Daily Archives: August 13, 2016

男たち、女たち

1 Queenストリートを歩いていると、あちらからもこちらからも日本語が聞こえてきて驚いてしまう。 CBDでも、あの辺りは語学校がたくさんあるところなので、多分、英語留学で来ているひとびとなのでしょう。 若い女の人が多い。 アジアの人は小さくて、若くみえるので、男も女も中学生のようです。 「この5年」であるよりも、この1,2年で増えたので、福島事故後の顛末を見て不安になったのではなくて、ジャブジャブオカネを使って、本質的な効果はなにもない投機的な経済政策に使い果たして、なお恬淡として恥じない政府や年長世代の厚顔ぶりをみて、日本の経済的将来への不安から英語世界へ移住しようと考えたものであるらしい。 話してみたこともあって、それは2011年以前のことだったが、その人は 「日本の若い女は、機会さえあれば海外で暮らしたいとおもっている」と述べていた。 「日本の社会には、女にはチャンスがないんです。わたしは大学で建築を専攻しましたが、民間企業の性差別があまりに酷いので上級公務員試験を受けて最も性差別が少なそうな省を選んでも、今度は、役所には理系差別もあって、 性差別とダブル差別になってしまったので、仕方がないからアメリカに来ました」と言って笑っていた。 なにごとによらず鈍感なぼくは、そのときも、「そうですか。それは大変ですね」くらいのおざなりな返事で、横にいたベルギー人とポーランド人の映画監督と小津談義に熱中しはじめてしまって、あまつさえ、二年後に違う友達のパーティで、部屋の反対側からまっすぐに歩いて来た美しい女の人に「わたしをおぼえていますか?」と訊かれて、思い出せなかったので「おぼえていません」と正直に述べたら、「ひどい」と苦い顔をされてしまって、その女の人が、日本社会の性差別について話をしてくれた人だった。 日本の社会を見ていて不思議な事は、「労働人口が不足している」と、政府だけではなくて、企業も、マスメディアも、はては新橋の一杯飲み屋のサラリーマンたちですら口々に述べているのに、目の前の、日本の女の人々という世界でも有名なチョー優秀な集団で知られている自分達の社会のグループには、コーヒーをいれさせ、制服を着せて、あるいは安上がりな娼婦の役割を与えて、ついでに使い出がありそうなのを選んで、おかあさんの役割を家のなかで演じさせるだけで、社会のなかでのまともな役割を与えようとしない。 だが、ガメちゃんね、と、有楽町のガード下の焼き鳥屋で、女の人が二重差別でうんざりしたという当の省庁でキャリア組を管理する役のおっちゃんが述べている。 「ぼくには苦い経験があってね、これは優秀な人だな、と思う女の人を、みんなの反対を押し切って推薦して、わたしは絶対に寿退職なんてしません、と真剣な眼差しで言うので、思い切って昇進させてリーダーとして引き抜いたら一年後に結婚退職されちゃって」 と、眉を曇らせている。 いままでのキャリアで、あんなに参ったことはなかった。 おかげで「余計なことをする男」の評判がくっついちゃってさ。 と、上級公務員の安月給なのに、もう4杯目の生ビールの大ジョッキを飲み干していた。 もう、女はこりごりだよ。 2 職場にいる個々の男が女性差別をなくそうとしても、うまくいかないのは、性差別が社会全体の構造の問題であるからで、たとえばイタリア人の友達は単語にまで性別があって、目に入るものすべてが、どちらの性であるか絶えず無意識に判断しないといけない世界では、男女差別をなくすのは無理だわよ、と苦笑していた。 英語圏のほうが、同じくらいひどいとはいってもイタリア・フランス・スペインというような国よりも性差別が小さいのは、言語の問題もあるのではないか。 ハリウッドの、50年代の映画を観ていると、女らしい言い回しに溢れているが、現代の映画では殆ど男女の差はなくなっている。 言い回しがおなじで、表現がおなじになれば、単語に性別がない杜撰さが怪我の功名をなして、男女の区別を無くしていくのに役立っている。 いまの日本で、まさか「女らしくしなさい」と娘を教育する母親はいないだろうが、女言葉が猖獗していて、一人称さえ「おれ」「わし」「ぼく」が選べないのでは、そのあとに続くセンテンスで表現しうることも極く限られた事象になるだろう。 そのことを述べたら、ある日本人の女の人に「ガメ、女はね、考えるときには女の言葉では考えていないのよ。女言葉は、端的に言えば男を喜ばせるための表現で、あんな言葉でまともにものは考えられない」というので、おおげさでもなく、カンドーしてしまったことがある。 そーか、そーだったのか、と考えた。 一方で、普遍語で思考する上に、それを表現するときに女の言葉に翻訳しなくてはならないのでは、日本の女の人は余計な手間が多くてめんどくさくてやってられないのではないか。 おっさんが「おれは、そんなこと納得できねーよ」と言えるのに対して、 「わたしは、それでは、困ります」しか言えないのでは、頭のなかで「死ね、このクソオヤジ」と叫ぶことは出来ても、その内心の声が頭上にホログラフィで表示されるシステムでも完成しない限り、女びとの声は可視化されない。 3 アフリカンアメリカンのガールフレンドと付き合って、白い人の側からの微妙ですらない明瞭な差別意識にびっくりしたことがある。 初めは気のせいだろうと考えたが、南部にふたりで旅行すると、ガールフレンドに対して極めて礼儀正しいのに、深刻な話になるとぼくのほうだけを向いて話す人がたくさんいる。 オーストラリアにでかけたときは、もっと酷くて、のっけから存在しない人のように扱われることもあった。 ところがガールフレンドがひとりで街を歩くと、口笛を吹くひと、「美人だねー」と声をかけるひと、たくさんいて、まるでステージを横切るスターに対するようで、つまりは性的対象でしかない。 その頃学習したことは、直截には義理叔父から教わったことだったが「人種差別は差別する側の問題で、される側は、抗議する以外に出来ることはなにもない」ということだった。 日本の人には、「ハクジンにバカにされないように自分達もちゃんとしなければ」と言う人がいて、ぶっくらこいてしまったことがあったが、肌が白い人に感心してもらうために行いを正しくするのでは奴隷なみで、そんな惨めなことを考える必要はない。 人種差別は白い人の病気なので、病人である本人たちが、病気である自覚をもってなんとか治療法を発見して、病気を根絶する以外には方法はないだろう。 モーガン・フリーマンは「人種の話をしたがる人間は人種差別主義者である」と有名なインタビューで述べているが、人種の話とは異なって人種差別主義者の話は、いくら白い社会ではネガティブな話は殆どタブーだといっても、もっとしたほうがよい。 この先は日本語で書いても意味がないので書かないが、差別する側はどういう種類の差別にしろ自分が差別していることについてさえ鈍感なので、「そんなに数が多くなければ」有色な移民がやってきても社会の活性剤になるからよい、あのひとは夫がイギリス人だから安心して付き合える、というバカ言辞を聞き逃してはならない。 … Continue reading

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