ。
    人間に生まれるのは、もしかしたら幸福なことなのかもしれないと、
    ガメさんに出合ってからときどき思うようになったよ。

  3. じゅら says:

    「無限に許す女」は単独だと存在することができないものです。許す対象、許される相手がいて初めて成立するイメージであると思います。対になるものとして私の中で想起されるのは例えば、人を殴ったり殺したりしておいて、意識の上ではその自覚がなく、自分こそが被害者であるかのように思いそのように振る舞う男性です。他人はおのれの自己愛を満たすためのパーツでしかない。妄想の中の自己イメージを実現させるために利用し動員するための物。女性でもそういうふるまいをする人はいますけど、男性はやはり社会的に許されている度合いが違うと思います。
    「日本語は自己愛にひたるのに向いている言葉」
    私はほぼ日本語しか分かりませんが、本当にそうかもしれないと感じます。妄想と夜郎自大の世界にどんどん突き進んでいるのを見るといたたまれない。それだけならまだしも、いよいよ乏しくなってきた残り少ないリソースを、「自分は、我々はえらい、すごい、優れている、好かれている愛されている尊敬されている」という幻想を維持するために注ぎ込んでいるようで。薄々分かってるからなお必死でしがみつくのかもしれませんが、大穴の開いたバケツに血や汗や涙や尊厳や命をどんどん突っ込まれる方としては、「知るか」の後に思いつく限り、渾身の悪態を並べる権利くらい欲しい。
    しかし自分の言葉すらどんどん不自由になってきたような気がします。今何を書いているのかよく分かりません。

    日本語の趣味世界がおおむね惨憺たるありさまで、うっかりすると自分の正気が疑わしくなるため、このところ英語の方をよく見ています。書いてあることはよく分からないけど、日本語よりずっと安心できるような気がする…。
    みんなが楽しんでいる(ように見える)のにどうしても合わせられないのは、自分に何かとてもよくない問題があるのではないか、そう感じることをずっと強いられてきましたが、おかげさまでずいぶん脱出できてきたようです。

  4. snowpomander says:

    いまここ、でも明日かも。神など(と言う言葉)は、どれほどのもだろう。
    消えたブログ:狂気の世界の富はメモリースティックに入れて納棺、ガメ・オベールの副葬品に相応しいと思う。狂気は新たな狂気に変容するか、まったき常軌の人類世界への変換になるか、どちらにしろ好きに生きたらええやんか。

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