鎌倉・葉山

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その頃は、まだ、日本ではカヤックは珍しかった。
砂浜にカヤックを出して、ライフジャケットを着けていると、漁師の人たちが何人も集まってきて、これは何?から始まって、ええええー、前に進むのか、こりゃあ変わってるな、で、もうその頃には日本語が出来て大得意だったので、かーちゃんと漁師おっさんたちのあいだに立って、通訳したりしていた。
自転車みたいなものなんです。
楽しい乗り物なの。
乗ってみませんか?

重いのが欠点だったが、頑丈な船体で、面白がって沖の海面すれすれに顔を出している平らな岩礁に勢いをつけて乗り上げて、上陸して遊んだりして、よくかーちゃんに怒られたものだった。

沖合に出て、陸地を振り返ると、鎧擦(あぶずり)の山が見えて、夏の太陽の下で緑色に輝いていた。
背の低い葉山の丘はいつも誇らしげに立っていて、昼でも夜でも、沖合から眺めるのを、ずっと後になっても楽しみにしていた。

いま考えてみると、監視カメラが付いていたのに違いない。
ゆっくりゆっくり漕いでいるように見えて、ものすごいスピードで、かーちゃん艇が先に行ってしまったのをよいことに、以前から興味があった水路に入ってみようと考えた。
そこは皇室の別荘で、表は、いつ見てもヒマを持て余したような顔をした、それでも腰に拳銃をさした警官が立っているので、要塞じみて、家というよりは一枚の壁のような佇まいだったが、裏は、海に面していて、ゲートもない水路が敷地のなかに続いている。
艇を翻して、水路のなかに入っていきかけると、中から、誇張されているかもしれない記憶のなかでは何十人というスーツ姿の警護の人数が現れて、こっちに向かってなにごとか叫んでいる。
いつのまにか上空にはジェットヘリが飛んでいて、超低空で繰り返し威嚇飛行をする。

いま考えても、びっくりするくらい腕が良くて、しかも親切な操縦士で、殆ど海面と垂直になるくらいに機体を傾けて飛んでいたのは、そうしないとローターが起こす強風で、カヤックが横転してしまうという気遣いだったのでしょう。
目の端に、こちらへ戻ってくるかーちゃんカヤックが見えたので、仕方なく、警護のおっちゃんたちに手を振って、艇体を、くるりと向きを変えて、沖合へ向かった。

義理叔父は、「なんという、とんでもない。昔なら不敬罪で射殺である」という趣旨のことを述べたが、鎌倉ばーちゃんと、かーちゃん姉妹にはうけて、そのときも、ガメが考えることは面白いわね、と賞めてもらったが、いまでも、そのときのことを話しては笑い転げている。

日本にいたときのことを思い出すと、大半は東京で、鎌倉や葉山は、ときどき、学校休みや週末に出かけたのに過ぎないはずなのに、鎌倉も葉山も印象が強烈で、輪郭がぼんやりしている東京での記憶に較べて、鮮やかな形象をもっておぼえている。
なぜだろう、と時々不思議な気持で考えます。

葉山に行くときには楽しみがあって、スエヒロの食べ放題しゃぶしゃぶの店があった。江ノ島にも支店が存在して、行ったことがあるが、どういう理由によるのか葉山店のほうが好きで、しゃぶしゃぶにするかすき焼きにするか、店に向かうクルマのなかで毎度悩みくるったのをおぼえている。

だいたいは、「よりたくさん食べられる」という理由によって、しゃぶしゃぶのほうを好んだが、たまに選択すると、すき焼きの味は新鮮で、行くたびに煩悶は深くなって、あのコンジョナシのハムレットの心境は、こういうものだったのではないか、と考えたりした。

ほんとうは、当時から広島風お好み焼きのおいしい店や、海鮮食堂があったはずだが、外国人家庭の哀しさ、せっかく鎌倉ばーちゃんが教えてくれても、心の琴線が洋風にほどけてしまっているので、触れもせで、空振りに終わって、ケンタッキーフライドチキンや、その頃は小町通りにあった、アメリカ本土のチェーンより、ずっとおいしいエルポヨロコのようなところばかりに出かけていて、いま思い出すと「ガイジンはやっぱバカだなー」と考える。
目の前に面白いものがたくさん転がっているのに、見ているのに見えていない。
食べ物ですらそうなのだから、まして、他の日本の生活諸相においておや。

たいていはクルマだったが、列車で出かけることもあって、その頃はたしか北陸特急の旧車両を使っていたかなにかで、ずいぶん足下に余裕がある、背もたれもいっぱいに倒すと150度くらいにはなっていそうな、広々とした車内だった。
これはこれで楽しみで、東京駅でカツサンドを買って、一家で魔法瓶(←というのは死語だそうだが、こんなに良い言葉をみすみす殺してしまっては気の毒なので、わざと使っている)に入った紅茶を飲みながら、冗談を言い合って、気が向けばカードゲームで遊んだり、というか妹に遊ばれたりしているうちに、あっというまに着いてしまう。
その頃はまだ駅前にダリ美術館があって、宝飾がたくさん公開されていたはずだが、かーちゃんと妹は何度か行ったことがあっても、ぼくは興味がなかったので、ひとりで、あの町以外には、あんな変わった舗道は世界中にランブラくらいしか思いつかない段葛を歩いて、鶴ヶ丘八幡宮に出かけたり、もっと足を延ばして円応寺の閻魔さまに久闊を叙しに罷り越したりしたものだった。

いま考えてみると、夢のようで、まるで異なった社会だったその頃の日本では、ガイジンがまだ珍しくて、いちばん初めに日本を訪問した年には、まだティーカップをもったお盆の手が緊張して震えている給仕の人や、こちらを振り向いて、意味深げに笑っている高校生たちや、田舎にでかけると、こちらの顔を見るなり、ぶるぶるとクビを振って、手真似で、出て行けという店主までいたりしていたが、鎌倉という町だけは、どういうわけか、欧州系人が相手でも、日本の人が相手であるのとまったく変わらない物腰で応接して、居心地のよい町だった。
そういう点では東京のほうが、ずっと田舎で、鎌倉や葉山のほうが都会で、日本の町のなかで鎌倉と葉山を真っ先に好きになったのは、多分、そのせいではないだろうか。

それどころか、常磐の山道をあがって散歩していると、耕していたおばーさんが、そのなかを覗いてご覧、と言うので、コンクリートの枯れ井戸のなかを覗き込むと、マムシが凶悪な顔で、こちらを睨んでいたりして、なにがなし、人なつこい人が多くて、気さくで、日本の人の良いところに触れる機会が多かったような気がする。

ずっとあとになって、モニさんとふたりで日本に滞在した頃は、もう外国人も特別に疎外されるということは、少なくとも表面ではなくなっていたが、それでもモニさんは「鎌倉では自分が外国人という意識をもたなくてすむ」と述べていたので、やはりその頃ですら、空気が異なる町だったのでしょう。

2010年のある日、もうすぐニュージーランドへ向かって発つという冬の初め、なんだかとても鎌倉の町と葉山の海を見たくなってモニとふたりで出かけることにした。
その頃はもうグリーン車が飛行機のエコノミークラスよりも小さな座席に変わりはててしまっていて、シートを回転させて向き合って座らないと足が入らない車両になっていたので、列車では無理なので、クルマで出かけた。

子供の頃、少し込んでいると二時間半かかっていた鎌倉への道は、高速道路の数が増えて、1時間足らずで着いてしまう。
逗子でおりて、逗葉道路で、なつかしい100円玉ひとつを渡すと、にこにこしたおっちゃんが、「気を付けて」と述べるのに、さんきゅーとわざわざカタカナ発音で応えて、葉山の丘をのぼる。
急な傾斜の坂をのぼって着くホテルのコーヒー店のテラスからは、ちょうど西日をうけて、輝くばかりの相模湾が見渡せる。

他に誰も客がいない午後の、白を強調したテラスで、モニとふたりで立って、綺麗だねー、と言い合う。
吐く息が白くて、モニさんの頬はみるみるうちに薔薇色になって、ほんとうはアンドロイドなのではないかしら、といつも思わせる、 美しい横顔を見せている。

ガメ、ここに来るのは、これが最後かもしれないな、とモニが言う。
モニには珍しく感傷的なことを言う、もう長期滞在ということはないが、欧州とニュージーランドのあいだにある国だもの、またストップオーバーで何度も来るに決まってるやん、と述べると、
そうだな、とは呟くが、まだなにか言いたそうにして、でもそのまま口をつぐんでしまう。
マフラーを巻き直して、コサックみたいだ、とときどきからかう黒いふかふかした帽子を、ふざけて少し深めにかぶり直して、こんなに反射光が強い海なのに、サングラスを外して見つめている。
なんだか本当に最後だと思っているようなので、びっくりして見つめていると、突然、ぼくの手のひらをつかまえて、ぎゅっと握りしめる。
モニが、ガメ、ここにいて、わたしのそばにいて、永遠に離れないで、と瞬間に考えたときの癖です。

モニにしては、おおげさな感情で、不思議だった。

それから三ヶ月で福島の原発が爆発した。
あの、まるで安物の特撮みたいに見える、するすると伸びていく黒い水を、オークランドの家のラウンジで、ふたりで並んでカウチに腰掛けて、強張った顔でみつめていた午後を昨日のことのように憶えている。

そのあとは日本は記憶のなかだけに存在する国になった。
プロの写真家で十分通用するくらい写真を撮るのが上手なモニさんは、よくカメラを持って歩いて、モノクロームの写真をたくさん撮影するが、このときも手にカメラを持っていたのに、目の前の美しい海を撮ろうとはせずに、ただ一心に見つめていた。
まるで、死にゆく人を看取るように、愛情をこめて、でも二度と会えないことを知っている人の目で、葉山の海を見ていたモニを思い出す。

六年後、欧州からの帰り途、二泊だけの旅で日本を再訪したが、そのときの感想は不思議で、再訪自体はとても楽しかったのに、以前に住んだことがある国だとはどうしても感じられなかった。
観光で訪れた見知らぬ国のようで、自分が日本語を理解出来る事すら奇妙に感じられる旅だった。
日本は、もう知らない国になってしまっていた。
モニが見つめていた日本は、たしかにあの年を最後に、この地上から永遠に去ってしまった。

あの輝きを最後に残して。

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3 Responses to 鎌倉・葉山

  1. ATSUSHI TAKANO says:

    美しいなぁ。記憶の中の日本が、いまの日本より美しいずっと青く美しいというのは、どんな気持ちだろう。

  2. vida768 says:

    あ、中の人たちは大変だったでしょうが。その手が…な「子供の小冒険」エピソードなので記憶に残します。
    笑いごとじゃない人たちのことは配慮しないと。いけない、目が笑ってしまう。
    古くからある保養地ってそんな気風だったような。
    吉田秋生の漫画で鎌倉の居心地の良さは知ったけど、江の島の岩屋が崩れ果てて入れなくなっていたのは悲しかった。材木座でも桜貝が拾えたんだけどなー。海ほおずきやーい。
    ま、浮世絵には残ってるから良いのです。
    移ろいもまた。

  3. Yuho says:

    ぎょえ~!ついにコメントも書けなくなったかと思ったら書けました。にょかったです。ありがとうございます。
    ジェットヘリの操縦士さんの気遣い、サンキューをカタカナ語でってとこ、コサック帽子、いいなあーと思いました。あとモニカさんとのことは、もう、二人にさ…ら!に!幸あれ、です。

    東日本大震災の日は福生の米軍基地でラジオ体操してました。それは朝ですがサイレンが鳴ったのが記憶に残ってます。揺れたときは軽量?担いでエレベーターから出ようとするときでした。揺れるな~このベーターはって思いました。出ても揺れてるんで、みんなで詰め所戻ったら、職人さんワンセグで津波見て「ヤバいよヤバいよっ」ってなりました。基地の方はそこそこ出てってましたね。すみません、長々と中途半端に書いて。懐かしい横田のタワーマンション&メゾネットです。イギリスのはなしよみたいです!(^3^)/

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