Monthly Archives: September 2016

猫の思想

わし家ではずっと猫のフォスタリングをやっていた。 日本語ではなんというのか知らない。 里親、なのだろうか。 主に病気の猫を引き取って3週間〜4週間、引き取り手が来るケージに入るまで病気や怪我を治しながら面倒を看るボランティアで、モニさんと相談して、小さいひとたちに生命というものがいかにボロイものか教えるのに丁度よいだろうということになって始めたボランティアだった。 初めの猫は、家に来ると、まる1日、トイレシートの後ろに隠れて出てこなかった。 とても怯えていて、頭を排水パイプと壁のあいだに突っ込んで、お尻は丸出しだが、人間とおなじで、自分のほうから他人が見えないと、なんとなく他人の悪意が届かないような気がして、安心するのでしょう。 猫セットというか、暖かい毛布を敷きつめた、狭い箱に似た家と、スクラッチタワーと、それよりは高い所にある広々とした別棟という、猫ちゃんだけの部屋を用意して優遇しても、なかなか御機嫌が晴れるというふうではなかった。 日本語の本を読むと、よく猫族犬族という言葉がでてきて澁澤龍彦は猫派だがナントカは犬派でだからナントカは信用できないというような見るからに乱暴な感じのする文学論まであったが、ピンと来ないというか、 わしはもとから犬も猫も馬もヤギも羊も飼っていて、もっと書くと孔雀に鶏に鹿も牛も飼って、後年は病が膏肓にはいって、ラマやエミューやハイランドキャトルまで飼っていた。 ご幼少のみぎりは犬にまたがって鬼退治、じゃねーや、トロル退治にでかけていたそーであるし、後年は、馬に乗って尾根の背を越えて、山向こうの友達のところに酒を飲みにいってデースイして帰ってきた、というより馬さんに連れて帰ってもらったりしていた。 動物であれば見境なく好きだったので、犬が好きとか猫が好きだとかの区別というものに実感がわかない。 ニュージーランドを例にとれば、犬を飼いたいと考えた夫婦や、猫が欲しいと考えた独身男が出かけるのはSPCAという動物愛護協会で、オークランドで言えば、600人くらいのボランティアが働いていて、敷地のなかに動物救急病院があって、救急車が3台ほど常駐している。 犬と猫だけというわけではなくて、馬もいて、敷地のなかに厩舎があります。 ボランティアをしたい人は登録して、だいたいひとつの仕事あたり2時間の講習を受けて、ダメな日やダメな時間を事務局に教えておくと、手が空いていて、のんびりしている午後やなんかに電話がかかってきて、「こういう仕事があるが、やってみますか?」と言う。 たいてい初心者から熟練者まで、ボランティアの技量にあわせて、うまく仕事が分配されていて、信じがたいほどよくできたマネジメントだが、動物が大好きなひとは観察が細かくて鋭いという特徴があるので、マネジメントがものすごくよく出来ているのはそのせいであると思われる。 対面室に入ると、大きい部屋はやはり犬と猫のふたつだが、猫なら猫がずらっとアパート式の部屋に並んでいて、ひとつひとつには猫ちゃんの履歴が書かれたカードがついていて、仔猫や成人猫や、雄や雌や、好みに従って、書類を書いて、面接を受けて引き取りの希望を出す。 いちど、日本語ツイッタで、「そういうあなたは犬のほうが人間よりも大事だと思っている人間としか思えませんね」と言われて驚いたことがあったが、なぜ驚愕したかと言えば連合王国人にとっては犬さんのほうが人間よりもマシだ、というのは常識だからで、犬権は人権に勝るなどは当たり前である。 まさか日本では人間のほうが上だということになっているとは思わなかったのでぶっくらこいてしまったのだった。 歴史的にも児童福祉法よりも動物愛護法のほうが成立が先で、人間なんてたいしたことはないのだ、という連合王国人の信念がよく理解されるが、そんなふうに歴史をひっくり返してみなくても、自分というものをよく省みれば、犬さんのほうが人間よりもマシなのは、ほぼ自明である。 タコはノイローゼになるのが、よく知られている。 昭和期のマンガによく笑い話として出てくる「タコが自分の足を食べる」のは事実で、しかし、笑いごとではなくて、水槽に閉じ込められると、タコは容易に統合失調症を起こして自傷行為に走る。 あるいはカラスは、どう見ても大庭亀夫よりは賢くて、電線の上からじっと木の実を見ていて、食べようとして殻が固いと、しばらく頭を傾げて考えているが、車道へコロコロところがして行ったりする。 大庭亀夫が、「わし妹はおにーちゃんはカラスの半分しか知能がないと言っていたが、見てみい、わしよか、やっぱバカだわ」とカラスの無意味な行動を嘲笑っていると、自動車が走行してきて木の実の殻をブチ割ってゆく。 庭のテーブルに座って、スパゲティを食べかけたまま、おもわず衝撃でフォークを取り落とした大庭亀夫のほうに、チラとケーベツの視線を送ると、木の実を悠々と食べ始める。 ま、何事にも得意不得意ということはある、わしは木の実を食べるのは得意でないし、と自分を慰めながら、という表現を自慰しながら、と書くとたいへんなことになるが、そうではなくて自分に慰藉を与えながら、ベッドにもぐりこんで、翌朝、今度は駐車場に並んだクルマのタイヤの前に、群れをなしてドングリを置いている組織化されたカラスの大群を観て、愕然とする。 そおーんなバカなとおもって、おおむかしに書かれた動物学の啓蒙書を読むと、ソロモンのアンクレットとかなんとか、指輪だったかもしれないが、カラスはあまりに知能が高いので本能が退化していて、空を飛ぶことさえ親がレッスン1から始めてコガラスを教育するのだと書いてあって、闇雲にとびたって地面にたたきつけられるような一生を送る人間がたくさんいることを考えて、カラスのほうが頭いいじゃん、と悟って慄然とする。 知能の伝統定義は間違っているのではないか?というのは、動物に親しんで暮らしてきた人間が均しくおもうことで、前にも書いた気がするが、夏の海をカヤックでのおんびりと横切っていると、鰺が一匹カヤックの舳先を飛び越してゆく、 あり?と思っていると、今度は二匹が、前よりも高い弧をを描いて飛び越して行く。 えええ?と思っていると、今度は4匹、5匹というような数で、宙高くジャンプして、あろうことか頭上を越えて行きます。 遊んでいる、というほかに理由は考えられなくて鰺などは発達した脳を持っておらず、日本語では端脳というのだったか、その程度の発達しかしていないので、「遊ぶ」などという高級な知的活動をするわけはないのに、どこからどうみても遊んで楽しんでいる。 このブログのどこかには、猫が、シャワーケースに閉じ込められたもう一匹の猫を救うために、夜中に寝室にあがってきて、ドアを激しくノックして階下のシャワー室に案内したときの話も出てくるが、犬も猫も馬も、みなそれぞれに「知能のありよう」が違うだけで、高知能、低知能というように高低の程度をつけるのは、もしかして、人間の世界認識の根本的な誤解に基づいているのではないか、とおもうことがある。 いつか、暫くクライストチャーチの農場に暫く足を運ばないでいて、ひさしぶりに訪ねていったら、遠い、遙か彼方の地平線から全速力で駈けてくるふたつの小動物の影がある。 あっというまに足下に来ると、喉を、こんなに大きな音が出るのかと驚くような音で鳴らして、盛んにほっぺをジーンズにこすりつけている。 なんだか涙が出て来てしまって、口にだしてはいわないが、ごめんね、ごめんね、と何度も謝ることになってしまった。 すっかり忘れていたんだよ。 人間はバカで冷淡だから、前を向いていると、視野が狭くなって、過去においてきてしまったものや、自分を暖かく取り巻いていてくれていたものを忘れてしまう。 人間の知能の実体は攻撃兵器に特化した装置なのではないか。 ベクトルをもって思考を加速させるのには向いているが、世界を正しく把握するためには向いていないのではないだろうか。 そのときに考えたことが、いわば猫の思想が、いまでも自分を生物としての凋落から救っているのかもしれません。

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世界を見にいく

モニもぼくも、小さいひとびと用にデザインされた生活から、ふつうの生活にもどってゆく。 サンクスギビングにアメリカへ買い物に行くのくらいから始まって、だんだんもとの生活に帰る予定です。 ふたりで、生活の変更をあれこれデザインするのは楽しいことで、南半球を中心にしたいというモニの意見をいれて、というよりも、夫とは言ってもモニさんのファンのようなものなので、議論の余地はなくて、そんな必要はないと思うというモニさんの意見を尻目に、シドニーにも生活の拠点を作った。 メルボルンとオークランドだけでは、心許ないからで、シドニーが、思いもかけず、でっかい田舎町から大都市になりはじめたのに目をつけて、わざわざニューヨークやロンドン、おパリまで出張らなくても都会の週末が送れるようにしよう、ということです。 シドニーの最大の魅力は、オペラの水準の高さで、モダンダンスやバレーは、それぞれ大陸欧州とニューヨークのほうが好みだが、オペラはシドニーのほうが安定している。もうひとつは、シドニーのほうが、演目にもよるが、観光客が多すぎるニューヨークよりも観客の質が高いので、演じるほうもリラックスしていて、楽しそうです。 クライストチャーチは、ぼくにとっては半分故郷のようなものなので、もちろん、引き払いはしない。 夏に常住する、というわけにはいかなくなったので、キャンパーバンで、南島をうろうろする策動の中心地として利用することにした。 ニュージーランドは、少なくともぼくが見聞きした範囲では、キャンパーバンで右往左往するには、世界じゅうでも最適の国で、まずキャンピングサイトが文句なく世界一である。 広いスペースの、たいていは芝の上にキャンパーバンを駐めて、電源につないで、オーニングと呼ぶ、日よけをクルマから繰り出して、テーブルを広げると、そこにはいきなり一家4人の天国が出現する。 一方で、キャンピングサイトのプールや遊具のあるスペースは、小さなひとびとの社交場でもあって、世界にはいろいろな同世代の仲間がいて、肩を並べて絵本に見入ったり、ハグしあって♡になったり、あるいはケンカをして泣き狂ったりする、良い一生のスタート地点でもある。 クライストチャーチは、日本で言えば、ぼくが大好きな名古屋みたいな地位ではないかと思うが、名古屋よりも自然がぐっと近くて、デニーデン、フィヨルドランドと分け入っていくと、あたりの景色が、地球的なものから、第三惑星系的な、宇宙的な人間の情緒を拒絶するような森林の光景に変わってゆく。 1910年代に、沿岸を航行していた英国海軍の士官や水兵たちが、絶滅したはずの巨鳥モアを目撃したと報告したのも、この辺りで、愛好家が毎年新種を発見するので有名な、バードウォッチングの聖地でもあります。 クイーンズタウンは、開けすぎて、ニュージーランドは観光開発が比較的上手な国なので、土産物屋を林立させて観覧車をぶったててしまうようなバカなことはしないが、妙に高級欧州リゾート風になってしまって、現実にも冬になると、大陸欧州やアメリカのオオガネモチたちが集う場所になって、子供の頃の、あの素朴な風情はなくなってしまった。 湖岸をセグウエイが走りまわり、夜にはひとり2万円というようなお勘定のレストランに人が犇めいて、ハリウッドや欧州のパパラッチたちもうろついて、経済のためにはよくても、あんまりぞっとしない町になったので、隣のアロータウンに別荘を買うべとおもって出かけてみると、むかし3000万円で売りに出ていた、ワインやピザのデリバリーサービス付きの、ちょうど同じ家が2億円になっていたりしていた。 バブルバブルビーなので、なんというか、やりきれない。 ニュージーランドの欠点は、いまもむかしも、何処へ行くにも遠いことで、隣国ということになっているオーストラリアがすでに2400キロというような水平線の遠くで、3時間はかかって、これがたとえばアメリカに行くとなると、ロサンジェルスですら12時間で、欧州に至っては24時間ほども滞空しないと着きはしない。 一回の旅行が長くなるのは、主に、この長時間のフライトがめんどくさいせいで、ニュージーランド人に多いパターンは、だからホテルに1ヶ月滞在する→ホテルではキッチンがなくて不便なのでアパートになる→快適なアパートは一泊あたりはホテルよりも高いので面倒くさくなって不動産として購入する、というのが最も多い。 言い訳をすると、逆に、北半球の冬からオーストラリアやニュージーンランドの夏に移動する味をしめたひとびとも同じで、生前はみな大騒ぎされて来なくなってしまうと幻滅なので黙ってシイィィーということにしていたが、デイビッド・ボウイはシドニーに家を持っていた。 ばれちった人で挙げるとシャナイア・トゥエインやブルネイの王子、サウディアラビアの王族、いろいろな人が、オーストラリアやニュージーランドに家を買って、いっぺん来てしまうと帰るのがめんどくさいので2,3ヶ月ひまをこいて帰ってゆくもののよーです。 アメリカは買い出しに行くにはもってこいの国で、なにしろ世界でいちばん物価が安いのと、どこに買い出しに行けば判りやすい、というのは、例えばフランスやイタリアで買い物に向いているのは、なんといってもランナーや、燭台、ブローチにネックレス、スカーフというような工芸品だが、欧州は相変わらず意地悪な欧州で、最も腕の良い職人の品物は、相変わらずアパートの一室で売っている。 店のサインもなにもない、例の、ただの部屋のような場所で、寸法をとり、好みを訊いて、では、3ヶ月後までに作っておきます、というような商売なので、知らなければわかりにくくて、買い物のしようがないが、アメリカは、そういう所は開明的でよく出来ていて、誰でもわかる目抜き通りに、ティファニーならティファニーの看板を掲げて公明正大に商売する。 その代わり値段が張るものだからといって、ちょっと地球を半周してオークランドまで出張販売に来てくれないか、というわけにはいかないが、どうしたって、アメリカ人の商売のやりかたのほうが現代的であると思います。 以前はオンラインで買っていたが、どういう理由によるのか、どんどんサイトが閉鎖されて、残ったところはインチキな違法商品を売るようになって、例えばUS版のiTunesカードはアメリカ領までいかないと買いにくくなってしまった。 だんだんめんどくさい成り行きになってきたので、今年から、またUSAのクレジットカードを復活させようと思っているが、それにしても、最近はまたテリトリーのマーケティングが厳しくなってきたので、アメリカマーケット向けの商品は、アメリカに出かけて買うのにしくはなし、と考えている。 いちばん近いのはハワイで、ハワイなら9時間もあれば着くが、ホノルルという町は頭で考えているときはいいが、到着すると意外にがっかりな町で、なんでもかんでも安っぽいうえに異様なくらい高い。 オアフの町がそんなに嫌ならせめてマウイ島に行けばいいわけだが、マウイの、たとえばホエーラーズビレッジにいると、買い物は出来なくて、いったいなにをしに来たのだろう、と中途半端な、もやもやした気持になってくる。 来年は2ヶ月ほどもマレーシアに行くことにして、日本語ツイッタで知り合った、ペナン島に住むLANAさんやCCさんに意見を求めたりして、アパートも航空券も予約してある。 何をしにいくのかというと、むかしはシンガポールだったので、シンガポールは物価も安くて、町のひとたちはマジメで、屋台の食べ物がおいしい、最新テクノロジーが充満した良い町だったが、最近は景気が良いのが続きすぎて、なにもかもオーストラリアやニュージーランドなみに、ぶわっかたかくなって、大戸屋の鰺の開きでビールを飲めば2000円を越えて、おまけに嘘までついて手を抜く国民性になってきたので、シンガポール人の友達たちに相談すると、まったくだ、シンガポール人はいまダメなのよ、マレーシアがいいとおもう、というわけで、初見の国に行ってみようといういうことになった。 テーブルの上に世界地図を広げて、ワインを飲みながら、あーでもないこーでもないとモニさんと計画する夜は楽しい。 ニュースを観れば世界は修羅のなかにあって、オートマチックライフルが火をふき、子供は爆撃で傷付き、黒板に砲弾が貫通した大穴が開いた、壁も屋根も吹き飛んでしまった教室で子供たちは勉強している。 奴隷市場で売られ、命からがら逃げ出した少女たちが、声をふりしぼるようにして、自分たちが耐えなければならなかった暴力と性的暴力について述べている。 最近、特に欧州系人だけが並ぶ集まりにいると、オーストラリア人もニュージーランド人も、北半球から離れていることを感謝すると同時に、中東人、アジア人、アフリカ人を警戒する孤立主義に近い感情が強くなっているのを感じる。 またぞろ、人種について言わずに外国人への嫌悪を述べる方便である「外国人の英語は聞きたくない」と口にだして言う人が増えた。 正直に言えば、自分の心のどこかにも、オーストラリアとニュージーランドだけにいて、平穏な繁栄を楽しむだけでええんちゃう?という気持がないとはいえない。 出だしの頃とは異なって、いまは、顔と顔をあわせる用事が出袋すれば、たいていは向こうのほうからこちらへ来てくれる。 自分の都合がよい観察を述べれば、向こうも、客専用のオンスイートで、のんびりして、ニュージーランドのチョーのんびりを楽しんで帰ることを好むもののよーです。 でも、なまけないで、ちゃんと世界を見に行かなければ、とモニと言い合う。 この目で世界を見て、世界に手で触れて、世界と一緒に笑ったり泣いたりするために生まれてきたのだもの。 小さいひとびとと一緒に。

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2050年への覚書

1 いまの世界に潜在している最もおおきな問題は言うまでもなくナイジェリアに象徴されるアフリカの人口爆発で、もしこの問題になんらかのブレイクスルーが起きずに、いま見えている地平上でナイジェリアの人口だけで4億になる2050年までの人口急増に対処しなければならないとすると、それは、まっすぐに人類の破滅を意味する。 16億6000万人のインド、14億の中国、4億ずつのアメリカ合衆国とナイジェリア、3億6千万人のインドネシア、3億5千万のパキスタンと並んでゆくことになるが、インドや中国には、国家として、なんとか国内を統治していけるだけの機能が備わっている。 問題は、というか、性格が新しい人口爆発は、ナイジェリアとパキスタンで、特にナイジェリアは政府がほとんど機能していないので、だいたい一億人超の人口流出が見込まれる。 簡単に言えば、シリア難民と同じ現象が桁が違う規模で起きるだろう、とナイジェリア人たち自身が述べている。 目下は「高等教育を受けていさえすれば外国に移住する状態」だとナイジェリア人友たちは言うが、一方で「教育を受けていないナイジェリア人たちが、いたたまれずに移動しはじめるのも時間の問題だ」と述べている。 では、どういう手立てがあるかというと、大問題が起きてから考えるという他はなにも手立ての見込みは立っていない。 シリア難民の、たった、あの程度の数の難民の移動で、すでに欧州は混乱している。 排外主義が勃興し、連合王国に至っては愚かにも、まるで、離脱しさえすればブリテン島ごと大西洋を渡って移動できるのだと言わんばかりの態度でEUを離脱して、ただでさえ危うい未来を、更に危うくしてしまった。 今度はどうするか。 どうするあても立っていなくて、「問題が起きてから心配しよう」ということになっているが、ほんとうは問題が起きてからでは遅いのは皆が知っていて、内心は、 おれの任期中は話題にするのをやめてくれ、と考えているだけです。 解決がない問題を、おれの机のうえに積み上げないでくれよ。 2 東アジアが中国圏に帰するのは、ほぼ自明で、「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」の頃から、ずっと何回も述べてきたように、ゆっくりと、歴史の自然の流れのなかで目に付かないように配慮しながらアメリカは勢力圏を1940年当時に戻して、縮退させている。 この戦略にとって障害になっているのは中国が南沙諸島に軍事拠点をつくろうとしていることで、囲碁が得意な人なら感覚的に判りそうだというか、なんというか、 要するに、そう簡単にオーストラリア=フィリピン=グアム=ハワイのアメリカ版「絶対国防圏」を作らせるわけにはいかない、ということで、日本や韓国の合衆国との同盟国との頭越しに自分と直截あたらしい関係を構築しろ、ということだろう。 これも考えてみると、2050年を節目と睨んでの動きで、どうやら世界じゅうの政府は2050年という年を里程標と考えて、いろいろに動いている。 ベトナムやフィリピンが初めに極めて強硬な態度に出てみせて、中国の「やる気」を観察してから、そういう感じか、と見定めて、ほぼ、昔、野田首相がなぜかとち狂って国有化すると言い出すまでの、日本が尖閣諸島に対してとったのと同じ棚上げの状態に持っていこうとしているのも、やはり2050年を睨んで、この辺で動きをゆっくりさせていかなければ、急展開では困る、と思っているからでしょう。 NZの小国間条約に過ぎなかったTPPを取り上げて対中国包囲網の道具に使おうとしていたアメリカが、なぜTPPを必要としなくなったか、ということの意味を日本の人は、もう少し真剣に考えてみたほうが良い。 初めはインドネシアにとっては苦笑するしかないような「対インドネシア対策」が名目だったダーウィンの軍事拠点化も、2050年の平衡を念頭においている。 ダーウィンの拠点化と並行して、ブリスベンの強化、ニュージーランドとの軍事同盟の復活と関係強化と、アメリカは、ここ数年、打つべき手を打ってきていて、日本の南洋捕鯨に反対する、誰にも異議を唱えられない錦の御旗で、いわば復古的な同盟を復活させてきたのは、なんども書いたが、ケビン・ラッドが国際司法裁判所に訴えてでるという、冒険的な手段に出て、しかも賭けに勝利して、あとはアメリカ・オーストラリア・ニュージーランドの思惑どおり、利権を諦めるということが出来ない体質の日本が、国際司法裁判所の判決をシカトする形で捕鯨を続行することによってヒラリー・クリントンの奇妙な提案は、完結して、将来に向かって日本を太平洋同盟から締め出す準備が完了した。 このあとは、どうなるかといえば、ちょうどキッシンジャーがニクソン大統領時代に、日本の頭越しに、日本には教えないで直截に友好条約を結ぶために動いたのと同じことを、頃合いを観て、打ってでて、アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド英語三国の同盟側と中国とで太平洋の新しいパワーのバランスを作る事になる。 日本から最も見えにくいことで、このブログで再三のべて、情報公開法で公開された文書などを使って説明してきたことは、1945年以降、アメリカが日本を国家として信用したことは一度もないという現実で、何度も政府の高官によって明瞭に言明されているとおり、日本人を守る為だと表面は説明されている巨大な日本駐留軍の本来の目的は日本が再び軍事暴走することを抑圧するためで、日本に独立を許してきたのは、直截占領のコストの高さから、ゆるやかな傀儡政権体制を岸信介の当時から確立してきたのも、そのためだった。 ところが中国の強大化に伴って、日本の役割が変わって、なにしろGDPという、地政学的にみれば戦争エネルギーの目安で、中国の3分の1に転落したので、アメリカは、今度は自国の利益のためには日本を従属的な片務同盟国から、一歩すすんで衛星国化しなければならなくなって、一朝ことあれば5万程度の兵力を拠出できるようになってもらわねば困るわけで、安倍政権は、そういう目でみればアメリカ衛星国としての日本の第一期政権なのだと見られなくはない。 いったんパワーバランスの上で独立に、伝統の国家的な好戦性を発揮して侵略を始める心配がなくなったとなると、日本はいかにも便利な国で、アメリカにとっては自分で血を流さずに戦争という外交手段に訴えるチャンスさえ出てくることになる。 3 東アジアの新しい枠組みが見えてきたので、アメリカの心配と関心は、ほぼロシアに向けられている。ブッシュ時代のコンドリーザ・ライスで判るように、アメリカの伝統的な外交エキスパートは、もともとこの分野に集中しているので、外交の焦点が、落ち着きがよいところに落ち着いたのだとも言えます。 ロシアは自意識としては防衛的であるのに現実の政治・軍事行動としては常に侵略的・領土拡張的である面白い国で、国際政治を志す人間にとっての醍醐味に満ちた国だが、プーチンは、印象に相違して、例えば対日姿勢において弱腰と非難されるくらい、比較的に落ち着いた指導者で、極東についてはアメリカは「プーチン後」に思考を集中しているらしく見える。 日本からすると、プーチンの後継者と目されるひとびとは軒並みに対日強硬論者で、なんだか見ていておっかないが、当の日本の人は、のんびりしたもので、なんとも思っていないらしくて、返ってロシアの事情に通じた英語人が訝るていどの反応で、どうなってるんだろう、と思うが、そこはきっと日本の人間でないと判らない機微があるのでしょう。 4 2025年から2050年にかけて、世界は、いままで人類が見たことがない「資源が絶対的に足りない世界」を渉ってゆくことになる。 技術的ブレイクスルーは、そのうちには出来るのかも知れないが、どうやら、最も楽観的な予測ほどには、完全に間に合うということはなさそうです。 弱っている国、老いた国、社会が病んでいる国に住む人間には、この資源の不足は堪えて、容赦なく襲いかかってくるだろうが、これも何度も述べているように、いまは21世紀で、国境の敷居は途方もなく低いので、あちこちの国が動いてゆく様子を見定めて、では自分はあの国の国民として生きてゆくのが最もよいだろうと判断して生きていけばいいだけなのは、20世紀でいえば、ちょうど企業への就職と似ている。 巨大企業にあたる中国やアメリカに移民することが、シンガポールやオーストラリア、ニュージーランドのような小企業に移民するよりも必ずしも賢明な選択にならないことも、とても20世紀のキャリア形成と似ていると思います。 だから仮に自分が生まれて育った国が、誤判断を繰り返して、どんどんボロくなっていっても心配することはないが、個人としてでなく全体の側からしか世界を見られない人たち、簡単に自分が生まれた国と同化して、自分が出身国の分身であるように思うタイプの人達にとっては、いっそ、訳が判らない世界と感じられてゆくに違いない。 5 政治が世界を変革できる時代は終わって、左翼でも右翼でも、どうでもよくて、本質的に、というか論理上の源泉が暴力である近代政治の世界支配論理が寿命を終えて、テクノロジーが政治に変わって世界を変革する力になった世界のとばぐちに、いまの世界の人間は生きている。 そのテクノロジーの波の初めのものがインターネットで、多分、第二波は、いまとりあえずブロックチェーンと呼んでいる思想に立脚した技術革命になる。 ブロックチェーンがもたらす最もおおきな変化は、仮想世界のほうが現実世界よりも堅牢になることで、脆弱な現実に代わって、ブロックチェーンの数学理論に支えられた堅牢性が高い仮想世界が世界の運営原理になって、ちょうどこれまで現実世界からのアナロジーで構想され、現実世界の要請で仮想世界が構築されてきたように、ちょうど立場が逆になって、仮想世界の要請で現実世界が変更され、構築されるようになるのは誰の目にも見える近未来の現実になっている。 … Continue reading

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