終戦記念日

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終戦記念日は「戦争が終わった日」という意味だろうが、戦争が終わった日ならば1944年7月9日のほうが相応しいはずである。

1945年8月15日は「せめて、あと一勝」と自分を神と崇める国を有利な講和に導こうと頓珍漢な努力を繰り返した昭和天皇が、二発の核爆弾に青ざめて戦争の続行をついに諦めた日であって、その日に起きたドタバタ喜劇じみた、日本らしい大騒ぎについては、二年前に

「日本のいちばん長い日」を観た
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/04/815/

という記事で書いた。

軍事にも常識というものが存在して、軍事上の常識に従えば日本軍が「絶対に陥落しない。万が一陥落したら、そのときは戦争の終わりだが、たとえ航空隊の掩護がゼロでもサイパンが落ちることはありえない」と昭和天皇に対しても国民に対しても繰り返し約束して、疑義をはさむ将校がいると、「おまえは素人か。サイパンの要塞構成をみて、少しでも軍事知識があれば、落ちるわけがないのがわからないのか」と怒鳴りつけるのを常としたサイパンが、あっけなく陥落した瞬間、ほんとうは戦争はもう終わっていて、そのあとは、ただ無暗に日本の外では補給線を破壊されて制空権を完全に奪われた兵士がひどい飢えのなかで屠殺され、日本の内では、日本側が焼夷弾と呼んだナパーム弾の渦巻き状の絨毯爆撃と最後にはとどめに二度の核攻撃で国民が意味もなく殺されただけのことで、戦争といえるようなものでは到底なかった。
国民の生命というものが幾許かでも価値をもつ普通の国ならば、とっくの昔に、手を挙げて戦争をやめていなければならなかったのに、この日本という、国という体制のために国民が存在する倒立した全体主義の不思議な価値観に立つ国では、国民が最後のひとりになるまで「憎い米英」と戦うと述べて、夜襲やカミカゼの大規模なテロルを続けたので1年と1ヶ月のあいだ、日本人は、男も女も、若い者も老いた者も、ただ意味もなく殺されつづけることになった。

太平洋最大の決戦だったサイパンの戦いについて、日本側では藤田嗣治を動員して戦意昂揚に使われた「バンザイクリフでの追い詰められた民間人投身の悲劇」以外は不思議なほど語られることがないのは、簡単にいえば、それが純軍事的にはあまりにもみっともない敗北で、生き残り将校の庇い合いによって提督の臆病な逃走を「謎の反転」と言い換え、沖縄人の食糧を奪い、家族ごと皆殺しにしておいて「沖縄県民かく戦えり」と述べて、美談で塗りたくって自分達がやったことを隠蔽する、いつもの巧妙さをもってしても、どうにも言い抜けが出来ないほどの惨めな敗北だったからです。

当時、日本海軍には「彩雲」という素晴らしい出来の高速偵察機が存在したが、ナウル島から飛び立った一機がマジュロ環礁に集結したアメリカ軍を二週間前に発見した。
そのお陰で他の島嶼上陸作戦のように不意をつかれる、ということはありませんでした。
アメリカ軍の動向を逐一把握していた。
日本側はアメリカ軍の予測よりも遙かにおおきい戦力をチャラン・カノア南北の海岸に集中して展開していて、アメリカ軍が、自分達が入念に作り上げた罠である海岸に計算通りやってくると、「もう勝ったも同然」と小躍りした。
最も戦力が集中した正面に敵が「注文通り」やってきたわけで、戦闘ではそんなことは滅多にありえないような理想的な展開でした。

案の定、せまい橋頭堡にひしめきあい、大規模な戦車隊まで潜ませていた日本軍の攻撃にあって重火器も戦車も揚陸する前の状態だったアメリカ軍は一時、大混乱に陥る。

しかし、翌日には壊滅させられる寸前であったはずのアメリカ軍は橋頭堡を拡大し、海岸全体に広がって、ほぼ勝利を手にしてしまう。

余った航空機エンジンを使ってつくったせいで戦車としては致命的なほど背高のっぽで、しかも戦車はディーゼルエンジンでつくるのが文法であるのに爆発しやすいガソリンエンジンで、欧州戦線ではドイツ軍の同級以上の戦車にはまったく歯が立たずtommy cooker とかRonsonと呼ばれるほどひどかったM4シャーマン戦車も、日本軍を相手にすると、無敵で、日本の標準対戦車砲や大日本帝国陸軍が世界最高と誇った97式中戦車では、まったく歯が立たなかった。

練度が低いどころか、戦闘経験がないアメリカ戦車兵は、へまばかりで、射撃が下手で、歴戦の日本戦車兵は、海岸を右往左往して、あるいは故障したように座り込むM4に的確に狙いを定めて猛射するが、あとでアメリカ兵たちの笑い話になるように、砲弾が非力すぎて、かすり傷を装甲に与えることもできなかった。
一方、M4の、ドイツ軍のタイガー重戦車に対しては装甲が薄い後ろからまわりこんで、しかも数メートルという至近距離から射撃して、やっと仕留めるという、「まるで棺桶に乗ってるみたいだ」とアメリカ戦車兵たちを嘆かせるほどだった75mm砲は日本の戦車に対しては有効で、97式中戦車の射程距離外から射撃しても一発で砲塔が吹っ飛び、車体ごと爆発するほどの打撃力をもっていた。

サイパン戦について「戦闘計画で完勝した日本軍は、不思議にも、現実の戦闘であっけなく完敗した」
と述べている英語で書かれた本があったが、そのとおりで、つまり、1944年夏の時点では、兵力をどれほど持っていても、兵器をどれだけ集積して待ち構えて、計画どおりの上陸地点に敵が来ても、まったく勝ち目がないことは日本の陸海の軍人の目には明かになっていた。
戦後、日本の帝国軍人たちが自分達の官僚主義と怯懦を隠すために繰り返した「敵の物資に負けたのだ」は言い訳にすぎず、そもそも開戦当初は、どの戦線でも連合軍よりも装備がよかった日本軍は、潜水艦という兵器を使いなれず、脆弱な兵器である潜水艦を、艦隊相手に使うという気が遠くなるような初歩的なミスを犯して、自分が艦隊決戦前段に潜水艦を使おうと考えるくらい潜水兵器に理解がないので、当然、潜水艦に対しては最大の防御である駆逐艦を日露戦争時なみの艦隊決戦前段においての大型魚雷艇代わりに使うという作戦計画を立てるほどの頭の悪さで、本来シープドッグのように群れの周りを周回しているべき駆逐艦群の護衛のない丸裸の補給艦隊が、日本の潜水艦より遙かに性能的には劣るが常識的正統的な潜水艦使用法に従って運用されるアメリカ側の潜水艦に、手もなく沈められ続けた結果、装備どころか食糧もとどけられなくなって、兵士はアメリカ軍よりも飢えと闘わなければならなかった。

日本の委任統治領で、当時の日本人にとっては「日本領の島」であったサイパン島には、当然のことながら、日本人たちの町があって、学校があり、日本語で生活していた。戦争が不利になってくると数多い日本のひとたちが逃げていったが、まだたいしたことはないだろう、とタカをくくってサイパンに残っていた日本人が
アメリカ軍の上陸当時で、まだ2万人程度住んでいた。

「永久要塞サイパン」の日本軍がたった三日間で壊滅したあと、日本政府の洗脳政策によって日本軍が負ければ死ぬものだと教わって信じ込んでいた日本の民間人は、1万人弱が、ほぼ全員自殺あるいは自殺的行動によって死ぬ。

あとでは極く一般的になる民間人が数人で、最も安価な兵器であるために民間人に自殺を強要するための兵器として日本軍が重宝して配布した手榴弾を囲んで自殺する日本人の姿が、初めに見られるようになったのもサイパン戦でした。

日本では、なにしろ「それでもよく戦った」ばかりで、ちゃんと書いてくれないので、なんだかいらいらして、つい長々と陸の戦いを書いてしまったが、海と空の戦場はもっとひどくて、アウトレンジ戦法と名前をつけた、いかにも日本の役人らしい、現実認識の欠片も存在しない「敵が届かない遠距離から一方的に敵をたたく」という、ひとりよがりな、バカみたいな戦闘計画を立てて、挙げ句の果てには、経験もない遠距離を侵攻させられた若いパイロットたちは、敵に遭遇してもぶざまに逃げ回るだけで、やはり新兵ばかりで戦闘技量もない若いアメリカパイロットたちからさえ、Great Marianas Tukey Shootと呼ばれるほど酷かった。

ところで、いま書いていて気が付いたのはマリアナ沖海戦についての日本語記事に「作戦構想はすぐれていたがパイロットの技量が未熟なせいで現実の戦闘では大敗した」というとんでもない記事がたくさんあることで、これではいくらなんでも、日本の若いパイロットたちが気の毒です。

坂井三郎やアドルフ・ガーランドのように第二次世界大戦以前からキャリアを積んで、大戦に入ると、長い戦歴で身についた技量を活かして大空を自在に飛び回った例外的な操縦士を除いて、空の戦闘に参加するのは、大半が「真っ直ぐ飛ぶのがやっと」のnovice pilotたちで、空の戦闘の作戦を立てるときには「大半のパイロットは未熟なのだ」ということが前提になっている。

自分で飛行機を飛ばして見れば判るが航法士が同乗しない一人乗りの飛行機では、地上のランドマークや地形を手がかりにして飛ぶ地紋航法ですら300キロというような長距離を飛ぶのは大変なことで、ましてただ茫洋と広がる海上を飛ぶときには、坂井三郎のようなベテランの飛行機に必死についていくか、はぐれてしまえば、空にあがれば必ず低下して、一桁の掛け算もおぼつかなくなる低下した脳の機能をふりしぼって、風の偏流を計算し、速度と時間を計算して、自分がどこにいるか把握しなければならない。

空戦ともなれば、初めの一退避で、いったい自分がどんな姿勢で、どこを飛んでいるかが判らないのが普通のことで、裏返しになっても気付かず、水平線をはさんで、どちらが海でどちらが空なのかも判らない状態になる。

だから新米パイロットを自分の判断で飛ばなくてすむように、防戦でなく攻撃に終始できるように、あるいは長距離を侵攻させないように作戦を組み立てるのが空軍作戦将校の腕というもので、そういう基本的な約束事をことごとく無視した机上の遊びにしかならないような作戦をつくっておいて、未熟なパイロットの腕のせいにするなどはバカげているとしか言いようがない。

現に遙々やってきた日本軍機を迎え撃って日本機を追いかけ回して一方的に撃墜する「七面鳥撃ち」を楽しんだアメリカ側パイロットたちも、日本側とたいして変わりがない新米パイロットたちだったのは、そんなに注意していなくても、気が付くことだとおもわれる。

日本側の戦史を読むと、言い訳につぐ言い訳で、戦争を生き残った将校達の自己弁護ばかりで気分が悪くなる。
有名な故事を例にあげればアメリカでは、多少でも太平洋戦争に興味があれば、子供でもテレビのドキュメンタリやなんかを通じて知っている「臆病提督栗田の遁走」という怯懦に駆られた軍人の、びっくりするような戦場放棄事件が、日本側の記録では、「戦後も黙して語らなかった寡黙で沈毅な提督」の
「謎の反転」と言い換えられる。
以前にも書いたが、図体がでかいばかりで、軍艦の運用には不可欠な勇気を欠いた将校達のせいで日本海軍の無能と臆病の象徴というイメージがある戦艦大和と武蔵を悲劇の巨艦のように描きなおす。
一事が万事で、1944年後半の日本軍は、すでに軍隊と呼びうるような組織ではなかった。

ほんとうは誰の目にも終わった戦争を、続行するために、昭和天皇と軍事官僚は、若い日本人の生命をカミカゼとして敵の鋼鉄に投げつけ続けるという日本の歴史どころか人類の歴史に永遠に汚点となって残るような非人間的なことをおもいつく。
「どうせ下手なんだから、おまえ爆弾ごと体当たりして、死んでこいや」と言わんばかりの作戦に若いひとびとが喜んで志願したことになっているからくりは英語ドキュメンタリでは種明かしされていて、志願をつのる用紙の選択肢が
1 熱烈に志願する 2 強く希望する 3 希望する
のみっつだったという、笑い話にもならない卑怯さで、なんだか、ここまで腐った国で生きながらえても仕方がない、と覚悟を決めて、酒や覚醒剤の力を借りて、せめて笑って潔く死のうと思い定めた若い人間の心が、こうやって書いていても眼前に立ち現れる明瞭さで判る。

年長世代の卑怯と無能の結果を自分の人生を破壊することで償わなければならなかった若いひとびとは、その当の年長世代と一緒に靖国神社に都合良く「神」にされて祀られて、どう思っているだろうか?と、東京にいたときには九段の坂を歩いて神保町におりながら、よく考えたものだった。
あの神社は、日本人の欺瞞と嘘の象徴なのではないか?

1945年8月15日を「終戦記念日」と呼ぶ事のバカバカしさは、誰が見ても日本側にはもう絶対に勝ち目がないと判ったサイパン島失陥のあと、1年1ヶ月にわたって、兵士や市民を無意味に殺し続けて、はてしのない無能のあとで、ついに殺して消費すべき若い生命も在庫がつきたので、おれが地位を失っても仕方がないと手をあげた年長世代の決断を記念していることで、指導層の無能のせいで、戦闘ですらなく飢えによって殺され、志願して喜んで体当たりしたことにされて、社会の無能を自分の肉体と生命で支払わされた若いひとびとのほうは、なんだかテキトーに美化されて、神様にして棚に飾っておけばいいだろう程度の好い加減さで忘れ去られてしまったことで、そのくらい社会がまるごと無反省で厚顔になれるものならば、どうせ、またもう一回おなじことをやるだろう、というのが観察者たちの意見になっている。

また、8月15日がやってくる。

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9 Responses to 終戦記念日

  1. Yuki Matsuda says:

    日本国に起こる事は、どんな国の人達にも起こりえるとおもいます。他人の痛みが感じられない人がリーダーになった国がかわいそう。他人の人生を奪う行為だけは、人間がやめない限り、世界中で全宇宙で誰かが悲しみます。
    私のおじいちゃんは、生きてたら、110歳かな? 第二次世界大戦争に行って生きて帰って来た人ですが、戦争は、絶対にあっては、ならない、行っては、行けないと言ってました。

  2. nowhereman134 says:

    「前線で戦っている兵隊さんに、あなたのお子さんを食料として提供しませんか。」「お子さんの魂は兵隊さんといっしょに、日本を守ってくれます。」とか「日本の少年少女よ、君たちの勇気と愛国心を今こそ示そう」と言って、子供の肉を兵隊の食料として提供させるような政策が採用、実行されていたらどうだろうかと思ったりします。まさか、戦後に美談として語られたりはしないだろうと。◆あまりにグロテスクな想像ですが、「特攻作戦」はそれと変わらないグロテスクな作戦。◆それにしても、このブログを読んで目から鱗がボロボロ落ちています。「謎の反転」って、そういうことだったのか。たしかに合理的に考えればその通りだ。「謎の」と形容することで合理的な思考を放棄してたのか~(涙)

  3. snowpomander says:

    戦った負けた終わったの戦後のあれこれ。戦後の生き恥撤回の「どさくさ」に紛れてとも、必死で生活していくのに忙殺されていたとも、日本のヘドロ掃除的カオスだったとあの時代について言えると思う。給料の半分の値段の粉ミルクや一反の晒しの木綿、洗濯物が物干竿ごと盗まれる、玄関から銭湯から履物が盗まれるそんな時代だった。それを思い出す人が今どれほど居るだろうか。大多数の日本人は生きるために脇目もふらず働き、中卒の男女が上野駅で就職先の下町の工場主に迎えられる集団就職は風物詩のようにニュースになっていた。

    何故、私はこんな日常的なことを書いているのか。戦闘機とも駆逐艦とも戦車とも関係無いが戦争のその後に関係しているあることに気がついたからだ。焼夷弾から辛くも逃れた身内から聞いたこと戦後生まれの団塊に居る自分が体験した世相、それがもしかしたら私にとっての仮説的ユーレカ(多くの要素の一つ)に導いた。

    せんごの娯楽は和製ボードビルやジャズなどアメ横の物資とならんでアメリカナイズされたものが横溢していた。映画はカラーの美しいアニメーションや白人男女のハリウッド夢物語、やがて普及して来たTVのアメリカのホームドラマでは豊かな暮らしのスイートホームのパパやママと子供たち、そして「名犬ラッシー」「リンチンチン」・・・「サンダーバード」「スーパーマン」などなどでアメリカンドリーム満載である。素晴らしい欧米文化への希求と戦前戦後の日本幻滅感の真ただ中でアメリカへの憧憬を渇望する媚薬が振る舞われた。

    生活苦からの脱出に勤しんだ国民(大多数)はだーれも辛かったことや悲惨なことや愚劣な戦争牽引政府のことなどしっかりと反芻したりはしなかったようだ。出来なかったでもしなかったでも、夫々の立場がある。でも「戦争」を省みるを兎に角スルーしてしまった。懐に後ろめたいものを握りしめた者たちは何喰わぬ顔で新しい政財界の重鎮の席に居座り、彼らは「戦争」を省みるときに人命ではなく己の喪失した地位や富について省みた。それ故に、戦前ゾンビの末裔が雨後の竹の子ように這い出て跳梁跋扈するしだい。災害や暴言に平常心でスルーしている人々とそれはシンクロナイズしている。どんな国にも賞味期限があることは歴史で証明済み。

    あえて仮説的ユーレカを得たと書いたけれど、こうして書いていると仮説ではないと確信してきた。戦後の望ましい変容を担っていたはずの人々の傷ついた感性は衣食住の確保と電気製品とネオンサインのぴかぴかの文化生活へと注がれてしまった。娯楽と享楽的なアイテムで満腹にしておけば戦争になど興味は持たないだろうとの心理コントロールの思惑を感じてしまう。老獪な戦争荷担者達は生き残り背財界で跋扈していた。その眷族から出て来た輩は戦争は全てをリセットするとその神業体験を望んでうきうきしている。年端も行かない青二才が「俺が戦場にいったら敵なんざぁいちころよ」と同じ程度の自負心の持ち主が国民の生殺与奪の職に就いている。

    戦争と外交の拮抗する世界は日本を観察して結論は「またやるだろう」。
    2016年の日本、そこで暮らしてみた私は同じく思うのである。
    意識は立ち去るモードへ移行中。

  4.  田中角栄首相が日中国交正常化を成し遂げ大々的にニュースで取り上げられたとき、義父はテレビの前で「ふざけるな!馬鹿野郎!」と急にどなったそうです。普段から口数の少ない夫の急な癇癪に義母はひどく驚いたとそうです。義父はシベリア抑留者で帰国したのは昭和二十年代も後半にはいってからでした。「それでも北へ行ったから…南に行った人は助からなかったものね。」旧盆のある日義母は洗濯物をたたみながら遠くを見てぽつりと言いました。
     
     以前この場をお借りして中国帰国者(中国残留孤児)支援のボランティアを始めたことをお話ししましたが、お付き合いするにつれて彼らが帰国して長い年月を経ているにもかかわらず、いくら壮年期を過ぎていらしたとはいえ日本語の能力が極端に低いことに少々疑問を持っておりました。加えて自分の住んでいる地域や生活そのものにすらあまり興味がないように見えること、私と話すことすら面倒そうなのが気になっておりました。
     ある日とある帰国者の方に「私はこの国で死にたいから戻ってきたんだ。豊かな日本の国に帰ってこれてよかったね、とあんたも思っているんだろう。ほっといてくれ。」と言われ言葉を失ってしまいました。
     亀殿、亀殿やお友達はみな生きるために自分の生まれた国を出たのですよね。死ぬために帰ってきたのだからほっといてくれと彼らに言わせてしまったこの日本社会や私たちの無理解において「終戦」などということばは無意味でたやすく口に出してはいけないことなのは明らかです。
     先日は防災関係で避難所の確認をしたところ、ほとんどの人が避難場所を知りませんでした。地域の回覧板や掲示板が読めないからです。何かあれば帰国者支援センターまで歩いてくるからいいよ、というのです。現実問題高齢の彼らにそれは無理です。地震国では命に関わる問題です。それから私は彼らの前では一切日本語を使うのをやめて時間がかかっても相手が何を言っているかわからなくても伝わらなくても頑なに中国語で応対するようにしました。無視されるときは仕方がないので横でひとりで中国語の勉強をしました。「やめなよ、あんたいいとこの奥さんだろ?中国語を勉強したけりゃ学校に行きゃいいだろう。」率直な彼らにきれいごとは通じません。「私は自分の人生に必要だからやってます。どうしてもやらなきゃ生きていけないのです。私と話たくないなら結構です。勉強の邪魔になるから静かにしてください。」といいました。後日センターの職員の人に彼らのうちの何人かは無料日本語教室に通うようになったと聞きました。
     
     いつまでも被害者ぶって戦争と向き合わなかったつけは戦後生まれの私どもにも重くのしかかってきています。軍靴の跫音におびえながら小さい人々をとにかく安全な場所へ逃がすために日々奔走する私はこの国ではただの「偽善者」「有閑マダム」です。いえ、もう何とでも言ってください。
     そういえば亀殿、お陰様で「子供食堂」はあれからテレビでも放送され支援者が増えて子育て世代の人も手伝いにかけつけてくれるようになりました。なのでそちらのほうは少しお休みして9月からは待機児童の支援に全力投球です。中国帰国者支援のボランティアは続けていきます。頑固なおじいちゃんおばあちゃんと喧嘩しながら私の旧盆は過ぎていきます。今までになく幸せな夏です。亀殿、今日も良記事ありがとうございました。

  5. DoorsSaidHello says:

    1980年代の終わり、夏休みにサイパン島に海水浴に行った。真っ青な海と空が見たかったのだ。

    ホテルの建っている海岸はナマコで埋め尽くされていて、シュノーケルで遠浅を泳いでも泳いでもどこまでも敷き詰めたようにナマコだった。ナマコは富栄養化の指標で、要するにホテルの排水は垂れ流しなのだった。珊瑚はみんな死んで白化していた。私はがっかりした。

    次の日、ホテルから島内観光の小さいバスが出るというのて予約した。朝ホテルからバスに乗ってみると、私の他の乗客は70才前後の男性だけだった。戦後初めてサイパンに来たのだという。ここで亡くなった戦友たちの慰霊に来たのだということだった。

    真っ青な空の下、バスは海岸を離れて島内に分け入って走った。私は何と言って話を聞けばいいのか分からずに黙っていた。みんなも黙っていた。真夏の真っ白な光を反射しながら、真っ青な空の下をバスは走り続けた。車の外は、黒く見えるくらいに生い茂った緑だった。背の低い灌木が茂っていた。その中に、背骨が浮き上がるほど痩せた茶色の牛が、ときどき浮かび上がる。

    「この緑は食べられないんだよ。この島に食草は生えていない。米軍が焼き払って、その後は食べられない植物ばかりを植えたのさ」と一人が静かに言った。もう一人が「食べるものがないんじゃ死ぬさ。あの牛は長くないな」と答えた。ささやくような声が「かわいそうに!」と述べた。そしてふたたび、沈黙が車内を覆った。私は、40年前にこの島で背骨が見えるくらい痩せこけて死んだ人たちのことを思った。私も黙っていた。バスはのろのろと斜面を上っていった。

    斜面を登り切ったところは、白い石が剥き出しになった小さな丘の頂上だった。固いが乾いて軽い石の感触が、それが死んだサンゴであることを教えた。火山性の砂のような石が混ざる。土ではないので、地面を引っ掻くにもツルハシかドリルがいりそうに固い。その固い岩肌に貼り付くようにして、ちょうど人間一人分の寝袋のような、石でできた「虫穴」が残っていた。地面を引っ掻いてどうにか掻き取った、ぼろぼろした小石をつなぎ合わせたサナギのような代物だった。バスから降りたひとが「これが壕だよ」と言った。この中に入って砲撃を避けようとしたが、上陸した米軍兵士に壕ごと火炎放射器で焼かれたのだと言った。

    見渡すと、あちらこちらに石の寝袋が散在していた。その中に一人ずつ人間が入っていたのであり、そしてどの人もみんな生きながら焼かれたのだった。どう見ても身を守れる訳のない、石の蓑虫みたいな、名前ばかりの「壕」に入って死を待つのはどんな気持ちだったのだろうか。頂上は暑かった。「壕」の側に座りながら、私はそこに寝てみる気にはならなかった。これは虐殺だ。こんな場所で、こんな設備で、こんな馬鹿げたやり方で戦えなどと命じた人間による虐殺だ。米軍に焼かれたのではない、日本軍に殺されたのだ。バカな命令によって。バカな命令によって。

    あれからもう25年が経つ。バスの男性達がまだご存命なら、もう90才をとうに過ぎているだろう。私はたいして話をしなかったけれど、行きも帰りもバスの中に満ちていた沈黙が、私に過去の重さを伝えてくる。あの乾いた石の感触が手の平によみがえるたび、戦争はいやだ、戦争はいやだと私は強く思う。

  6. 内田 says:

    ポツダム宣言をうけいれることが決まって、当時の官僚は戦争に関連する書類を焼却したといわれている。現実に、当時の資料が存在しない公文書もおおい、、無条件降伏をした後も、実際の実務を行なったのは、占領軍の指示を受けた、実務官僚たちだった。
    特に文部省はそれまでの教科書に墨を塗ることで、新生日本の始まりとした。1日で民主主義国家と変容した、この国が70年以前の第日本帝国に戻るのは、簡単なことだと思う。
    市井の人々の抵抗が大きくても、それ以上の同調圧力が抵抗を押しつぶすだろう。権力には、それだけの力があるから、、、
    東日本大震災の時に、時の民主党政府が被災地を見捨てたように、(自民党政府でもおなじだろうけど)、この国の根底にあるのは、責任をとらない中央政府と、それにつながる利益集団しかない。70年近く生きてきて、やっと気がついた自分にも腹がたつし、現実を直視しようとしない、他の人々にも腹が立ってならない。
    たまに、亀さんの文章を読みにきて、納得はするがしばらくは気落ちして、読みたくなくなる。
    自分の出来る範囲で出来ることをするしかないと、のろのろと動き出す。道ですれ違う小さな人たちの笑顔が消えてしまうような社会はすきじゃないから、、

  7. pino says:

    職場で出会った94歳の方が「自分の伴侶は結婚式の次の日に兵隊にとられフィリピンで死んだ」と話して下さいました。
    戦争に反対する人はいましたかと尋ねると「反対する人はみんな殺された。銃殺された。よその国の兵隊ではなく、日本の兵隊に」
    国家権力は暴力だと初めて理解しました。命を大事にしない国で、私も殺されるでしょう。
    それでもせめて戦争に反対したいです。
    ロンドンの市民が空爆に抗議して、「ガザ!ガザ!泣かないで!貴方たちを死なせはしない」と言っていたのを、テレビで観たときから、そう思っています。

  8. 太郎 says:

    サイパン島の戦いについて、今まで読んだ中で最も簡潔に本質を書いた文章でした。マリアナ沖海戦についても、最近Jamesさんのような意見が日本語でも論じられるようになっていきましたが、このブログの解説は分かり易く、大変有益です。日本語文献の著作者は、従来語学力の欠如で英語文献にまともに当たることが出来ない、歴史の精確な検討を行う訓練を積んでいないなどの問題のある人が多いようで、情報が薄くつまらないものが多いです。最近少しは良くなりましたが、中にはまだよくこの程度の参考文献で本が書けると思うような本があります。英語文献をしっかり読まないと分からないかと思ったりしますが、本業でない歴史の話に関しては何語であれネット文献をちらちら見る以上のことが中々出来ないので、こういうブログは大変役に立ちます。

    細かい話を論じると尽きませんが、結局、冷酷で無能な社会の軍隊だからこうなったのか、普通の社会に冷酷で無能な軍隊があったのか、のどちらだったのかということでしょう。戦後社会は、後者であるとし、軍隊を形式的に廃止して現在まで来ました。しかし、それは、火事が大惨事になったのは消防隊が悪かったからで消防隊を廃止すれば二度と大惨事は起きないという論理と同じことで、軍隊という「他人」の話にして目先を繕い、問題の本質の検討を怠る(若しくは逃げる)ことであったのかもしれません。しかし、前者であるとすることは、日本の人個々人にとって遥かに大きな苦痛を伴うものです。それは、社会を構成する自ら一人一人の冷酷さ、無能さ、邪悪さへの寛容さを考えること無くして検討することが出来ないからで、換言すれば、日本軍の残虐性は自分自身が参画し形作っているシステムや社会、更には自分自身個人の邪悪さに向き合うこと無しには出来ないからです。しかし、この過程無しには、他人、更には人間そのものの邪悪さを含む本質を考えることは出来ないでしょう。

    上記を考えることが無いために、外国(アメリカ、中国その他)の言う事を何でも受け入れる「土下座外交」みたいな考えや、逆に何においても自己の正しさを狂信し外国を攻撃して事足れりとする極右が出るのだろうと考えています。双方よく似ています。

  9. ねこ暮らし says:

    これを読んで自分が知りたかったのはこういう事だったとわかりました。書いてくださってありがとう。祖父の命日は7月8日と聞いたしお墓にもそう書いてあるけれど、本当はどうかわからない。もちろん骨はない。

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