Monthly Archives: August 2016

いまのは、もうちょっと、いまいちだったなあー。 ガメ、コーヒー淹れてあげるから、もういっかいやらない? ね?ね? いいでしょう? 疲れないようにしてあげるから。 そこじゃない。 へっただなあー。ちがうちがう! そんなに荒っぽくしたら痛いでしょう! おもいっきり、お尻をつねられたこともある。 十代で身につけるべき、料理や掃除、洗濯の仕方、数学、スポーツ、外国語ちゅうような、「やらなくたって別にかまやしないが、身につけておくと残りの一生がぐっと楽になる」諸事一般教養のなかには厳として房中術、が入っている。 あ、きみ。 そこの漢字に弱い、きみ 房中術というのは「セックスのやりかた」のことです。 十代の半ばくらいから後半にかけて、男も女も、身体のなかに、なんだかむくむくと欲望がこみあげてきて、入道雲のように肉体のなかに垂直に伸びてくる。 どう考えても自分のために造形されて、魂までテーラーメイドでできたみたいにぴったりで、机に向かって数学の問題を考えているときも、ガッコの帰りに友達たちとチーズバーガーを食べているときも、あるいは両親の差し回したクルマの後席から通りを眺めているときであってさえ、たったひとりの人の面差しが眼の前をちらついて、そのひとのことしか考えられなくなって、甚だしきに及んでは、朝起きてから夜寝るまで、一瞬の間もなしに、そのひとのことばかり考えて、息をするのも苦しくなってくる。 初めは言葉で「あのひとは、こういうところが素晴らしい」と考えていたものが、言葉は高熱によって熔解して、なんだかドロドロになってしまい。 頭を抱えて、ベッドに横たわって、ぐわあああああああああ、になる。 ぐわああああ語で考えても、中庸をもたらす哲学的な解決に辿り着くわけはないので、混乱に混乱を重ねて、瞑も鯀も、乾坤の区別も、いっさい判らなくなって七転八倒するが、経験がないというのは、そういうもので、この後に及んでも、さりげなく「今週の金曜の夜、映画観に行かない?」も言えない。 バカまるだし。 どこまでが恋で、どこからが性欲で、どこからどこまでが好奇心で、どこからどうなるとマジメな恋愛に至るのかも、まだ、なんにも判らなくて、ただ性欲と性欲がぶつかりあう週末の夜を彷徨ったり、危険な目にあったり、vulnerableなティーンエイジャーだと見るや、アルコールを買うためのIDの提供やドラグや、もっとサイテーなことには札束で充満した財布をちらつかせて、巧言令色をもって襲いかかるプレデターおっさんたちもいて、いま振り返って考えてみると、あんな果てしなく広がる地雷原みたいな時期を、よくもまあ運良く生き延びられたものだと考える。 空中戦を戦うパイロットの死傷率は、初めの空中戦が最も高くて、バトル・オブ・ブリテンでも、まだ、どういうときにどうすればいいか判らないnoviceなパイロットほど、そこで一生が終わりになった。 最も危険な第一段階を、やっと生き延びて、大学生の頃になると、ようやっと「性」と向き合えるようになります。 いまのは、もうちょっと、いまいちだったなあー。 ガメ、コーヒー淹れてあげるから、もういっかいやらない? ね?ね? いいでしょう? 疲れないようにしてあげるから。 そこじゃない。 へっただなあー。ちがうちがう! そんなに荒っぽくしたら痛いでしょう! おとなの人間として、社会への進水式をあげたばかりの若い男と女は、知り合って、むやみやたらと森羅万象について話しあって、デイビッドボウイはいいよね、ジェスロタルも好きだな。 えー。そう? わたしは、イアンアンダーソンは、もう古いとおもう。 なんだかイギリス臭すぎて好きになれない。 モンティパイソンも、おやじギャグが多すぎて、差別的で、ぜんぜん笑えない。 ガメは、なんでも古いものが好きなのね。 話して話して話して、話しまくって、田舎に行くと人工衛星が飛んで行くのが見えるけど、あのフラットで、つーとした飛び方は不思議な感じ、トーリーの時代はもう終わってしまったのに、経済だけを理由に、St James’s Streetのおっさんたちは、まだしがみついている。 そうやって無我夢中に話しているうちに、気が付いてみると、手がテーブルの上で相手の手と重なっていて、ふたりで同時に気が付いて、びっくりして、まるで自分たちとは独立した生き物が勝手なことをしているかのように、ふたりで、よっつの目で、自分たちの重なった手のひらを、じっと見つめている。 大好きな人ができて、言語のありとあらゆる伝達の仕組みやトリックやアクロバットまでを動員して、懸命に伝達の橋をかけようとすればするほど、もどかしくて、届かなくて、なにかが根源的に欠落しているような、核心にとどかないような気がしてくる。 おごそかに立ち上がって、述べてもよい。 諸君、われわれは言葉にうったえて出来ることは、すべて試みたと言わねばならない。 このままでは、なにも変わらない。 … Continue reading

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寒い空

注文したピザを受け取りに行ってみると、想像の3倍は優にある大きさで、一緒に歩いてきた友達と顔を見合わせてしまった。 3枚も頼んでしまった。 そういえば12インチペニスて、ポルノでも、でかいんだったな、と友達が不謹慎なことを呟いている。 16インチは、それよりずっとでかいんだから、すごいわけだよな、ガメ。 気が付かなかったのか? おおきさ、数字で書いてあったっけ? 雪がふってきた空を見上げながら、寒くなりそうだからワインでも飲む? ガメのアパートは赤ワインしかないんだったでしょう? ひさしぶりなんだし、お祝いにシャンパンで、いいんじゃない? 箱を抱えて、鼻の頭を真っ赤にしながら、毛糸の帽子にくっつきはじめた粉雪を楽しんでいる。 息が白くなって、低い空に覆われた、明るい灰色の背景のなかで広がってゆく。 ホームレスのおっちゃんがいるなあー、と、わし。 この頃、また増えたわよね、と友達。 ピザ、3枚は多すぎる、とわしが言うと、 友達も、すっかり楽しそうになって、ピザ3枚は多すぎる! と歌うように繰り返している。 決まったね、と、わし、 うん、決まった決まった、と喜ぶ友達。 友達とわしはホームレスのおっちゃんの両側から挟み込むように階段に腰掛けて、 「ピザ、一緒に食べよう。買いすぎちゃったんだよ。ほら、あのコーナー曲がったところに新しくピザ店ができたでしょう? 初めて買ってみたら、チョーでかかった。 だから、ふたりでは食べきれないのさ」 おっちゃんは、きみたちはホームレスなれしてないから、お尻が冷えるだろう、と不可思議なことを述べて、段ボールを友達とぼくに分けてくれる。 おお、と言って、慌ててお尻の下に敷くと、まだまだ、と述べて新聞紙の束もくれます。 「これを敷いて座るといいよ。新聞紙って、意外と暖かいんだよ」と、おっちゃんが先輩風をふかしている。 出来たてで熱いピザを食べて、ジェッツの話や、バラク・オバマは合衆国で初めての黒人大統領になるだろうか、と、おっちゃんと3人で盛り上がっている。 コーラが欲しい。 ピザにはコーラだよなー、と駄々をこねはじめる、わし。 いい考えがある! と言うなり、友達が雪が積もり始めた舗道を走っていきます。 ずいぶん、元気な人だね、とおっちゃんが笑っている。 ふと、おっちゃんには娘がいるのではないかと考える、わし。 戻ってきた友達の腕には3本のシャンパンが抱えられていて、ソーダガラスですらない、華奢な脚の、クリスタルのシャンパングラスを三つ買ってもってきてもいる。 「若いのに、クリスタルグラスなんて、豪勢じゃないか」と、おっちゃんが友達をからかっています。 パッと見て、必ず同じデザインでふたつ作るクリスタルグラスとソーダグラスの違いがわかるのは、おっちゃんには、富裕な時期があったからでしょう。 勢いよく栓を抜いて、シャンパンがあふれないように緊張しながら、みっつのグラスに注ぎ終えて乾杯していると、コートの衿をたてて、黒いボルサリーノをかぶった、近所に住んでいるらしい中年の身なりの良いおっさんが、「メリー・クリスマス!」と、にっこり笑って、つばに指をあてて敬礼して、挨拶してゆく。 クリスマスは、まだまだ先なんだけど。 おっちゃんは聡明な人で、話があまりに面白いので、立ち去りがたくて、 結局、ピザは3枚とも、そこで食べてしまった。 シャンパンも空になって、空き箱や空き瓶をまとめて脇に寄せたあとでも、まだ話し続けた。 … Continue reading

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終戦記念日

終戦記念日は「戦争が終わった日」という意味だろうが、戦争が終わった日ならば1944年7月9日のほうが相応しいはずである。 1945年8月15日は「せめて、あと一勝」と自分を神と崇める国を有利な講和に導こうと頓珍漢な努力を繰り返した昭和天皇が、二発の核爆弾に青ざめて戦争の続行をついに諦めた日であって、その日に起きたドタバタ喜劇じみた、日本らしい大騒ぎについては、二年前に 「日本のいちばん長い日」を観た https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/04/815/ という記事で書いた。 軍事にも常識というものが存在して、軍事上の常識に従えば日本軍が「絶対に陥落しない。万が一陥落したら、そのときは戦争の終わりだが、たとえ航空隊の掩護がゼロでもサイパンが落ちることはありえない」と昭和天皇に対しても国民に対しても繰り返し約束して、疑義をはさむ将校がいると、「おまえは素人か。サイパンの要塞構成をみて、少しでも軍事知識があれば、落ちるわけがないのがわからないのか」と怒鳴りつけるのを常としたサイパンが、あっけなく陥落した瞬間、ほんとうは戦争はもう終わっていて、そのあとは、ただ無暗に日本の外では補給線を破壊されて制空権を完全に奪われた兵士がひどい飢えのなかで屠殺され、日本の内では、日本側が焼夷弾と呼んだナパーム弾の渦巻き状の絨毯爆撃と最後にはとどめに二度の核攻撃で国民が意味もなく殺されただけのことで、戦争といえるようなものでは到底なかった。 国民の生命というものが幾許かでも価値をもつ普通の国ならば、とっくの昔に、手を挙げて戦争をやめていなければならなかったのに、この日本という、国という体制のために国民が存在する倒立した全体主義の不思議な価値観に立つ国では、国民が最後のひとりになるまで「憎い米英」と戦うと述べて、夜襲やカミカゼの大規模なテロルを続けたので1年と1ヶ月のあいだ、日本人は、男も女も、若い者も老いた者も、ただ意味もなく殺されつづけることになった。 太平洋最大の決戦だったサイパンの戦いについて、日本側では藤田嗣治を動員して戦意昂揚に使われた「バンザイクリフでの追い詰められた民間人投身の悲劇」以外は不思議なほど語られることがないのは、簡単にいえば、それが純軍事的にはあまりにもみっともない敗北で、生き残り将校の庇い合いによって提督の臆病な逃走を「謎の反転」と言い換え、沖縄人の食糧を奪い、家族ごと皆殺しにしておいて「沖縄県民かく戦えり」と述べて、美談で塗りたくって自分達がやったことを隠蔽する、いつもの巧妙さをもってしても、どうにも言い抜けが出来ないほどの惨めな敗北だったからです。 当時、日本海軍には「彩雲」という素晴らしい出来の高速偵察機が存在したが、ナウル島から飛び立った一機がマジュロ環礁に集結したアメリカ軍を二週間前に発見した。 そのお陰で他の島嶼上陸作戦のように不意をつかれる、ということはありませんでした。 アメリカ軍の動向を逐一把握していた。 日本側はアメリカ軍の予測よりも遙かにおおきい戦力をチャラン・カノア南北の海岸に集中して展開していて、アメリカ軍が、自分達が入念に作り上げた罠である海岸に計算通りやってくると、「もう勝ったも同然」と小躍りした。 最も戦力が集中した正面に敵が「注文通り」やってきたわけで、戦闘ではそんなことは滅多にありえないような理想的な展開でした。 案の定、せまい橋頭堡にひしめきあい、大規模な戦車隊まで潜ませていた日本軍の攻撃にあって重火器も戦車も揚陸する前の状態だったアメリカ軍は一時、大混乱に陥る。 しかし、翌日には壊滅させられる寸前であったはずのアメリカ軍は橋頭堡を拡大し、海岸全体に広がって、ほぼ勝利を手にしてしまう。 余った航空機エンジンを使ってつくったせいで戦車としては致命的なほど背高のっぽで、しかも戦車はディーゼルエンジンでつくるのが文法であるのに爆発しやすいガソリンエンジンで、欧州戦線ではドイツ軍の同級以上の戦車にはまったく歯が立たずtommy cooker とかRonsonと呼ばれるほどひどかったM4シャーマン戦車も、日本軍を相手にすると、無敵で、日本の標準対戦車砲や大日本帝国陸軍が世界最高と誇った97式中戦車では、まったく歯が立たなかった。 練度が低いどころか、戦闘経験がないアメリカ戦車兵は、へまばかりで、射撃が下手で、歴戦の日本戦車兵は、海岸を右往左往して、あるいは故障したように座り込むM4に的確に狙いを定めて猛射するが、あとでアメリカ兵たちの笑い話になるように、砲弾が非力すぎて、かすり傷を装甲に与えることもできなかった。 一方、M4の、ドイツ軍のタイガー重戦車に対しては装甲が薄い後ろからまわりこんで、しかも数メートルという至近距離から射撃して、やっと仕留めるという、「まるで棺桶に乗ってるみたいだ」とアメリカ戦車兵たちを嘆かせるほどだった75mm砲は日本の戦車に対しては有効で、97式中戦車の射程距離外から射撃しても一発で砲塔が吹っ飛び、車体ごと爆発するほどの打撃力をもっていた。 サイパン戦について「戦闘計画で完勝した日本軍は、不思議にも、現実の戦闘であっけなく完敗した」 と述べている英語で書かれた本があったが、そのとおりで、つまり、1944年夏の時点では、兵力をどれほど持っていても、兵器をどれだけ集積して待ち構えて、計画どおりの上陸地点に敵が来ても、まったく勝ち目がないことは日本の陸海の軍人の目には明かになっていた。 戦後、日本の帝国軍人たちが自分達の官僚主義と怯懦を隠すために繰り返した「敵の物資に負けたのだ」は言い訳にすぎず、そもそも開戦当初は、どの戦線でも連合軍よりも装備がよかった日本軍は、潜水艦という兵器を使いなれず、脆弱な兵器である潜水艦を、艦隊相手に使うという気が遠くなるような初歩的なミスを犯して、自分が艦隊決戦前段に潜水艦を使おうと考えるくらい潜水兵器に理解がないので、当然、潜水艦に対しては最大の防御である駆逐艦を日露戦争時なみの艦隊決戦前段においての大型魚雷艇代わりに使うという作戦計画を立てるほどの頭の悪さで、本来シープドッグのように群れの周りを周回しているべき駆逐艦群の護衛のない丸裸の補給艦隊が、日本の潜水艦より遙かに性能的には劣るが常識的正統的な潜水艦使用法に従って運用されるアメリカ側の潜水艦に、手もなく沈められ続けた結果、装備どころか食糧もとどけられなくなって、兵士はアメリカ軍よりも飢えと闘わなければならなかった。 日本の委任統治領で、当時の日本人にとっては「日本領の島」であったサイパン島には、当然のことながら、日本人たちの町があって、学校があり、日本語で生活していた。戦争が不利になってくると数多い日本のひとたちが逃げていったが、まだたいしたことはないだろう、とタカをくくってサイパンに残っていた日本人が アメリカ軍の上陸当時で、まだ2万人程度住んでいた。 「永久要塞サイパン」の日本軍がたった三日間で壊滅したあと、日本政府の洗脳政策によって日本軍が負ければ死ぬものだと教わって信じ込んでいた日本の民間人は、1万人弱が、ほぼ全員自殺あるいは自殺的行動によって死ぬ。 あとでは極く一般的になる民間人が数人で、最も安価な兵器であるために民間人に自殺を強要するための兵器として日本軍が重宝して配布した手榴弾を囲んで自殺する日本人の姿が、初めに見られるようになったのもサイパン戦でした。 日本では、なにしろ「それでもよく戦った」ばかりで、ちゃんと書いてくれないので、なんだかいらいらして、つい長々と陸の戦いを書いてしまったが、海と空の戦場はもっとひどくて、アウトレンジ戦法と名前をつけた、いかにも日本の役人らしい、現実認識の欠片も存在しない「敵が届かない遠距離から一方的に敵をたたく」という、ひとりよがりな、バカみたいな戦闘計画を立てて、挙げ句の果てには、経験もない遠距離を侵攻させられた若いパイロットたちは、敵に遭遇してもぶざまに逃げ回るだけで、やはり新兵ばかりで戦闘技量もない若いアメリカパイロットたちからさえ、Great Marianas Tukey Shootと呼ばれるほど酷かった。 ところで、いま書いていて気が付いたのはマリアナ沖海戦についての日本語記事に「作戦構想はすぐれていたがパイロットの技量が未熟なせいで現実の戦闘では大敗した」というとんでもない記事がたくさんあることで、これではいくらなんでも、日本の若いパイロットたちが気の毒です。 坂井三郎やアドルフ・ガーランドのように第二次世界大戦以前からキャリアを積んで、大戦に入ると、長い戦歴で身についた技量を活かして大空を自在に飛び回った例外的な操縦士を除いて、空の戦闘に参加するのは、大半が「真っ直ぐ飛ぶのがやっと」のnovice pilotたちで、空の戦闘の作戦を立てるときには「大半のパイロットは未熟なのだ」ということが前提になっている。 自分で飛行機を飛ばして見れば判るが航法士が同乗しない一人乗りの飛行機では、地上のランドマークや地形を手がかりにして飛ぶ地紋航法ですら300キロというような長距離を飛ぶのは大変なことで、ましてただ茫洋と広がる海上を飛ぶときには、坂井三郎のようなベテランの飛行機に必死についていくか、はぐれてしまえば、空にあがれば必ず低下して、一桁の掛け算もおぼつかなくなる低下した脳の機能をふりしぼって、風の偏流を計算し、速度と時間を計算して、自分がどこにいるか把握しなければならない。 空戦ともなれば、初めの一退避で、いったい自分がどんな姿勢で、どこを飛んでいるかが判らないのが普通のことで、裏返しになっても気付かず、水平線をはさんで、どちらが海でどちらが空なのかも判らない状態になる。 だから新米パイロットを自分の判断で飛ばなくてすむように、防戦でなく攻撃に終始できるように、あるいは長距離を侵攻させないように作戦を組み立てるのが空軍作戦将校の腕というもので、そういう基本的な約束事をことごとく無視した机上の遊びにしかならないような作戦をつくっておいて、未熟なパイロットの腕のせいにするなどはバカげているとしか言いようがない。 現に遙々やってきた日本軍機を迎え撃って日本機を追いかけ回して一方的に撃墜する「七面鳥撃ち」を楽しんだアメリカ側パイロットたちも、日本側とたいして変わりがない新米パイロットたちだったのは、そんなに注意していなくても、気が付くことだとおもわれる。 日本側の戦史を読むと、言い訳につぐ言い訳で、戦争を生き残った将校達の自己弁護ばかりで気分が悪くなる。 有名な故事を例にあげればアメリカでは、多少でも太平洋戦争に興味があれば、子供でもテレビのドキュメンタリやなんかを通じて知っている「臆病提督栗田の遁走」という怯懦に駆られた軍人の、びっくりするような戦場放棄事件が、日本側の記録では、「戦後も黙して語らなかった寡黙で沈毅な提督」の … Continue reading

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男たち、女たち

1 Queenストリートを歩いていると、あちらからもこちらからも日本語が聞こえてきて驚いてしまう。 CBDでも、あの辺りは語学校がたくさんあるところなので、多分、英語留学で来ているひとびとなのでしょう。 若い女の人が多い。 アジアの人は小さくて、若くみえるので、男も女も中学生のようです。 「この5年」であるよりも、この1,2年で増えたので、福島事故後の顛末を見て不安になったのではなくて、ジャブジャブオカネを使って、本質的な効果はなにもない投機的な経済政策に使い果たして、なお恬淡として恥じない政府や年長世代の厚顔ぶりをみて、日本の経済的将来への不安から英語世界へ移住しようと考えたものであるらしい。 話してみたこともあって、それは2011年以前のことだったが、その人は 「日本の若い女は、機会さえあれば海外で暮らしたいとおもっている」と述べていた。 「日本の社会には、女にはチャンスがないんです。わたしは大学で建築を専攻しましたが、民間企業の性差別があまりに酷いので上級公務員試験を受けて最も性差別が少なそうな省を選んでも、今度は、役所には理系差別もあって、 性差別とダブル差別になってしまったので、仕方がないからアメリカに来ました」と言って笑っていた。 なにごとによらず鈍感なぼくは、そのときも、「そうですか。それは大変ですね」くらいのおざなりな返事で、横にいたベルギー人とポーランド人の映画監督と小津談義に熱中しはじめてしまって、あまつさえ、二年後に違う友達のパーティで、部屋の反対側からまっすぐに歩いて来た美しい女の人に「わたしをおぼえていますか?」と訊かれて、思い出せなかったので「おぼえていません」と正直に述べたら、「ひどい」と苦い顔をされてしまって、その女の人が、日本社会の性差別について話をしてくれた人だった。 日本の社会を見ていて不思議な事は、「労働人口が不足している」と、政府だけではなくて、企業も、マスメディアも、はては新橋の一杯飲み屋のサラリーマンたちですら口々に述べているのに、目の前の、日本の女の人々という世界でも有名なチョー優秀な集団で知られている自分達の社会のグループには、コーヒーをいれさせ、制服を着せて、あるいは安上がりな娼婦の役割を与えて、ついでに使い出がありそうなのを選んで、おかあさんの役割を家のなかで演じさせるだけで、社会のなかでのまともな役割を与えようとしない。 だが、ガメちゃんね、と、有楽町のガード下の焼き鳥屋で、女の人が二重差別でうんざりしたという当の省庁でキャリア組を管理する役のおっちゃんが述べている。 「ぼくには苦い経験があってね、これは優秀な人だな、と思う女の人を、みんなの反対を押し切って推薦して、わたしは絶対に寿退職なんてしません、と真剣な眼差しで言うので、思い切って昇進させてリーダーとして引き抜いたら一年後に結婚退職されちゃって」 と、眉を曇らせている。 いままでのキャリアで、あんなに参ったことはなかった。 おかげで「余計なことをする男」の評判がくっついちゃってさ。 と、上級公務員の安月給なのに、もう4杯目の生ビールの大ジョッキを飲み干していた。 もう、女はこりごりだよ。 2 職場にいる個々の男が女性差別をなくそうとしても、うまくいかないのは、性差別が社会全体の構造の問題であるからで、たとえばイタリア人の友達は単語にまで性別があって、目に入るものすべてが、どちらの性であるか絶えず無意識に判断しないといけない世界では、男女差別をなくすのは無理だわよ、と苦笑していた。 英語圏のほうが、同じくらいひどいとはいってもイタリア・フランス・スペインというような国よりも性差別が小さいのは、言語の問題もあるのではないか。 ハリウッドの、50年代の映画を観ていると、女らしい言い回しに溢れているが、現代の映画では殆ど男女の差はなくなっている。 言い回しがおなじで、表現がおなじになれば、単語に性別がない杜撰さが怪我の功名をなして、男女の区別を無くしていくのに役立っている。 いまの日本で、まさか「女らしくしなさい」と娘を教育する母親はいないだろうが、女言葉が猖獗していて、一人称さえ「おれ」「わし」「ぼく」が選べないのでは、そのあとに続くセンテンスで表現しうることも極く限られた事象になるだろう。 そのことを述べたら、ある日本人の女の人に「ガメ、女はね、考えるときには女の言葉では考えていないのよ。女言葉は、端的に言えば男を喜ばせるための表現で、あんな言葉でまともにものは考えられない」というので、おおげさでもなく、カンドーしてしまったことがある。 そーか、そーだったのか、と考えた。 一方で、普遍語で思考する上に、それを表現するときに女の言葉に翻訳しなくてはならないのでは、日本の女の人は余計な手間が多くてめんどくさくてやってられないのではないか。 おっさんが「おれは、そんなこと納得できねーよ」と言えるのに対して、 「わたしは、それでは、困ります」しか言えないのでは、頭のなかで「死ね、このクソオヤジ」と叫ぶことは出来ても、その内心の声が頭上にホログラフィで表示されるシステムでも完成しない限り、女びとの声は可視化されない。 3 アフリカンアメリカンのガールフレンドと付き合って、白い人の側からの微妙ですらない明瞭な差別意識にびっくりしたことがある。 初めは気のせいだろうと考えたが、南部にふたりで旅行すると、ガールフレンドに対して極めて礼儀正しいのに、深刻な話になるとぼくのほうだけを向いて話す人がたくさんいる。 オーストラリアにでかけたときは、もっと酷くて、のっけから存在しない人のように扱われることもあった。 ところがガールフレンドがひとりで街を歩くと、口笛を吹くひと、「美人だねー」と声をかけるひと、たくさんいて、まるでステージを横切るスターに対するようで、つまりは性的対象でしかない。 その頃学習したことは、直截には義理叔父から教わったことだったが「人種差別は差別する側の問題で、される側は、抗議する以外に出来ることはなにもない」ということだった。 日本の人には、「ハクジンにバカにされないように自分達もちゃんとしなければ」と言う人がいて、ぶっくらこいてしまったことがあったが、肌が白い人に感心してもらうために行いを正しくするのでは奴隷なみで、そんな惨めなことを考える必要はない。 人種差別は白い人の病気なので、病人である本人たちが、病気である自覚をもってなんとか治療法を発見して、病気を根絶する以外には方法はないだろう。 モーガン・フリーマンは「人種の話をしたがる人間は人種差別主義者である」と有名なインタビューで述べているが、人種の話とは異なって人種差別主義者の話は、いくら白い社会ではネガティブな話は殆どタブーだといっても、もっとしたほうがよい。 この先は日本語で書いても意味がないので書かないが、差別する側はどういう種類の差別にしろ自分が差別していることについてさえ鈍感なので、「そんなに数が多くなければ」有色な移民がやってきても社会の活性剤になるからよい、あのひとは夫がイギリス人だから安心して付き合える、というバカ言辞を聞き逃してはならない。 … Continue reading

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Diary2

1 世界の都市という都市の、高層ビルの、何百万何千万という窓のガラスがいっせいに割れて、無数のガラスのかけらが陽光のなかで輝きながら落ちて来る日を夢見ることがある。 ぼくは全身にガラスの破片が刺さっていくのを感じながら、血まみれの頬や腕をぬぐって、空をみあげるだろう。 無限に落ちてくるガラスの欠片をみつめながら、盲いる日を願うだろう。 それがなぜなのかを理解できない人と話しても仕方がない。 人間の根源的な欲望を知らない人と話しても仕方がない。 破壊と建設が対立する概念ではないことを知らない人と、なんの話ができるというのだろう? 人間が人間であることに意味なんてあるのか? 2 昨日は、Halsey ばかり聴いていた。 この初めの日本語のナレーションは原曲にはないのだけどね。 Halseyは新しいポップスの地平線に立って向こう側を見ている。 Badlandsは素晴らしいできばえのアルバムで、聴きだすと止まらなくなる。 ポップスなのだから、なるべく繰り返して聴いて、さっさと消費しようと考えるのに、それを許してくれない。 仕方がないから、(普段はZ-FMを聴いている)クルマのなかでも、ブルートゥースでつながったSpotifyのHalseyを聴いている。 聴いているうちに、モニもぼくも、すっかり高校生のような気持になって、 いつもなら制限以下になるように気をつけて飲むランチのワインを飲み過ぎて、 家の人に迎えに来てもらうことになる。 チョー酔っ払って、後部座席の窓から町をみている。 雨のなかを、びっしょり濡れながら歩くひとびと。 口論している夫婦。 警官とマオリの子供たち。 怒りで赤く染まった、険しい顔。 怯えた顔のマオリの子供たち 高級車に乗って得意そうな不動産セールスのCがすれ違う。 会釈する。 半年前には、なんだかおどおどした、クライストチャーチから出て来たばかりの青年で挨拶に来たのをおぼえている。 いまはトップセールスマンになって、先週はトップモデルとの交際がゴシップ雑誌に出ていた。 悲惨、という言葉をおもいだす。 3 Pan Amというドラマがあった。 Mad Menは人気ドラマだった。 Downton Abbyちゅうドラマも人気があるよね。 英語世界で人気のドラマには、でも、皮肉な立場に立つと、「白い人しか出ないドラマ」である。 日本人にはとても人気があるのだとUKで報じられていたホームズシリーズもそうである。 真っ白なドラマが画面を席捲していてアフリカ系人の俳優/女優たちが拳をふりあげて抗議している。 … Continue reading

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日が暮れて

オークランドのいまの家を買うとき、裏庭の一角にバナナの木が何本か植わっていた。 カベンディッシュバナナで、見ると、ちゃんと実がたわわについている。 熱川のバナナワニ園みたいとおもって、おもわずワニを探してあたりをみまわしたが、ワニはいなくて、木の根元に、ワニをミニチュアにしたようなヤモリが一匹いるだけです。 ニュージーランドの北島は奇妙な極相を示す森林が多いので有名で、亜熱帯の樹木と亜寒帯の樹木が、ひとつの森で冠林をなして、クライマックスを形成している。 ブラジルからもアメリカからも、日本からも、したがって、毎年研究者がやってきて、「なんじゃこりゃ」とつぶやきながら写真を撮りノートを取っている。 バナナの木などは、オークランドの変態気候からすると、お茶の子さいさいで、だから、バナナ特有のしどけないというか、はっきり言ってしまえば、チョーだらしがない感じの成木が、どう表現すればいいか、まとまりのない、ばらけて散らかった感じで、だらっと立っている。 バナナの木は見た目が嫌いなので契約のセトルメントがすんだ途端に伐採してしまったが、土が案外によくて、いまでもいろいろな果物やハーブを植えて遊ぶ。 バジル、コリアンダー、イタリアパセリ、ローズマリー、トマト、なす、各種レタス、レモン、ライム…面白がってたくさん植えすぎて植物園みたいになってしまっているが、ピザをつくって、庭のテーブルで食べているときなどは便利で、もう少しバジルが欲しい、と思えば立っていてバジルの葉を摘んでくればよい。 カクテルのミントも、メキシコビールのコロナに押し込むライムでさえ、おなじ手ですみます。 広尾山のアパートでは、むろん、プランターでハーブを育てることしか出来なかったし、軽井沢というところも、何を育てるのも手がかかるところで、しかも庭は蔓植物やコケが一面に覆っている美しい庭で、掘り返すわけにもいかないので、町営の、月貸の菜園を観に行ったが、そこで観た光景は恐ろしいもので、多分もとはプロのお百姓さんだったひとびとが、丹精をこめて、というよりは全力をふりしぼって、隣地の菜園と競い合って、世にも美々しい菜園が並んでいて、こんなところで野菜をつくったら、それだけで一生が終わってしまうと感じられたので、友人の親切な申し出を辞退して、日本では、野菜や果物、ハーブを育てる楽しみは断念していた。 Twitterで スペインの人と話していたら「経済はぜんぜんダメだけど、子供育て安いし食料自給できるから」、そのうちなんとかなるさ、と述べていた🙂それでいいのかも https://t.co/2tWVXrIuWE — James F. (@gamayauber01) August 7, 2016 と書いてから、思い立って、いま、webサイトをあれこれ見てみると、あの人が述べたことは、そのままほんとうというわけではなくて、自給率は80%とかなんとかだったが、スペイン人であれば誰もが持っている安心の源は「スペインは食糧を輸入する必要はないのだから、いざとなれば、それで食べればいいのさ」で、この安心立命の感覚には、スペインを旅行すれば直ぐに納得できる背景があって、あの国は17州のどこに行っても町と町のあいだには「なににも使っていない土地」が広大に広がっている。 フランスのように空き地さえあれば何かに使いたい国民性とは異なって、スペイン人はなにしろスペイン人なので、荒れ地でも岩地でもない土地が、なぜか何にも利用されずに延々と地平まで続いている。 潜在的食糧自給率、というのはヘンだが、実感として「ここにオリブを植えれば食えるよね」と思うのは、人間の自然の感情であると言わねばならない。 調べてみて、そーか、スペイン人はナマケモノというのではなくて、人間がもっと本質的な部分で、余裕をもってのんびりだが、あののんびりの理由はこれか、と思ったりする。 翻ってニュージーランドを考えると、自給率は、めんどくさいから調べるのは嫌だが、たしか500%だかなんだかで、しかもスペインよりももっと農耕可能地は余っているが、食べ物だらけで、最近はバブルで、スーツを着て稼ぐ方が忙しくて、まるで先進国のような顔をして暮らしているが、もともとは、わし母校の研究者が、ニュートンゆかりだからね、と凡庸な冗談を述べながら、二万キロを南下して、りんご園で、りんごを拾うバイトを兼ねて、母国の神の悪意を感じる冬を避けて、夏の、パラダイスをそのまま地上に移転させたようなカンタベリーで研究にやってきていたりしていた。 夜明けとともに起きて、机に向かって、昼間はりんごを拾って、夜は同じ大学の研究者同士でフォークとナイフを両手にもって、農園のおかみさんや厨房人がつくってくれたステーキとマッシュドポテトと温野菜の皿をつついて、隣のヴィンヤードのおごりのワインをたらふく飲みながら議論をする。 そういう生活をしていてマヌケな連合王国の大学人にも判ってくるのは、オカネがいらない生活の素晴らしさで、その頃の南島経済などは牛の挽肉は2キロ5ドル(300円)で、リンゴは、どうしても払いたければ木箱が10ドル550円で、木箱でいるほどジャムをつくったりするのでなければ、つまりはタダでもらえた。 つくってみた人は知っているとおもうが、そうして、ジャガイモなどはワインで酔っ払ったついでに、芽がでて古くなったやつをガレージの裏のそこここに埋めておけば、これでもかこれでもかというくらい勝手に増えるので、ニュージーランドはもともとはつくづくオカネがいらない国で、わしがニュージーランドに土地鑑があってよかったと思うのは、「なにをやっても全然ダメなら、ぬわあにニュージーランドへ行って、リンゴを拾って、ジャガイモをぶちまいて暮らせばいいのよ」で、自分の一生において、なにごとかを企んで、ものの見事に失敗するという起こりがちなことへの恐怖心がまったくなかった。 実家はオールドマネーというのは強いもので、両親に話を聴いても頭に入らないくらい豊かな様子だったが、子供の頃からロビンフッドだのホーンブロワーだのを読んでいて、裏切って実家のオカネで一生を送るわけにはいかないので、問題にならなくて、したがって「借金をしない」ということをゆいいつの経済方針として、 ダメならダメで、友達の農場でファームハンド、つまりは作男をするからいいや、と決めてあった。 南島の農場には、作男専用の住居があって、案外3寝室の立派な建物です。 両親が持っている「牧場の家」は英語でいうホビーファーム、「ライフスタイル」と呼ぶ牧場風の家(1〜5エーカー)と「リアルファーム」(200エーカー〜)のあいだに位置する農場で、子供のときから、ここで馬に乗ったり、牛さんとにらめっこしたり、四輪バギーで横転(←クビの骨を折るのでチョーあぶない)したりしていた。 そこで、農場の面倒をみてくれているJさんから、牛の乳のしぼりかた、羊の毛のかりかた、じゃがいもやリークの栽培、トラクターの運転、屠殺小屋に追い込んで殺す鹿の撃ち殺し方まで、さまざまなことを教わって、未来の作男生活に備えた。 社会の繁栄をGDPや、個人の収入で計るのに現代の人間はなれているが、 では経済がぜんぜんダメということになっていて、実際にも数字をみると、いかにもダメダメなスペインやイタリアを旅行すると、ひょっとして個々の人間にとっての「繁栄」の指標がアメリカやイギリスのような国とスペインやイタリアでは、ぜんぜん違うだけなんじゃない?と思う事がよくある。 コモ湖のLennoからTremezzoへ。郷土料理定食屋をめざして丘の上の道をぶらぶらと歩いていくと、やがて眼下に住宅地が広がり始めて、どの家も道からよく見渡せるが、イタリアの家はたとえば、芝の広がりを愛するイギリスの家と根本から庭というものの思想が異なっていて、あまり小さくもない庭全体が菜園になっている。 定番のトマトはもちろん、カボチャ、なす、さまざまなものが畝をつくっていて、あるいは棚からぶらさがっていて、このあたりのカフェにはいると、ピザなどは卵は鶏舎から、バジルやオレガノは庭から摘んで、足りないものは近所の人が箱にいれて朝もってくる。 大陸欧州では、消費税が高いこともあって、表面から見えるよりも物々交換経済が盛んだが、それも、もともと食べ物を自前ですます下地があるからであるように思えます。 欧州人の思想には、おいしい食べ物があって、そのうえで、これはこれでまたいつか別の記事にしようと思っているが子供の養育を第一子においては親と社会が半々に労力とコストを分け合って、助けあって、第三子ともなれば、社会のほうで手を挙げて、ああ、もうあとはわたしが面倒みますから、というふうになっていれば、自分が住む社会は、それで十分で、それ以上の役割は期待していません、という気持が濃厚に存在する。 夕飯の仕度にスーパーマーケットに出かけるのは、いまでは世界じゅうで見られる夕暮れ時の風俗だが、前史を別にして、Michael … Continue reading

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ヒロシマ

日本語で見聞きする太平洋戦争についての話が、あまりに奇妙で、いわば日本が主役の話に書き換えられて、常識と異なっているので、 「ふたつの太平洋戦争」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/ という記事を書いたことがある。 毎年、今頃になると、こんなことばかり書いているような気がするが、日本の人の第二次世界大戦に対する他国との認識のずれは、どこからどうみてもナチが主役の戦争であるのに、自分が脇役であることに我慢できずに、主役をふたりの筋立てに水増しして、ほぼ架空な、民族英雄叙事詩としての戦争を作り上げてしまったことにある。 欧州にいれば簡単に実感できることは人類の理念をかけて戦われた第二次大戦は5月8日に終わったので、その後は、また別の戦争で、いまでいえばより大規模なISとの戦い、というようなもののほうに似ている。 外から見れば普遍性のない教条をかざして、貧弱な火器を武器に、自殺攻撃を繰り返すことで世界のがわに立った「外国人」たちを恐怖の底に追いやることで勝利を手にしようとした、テロを大規模にして戦争と呼ぶ事にした、とでも言うような奇妙な戦争で、軍事的に言えば、厄介な掃討戦とでもいうほかないひと続きの戦闘がVEデー後の第二次世界大戦の性格で、日本側からいえば、前年の6月15日から7月9日にわたって戦われたサイパン島の戦いが終了したときに軍事的には意味のある「太平洋戦争」は終わっていて、そのあとは、本音を言えば自分たちの軍隊という官僚組織が消滅することを恐れて、次から次に理由を捏造して、将校たちが兵卒の生命を大量に使いつぶして、自己の官僚としての延命を図ったのにしか過ぎない。 意味のある戦争が終わってしまっているのだから、当たり前のことだが、VEデー以降、連合軍兵士の戦意は著しく低下した。 ひたすら戦死を恐れるようになった。 楽しみにしていた恋人からの手紙を開いてみれば、欧州戦線から帰還した故郷の町の「英雄」である兵士と付き合うことになったので、ここでお別れにしたい、という手紙であり、ラジオをつければ、故国は毎日毎晩がカーニバルのような大騒ぎで、遠く極東で海でも陸でも、信じがたいことに空からすら、自殺攻撃をひっきりなしにかけてくる、国民がまるごと狂気にとらわれているとしか思えない民族を相手に、発狂しそうになりながら、対空機関砲を撃ちまくり、日本刀をかざして、突撃、というよりは、よろよろと向かってくる痩せさらばえた何百という人間を機関銃で薙ぎ倒すだけの戦場で、そこいらじゅうに潜んでいる狙撃兵に殺され、時に擲弾筒から発射された小型の榴弾で手足を吹き飛ばされる。 そうして、陰湿な戦闘で殺された人間は、すべて犬死にでしかなく、無意味な死で、自殺攻撃という自分の人間としての価値をゼロとみなす敵兵のせいで、こちらの人間性がどんどん安物になってゆく、卑しさに満ちた非人間的な戦場で、終わるべきなのに終わらない戦争が1日延びるたびに、また数人が無意味な死を死ぬことになっていた。 マンハッタン計画に参加した科学者たちですら、自分達が何をつくってしまったか理解していたのは後年、カメラの前で泣きながら「I am become Death, the destroyer of worlds」と述べたオッペンハイマーを初め、ごく少数の人間だった。 政治の世界で政策を決定し、当時ならば戦略決断をする立場だった人間たちに至っては原爆は「なんだかよく判らないが巨大な破壊力を持つ高性能爆弾」というぼんやりしたイメージがあるだけだった。 500機のB29を擁するテニアン基地で搭乗員相手にブリーフィングを行う将校達にしても、強烈な閃光がある、そのあとに急速にキノコ雲がわき上がる、平地の中心にうまく落とせば素晴らしい破壊力を発揮する、という程度の切れ切れの知識を持っているだけであったのは証言を読んでいてもよく判る。 原爆が通常爆弾とは次元が異なる兵器で、人間を文字通りの業火で焼き尽くし、いあわせて即死を免れたものは皮膚をボロ布のように身体からたらしながら苦しみのなかで彷徨し、あるいは肥田舜太郞医師が広島で初めて会った犠牲者のように、「まるで人間の形をした炭が歩いてくるようだった」という酷い火傷をおい、しかも爆発による破壊のあとでも、放射性物質によって被爆したひとびとを苦しめつづけ、喉の渇きから降ってくる雨を口で受け止めた者は次々と死んでゆく、というような到底人間の手に負える兵器でないことが判ったのは、広島市民をギニアピッグとして、データを集めてはじめて判ったことで、現実の広島の惨状を見たものは、日本の側かアメリカの側かを問わず、これが現実に起こりうることなのだろうか、と呻きに似た感想を記している。 原爆の標的は、もともとは軍都で、呉か小倉で、兵士のみを殺すためのものだと明言されていた。やむをえない場合は仕方がないが市民は極力巻き込まない、という説得のための「イメージ」は、現実の投下プランの段階で、軍人らしく、「一発の爆弾での破壊力を最大限に発揮させる」という殺人の効率化のほうへ収斂されていって、結局は原爆ドーム脇のT字橋の直上で爆弾を破裂させるという市民虐殺のほうへ本末が転倒されてゆく。 なぜそうなったかについては、投下作戦としては失敗に終わった長崎の例をみれば明かで、開発にかかった巨大な予算を正当化するためには、「瞬時ですべてを破壊し蒸発させる」、常識を越えた魔王的な結果が得られなければ、マンハッタン計画自体の成果が問われたからでしょう。 8月6日が近付けば、毎年のことで、昨日もヒロシマについてのドキュメンタリを観てあるいたが、エノラゲイの搭乗員たち、開発に携わった人たち、爆弾を現実に投下する決定を行った人達は、異口同音に、「もし原爆を落とさなければ戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」と一様に述べている。 ノーザンプトン級重巡オーガスタの艦上で兵士達と昼食を摂りながら歓談していたハリートルーマンは広島核攻撃成功の電報を受け取ると、その場で立ち上がって 「諸君、われわれはTNT二万トンぶんの破壊力を持つ、たった一発の爆弾で日本の都市広島を木っ端微塵に吹き飛ばした」と述べて居並ぶ将校や水兵たちと一緒に歓声をあげる。 将校から一水兵まで、直観的に、その強烈な新型爆弾の威力が自分たちを日本本土上陸作戦での「犬死」から救ってくれたのだと判っていたと、さまざまな人が書き残している。 そのときのハリー・トルーマンの即席スピーチが 「Come on boys. We’re going home!」で締めくくられたことは象徴的です。 都合が悪いので日本ではあんまり伝えられていないが、その頃、 「なんとか、どこかで一勝をあげることは出来ないのか」が口癖になっていたらしい昭和天皇は、科学者らしく、広島に落ちた「新型爆弾」が、どうやら核爆弾らしいと判って、鈴木貫太郎を説きつけて、なんとか戦争を終わらせないとたいへんなことになると実感する。 It was to … Continue reading

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鎌倉・葉山

1 その頃は、まだ、日本ではカヤックは珍しかった。 砂浜にカヤックを出して、ライフジャケットを着けていると、漁師の人たちが何人も集まってきて、これは何?から始まって、ええええー、前に進むのか、こりゃあ変わってるな、で、もうその頃には日本語が出来て大得意だったので、かーちゃんと漁師おっさんたちのあいだに立って、通訳したりしていた。 自転車みたいなものなんです。 楽しい乗り物なの。 乗ってみませんか? 重いのが欠点だったが、頑丈な船体で、面白がって沖の海面すれすれに顔を出している平らな岩礁に勢いをつけて乗り上げて、上陸して遊んだりして、よくかーちゃんに怒られたものだった。 沖合に出て、陸地を振り返ると、鎧擦(あぶずり)の山が見えて、夏の太陽の下で緑色に輝いていた。 背の低い葉山の丘はいつも誇らしげに立っていて、昼でも夜でも、沖合から眺めるのを、ずっと後になっても楽しみにしていた。 いま考えてみると、監視カメラが付いていたのに違いない。 ゆっくりゆっくり漕いでいるように見えて、ものすごいスピードで、かーちゃん艇が先に行ってしまったのをよいことに、以前から興味があった水路に入ってみようと考えた。 そこは皇室の別荘で、表は、いつ見てもヒマを持て余したような顔をした、それでも腰に拳銃をさした警官が立っているので、要塞じみて、家というよりは一枚の壁のような佇まいだったが、裏は、海に面していて、ゲートもない水路が敷地のなかに続いている。 艇を翻して、水路のなかに入っていきかけると、中から、誇張されているかもしれない記憶のなかでは何十人というスーツ姿の警護の人数が現れて、こっちに向かってなにごとか叫んでいる。 いつのまにか上空にはジェットヘリが飛んでいて、超低空で繰り返し威嚇飛行をする。 いま考えても、びっくりするくらい腕が良くて、しかも親切な操縦士で、殆ど海面と垂直になるくらいに機体を傾けて飛んでいたのは、そうしないとローターが起こす強風で、カヤックが横転してしまうという気遣いだったのでしょう。 目の端に、こちらへ戻ってくるかーちゃんカヤックが見えたので、仕方なく、警護のおっちゃんたちに手を振って、艇体を、くるりと向きを変えて、沖合へ向かった。 義理叔父は、「なんという、とんでもない。昔なら不敬罪で射殺である」という趣旨のことを述べたが、鎌倉ばーちゃんと、かーちゃん姉妹にはうけて、そのときも、ガメが考えることは面白いわね、と賞めてもらったが、いまでも、そのときのことを話しては笑い転げている。 日本にいたときのことを思い出すと、大半は東京で、鎌倉や葉山は、ときどき、学校休みや週末に出かけたのに過ぎないはずなのに、鎌倉も葉山も印象が強烈で、輪郭がぼんやりしている東京での記憶に較べて、鮮やかな形象をもっておぼえている。 なぜだろう、と時々不思議な気持で考えます。 葉山に行くときには楽しみがあって、スエヒロの食べ放題しゃぶしゃぶの店があった。江ノ島にも支店が存在して、行ったことがあるが、どういう理由によるのか葉山店のほうが好きで、しゃぶしゃぶにするかすき焼きにするか、店に向かうクルマのなかで毎度悩みくるったのをおぼえている。 だいたいは、「よりたくさん食べられる」という理由によって、しゃぶしゃぶのほうを好んだが、たまに選択すると、すき焼きの味は新鮮で、行くたびに煩悶は深くなって、あのコンジョナシのハムレットの心境は、こういうものだったのではないか、と考えたりした。 ほんとうは、当時から広島風お好み焼きのおいしい店や、海鮮食堂があったはずだが、外国人家庭の哀しさ、せっかく鎌倉ばーちゃんが教えてくれても、心の琴線が洋風にほどけてしまっているので、触れもせで、空振りに終わって、ケンタッキーフライドチキンや、その頃は小町通りにあった、アメリカ本土のチェーンより、ずっとおいしいエルポヨロコのようなところばかりに出かけていて、いま思い出すと「ガイジンはやっぱバカだなー」と考える。 目の前に面白いものがたくさん転がっているのに、見ているのに見えていない。 食べ物ですらそうなのだから、まして、他の日本の生活諸相においておや。 2 たいていはクルマだったが、列車で出かけることもあって、その頃はたしか北陸特急の旧車両を使っていたかなにかで、ずいぶん足下に余裕がある、背もたれもいっぱいに倒すと150度くらいにはなっていそうな、広々とした車内だった。 これはこれで楽しみで、東京駅でカツサンドを買って、一家で魔法瓶(←というのは死語だそうだが、こんなに良い言葉をみすみす殺してしまっては気の毒なので、わざと使っている)に入った紅茶を飲みながら、冗談を言い合って、気が向けばカードゲームで遊んだり、というか妹に遊ばれたりしているうちに、あっというまに着いてしまう。 その頃はまだ駅前にダリ美術館があって、宝飾がたくさん公開されていたはずだが、かーちゃんと妹は何度か行ったことがあっても、ぼくは興味がなかったので、ひとりで、あの町以外には、あんな変わった舗道は世界中にランブラくらいしか思いつかない段葛を歩いて、鶴ヶ丘八幡宮に出かけたり、もっと足を延ばして円応寺の閻魔さまに久闊を叙しに罷り越したりしたものだった。 いま考えてみると、夢のようで、まるで異なった社会だったその頃の日本では、ガイジンがまだ珍しくて、いちばん初めに日本を訪問した年には、まだティーカップをもったお盆の手が緊張して震えている給仕の人や、こちらを振り向いて、意味深げに笑っている高校生たちや、田舎にでかけると、こちらの顔を見るなり、ぶるぶるとクビを振って、手真似で、出て行けという店主までいたりしていたが、鎌倉という町だけは、どういうわけか、欧州系人が相手でも、日本の人が相手であるのとまったく変わらない物腰で応接して、居心地のよい町だった。 そういう点では東京のほうが、ずっと田舎で、鎌倉や葉山のほうが都会で、日本の町のなかで鎌倉と葉山を真っ先に好きになったのは、多分、そのせいではないだろうか。 それどころか、常磐の山道をあがって散歩していると、耕していたおばーさんが、そのなかを覗いてご覧、と言うので、コンクリートの枯れ井戸のなかを覗き込むと、マムシが凶悪な顔で、こちらを睨んでいたりして、なにがなし、人なつこい人が多くて、気さくで、日本の人の良いところに触れる機会が多かったような気がする。 ずっとあとになって、モニさんとふたりで日本に滞在した頃は、もう外国人も特別に疎外されるということは、少なくとも表面ではなくなっていたが、それでもモニさんは「鎌倉では自分が外国人という意識をもたなくてすむ」と述べていたので、やはりその頃ですら、空気が異なる町だったのでしょう。 3 2010年のある日、もうすぐニュージーランドへ向かって発つという冬の初め、なんだかとても鎌倉の町と葉山の海を見たくなってモニとふたりで出かけることにした。 その頃はもうグリーン車が飛行機のエコノミークラスよりも小さな座席に変わりはててしまっていて、シートを回転させて向き合って座らないと足が入らない車両になっていたので、列車では無理なので、クルマで出かけた。 子供の頃、少し込んでいると二時間半かかっていた鎌倉への道は、高速道路の数が増えて、1時間足らずで着いてしまう。 逗子でおりて、逗葉道路で、なつかしい100円玉ひとつを渡すと、にこにこしたおっちゃんが、「気を付けて」と述べるのに、さんきゅーとわざわざカタカナ発音で応えて、葉山の丘をのぼる。 急な傾斜の坂をのぼって着くホテルのコーヒー店のテラスからは、ちょうど西日をうけて、輝くばかりの相模湾が見渡せる。 他に誰も客がいない午後の、白を強調したテラスで、モニとふたりで立って、綺麗だねー、と言い合う。 吐く息が白くて、モニさんの頬はみるみるうちに薔薇色になって、ほんとうはアンドロイドなのではないかしら、といつも思わせる、 … Continue reading

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世界の痛みを感じる、ということ

いまは馴れてしまったが、むかしは空港に用事があるたびに、出かけて、到着ロビーで繰り広げられる光景に、思わずみとれてしまうことが多かった。 いつまでも抱き合っている恋人同士、不安そうな顔が、「花が開くように」笑顔になって、カートを押して、年長のカップルに向かって歩いてゆく若い女の人、 爆発しそうな喜びを抑えつけるように、むかしからの友人なのでしょう、お互いの目をみつめあって、永遠のように長い握手をしているふたりの老人。 見飽きることがなくて、人を迎えに行くのに、わざと1時間も早く出て、出口の前のベンチに腰掛けて、手にもったカップのコーヒーをすすりながら、ぼんやり「幸福」の姿を眺めていたものだった。 社会には人間を幸福にする力はないが、不幸を強制する力はある。 70年代くらいまでは、いったんダメな社会に生まれついてしまえば、もう悪戦苦闘の一生を送る以外には途がなかったが、いまは「住む社会を変える」という選択肢があることは前にも述べた。 日本に滞在していたときは、英語社会に移住するには英語ができないと無理なのではないかと思っていたが、英語社会にもどってきて、観察していると、21世紀の英語社会では、英語がひとことも話せなくても、諸事万端、支障もなく、幸福に暮らせるのだと判ってきた。 中国の人達は、賢くて、とにかくどんどん移住していって、おおきなコミュニティを作ってしまう。そうして、そのコミュニティを本国と連絡することによって市場を飛び地のように形成する。 感覚的には1割くらいの初代移民夫婦は、子供達に、時には家庭内で中国語で話す事を禁じさえして、英語社会に同化させてゆく。 インド人たちは、すでに独自の英語文化を持っているので、ちょうど連合王国人の移民のようにして、さっさと社会に溶け込んでいく。 このグループは中国の人達ともまた異なって移住というよりも移動で、日本でいえば東京から京都に引っ越す人の煩雑や戸惑いはあっても、それ以上の違和はないように見えます。 人間の移動が広範囲に及ぶようになって本質的によいことのひとつは、以前なら観念にしか過ぎなかった、例えば「シリアのひとびとと痛みを分かち合う」というお題目が、否応無い現実として眼前に立ち現れるようになったことで、次から次にやってくる難民の人々を前に、欧州人は、いまは苦闘しているが、大陸欧州で暮らしている友人たちと話し込んでみると、本人たちは「もうダメだ」ばかり言っているが、聞いている方は、どうやら欧州は自分を変革してアップグレードすることによって、この大変化を呑み込んでいきそうだ、と感じる。 いまの歪な、ムスリムへの嫌悪についても、よく観ているとイランを西洋世界から切り離した、宗教指導者たちのインチキな約束に見事に騙されたイラン人自身と、疑心暗鬼に駆られた西洋世界、特にアメリカの失敗から来ているので、 シリアよりもイラクよりも、まず「イスラムよりもペルシャ」であるイランを受けいれて、移民も大量にいれて、ふたつの文明世界の、いわば調停者としてペルシャを受容するのが最も近道に見えます。 外からは見えにくいが、彼らによると、「ほんのちょっと言語に興味があれば、トルコ語とアラブ語とイラン語はお互いに通じ合えて、そーだなあー、きみらの言葉で言えばイタリア語とスペイン語くらいの違いしかないよ」だそーで、それがそのまま真実なのかどうかは、なにしろこちらがアラブ語がパーなので、判定のしようがないが、少なくとも「そう言ってみてもよい」というくらいの背景はあるのでしょう。 アメリカは、ようやっと中東を安定させようとおもえば、イランの非宗教勢力と手を結んでいくしかないのだと気が付いたところで、一方ではイランの宗教者たちも、これ以上イスラム的抑圧を加えつづければ、若い世代から、社会内での叛乱が起きるのを避けられないと理解しはじめたもののようで、いまのイスラムと西欧との文明的軋轢は、最後には、ペルシャによる文化的な調停という、考えてみれば歴史的な帰結に向かっていくもののように見えます。 ペルシャ人は昔からアラブ人をバカにしていて、スンニとシーアの対立というお題目的な宗教対立以前に、アラブは野蛮という抜き難い偏見を捨てていないが、なにしろ付き合いが長いのと言語が似通っているのとで、お互いに、付き合い方がよく判っていて、やることなすことヘマだらけで、挙げ句のはてはシリアを「人間が住めない国」にしてしまったアメリカの直接介入よりは、イラン人にお願いした方が、よほど気が利いている。 真打ち、では質の悪い冗談になってしまうが、こういう「痛みの世界化」で近未来に予測される最大のものは、ナイジェリアを初めとするアフリカ大陸のいくつかの国からの人口流出で、特に世界一の人口爆発を起こしている一方で、政府がまったくの無能で統治能力をもっていないナイジェリアの問題は、深刻どころではなくて、欧州の息の根を止めるだけのちからを持っている。 ちょうど先週、難民船が沈没して両親を失ったナイジェリア人兄弟が抱き合って号泣している画像がviralになっていたが、そのくらいが嚆矢で、あとで振り返って、ああ、あの頃がナイジェリア人が世界のなかへ浸透していく初めだったのだなあーと思い出す事になりそうです。 ニュージーランドのように遠く故国から離れた土地にも、ナイジェリアの人は増えて、例えば、このあいだuberのドライバと客として会ったナイジェリアの人は、 大学で日本語を専攻して、日本に移住しようとしたが、人種偏見が強すぎてダメで、韓国人は受けいれてくれたので、そこに長く住んで、子供の教育のために英語圏に住まなければと考えてニュージーランドに来た、と述べていたが、 「いまはナイジェリアは、教育さえあれば外国へ住むという段階だが、もう数年すると、教育がない人間でも、たとえ徒歩で北上しても、欧州をめざすことになるだろう」と述べていた。 なんだかケミストリが良い人で、クルマを駐めて、カフェで話してみると、ナイジェリアはマスメディアを通じて知っているつもりの状況よりも遙かに深刻で、一国の社会だけで解決できるものではなくて、移民/難民という形で、「痛み」を共有するしかないように聞こえました。 日本が最も近しいと感じているアメリカは、この二十年間でGDPがだいたい1.3倍になっていて、日本はほぼ二十年間変わらぬGDPであるのは、日本以外の国ではどう受け止められているかというと「国のまわりの壁を高くすると、ああなる」という典型と受け止められている。 どんな社会にも、通常は老人を中心に「新しいもの、自分と異なるものは受け付けない」心性のひとびとがいて、そういう人間のゼノフォビアが連合王国ではbrexitという、本来はもっとまともな議論が交わされるべきだった自分の身体をふたつに割くような決断を感情的なポピュリズムの洪水によって決めてしまって、自分でも茫然とする世にも愚かな結論をくだしてしまったり、醜悪な憎悪を燃え立たせることで人気を博して、ヒラリークリントンを苦戦に追い込み、「もしかするとアメリカ最後の大統領選挙になるんじゃない?」と他の英語国人からは揶揄されている、少なくとも半数に近いアメリカ人は、いまでもKKKの予備軍で、口に出していわないだけでラティノ人もアフリカ系人も中国人も日本人も、みんなまとめて合衆国からたたきだして、自分たちだけの、郷愁の「白い夢」のなかでまどろみたい夢想に浸っていることがばれてしまったが、仮に両者が孤立の政策をとると、文明などはまるごと欧州大陸に引っ越してしまうだけで、世界は縮んで、その直接の結果、世界の至る所で貧困と飢餓が生まれる。 なぜそうなるのかといえば、背景にある最も大きな絵柄は、地球のおおきさは一定であるのに、人口が爆発的に増えて、むかしから科学者を中心に「これは拙いんじゃない?」と述べていたことの、初めの顕れが巨大な難民/移民の移動なのだと考えることが出来る。 失政や戦争は、案外、端緒であったり結果であったりするだけで、根本にある圧力は「地球が全員が住む部屋としては狭くなったのだ」ということになりそうです。 ではドアを閉ざしてしまえばよいではないか、という一見もっともらしい施策を実行するとどうなるか、というギニアピッグじみた実験の結果が日本社会で、換気口をすべて閉じて、窓に移る景色もメディアが加工した人為の景色に変えて、つくりものの「外の世界」を見せて、一億を越える人口を世界から切り離して閉じ込めれば、そこには狂気が猖獗するだけであることを日本の社会は教えている。 そうして常識を失ってしまった社会は、細部でいえば、例えば家電王国であったのが、「日本の職人技でつくったよい製品だから」とセールスマンが品質と機能において韓国製に劣る冷蔵庫を2倍以上の価格で売りつけようとする鈍感さで、いまでは家電店から日本の会社の名前がついた製品は、ほぼ一掃されてしまった。 社会の閉鎖性は、市場の変化に鈍感な体質を作り上げて、なんだかピントがずれたマーケティングにも顕れて、65インチの高画質を謳いあげるテレビにHDMIの端子がふたつしか付いていなくて、これでは買いようがない、とつぶやくことになる。 新しいことには何によらず逡巡して、韓国のたとえばサムソンに、つねに1年遅れる後追いマーケティングと、売れないことからくるバカ高い価格と、それを「日本製品は優秀だから」という傲岸な怠惰でjustifyしようとして、販売店の購買段階で相手にされなくなってゆく。 そうこうしているうちに、いまはどのくらいの段階かというと、もう新しい技術に投資しようと思っても、それが出来ないくらい会社が落ちぶれた段階に来てしまった。 一事が万事で、国の柴戸を閉じて、庵にこもって、老人じみた静寂にひたろうとすれば、世界経済の原理が働いて、社会は否応なく貧困に陥っていくことを日本は社会実験として実証しつつある。 オークランドの空港に、「葉山」というなつかしい名前の鮨屋が出来て、空港にでかける用事があるときには、早めに出て、鮨はよほどタイミングがよくないとおいしくないが、サーモンとマグロが載った「海鮮丼」は、日本の3倍ほども新鮮な刺身が載っていて、ご飯が酢飯だったり普通のご飯だったりするのが、いかにもニュージーランドで可笑しいが、不味くはなくて、毎度のように「紅ショウガ、もう一袋つけてね」「有料になるんですけど」「ケチケチしてはいけません」という問答でせしめる無料追加紅ショウガの味で日本での滞在を思い出して、懐古の感情にふける。 ロビーには、今日も、抱き合うひとびと、感情の洪水に負けて泣き出してしまうひとびと、見るからに希望に輝く表情の、一見して新着の移民と判る家族、いろいろな人が「明日」を信じてやってきている。 その、ニュージーランドでは珍しい、人いきれのする場所に腰掛けて、「世界が生きていかれなければ、我々も死ぬしかなくなるのだ」と述べた、反アジア人運動のさなかに人種差別を政治的フットボールの手段に使う政治家に対して、激しい怒りを隠そうともせずに述べた、痩せた、ちっこい、目ばかりがおおきな女のひとのレポーターを思い出す。 あるいは、W.H.Audenが We must love … Continue reading

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