猫の思想

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わし家ではずっと猫のフォスタリングをやっていた。
日本語ではなんというのか知らない。
里親、なのだろうか。
主に病気の猫を引き取って3週間〜4週間、引き取り手が来るケージに入るまで病気や怪我を治しながら面倒を看るボランティアで、モニさんと相談して、小さいひとたちに生命というものがいかにボロイものか教えるのに丁度よいだろうということになって始めたボランティアだった。

初めの猫は、家に来ると、まる1日、トイレシートの後ろに隠れて出てこなかった。
とても怯えていて、頭を排水パイプと壁のあいだに突っ込んで、お尻は丸出しだが、人間とおなじで、自分のほうから他人が見えないと、なんとなく他人の悪意が届かないような気がして、安心するのでしょう。
猫セットというか、暖かい毛布を敷きつめた、狭い箱に似た家と、スクラッチタワーと、それよりは高い所にある広々とした別棟という、猫ちゃんだけの部屋を用意して優遇しても、なかなか御機嫌が晴れるというふうではなかった。

日本語の本を読むと、よく猫族犬族という言葉がでてきて澁澤龍彦は猫派だがナントカは犬派でだからナントカは信用できないというような見るからに乱暴な感じのする文学論まであったが、ピンと来ないというか、
わしはもとから犬も猫も馬もヤギも羊も飼っていて、もっと書くと孔雀に鶏に鹿も牛も飼って、後年は病が膏肓にはいって、ラマやエミューやハイランドキャトルまで飼っていた。
ご幼少のみぎりは犬にまたがって鬼退治、じゃねーや、トロル退治にでかけていたそーであるし、後年は、馬に乗って尾根の背を越えて、山向こうの友達のところに酒を飲みにいってデースイして帰ってきた、というより馬さんに連れて帰ってもらったりしていた。

動物であれば見境なく好きだったので、犬が好きとか猫が好きだとかの区別というものに実感がわかない。

ニュージーランドを例にとれば、犬を飼いたいと考えた夫婦や、猫が欲しいと考えた独身男が出かけるのはSPCAという動物愛護協会で、オークランドで言えば、600人くらいのボランティアが働いていて、敷地のなかに動物救急病院があって、救急車が3台ほど常駐している。
犬と猫だけというわけではなくて、馬もいて、敷地のなかに厩舎があります。
ボランティアをしたい人は登録して、だいたいひとつの仕事あたり2時間の講習を受けて、ダメな日やダメな時間を事務局に教えておくと、手が空いていて、のんびりしている午後やなんかに電話がかかってきて、「こういう仕事があるが、やってみますか?」と言う。
たいてい初心者から熟練者まで、ボランティアの技量にあわせて、うまく仕事が分配されていて、信じがたいほどよくできたマネジメントだが、動物が大好きなひとは観察が細かくて鋭いという特徴があるので、マネジメントがものすごくよく出来ているのはそのせいであると思われる。

対面室に入ると、大きい部屋はやはり犬と猫のふたつだが、猫なら猫がずらっとアパート式の部屋に並んでいて、ひとつひとつには猫ちゃんの履歴が書かれたカードがついていて、仔猫や成人猫や、雄や雌や、好みに従って、書類を書いて、面接を受けて引き取りの希望を出す。

いちど、日本語ツイッタで、「そういうあなたは犬のほうが人間よりも大事だと思っている人間としか思えませんね」と言われて驚いたことがあったが、なぜ驚愕したかと言えば連合王国人にとっては犬さんのほうが人間よりもマシだ、というのは常識だからで、犬権は人権に勝るなどは当たり前である。
まさか日本では人間のほうが上だということになっているとは思わなかったのでぶっくらこいてしまったのだった。
歴史的にも児童福祉法よりも動物愛護法のほうが成立が先で、人間なんてたいしたことはないのだ、という連合王国人の信念がよく理解されるが、そんなふうに歴史をひっくり返してみなくても、自分というものをよく省みれば、犬さんのほうが人間よりもマシなのは、ほぼ自明である。

タコはノイローゼになるのが、よく知られている。
昭和期のマンガによく笑い話として出てくる「タコが自分の足を食べる」のは事実で、しかし、笑いごとではなくて、水槽に閉じ込められると、タコは容易に統合失調症を起こして自傷行為に走る。

あるいはカラスは、どう見ても大庭亀夫よりは賢くて、電線の上からじっと木の実を見ていて、食べようとして殻が固いと、しばらく頭を傾げて考えているが、車道へコロコロところがして行ったりする。
大庭亀夫が、「わし妹はおにーちゃんはカラスの半分しか知能がないと言っていたが、見てみい、わしよか、やっぱバカだわ」とカラスの無意味な行動を嘲笑っていると、自動車が走行してきて木の実の殻をブチ割ってゆく。
庭のテーブルに座って、スパゲティを食べかけたまま、おもわず衝撃でフォークを取り落とした大庭亀夫のほうに、チラとケーベツの視線を送ると、木の実を悠々と食べ始める。

ま、何事にも得意不得意ということはある、わしは木の実を食べるのは得意でないし、と自分を慰めながら、という表現を自慰しながら、と書くとたいへんなことになるが、そうではなくて自分に慰藉を与えながら、ベッドにもぐりこんで、翌朝、今度は駐車場に並んだクルマのタイヤの前に、群れをなしてドングリを置いている組織化されたカラスの大群を観て、愕然とする。

そおーんなバカなとおもって、おおむかしに書かれた動物学の啓蒙書を読むと、ソロモンのアンクレットとかなんとか、指輪だったかもしれないが、カラスはあまりに知能が高いので本能が退化していて、空を飛ぶことさえ親がレッスン1から始めてコガラスを教育するのだと書いてあって、闇雲にとびたって地面にたたきつけられるような一生を送る人間がたくさんいることを考えて、カラスのほうが頭いいじゃん、と悟って慄然とする。

知能の伝統定義は間違っているのではないか?というのは、動物に親しんで暮らしてきた人間が均しくおもうことで、前にも書いた気がするが、夏の海をカヤックでのおんびりと横切っていると、鰺が一匹カヤックの舳先を飛び越してゆく、
あり?と思っていると、今度は二匹が、前よりも高い弧をを描いて飛び越して行く。
えええ?と思っていると、今度は4匹、5匹というような数で、宙高くジャンプして、あろうことか頭上を越えて行きます。

遊んでいる、というほかに理由は考えられなくて鰺などは発達した脳を持っておらず、日本語では端脳というのだったか、その程度の発達しかしていないので、「遊ぶ」などという高級な知的活動をするわけはないのに、どこからどうみても遊んで楽しんでいる。

このブログのどこかには、猫が、シャワーケースに閉じ込められたもう一匹の猫を救うために、夜中に寝室にあがってきて、ドアを激しくノックして階下のシャワー室に案内したときの話も出てくるが、犬も猫も馬も、みなそれぞれに「知能のありよう」が違うだけで、高知能、低知能というように高低の程度をつけるのは、もしかして、人間の世界認識の根本的な誤解に基づいているのではないか、とおもうことがある。

いつか、暫くクライストチャーチの農場に暫く足を運ばないでいて、ひさしぶりに訪ねていったら、遠い、遙か彼方の地平線から全速力で駈けてくるふたつの小動物の影がある。
あっというまに足下に来ると、喉を、こんなに大きな音が出るのかと驚くような音で鳴らして、盛んにほっぺをジーンズにこすりつけている。
なんだか涙が出て来てしまって、口にだしてはいわないが、ごめんね、ごめんね、と何度も謝ることになってしまった。

すっかり忘れていたんだよ。
人間はバカで冷淡だから、前を向いていると、視野が狭くなって、過去においてきてしまったものや、自分を暖かく取り巻いていてくれていたものを忘れてしまう。
人間の知能の実体は攻撃兵器に特化した装置なのではないか。
ベクトルをもって思考を加速させるのには向いているが、世界を正しく把握するためには向いていないのではないだろうか。

そのときに考えたことが、いわば猫の思想が、いまでも自分を生物としての凋落から救っているのかもしれません。

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5 Responses to 猫の思想

  1. itr says:

    最後の部分で、左脳で脳卒中が起きた脳科学者、ジル・ボルト・テイラーが書いている、左脳の良くない働きを思い出しました。

  2. 僕もカラスを飼ってたから、カラスがえらいには同感。そして、人を特別視しない思想って仏教の根幹にあるものだけど、英国人の根っこにそれがあるという話は興味深かった。僕の偏見かもしれないけど、「西洋」って人間を動物に優越した存在として特別視してきたのだと思ってたから。「動物愛護の精神」てちょっと上から目線だよね、とずーっと思ってた。日本では動物愛護というより動物を甘やかして、例えば犬様、猫様の奴隷のようになっている飼い主がたくさんいて、それはそれでかなり卑屈な関係だなーとも思っていた。日本は昔話で鶴が人間に化けてたりしたから、王子様がカエルになってた西洋の昔話と通じるところが確かにあるなあ。

  3. fathomless says:

    近所のおじさんが、恐らく怪我のために保護したカラスを飼っていましたよ。
    小石でキャッチボールしていました。カラスはおじさんがほいと投げる小石を器用に咥えては、シャッターを受ける窪みにいそいそと仕舞っていました。
    一つひとつ。大事なものを納めるように。
    おじさんが投げる小石は、特別な小石なのでしょう。

    飴屋法水さんが、飼っていた猫のことを書いていました。賢い猫と、「遅れ」のある猫。同じ親から産まれた。
    賢い猫は「遅れ」のある猫の面倒をせっせと見て、共用している皿のミルクはいつも「遅れ」のある猫に先に飲ませ、自分は飲み終わるのを待っていたそうです。

    動物から学ぶことは多いと思いますよ。

  4. snowpomander says:

    Konrad Lorenz、コンラ=ト・ローレンツ博士の著書「ソロモンの指輪」、「人イヌにあう・Man meets Dog」、「攻撃」この三冊は1970年代から私の本棚に居る。半世紀以上の齢の縫い包み達と「本」は並んでいる。ガメさんがソロモンのアンクレットなんて言うから思わず猫笑いをしてしまった。

    以前、私は家庭内暴力から保護された子供達のグループホームの隣に住んでいた。そのころ私は精神科クリニックで仕事をしていたこともあって、ある日そこの職員の女性から相談されたことがる。保護ホームの子どもを学校や社会で適応出来るようにする、人付き合いの苦手な子供をどうしたら良いかと彼女は言う。子供を物のように規格に会わせる方法は無いのだが、任務遂行の第一が画一的な良い子に適応させなければならないという考えに驚いてしまった。さらに、動物にも感情があるんですか?と聞かれ私は一瞬絶句してしまった。買ってもらったカブトムシに餌も与えず動かない(死んでしまった)から電池を入れて替えてと言った子供の世代が大人になるとはこういうこと。買った鉢植えに水をやらず枯れたからと花屋に返品に来るお客も目にした。人工物と生き物の区別が体感で解らない人間達が大人になり、人同士の生き方と死に方を在庫整理のように管理仕始めたのもこのような人間の生物感覚の剥落の兆しがすでに十分に有ってのこと。

    説明は出来ても体験したことない感触は教えられない。幼い頃に経験した小さな生き物や大きな生き物の生命のありようの記憶があってこそ、全ての生命体に思いを懸けることができるという道理と思う。周囲の人の思いやりの振る舞いを見て幼い人はそれを身につける、そして小さい人はそのような世界の人になる。

    この命の世界はバーチャル・ゲームのように何度も都合良くリセットはできないもの。

  5. 太郎 says:

    犬派と猫派のお話は、日ごろ無意識に考えていたことが書いてあって、大いに同意しました。

    消してしまうのは惜しい立派な記事である。

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