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二重国籍と日本の未来

蓮舫議員に続いて小野田紀美議員が「二重国籍じゃないか!」で話題になっている。 もっとも日本のニュースは、最近は、インターネットで、しかも、ちらっと観るくらいしか観なくなってしまったので、ほんとうは話題になっていないのかも知れないが、ニュースサイトとツイッタで話題になっているのを目撃した。 日本にいたとき、両親のどちらかが日本人の友達たちがよく話題にしていたのを思い出して、このブログでも日本の単国籍主義は何年も前から書いている。 日本の社会という観点に立つと最大の問題は例えば日本語と英語を母語にしている、日本にとっては最も必要とされている人間が22歳になると日本国籍を捨てなければならなくなることで、日本語ツイッタを眺めていると、「言わなければバレないからいいのでは」という在外日本人がたくさんいて、その、不正でも見咎められなければ良いじゃんがいかにも日本人らしくて笑ってしまったが、日本に生まれて二重国籍になった若い人は、遙かにマジメで、というのはつまり西洋的な考えかたで、ダメなものはダメと考えて、父親の国籍を採るか母親の国籍を採るかで懸命に考えて、ぼくのまわりの例では全員が日本国籍を捨てることになった。 観ていて、なにも社会の立場に立って考える事はないが、日本社会の立場に立てば、なんというもったいないことをするのだろう、と思う。 個人の視点からは、日本国籍はあってもなくても同じか、いまの戦争好きな社会の形勢を考えれば返って日本国籍をrenounceしたほうが良いくらいだと思われるが、日本にとっては致命的といいたいくらいの損失であるとおもう。 言うと失礼だから言わないできたが、日本の人の英語能力は飛び抜けて低い。 例えば配偶者が英語人で、20年以上アメリカで暮らしているというような人でも、話してみると、単語を拾ってつなぎ合わせているだけで、意味と感情の背骨が通った文章として話したり聞いたりしているわけではない。 「意味が判っている」だけであるらしい。 内輪では「日本人は、他人の話を聞かない」とよく言うが、あれは英語人が信じているように傲慢と自我肥大で他人の話に耳を傾けないのではなくて、言語的に話がちゃんと頭に入っていっていないのではないかと、最近はおもっている。 まして、日本の学校でいくら英語教育が改革されて「国民の英語力の平均が12ポイント向上しました」ということになっても、個々の日本人はそれでハッピーだが、日本社会にとっては「平均より上の英語力」などは何の役にも立たない。 日本社会の国際社会での孤立ぶりは年々ひどくなっているが、それも英語のエキスパートが育たないからで、外交官ですら「なんじゃ、こりゃ」な英語で、しかも、その英語スキルの乏しさを隠すためだと推測するが、態度が傲岸で、観ていて、こちらがそわそわした気持になる人が多い。 日本の社会に最も必要な存在のひとつが、この母語並に英語が出来る人で、通常の言語世界には、少数の言語的天才と国際結婚の両親から生まれた二重母語人と子供のときに他国で育って両親から日本語を受け継いだ日系イギリス人というような組み合わせが、他言語へのインターフェースとして存在するが、日本社会は、この部分が完全に欠落している。 二重国籍を許可しないことは、他所の国の人間から観れば、バカバカしいだけのことで、やっぱり日本はヘンな国だね、という冗談のタネにしかならないが、当の日本の立場に立つと、ぞっとするような損失であるとおもう。 小野田紀美議員のケースは、記事をためつすがめつ読んでみると、現実にはアメリカ政府の側からしか問題が感じられなくて、アメリカ合衆国にはアメリカの国籍を持っている人間に対しては世界のどこに住んでいても課税する権利を留保するという、世界に稀な、ほとんどデッタラメな法律があって、小野田紀美議員は議員である以上収入があるはずで、その収入にみあった所得税を払ってきたのだろうか、という問題があるが、それをわざわざ日本の側で暴いてみせるところが日本という国のナイーブさでなくもない。 アメリカ側から見れば、一国の立法者が堂々とアメリカの法律を踏み倒して税金の支払いを無視していることは、たいへんな問題であるはずで、このひとは自民党の議員なので、見て見ぬふりをしてすませてしまうだろうが、本来ならば見せしめに追徴金も含めて課税したいところだろう。 蓮舫議員に続いて、小野田議員、どこからどう観ても日系アメリカ人にしかすぎないアメリカのノーベル賞受賞者を日本人の受賞だと言い張るいかにも日本らしい騒ぎを通じて、しかし、二重国籍が話題になることはよいことであると思う。 いままで、たとえばAFWJというような組織は、署名を集めて、何度も陳情を繰り返してきたが、そのたびににべもない返事で、社会の側も冷淡だった。 日本の社会特有の、おかしいことでも自分の利害に直截関係しないかぎり「おかしいのではないか」と抗議の声をあげない通癖のあらわれで、日本の社会について知識があれば特に驚くほどのことではないが、現実には日本社会の孤立化という形で、外国人の両親たちの涙に冷淡で来たことが個々の日本人の利益を失わせる結果にもなっている。 いつか、「鏡よ、鏡」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/12/18/mirrorx2/ というブログ記事を書いたときに挙げた日本のベストセラーの題名を肴に、連合王国から遙々訪ねてきた友達と冗談をのべあって大笑いしたことがあったが、日本は、自惚れ鏡に見入ることによって、現実の国際社会からは退場してしまっている。 残っているのは企業だけで、よく観ると、日本から企業を差し引くと何も残らない。 トヨタのやりかたは感心しないが、会社としては国際水準の強さで、目を凝らして見ると、ハイブリッドという過渡的な技術に力を割きすぎて、やや小手先の技術の洗練に注力しすぎるのが不満だが、タカタエアバッグへの対応をみても、ケイレツ主義の不健全な経営に反して見事なくらいの健全さも残している。 自動車会社という業界は、どこの国でも汚いことばかりの感心できない業界なので、比較のうえでは、十分、日本が潰れてもやっていけそうに見える。 ニュージーランドやオーストラリアでいえば、日本のビール会社がオーストラリアやニュージーランドのビール会社の系列化を進めていて、そのせいでスーパーマーケットの棚に、日本にいたときに好きだったヱビスビールやサッポロが並ぶようになって、しめしめと思っている。 経営がぐらぐらしていたビンヤードは中国の会社がほぼ買い占めて、ビールは日本で、他人のカネで飲むワインやビールほどおいしいものはない。 むかしの日本企業は、本社からやってきた駐在社員が威張っていて、閉じた日本社会を形成して、マンハッタン、ミッドタウンの日本風に「うまみ」がある麻婆豆腐のレストランに行くと、駐在妻集団とおぼしき人々がたくさんいて、ボス妻らしい人が笑うと、一瞬、一秒の半分くらい「これは冷笑か単純な笑いか」と顔色をうかがう「間(ま)」があって、それからいっせいに取り巻き妻たちが笑い出すという光景が毎日のように繰り広げられていて、たいして食べたくもない麻婆豆腐を、その光景が見たさに何度か通ったことがあった。 いまは、伝え聞くところでは、かなり現地主義になって、トヨタのAurionはオーストラリアトヨタのデザインで生産もオーストラリアから始まった。 あるいはコンピュータ店でクルマの話をしていたら、タイ系のニュージーランド人の店員が「Camryって、あるでしょう?あれは、ぼくの父親の命名で、My carのアナグラムなんです」と言うので、みなで、おおおおー、と盛り上がったことがある。 だが日本の社会のなかに日本語を伝って入っていくと、びっくりするような閉鎖性で、まるで鎧戸を閉じきったイタリアの田舎の農家のなかのように、薄暗いのを通り越して、真っ暗です。 風通しが悪い、空気が淀んだ部屋には、暗がりのなかでひょろひょろと丈だけが伸びたモヤシのような屁理屈が立ち並んでいて、およそ現実に対して実効性のない議論が声高に語られている。 憲法なんて、あったってインチキなんだから無視すればいいじゃん、と首相が述べれば、放射能は安全だ、危険かもしれないなんていうやつは素人だと傲岸に述べている「玄人」の学者がいて、専門をみると、ぜんぜん放射線まわりとはおかど違いの領域の研究者であったりする。 自分がいかに英語が達者であるか日本語で誇り続けるマンガ的なひとびともたくさんいて、ああいうことは、たいしたことでなくて本人のバカッぷりを余す所なく見せ付けているだけだとも言えるが、いまの日本社会の閉鎖性、その閉鎖された社会で起きていることのくだらなさを象徴しているようで、観ているほうが恥ずかしいような気持になってくる。 そうこうしているうちに、日本で起きていることがだんだん他国にも知れ渡って、こういう「他国で起きていること」が世界の人間の常識に組み込まれていくのには、だいたい20年くらいかかるというが、それよりも少し早く伝播して、観ているとここ2,3年で急速に日本社会が平和主義から好戦的な伝統に帰ったこと、ハイテク社会が終わりを告げて完全にITから取り残されたこと、豊かだった社会が貧困の奈落に堕ちていきつつあること、国全体がまるごと人種差別的な国と化して韓国人と中国人が特に標的とされていること、が「常識」として共有されだしている。 特にアジアの若い人のなかには、日本全体を憎悪と軽蔑の気持で観るひとが増えてきているように感じられる。 こういう言わば文化のインフラとでも呼びたくなるようなことは、ゆっくりだが確実に一国の足下を掘り崩して、それが表面化する頃になると、その国にとって取り返しがつかないダメージになることには、たいした想像力はいらない。 戦前の日本が良い例で、日露戦争後、おかしなことをやり続けて、30年代になると日本語人が述べることを信用する人間は世界に誰もいなかった。 そのころも、いまとおなじで、第一、外交官が英語もフランス語もろくに話せないので、日米交渉にあたった人のメモワールやインタビューには「日本人の英語の不快さ」について触れたものが多くあって、アメリカ上流階級のアクセントで話した蒋介石夫人の宋美齢の、アメリカ人をほとんどうっとりさせた日本弾劾の演説の見事さと並べてみると、なんだか戦争を始める前に日本の破滅が予定されていた事情が納得される。 … Continue reading

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