Monthly Archives: July 2016

Diary1

1 内緒の話をしよう。 あなたはモニさんが現れるまでの、わしの最大の(てゆーのはヘンだけど)ガールフレンドで、あなたがわしと結婚することに真剣であったのとおなじくらい、わしもあなたと結婚することを真剣に考えた。 あなたは、ぼくの真剣さを信じなかったろうけれど。 あの頃、ぼくは、簡単に言えばロクデナシで、ラスベガスで完膚ないまでにすって、赤い砂漠の岩の上に寝転がって、もうどうとでもなれと思ったり、メキシコの、プラヤデルカルメンへの国道で、一文無しで行き倒れて、大西洋を越えてやってきた妹に救われたりしていた。 でもあなたはオカネモチの娘に独特な純良さで、わしの魂を救おうとしてくれた。 おぼえていますか? ロンドンの、あなたが必要ですらないパートタイムの店員をやっていた美術骨董時計店で、時計を掃除する手を休めて、 「ガメ! あなたに会えるとは、なんと素晴らしいことでしょう! ずっとニューヨークに行ってらしたのでしょう。 『新世界』はどうでしたか?」と述べたときのことを 懐かしい声。 懐かしいアクセント。 あなたは、わし世界のひとなのだった。 セブンダイアルズを歩いて、チーズ屋でチーズを買って、ミドルイースタンカフェで、コーヒーを飲んだ。 あなたとぼくのアクセントを聞いて振り返るひとたち。 ジュラシックパークの恐竜に出会ったとでも言うような。 ぼくはあなたに飽きていたのではなくて、自分が生きてきた世界に飽きていたのだと思います。 なんだか、泣きたくなってしまう。 小さなベンチに腰掛けてSeydou Keitaの写真を何枚も見た。 あなたのやさしい唇にふれて、これは、なんというやさしい時間だろうと述べた。 あなたは19世紀的な女びとであって、「ガメ、あなたはきっと、わたしと結婚するのでしょうね?」と述べた。 柔らかなシルクのサマードレス。 滑らかな太腿。 無防備な太陽。 金色の産毛が輝いている、アールヌーボーのライトのなかで、あなたの腕が伸びていて、ぼくはぼくの社会のおとなが振る舞うべく振る舞っている。 でも、ぼくは女神に似たあなたの呼ぶ声に答えなかった。 ぼくは出て行った。 世界の外へ。 ブライトンのパーティで会ったでしょう? あなたは病院が八つとふたつのホテルチェーンの持ち主で、ホステスの席で、艶然と微笑んでいて、ぼくの名が紹介されると、少しだけ顔が強ばった。 あなたは、ベッドの暗闇のなかで、ぼくがどうしてそんなことをするのかと怒ったことを思い出していたのに違いない。 男と女ということになると、人間は、どこまでも生物的なのであると思います。 人前で、涙を見せたりするのは、わしらの習慣ではない。 激しい感情を見せるのは、明らかにわしらの習慣から外れている。 でもね。 モニもきっとわかってくれるに違いない。 あなたは、いまでも、わしの真の友なのである 2 … Continue reading

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クラウンストリートで

「この頃、ジーンズの人が少ないね」 「ジーンズ、おっちゃんばっかだのい」 モニさんとわしはクラウンストリートのカフェに座って通りを行き交う人を眺めている。 クラウンストリート、と言っても、ニュージーランドや連合王国、オーストラリアはクラウンストリートやチャーチロード、ビクトリアストリートだらけなので、町の名を述べなければどこにいるか判らなくて、モニとわしはシドニーのクラウンストリートにいたのでした。 モニは、もともとジーンズをあんまり穿かない人で、知り合ってからずっとサイズと体型が変わらない便利を利して、ときどき昔から持っているジーンズを穿いて庭で遊ぶくらいだが、主に半ズボンでも、冬は穴あきジーンズばっかしのわしとしては、最新型わしについて考究しなければならなくなってしまった。 生まれてからずっと、労働するということに縁がなくてプーなので、Tシャツ+ショーツかタキシードという選択で、まんなかのスーツは、一応は持っているが2回くらいしか着用に及んだことがない。 ジャケットはいっぱいあるが、スーツは、なんだか嫌だなあーと考える。 理由は考えてみたことがない。 クラウンストリートは、よい通りで、通りのサリーヒルズ側には良いカフェやレストランがたくさんある。 シドニーは人間が多すぎてくたびれるが、モニの希望にそって南半球に生活の本拠をおいたままで暮らすとすると、将来を考えれば、シドニーにも生活拠点を持たないわけにはいかない。 チョー重い「御神輿」をあげて、昔はあれほど毛嫌いしていたシドニーにやってくることにした。 やってくることにした、と言っても、やっぱりモダンギャラリーの特別展示で長蛇の行列が出来るようなシドニーに住むとくたびれるので、まずアパートを買って、ときどき飛来して、ああぶちくたびれた家に帰るべ、になってオークランドに戻って、それを2ヶ月に1回から1ヶ月に1回、フォートナイトリー、一週間に一回、 一年の半分、というふうにライフスタイルを変えていこう、という計画を立てた。 欧州にもどって暫く暮らす、という、もっとも安楽な生活の夢はBrexitの顛末が象徴する生活という面での欧州の大スランプ時代の始まりで、以前から南半球とアメリカ西海岸の生活圏を主張するモニさんの議論の完勝が証明されて、またしてもわし不明が証明された形になってしまった。 モニは、どうして、あれほど明然と未来が視えるのだろう。 日本人で言えば、昨日死んだ大橋巨泉というひとは生活の設計が上手な人で、税金対策をかねていたのでしょう、OKギフトショップという日本人観光客を対象にしたお土産店をあちこちにつくって、たしかカナダとオーストラリアとニュージーランドの永住権を持っていたはずである。 オークランドの、多分、セントヘリオスという、日本でいえば葉山だろうか、海辺の町に家を買って、北半球の冬にやってきて、過ごしていたようでした。 英語圏に家作がたくさんあったようで、なにしろ、人気タレントとして家作を買い漁ったあとで英語圏は全体が巨大なバブル経済に入っていったので、さぞかし含み資産がおおきくなったのではないか。 義理叔父から話を聞いて、へえ、(アラブ人と並んで投資がドヘタなので有名な)日本の人にも、投資が上手な人がいるのだなあ、と考えたのをおぼえている。 生活するのが余程上手な人であったに違いない。 オーストラリアは今年で26年目になる猛烈な土地バブルの最中で、バブルはどうせいつかは破裂するのだから、いま不動産を買うのは投資効率として最低だが、個人の生活と経済景気の循環の関係は、いつもそういうもので、人間のほうは容赦なく歳をとって、20歳でやりたいこと、30歳でやりたいこと、40歳でやりたいこと、と標識が立っていて、クルマでオープンロードを走って「あちゃ行きすぎちゃったかっら引き返さねば」というのとは違って、いちど過ぎた年齢に戻れない不便さなので、適宜、無駄金を投下しないと、おもったように生きられない。 怠けてばかりいるわりには、わし財産は増え続けて、なんというか、色々な点でニュージーランドに本拠をおいておくのは無理が多くなってしまった。 せめてオーストラリアに本拠の国を変えないと、不自由である、と感じることが増えた。 もともとクライストチャーチと対にしてオペラやスタンダップコメディ、ギリシャやイタリア料理というような用事に滞在していたのはメルボルンで、ここにはかーちゃんととーちゃんの投資をマネッコして買った家もあるが、去年いちど出かけたらバブル症状がひどくなって、客達が聞こえよがしに自分のワイン知識を披露して、1本3万ドルのワインを、そのワインにはどうしても必要なデカンティングもなしで飲むバカぶりで、終いにはチップを要求されたので、どうももうこの町も嫌だな、と考えていかなくなってしまった。 高級イタリアンレストランなどはマンハッタンのそれと似てきて、「ドアのこっちはイタリアだよー。シェフもイタリア、ウエイターもイタリア、イタリー、イタリー」と連呼しているようなレストランのスタイルなのに、全体がディズニーランドみたいな「イタリア」で、欧州と聞けばなんにでも過剰にオカネを払う、英語人たちの田舎者ぶりにつけこんでいるに過ぎない。 もうこうなったら仕方がないと、わし友ルーク @soloenglishjp などが述べていたことも参考にして、大嫌いなシドニーに出かけてみると、メルボルンに較べて、ずっと都会になっていて、むかしは大坂と京都みたいな関係だったのが、メルボルンがちょっと田舎染みてみえるほど、都会に成長している。 気取った、見栄を張りたがる人間が少なくて、全体にアジア的な町で、活気がある。 特に、Sergei Prokofievのオペラ、The Love for Three Orangesの上演は、駄作だと判っているオペラをわざと取り上げて、演出と歌手たちの腕前で、返って滅茶苦茶面白いオペラを作ろうという、マンハッタンでもなかなか見られない都会的な試みで、しかも、うまくいっていた。 なんだか驚いてしまった。 演目が演目なので、観衆もオペラ漬けの人間が多くて、観客席側もよい雰囲気で、いつも観光客が多すぎるマンハッタンのリンカーンセンターよりも遙かに良質な「オペラ空間」になっていて、わしは「シドニーちゃん、ずっと嫌っててごみん」と考えたりした。 フランス料理屋にいったらポークのパテがちょー旨かったとか、どういう理由によるのか、オークランドよりもワインの質が高かったとか、相も変わらぬいやしんぼの理由もあって、案外シドニーに馴染むの速いかも、といまは考える。 盛り場のサイズが拡張して、盛り場と盛り場のはしっこが連絡されて、むかしはシドニーの特徴だった、盛り場と盛り場のあいだの犯罪多発ポケットがなくなっていたことも新しい発見で、もともと「歩く町」だったメルボルンに負けないほど歩けるようにもなっていた。 ここまで読んで、「なんだ、あんたのシドニーて都心だけじゃん」と思った人がいるだろうが、Balmainの一軒屋に住むと、要するに生活はRemueraと同じで、広い庭でころころして、uberならuberで例えばオペラを観に行くことになるが、それではオークランドに住むのと同じことで、同じ生活をするのなら、ずっと人が少なくて、行列というものが存在しない上に、CBDのどこにでも10分以内に着くRemueraの暮らしのほうが楽ちんな点ですぐれている。 経済生活を離れて個人の、いわば享楽の生活について考えると、アパートを出て、隣においしいフランス料理屋があって、そこからぶらぶらと歩いて、クールなカフェやバーがある、やりたければモニとふたりでバークロールをする、というような生活とRemueraみたい生活の両方を楽しみたいわけで、そう考えてゆくと、わざわざ高いオカネを払って同種の2つの生活を手に入れるのは、バブルで40%以上実質価値よりも払わねばならないド腐れ不動産市場であるオーストラリアやニュージーランドでは愚かなオカネの使い方になってしまう。 … Continue reading

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平和憲法という魔法の杖を捨てる

朝鮮戦争が始まったとき、日本政府に対してアメリカが強硬に平和憲法を捨てて朝鮮半島への派兵を迫ったのは、比較的単純な理由に依っていて、「土地鑑」があるのが日本人だけだったからだった。 実際、朝鮮戦争の最大の激戦地のひとつ「長津貯水池の戦い」では、米韓連合軍側にあるのは、日本帝国陸軍が作成した地図だけで、背に腹は代えられない、日本の口にくわえさせた猿ぐつわを外し、手錠を取り去り、足枷も取り除いて、朝鮮半島を熟知する2万人程度の日本軍をまたぞろ朝鮮半島に送り込む以外には選択の余地はないように思われた。 吉田茂という人は、前にも書いたが https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/27/shigeru_yoshida/ アメリカ側から見ると腹立たしいほど狡猾な政治家で、どれほど恫喝しても、押してみても、引いてみても、日本人を戦地に送り込もうという目論見が成功したことはなかった。 このときもアメリカの要請によって日本の若者の生命をさしださざるをえない絶体絶命におもわれた窮地を、政敵政党である社会党と密かに話しあって、憲法九条を盾に自分自身の政権に対して強硬に抗議させるという離れ業で脱出してみせる。 結果は、「長津貯水池の戦い」ひとつでもアメリカ連合軍側は10000人を上廻る死傷者をだしたが、もちろん、憲法九条という外交的な魔法の杖がなければ、この戦場で傷付き死んでいったのは日本人であるはずだった。 戦争放棄を謳っている憲法は日本憲法だけではないことは「憲法第九条の終わりに」という記事 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/14/wherepeaceends/ にも書いた。 欧州ならば、日本の憲法第九条よりも、イタリアの憲法第11条のほうが有名だろう。 だが日本人にとっては「アメリカに押しつけられた」憲法第九条こそが命の恩人で、この現実的ですらない教条にみえる条文ひとつで、いったい何万人の日本人の若者の命が救われたか判らない。 上の記事にも書いたように、韓国兵にとっては真に地獄の戦場だったビンディン省で人間不信に陥り、少しずつ発狂して、ついに悪鬼のようにベトナム市民を殺戮し強姦して歩いた若者たちは、本来は日本人であるはずだったが、第九条という越えがたい壁によって、不幸な役割は韓国の若者たちに割り当てられたのであるにすぎない。 ある理由によって、ああ、日本人は到頭平和憲法を捨てることになるな、と考えて書いた「憲法第九条の終わりに」の記事の日付をみると2014年の4月14日で、いまの憲法改正にはアメリカ軍(←政府ではないことに注意)の意向が強く働いているが、やがてバラクオバマが退任すれば、日本への憲法破棄の圧力は、さらに強いものになるだろう。 日本の右翼政治家たちは、アメリカ側の意向を好機として、自立憲法を、と主張しているが、それは国力を錯覚しているからにしかすぎなくて、いざ平和憲法を捨ててしまえば、皮肉にも今度こそは国民の真の合意を得てつくった自前の好戦憲法によってアメリカの傭兵国家と化するのは、そんなに想像力がなくても理解できる。 戦後ずっと、声高に叫ばなくてもよいときに日本の「リベラル」が叫び続けてきた「日本というアメリカの飼い犬国家」に、ほんとうになりさがる日がやってきたことになる。 世界で初めて「戦争放棄」という不思議な理念を盛り込んだ憲法を持ったのは、正しく記憶していれば18世紀のフランス人たちだった。 フランス人たちが、その後、二度の大戦に巻き込まれたのを見ても判るように、平和憲法だけでは戦争に巻き込まれるのを防ぐのは難しい。 日本が平和憲法を、70年にわたって、あたかも軍事力であるかのように外交上使いこなしえたのは、 1 アメリカが巨大な駐留軍をおいて日本の再軍国化を防ごうと固く決心していたこと、 2 冷戦構造のなかで、しかも海を挟んで、アメリカが脅迫観念として恐れ続けた共産主義国と対峙していたこと、 3 1,2のような好都合な地政学的状況下で、アメリカの日本に対する過剰投資を利用して急速な経済発達を達成して、あっというまに経済大国をつくりえたこと、 という、特殊な状況、あるいは好運な偶然に依っている。 情報公開法によって、衆人の目にさらされる形で、アメリカが「日本を守るため」という名目で駐留させている巨大な軍隊の真の目的は、アメリカ側高官たち自身の口で語られている たとえば、TOP SECRET/SENSITIVE/EXCLUSIVELY EYES ONLY とアンダーライン付きで記されている、キッシンジャーが「あの軍隊は日本を抑え込むためだ。日本はアジアでは最も危険な国だ」と述べている有名な文書は、PDFの形でオンライン上でも読めるようになっている。 http://nsarchive.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB145/09.pdf オキナワと言えば海兵隊員たちにとっては巨大なキャバレーのような印象の基地で、アジア方面に動員された海兵員たちにとっては、ゆいいつの行楽と性の捌け口で、それが琉球人たちがいまに至るまで被害に遭い続ける根底の理由で、アメリカ軍も沖縄県も共になんとか再発を防ごうとしても未だに出来ていない、基地を撤廃する以外には根治不可能におもえる所以だが、この長い間西太平洋方面の兵站の中心だった島も、重要度はおおきく低下している。 まず第一に中国が富んで、他国領土獲得の興味に駆られて紛争を起こす確率が低くなっている。 石原慎太郎の挑発によって始まった尖閣諸島をめぐる紛争は、従来の人民解放軍と政府の関係ならば、当然、小紛争に発展していいはずだったが、中国が平和裡に解決しようとしているのを見て意外に思った専門家が多かった。 中国の興味は、現在起きているアメリカの防衛戦略の東への縮退によって軍事空白になりつつある南沙諸島周辺にあるようで、囲碁を打っているようなものだが、長期的には、中国人民解放軍としてはこの海域を抑えてしまえば、日本などは放っておいても自分の手中にはいる、ということだろう。 日本は、兵站の中心から、「おおきな戦争が起きれば日本列島を前線として敵を食い止める」位置にはっきり戦略上の位置が変化していて、そういう戦略の変化には、日本の経済の止まりそうもない弱体化も寄与している。 現下のアメリカ合衆国にとっては、やがては国力が自己を上廻るのが判っている大国としての中国と、かつての日本を思わせる好戦国家ロシアがふたつの関心の対象だが、関心の軍事への翻訳として地図をみると南に偏りすぎている沖縄はすでに現実の軍事上の必要よりもアメリカが「自由航行権の確保」と呼んでいる太平洋支配の象徴としての意味しか持っていない。 同様に元来島嶼上陸作戦用に編成が出来ている海兵隊自身も、実は、すでに「象徴軍」と化している。 最近の作戦内容を見ても、オスプレイで敵地の領内深くに浸透して拠点を破壊して数日で引き揚げる作戦が殆どで、いわば陸地での島嶼拠点急襲作戦の体だが、やがては曽ての騎兵同様、現実にあわせて編成もおおきく異なっていくはずです。 1945年、日本側が作成して持ってきた憲法草案を見て、戦争に負けたことを全く理解していない傲慢さに辟易したアメリカ占領軍将校たちは、アメリカ側で新憲法のアイデアをつくる。 そのアイデアづくりに参加した若い中尉は「あんなお嬢ちゃん憲法が二年ももつとは思っていなかった」と証言している。 … Continue reading

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