クラウンストリートで

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「この頃、ジーンズの人が少ないね」
「ジーンズ、おっちゃんばっかだのい」
モニさんとわしはクラウンストリートのカフェに座って通りを行き交う人を眺めている。
クラウンストリート、と言っても、ニュージーランドや連合王国、オーストラリアはクラウンストリートやチャーチロード、ビクトリアストリートだらけなので、町の名を述べなければどこにいるか判らなくて、モニとわしはシドニーのクラウンストリートにいたのでした。

モニは、もともとジーンズをあんまり穿かない人で、知り合ってからずっとサイズと体型が変わらない便利を利して、ときどき昔から持っているジーンズを穿いて庭で遊ぶくらいだが、主に半ズボンでも、冬は穴あきジーンズばっかしのわしとしては、最新型わしについて考究しなければならなくなってしまった。

生まれてからずっと、労働するということに縁がなくてプーなので、Tシャツ+ショーツかタキシードという選択で、まんなかのスーツは、一応は持っているが2回くらいしか着用に及んだことがない。
ジャケットはいっぱいあるが、スーツは、なんだか嫌だなあーと考える。
理由は考えてみたことがない。

クラウンストリートは、よい通りで、通りのサリーヒルズ側には良いカフェやレストランがたくさんある。
シドニーは人間が多すぎてくたびれるが、モニの希望にそって南半球に生活の本拠をおいたままで暮らすとすると、将来を考えれば、シドニーにも生活拠点を持たないわけにはいかない。
チョー重い「御神輿」をあげて、昔はあれほど毛嫌いしていたシドニーにやってくることにした。

やってくることにした、と言っても、やっぱりモダンギャラリーの特別展示で長蛇の行列が出来るようなシドニーに住むとくたびれるので、まずアパートを買って、ときどき飛来して、ああぶちくたびれた家に帰るべ、になってオークランドに戻って、それを2ヶ月に1回から1ヶ月に1回、フォートナイトリー、一週間に一回、
一年の半分、というふうにライフスタイルを変えていこう、という計画を立てた。

欧州にもどって暫く暮らす、という、もっとも安楽な生活の夢はBrexitの顛末が象徴する生活という面での欧州の大スランプ時代の始まりで、以前から南半球とアメリカ西海岸の生活圏を主張するモニさんの議論の完勝が証明されて、またしてもわし不明が証明された形になってしまった。
モニは、どうして、あれほど明然と未来が視えるのだろう。

日本人で言えば、昨日死んだ大橋巨泉というひとは生活の設計が上手な人で、税金対策をかねていたのでしょう、OKギフトショップという日本人観光客を対象にしたお土産店をあちこちにつくって、たしかカナダとオーストラリアとニュージーランドの永住権を持っていたはずである。
オークランドの、多分、セントヘリオスという、日本でいえば葉山だろうか、海辺の町に家を買って、北半球の冬にやってきて、過ごしていたようでした。
英語圏に家作がたくさんあったようで、なにしろ、人気タレントとして家作を買い漁ったあとで英語圏は全体が巨大なバブル経済に入っていったので、さぞかし含み資産がおおきくなったのではないか。
義理叔父から話を聞いて、へえ、(アラブ人と並んで投資がドヘタなので有名な)日本の人にも、投資が上手な人がいるのだなあ、と考えたのをおぼえている。
生活するのが余程上手な人であったに違いない。

オーストラリアは今年で26年目になる猛烈な土地バブルの最中で、バブルはどうせいつかは破裂するのだから、いま不動産を買うのは投資効率として最低だが、個人の生活と経済景気の循環の関係は、いつもそういうもので、人間のほうは容赦なく歳をとって、20歳でやりたいこと、30歳でやりたいこと、40歳でやりたいこと、と標識が立っていて、クルマでオープンロードを走って「あちゃ行きすぎちゃったかっら引き返さねば」というのとは違って、いちど過ぎた年齢に戻れない不便さなので、適宜、無駄金を投下しないと、おもったように生きられない。

怠けてばかりいるわりには、わし財産は増え続けて、なんというか、色々な点でニュージーランドに本拠をおいておくのは無理が多くなってしまった。
せめてオーストラリアに本拠の国を変えないと、不自由である、と感じることが増えた。

もともとクライストチャーチと対にしてオペラやスタンダップコメディ、ギリシャやイタリア料理というような用事に滞在していたのはメルボルンで、ここにはかーちゃんととーちゃんの投資をマネッコして買った家もあるが、去年いちど出かけたらバブル症状がひどくなって、客達が聞こえよがしに自分のワイン知識を披露して、1本3万ドルのワインを、そのワインにはどうしても必要なデカンティングもなしで飲むバカぶりで、終いにはチップを要求されたので、どうももうこの町も嫌だな、と考えていかなくなってしまった。
高級イタリアンレストランなどはマンハッタンのそれと似てきて、「ドアのこっちはイタリアだよー。シェフもイタリア、ウエイターもイタリア、イタリー、イタリー」と連呼しているようなレストランのスタイルなのに、全体がディズニーランドみたいな「イタリア」で、欧州と聞けばなんにでも過剰にオカネを払う、英語人たちの田舎者ぶりにつけこんでいるに過ぎない。

もうこうなったら仕方がないと、わし友ルーク @soloenglishjp などが述べていたことも参考にして、大嫌いなシドニーに出かけてみると、メルボルンに較べて、ずっと都会になっていて、むかしは大坂と京都みたいな関係だったのが、メルボルンがちょっと田舎染みてみえるほど、都会に成長している。
気取った、見栄を張りたがる人間が少なくて、全体にアジア的な町で、活気がある。

特に、Sergei Prokofievのオペラ、The Love for Three Orangesの上演は、駄作だと判っているオペラをわざと取り上げて、演出と歌手たちの腕前で、返って滅茶苦茶面白いオペラを作ろうという、マンハッタンでもなかなか見られない都会的な試みで、しかも、うまくいっていた。
なんだか驚いてしまった。
演目が演目なので、観衆もオペラ漬けの人間が多くて、観客席側もよい雰囲気で、いつも観光客が多すぎるマンハッタンのリンカーンセンターよりも遙かに良質な「オペラ空間」になっていて、わしは「シドニーちゃん、ずっと嫌っててごみん」と考えたりした。

フランス料理屋にいったらポークのパテがちょー旨かったとか、どういう理由によるのか、オークランドよりもワインの質が高かったとか、相も変わらぬいやしんぼの理由もあって、案外シドニーに馴染むの速いかも、といまは考える。

盛り場のサイズが拡張して、盛り場と盛り場のはしっこが連絡されて、むかしはシドニーの特徴だった、盛り場と盛り場のあいだの犯罪多発ポケットがなくなっていたことも新しい発見で、もともと「歩く町」だったメルボルンに負けないほど歩けるようにもなっていた。

ここまで読んで、「なんだ、あんたのシドニーて都心だけじゃん」と思った人がいるだろうが、Balmainの一軒屋に住むと、要するに生活はRemueraと同じで、広い庭でころころして、uberならuberで例えばオペラを観に行くことになるが、それではオークランドに住むのと同じことで、同じ生活をするのなら、ずっと人が少なくて、行列というものが存在しない上に、CBDのどこにでも10分以内に着くRemueraの暮らしのほうが楽ちんな点ですぐれている。

経済生活を離れて個人の、いわば享楽の生活について考えると、アパートを出て、隣においしいフランス料理屋があって、そこからぶらぶらと歩いて、クールなカフェやバーがある、やりたければモニとふたりでバークロールをする、というような生活とRemueraみたい生活の両方を楽しみたいわけで、そう考えてゆくと、わざわざ高いオカネを払って同種の2つの生活を手に入れるのは、バブルで40%以上実質価値よりも払わねばならないド腐れ不動産市場であるオーストラリアやニュージーランドでは愚かなオカネの使い方になってしまう。

つまりはロンドンやマンハッタンが候補であったタイプの生活がシドニーで出来るようになったのを発見して嬉しかった、と言い直してもよい。
オペラとモダンダンスの質はもともと高いシドニーだが、ジャズもバレーもクラシックのコンサートも質があがって、いちどバブルが続いて世界中からオカネが流れ込むと都会はこれほど生活の質が向上するのか、と眼を瞠る感じがする。
この地上に、またひとつ、新しい「都会」が生まれている。

考えてみれば南半球では初めての「都会」で、というとブエノスアイレスはどーなるんだ、サンパウロは、リオデジャネイロは、という人がいるはずだが、なにしろ行ったことがなくて、「行くのどうおもう?」というと笑われて「ガメのスペイン語じゃ、まだやめたほうがいいんじゃない?」とスペイン人たちに笑われる始末で、ポルトガル語はなおさら判らなくて、なんとなく昔は都会だったところと、これから都会になるところというか、偏見が頭から去らなくて、どうしても視界から外れてしまう。
英語人のビョーキかもしれないとおもうが、わしはむかしの東京は都会だったと感じていて、言語は必ずしも都会の要件だと意識されていないようなので、ほんとうの理由は、やはりただの無知なのかもしれない。

ともかく、では精確を期して述べると南半球に出来た英語圏のゆいいつの都会で、シドニーがここまで都会に急速に成長したことには、英語人が南半球のオーストラリアとニュージーランドという「英語飛び地」に移動しはじめた、という背景があるように感じられる。

その円滑剤になっているのが中国に堆積されて、いまやたいへんな勢いでオーストラリアとニュージーランドになだれこんでいるアメリカドルで、アメリカドルが敷きつめられたヘルタースケルターを英語人たちがどんどん滑り降りてくる。
欧州や北米人はそこまでバカでないので口にはしないが、やはり北半球の渾沌というおおきな理由があるようです。
口にはしないが、と書いたが、それは欧州や北米での話で、オーストラレージアに着いてしまうと、口がつい軽くなって、「この地域の最も良い点は争乱や社会の混乱から物理的に距離が遠いことだよ」と言う。

Brexitに乗じたアホ連合王国人の「有色人も東欧人もまとめて出てけ」の人種差別騒ぎや、おおよそ半数のアメリカ人は立派にバカでレーシストであることを世界にあまねく知らしめたドナルドトランプ旋風が共通語である英語を伝わって、じくじくと伝染してしまうだろうか、と観察していたが、いまのところは逆の効果で、他人がやっていると人種差別やゼノフォビアが、どれほどアホっぽく見えるかに気が付いて、返って、もともとはレーシストの素質十分なカナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人は、しゃんとしてしまって、多文化社会を堅持しようと決心したように見える。

むかしロンドン人が見た夢がシドニーで実現しているようなもので、なんだかアホらしいというか、連合王国人はどうしていつも自分で発明したことを、途中で他人に譲って、自分たちの手のなかではダメにしてばかりいるのか、とタメイキがでる。
なんのことを述べているのか判りにくい人は、ゴルフ、テニス、ラグビーを発明した連合王国人が、これらのスポーツでいかに長い不振を極めたかの顛末を考えてみると良いのではなかろーか。

「ガメとわたしの将来はどんなふうになっていくだろう」
二杯目のピノノワールを、ストリッパーふうのハンサムなにーちゃんが持ってきたところで、モニが述べているが、それは不安をこめた調子ではなくて、面白かった第1幕の休憩時間ちゅうに第2幕への期待をこめて新作舞台について述べている人の調子です。
「もちろん、もっと楽しいのさ」と、わしは答えないわけにはいかない。
現代世界の灼熱の太陽のしたで、手に手をとって、深い水に飛び込んで、水底を蹴って、水の上に顔をだす、あの冒険がまた始まった。

今度は、ちいさいひとびとと一緒に。

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6 Responses to クラウンストリートで

  1. vida768 says:

    生れた場所が世界一をずーっとやって来ましたが、4か所移動で、今の棲家が、当分の間はとてもしっくりと
    いうことになりました。ここの大学をでた若いもんがいろんな店を興してくれたので、ちっちゃな店をつくろーという人々が増えつつあります。何と言っても彼らが私の顔を覚えてくれて、「はーい、また来たね」が嬉しくて。コンサートや美術展にお出かけするにも適当な距離なのも大きいですが。
    では、冒険に行ってらっしゃいまし。

  2. mynameisa2c says:

    このブログとも、ましてやガメさんとも全然関係のないことなんですけど、どうしても聞いてもらいたくて書かせてもらいます。

    今朝、うちの三男が関空からオーストラリアへ発ちました。

    三男は、小学校のころ担任教師に悪戯か何かについてもみあげを引っ張って叱られている時に、「自分はやっていない、濡れ衣だ」とその担任教師のもみあげを同じように引っ張り返して抗議するような子供でした。
    中学に入り、上の二人の兄が陸上競技で成績が良かったこともあり、担任やクラブ顧問から陸上競技を勧められ一旦は入部したものの、兄と比べられることが嫌で、兄たちよりも成績が良かったにもかかわらずすぐに辞めてしまいました。

    高校進学の際も、すぐに自立したいと「高校進学はしない」とすったもんだがあり、結局は親や教師の大人たちの勧めに従って進学はしたものの、成績は振るわず、学校にもなじめなかったのか親友と呼べるような友人もできなかったようです。

    高校卒業後も就職(就職活動すら)することもなく、知り合いのつてを頼って働き口を探してのアルバイト生活を送っていました。

    これ左様に、何かに没頭するとかどっぷりハマるとかいうことなく、何事も長続きしなかった三男が、2年ほど前に「自分はこのまま日本にいたらダメになる」と、海外へ出ると言い始めました。

    私や妻は「それならまず英語くらいは勉強しないとね」などと気の長い話していたのですが、本人は渡航に必要な手段を調べ、費用を調べ、水商売やら土方仕事やらをして資金を貯め始めました。
    途中水商売で出会った女性と同棲したり、せっかく溜まっていたお金をパチンコで擦ってしまったりしながらも、ついに今日オーストラリアへ発ちました。

    三男は現在21歳。
    ガメさんから見ると「もういい大人じゃん。それくらいできて当たり前でしょ?」と思われるかもしれませんが、また親バカとも思われるかもしれませんが、自分で考え、自分で準備し、自分の意思で行動した三男を頼もしく誇りに思うのです。

    三男は、英語は全く話せないままです。特に何かのスキルを持っているわけでもありません。
    そんな人間が海外の地でうまく生きていけるのかどうか?不安も尽きません。

    私の気持ちの中には、充分な援助もしてあげられない自分を不甲斐なく思う気持ちや、息子に対して後ろめたさがあります。
    そんな親にも「行ってきます」と笑顔で手を振って出発してくれた息子への安堵のような気持ちがあります。
    そして何より、誰かに言われたからではなく、渋々でもなく、自分の意思と力で一歩を踏み出した息子に、祝福の気持ちとどうか無事で自分の納得にいく人生を送って欲しいと祈るような気持ちでいます。

    こんな文章を突然送られても困ってしまいますよね?ごめんなさい。
    ご迷惑であればすぐにでも削除いただいて結構です。
    でも、いつも素敵な文章を読ませてくれるガメさんにどうしても聞いてもらいたかったのです。お許しください。
    バカ親の下手な息子自慢かもしれませんが、できればガメさんも彼の一歩を祝してあげて欲しい、彼のこれからの幸運を祈ってあげて欲しいと思ったのでした。

  3. mynameisa2c様
     息子さんの自立と旅立ちに心より祝福と応援をお送りします。何年か前に私も息子を海外に見送った経験がございます。すばらしい文章を拝見してその時の自分の気持ちを思い出しました。海外滞在中は決して弱音を聞きませんでしたが、あとから聞いたところによると最初の三か月は大学の先生が何を言っているかもわからなくて日本に帰りたくてしょうがなかったと申しておりました。毎週決まった時間にスカイプで聞く私の笑い声が実は励みだったとだいぶ後年になってから聞きました。私は私で外国の広大なキャンパスをクラスメートと楽しく話ながらときには議論をしながら歩いている息子の姿を想像しながら勝手に幸せな気持ちになっていました。いろいろ迷ったようですが結局彼は帰国して日本で就職し国際結婚をしました。息子の渡航を機に私の人生も大きく変わりました。今傍らに静かな寝息をたてて眠っている小さかった人のさらに小さな人を見守りながらこのコメントを書いております。日本はたいへんな状況ですが私個人の幸せはゆるぎなく小さな人2世がまた日本を旅立つときまでは生きていたいと願っております。
     maynameisa2c様におかれましてはまた機会がございましたらお話をお聞かせくださいませ。亀殿が提供してくださるこの場所は安全で誰にでも開かれたサロンでございます。亀殿とお友達、また息子の国際結婚を通して私は人の善意を信頼し知の共有するということを学びました。すてきな文章をありがとうございました。ご家族皆様のご多幸をお祈り申し上げます。乱文ごめんくださいませ。

    • mynameisa2c says:

      後藤さま、素敵な、本当に素敵な文章をありがとうございます。

      ”小さかった人のさらに小さな人”が傍で寝息をたてていらっしゃるとのこと、その文章だけでも幸せな時間がそこに流れていることが思いはかれます。

      それまでは「うざい」「だるい」と親子の間でまともな会話もしないような三男でしたが、出発が具体的になるにつれ自分の思いや考えを話してくれるようになっていました。
      次男が就職で家を出ていることもあり、家族みんなが揃う機会はほとんどなくなったのですが、兄弟それぞれが社会とそれぞれの関係を築くようになってから、却って兄弟がお互いの存在についてリスペクトできるようになっているようにも感じます。

      発って2日目、息子からは寝泊りする宿は見つけたと連絡がありました。親としてはそれすら決めずに出発した無鉄砲さが心配なのですが・・・。

      繰り返しになりますが、素敵な文章をいただきありがとうございます。
      きっと素敵な親子関係を築かれているのだろうとこちらまでほっこり幸せな気持ちにさせていただきました。ありがとうございます。
      Twitterのアカウントをフォローさせていただきました。また後ほどそちらでもご挨拶させていただこうと思います。宜しくお願いいたします。

      後藤さま、ご家族さまのご多幸をお祈りいたします。そして、この機会を与えてくれたガメさんにも感謝いたします。
      ありがとうございます。

  4. mynameisa2c さん
    このすばらしいプログの一読者のものです。すばらしいお話をありがとう。3男さん、すばらしい出発をなさいましたね。
    ふいに25年前のじぶんを思い出して、胸があつくなります。もうあまり出発のころのことは思い出すことはなかったのですが。
    私が到着したのは、イタリアの人口5千人くらいの田舎町。私がその町を通過した4人目のアジア人だと言われたくらい、本当に名の知られていない小さな町でした。
    じぶんで選んで日本語のまったくしゃべれない状況を作ったにもかかわらず、最初の一ヶ月は、生まれてはじめて食べるものすべて砂のように感じる、味覚が麻痺するくらい、交感神経がはりまくったような生活を送ったことを覚えています。
    でもそれも過ぎていくんです。乗り越えていけます。
    いま子供の母となって親の気持ちがわかるようになってみて、あのとき何も言わずだまって出発させてくれた両親に感謝しています。
    mynameisa2c さんもりっぱでしたね。
    きっと息子さんが、mynameisa2c に新しい世界、新しい生き方、価値観ををいっしょに見せてくれる日がきます。お楽しみに!

    • mynameisa2c says:

      m. さま、素敵なコメントをありがとうございます。

      息子が抱えているであろう不安を思うと、胸が張り裂けそうになることがあるのですが、m. さんのように実際に海外の地で自分の人生を切り開いてこられた方の経験を伺うと勇気付けられます。ありがとうございます。

      「新しい世界、新しい生き方、価値観ををいっしょに見せてくれる日」を楽しみにしながら、日々過ごしたいと思います。

      m. さんの人生のご多幸を心よりお祈りいたします。
      素晴らしい文章をありがとうございました。

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