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ヒロシマ

日本語で見聞きする太平洋戦争についての話が、あまりに奇妙で、いわば日本が主役の話に書き換えられて、常識と異なっているので、 「ふたつの太平洋戦争」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/ という記事を書いたことがある。 毎年、今頃になると、こんなことばかり書いているような気がするが、日本の人の第二次世界大戦に対する他国との認識のずれは、どこからどうみてもナチが主役の戦争であるのに、自分が脇役であることに我慢できずに、主役をふたりの筋立てに水増しして、ほぼ架空な、民族英雄叙事詩としての戦争を作り上げてしまったことにある。 欧州にいれば簡単に実感できることは人類の理念をかけて戦われた第二次大戦は5月8日に終わったので、その後は、また別の戦争で、いまでいえばより大規模なISとの戦い、というようなもののほうに似ている。 外から見れば普遍性のない教条をかざして、貧弱な火器を武器に、自殺攻撃を繰り返すことで世界のがわに立った「外国人」たちを恐怖の底に追いやることで勝利を手にしようとした、テロを大規模にして戦争と呼ぶ事にした、とでも言うような奇妙な戦争で、軍事的に言えば、厄介な掃討戦とでもいうほかないひと続きの戦闘がVEデー後の第二次世界大戦の性格で、日本側からいえば、前年の6月15日から7月9日にわたって戦われたサイパン島の戦いが終了したときに軍事的には意味のある「太平洋戦争」は終わっていて、そのあとは、本音を言えば自分たちの軍隊という官僚組織が消滅することを恐れて、次から次に理由を捏造して、将校たちが兵卒の生命を大量に使いつぶして、自己の官僚としての延命を図ったのにしか過ぎない。 意味のある戦争が終わってしまっているのだから、当たり前のことだが、VEデー以降、連合軍兵士の戦意は著しく低下した。 ひたすら戦死を恐れるようになった。 楽しみにしていた恋人からの手紙を開いてみれば、欧州戦線から帰還した故郷の町の「英雄」である兵士と付き合うことになったので、ここでお別れにしたい、という手紙であり、ラジオをつければ、故国は毎日毎晩がカーニバルのような大騒ぎで、遠く極東で海でも陸でも、信じがたいことに空からすら、自殺攻撃をひっきりなしにかけてくる、国民がまるごと狂気にとらわれているとしか思えない民族を相手に、発狂しそうになりながら、対空機関砲を撃ちまくり、日本刀をかざして、突撃、というよりは、よろよろと向かってくる痩せさらばえた何百という人間を機関銃で薙ぎ倒すだけの戦場で、そこいらじゅうに潜んでいる狙撃兵に殺され、時に擲弾筒から発射された小型の榴弾で手足を吹き飛ばされる。 そうして、陰湿な戦闘で殺された人間は、すべて犬死にでしかなく、無意味な死で、自殺攻撃という自分の人間としての価値をゼロとみなす敵兵のせいで、こちらの人間性がどんどん安物になってゆく、卑しさに満ちた非人間的な戦場で、終わるべきなのに終わらない戦争が1日延びるたびに、また数人が無意味な死を死ぬことになっていた。 マンハッタン計画に参加した科学者たちですら、自分達が何をつくってしまったか理解していたのは後年、カメラの前で泣きながら「I am become Death, the destroyer of worlds」と述べたオッペンハイマーを初め、ごく少数の人間だった。 政治の世界で政策を決定し、当時ならば戦略決断をする立場だった人間たちに至っては原爆は「なんだかよく判らないが巨大な破壊力を持つ高性能爆弾」というぼんやりしたイメージがあるだけだった。 500機のB29を擁するテニアン基地で搭乗員相手にブリーフィングを行う将校達にしても、強烈な閃光がある、そのあとに急速にキノコ雲がわき上がる、平地の中心にうまく落とせば素晴らしい破壊力を発揮する、という程度の切れ切れの知識を持っているだけであったのは証言を読んでいてもよく判る。 原爆が通常爆弾とは次元が異なる兵器で、人間を文字通りの業火で焼き尽くし、いあわせて即死を免れたものは皮膚をボロ布のように身体からたらしながら苦しみのなかで彷徨し、あるいは肥田舜太郞医師が広島で初めて会った犠牲者のように、「まるで人間の形をした炭が歩いてくるようだった」という酷い火傷をおい、しかも爆発による破壊のあとでも、放射性物質によって被爆したひとびとを苦しめつづけ、喉の渇きから降ってくる雨を口で受け止めた者は次々と死んでゆく、というような到底人間の手に負える兵器でないことが判ったのは、広島市民をギニアピッグとして、データを集めてはじめて判ったことで、現実の広島の惨状を見たものは、日本の側かアメリカの側かを問わず、これが現実に起こりうることなのだろうか、と呻きに似た感想を記している。 原爆の標的は、もともとは軍都で、呉か小倉で、兵士のみを殺すためのものだと明言されていた。やむをえない場合は仕方がないが市民は極力巻き込まない、という説得のための「イメージ」は、現実の投下プランの段階で、軍人らしく、「一発の爆弾での破壊力を最大限に発揮させる」という殺人の効率化のほうへ収斂されていって、結局は原爆ドーム脇のT字橋の直上で爆弾を破裂させるという市民虐殺のほうへ本末が転倒されてゆく。 なぜそうなったかについては、投下作戦としては失敗に終わった長崎の例をみれば明かで、開発にかかった巨大な予算を正当化するためには、「瞬時ですべてを破壊し蒸発させる」、常識を越えた魔王的な結果が得られなければ、マンハッタン計画自体の成果が問われたからでしょう。 8月6日が近付けば、毎年のことで、昨日もヒロシマについてのドキュメンタリを観てあるいたが、エノラゲイの搭乗員たち、開発に携わった人たち、爆弾を現実に投下する決定を行った人達は、異口同音に、「もし原爆を落とさなければ戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」と一様に述べている。 ノーザンプトン級重巡オーガスタの艦上で兵士達と昼食を摂りながら歓談していたハリートルーマンは広島核攻撃成功の電報を受け取ると、その場で立ち上がって 「諸君、われわれはTNT二万トンぶんの破壊力を持つ、たった一発の爆弾で日本の都市広島を木っ端微塵に吹き飛ばした」と述べて居並ぶ将校や水兵たちと一緒に歓声をあげる。 将校から一水兵まで、直観的に、その強烈な新型爆弾の威力が自分たちを日本本土上陸作戦での「犬死」から救ってくれたのだと判っていたと、さまざまな人が書き残している。 そのときのハリー・トルーマンの即席スピーチが 「Come on boys. We’re going home!」で締めくくられたことは象徴的です。 都合が悪いので日本ではあんまり伝えられていないが、その頃、 「なんとか、どこかで一勝をあげることは出来ないのか」が口癖になっていたらしい昭和天皇は、科学者らしく、広島に落ちた「新型爆弾」が、どうやら核爆弾らしいと判って、鈴木貫太郎を説きつけて、なんとか戦争を終わらせないとたいへんなことになると実感する。 It was to … Continue reading

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