日本語の愉しみ

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5年間の「小さい人々休暇」が終わって、来月が終わる頃になると、足下にいつも猫と小さいひとびとがじゃれていた生活が終わりになる。
新しいデザインの生活のための準備もだいたい終わって、もうすぐやってくる34歳の誕生日には、ぼくはオレンジカウンティにいるだろう。
引っ越すわけではなくて、買い物に行くだけだけどね。

大統領選挙の結果が直後なので、そのときにアナハイムのオフィスを拡張するかどうかも決まっているはずです。
オークランドベースからシドニー/オークランドベースに移行するための準備は終わって、たくさんのひとにはあったが、まだシドニーの人々がどんなふうな考えをもっているのかの感覚はちゃんと理解できていない。
同じ英語人だと云っても、アメリカ人、連合王国人、ニュージーランド人、オーストラリア人とおおきく気風が異なっていて、ふだんの生活ならともかく、仕事でのことになると注意深くならないわけにはいかない。

英語世界では経済小国であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランドは、経済大国のアメリカや連合王国のドナルドトランプやBrexitに象徴される高い理念の放棄という歴史的な社会の転換によって、おおきなプラスのインパクトを受けることになったが、首の赤い英語人の気持もよく判っていて、三国とも、唇を閉じたままで、ゆっくりと、そっと、移民の門を狭めている。
90年代の反アジア人運動の嵐の経験から、賢くなって、ポイント制度を導入して制度にフレキシビリティをもたせておいたことが思わぬ所で役に立ち始めた。

連合王国の政府役人や法廷弁護士(←チョー仲が良い友達)たちとスカイプで話していると、いろいろな人の消息が聞こえて、ええええー、あの人がそんなこと言うのか、で、永住ビザの強制返上まで考えていて、母国のアホっぷりに感心する。
アメリカ合衆国のほうは、深層はよく判らないが、テキサス人やジョージア人と話していると、疑えば「また、白い世界にもどりつつあって嬉しい」というトーンで、Mad MenやDownton Abbeyが流行る、最近の英語世界の「白化」の底深さを窺わせる。
むかしのように公然たる差別は、割にあわないのでやらないが、「ガメ、白いおれたちだけでやろうぜ」が、ますます露骨になってきているように感じるのは、先入観のせいだろうか。

正直に言うと、このブログを始めたときには、いま考えるとお笑い草で、ナイーブさを笑われてしまうが、日本の人がアジアの一中心として役割を果たすのではないかと期待していた。
紫式部、源俊頼、芭蕉、谷崎潤一郎や小津安二郎を通して、日本語文明への深い敬意を持っていたので、高度な文明を生む言語を話す民族には高い魂が宿っているだろうと期待したからでした。

もう6年前になるが、だから日本のひとびとに話しかけてみようと思ったが、ブログへのゴボウがなんちゃらといかいうコメントを没にして、おっさんのプライドを傷つけたのがきっかけで、この、自分で「はてなのオピニオンリーダーだ」と称して自己紹介してやってきたおっさんが、仲間と徒党を組んで、様々な手を使って「ニセガイジン」の大合唱を起こしたところで、
日本人に、深刻な話題については、いくら話しかけてもムダだと判って、アジア人の話し相手はインドの人と中国の人になった。
この二国の人たちは、普通に話が出来るので、チョー安心しました。
その話し合いのなかから、いまでは色々な現実世界への働きかけが生まれて、仮想から出たマコトというか、オモロイことがたくさん始まっている。
小さい人たちとべったり一緒にいるための「世界でいちばん長い育児休暇」が、もうすぐ終わるので、自分でも参加しようと思っている活動がたくさんあります。

相変わらず日本語は大好きなので、足にまとわりついて、膝にあがって、肩に昇って、最後には頭のてっぺんまで這い上がって父親山の登頂をきわめようとする小さい人びとに、足場がくずれて、おもいっきり背中をどつかれたりしながら、josicoはん( @josico)のような古くからの友達や、哲人どん @chikurin_8th、たち、新しく出来た友達とツイッタで遊んで、日本語自体はやっていてよかったと思っている。
社会のほうは、多分、あれだけ意地が悪いだけの、頭がからっぽで、自分の狭い視界に映るだけの「世間」の意見が空虚な伽藍に反響しているだけの国になってしまっては、向こう一世代くらいは、どうにも恢復のしようはないとおもうが、それはそれで、仕方がないことなのではないかと考えています。
もしかすると日本語にとっては由々しき事態なのかも知れないが、そこまでは付き合うわけにはいかない。

最近は、日本語でぼくの英語を貶して「おれの英語のほうが遙かにうまい」と述べるのはなんらかの理由で都合が悪いと考えるようになったのかニセガイジン合唱団は、全員が一生懸命に削除しているとかで
なかったことにしたいらしいが、この自称「はてなリベラル」のおっさんたちの大群は
「原発が爆発するかもよ」 答:「ニセガイジン」
「社会が右傾化するとおもうぞ」 答:「ニセガイジンw」
「アベノミクスなんて、失敗することが初めから判っているではないか。
国富が外国資本に吸い取られて枯渇するだけとおもう」答:「ニセガイジンwww」
で、
日本語世界では議論など成り立つ余地もなかったが、自分では、日本語との関わりから生まれた、自分の良心が納得するだけの責任ははたしたつもりで、議論に応じてもらえなかったのは、こちらの都合ではないわけで、なされるべき有効な議論は全くなされないで罵りと中傷を浴びただけだったが、自分にできそうなことは、やれるだけはやったので、あんまり気にしていない。

この、おさぼりな6年間にはいろいろなことがあって、いちばん衝撃的なことは連合王国の下院に立候補するはずだった友達が病死したことだった。
この若い政治的天才が連合王国から永遠に失われてしまったことは、事情が判らない人には、おおげさに聞こえるかもしれないが、連合王国にとっての大きな損失で、Brexitというオオマヌケな、国のアイデンティティを根幹から破壊したばかりか、死にかけていた中東人アフリカ人アジア人への差別を、残らず甦らせてしまった事件が起きたイギリス社会に、あいつが生きていればなあ、とおもう。
労働党のようなところでは発言権を持つのに年季がいるが、保守政治の世界では、地位はともかく、発言権をもつには、意外と若くて構わないからです。

良い方のことも、もちろんたくさんあって、まず何よりも世界は15年前に較べれば、びっくりするほど良い場所になった。
前にも書いたことがあるが、サンフランシスコのような、大都市で開明的であることになっている町でも、ぼくが子供の頃、1991年というような頃はまだ、夕暮れ、マーケットストリートに佇んでいるやさしい顔をした白人の女の人と知的な風貌のアフリカ系の男のカップルが、しかし、周りの人間と比較してはっきりと緊張した風情で立っていたのを記憶している。
知的に早熟な子供だったのはたしかだったが、それにしても、その緊張が鮮烈なイメージを作っていて、いまでも人種差別のことを考えると、その、ふたりが肩を寄せ合って社会の冷酷な気候に耐えているとでもいうような姿に頭がもどってゆく。

言うまでもなく、異人種間の結婚には、かつては、おおきな偏見が絡みついていて、夫が白い人で、妻が有色の人である場合には、おもいきり下品な言葉でごめんなさいだが、場末の夜更けのパブで言うところの「やられるほうがアジア人なら許せる」で、女が有色ならよいが、男が有色人で白い妻を持つなんてとんでもない、と問わず語らず、おとなたちが感じているのは、別に言葉で聴かなくても判っていた。
人種差別は、性差別とも密接につながっていて、本質的に同じものであることは、
そういうことからも明かであると思います。

いま過去のブログ記事を検索して探すと、
ポンソンビーのカフェで、ふと、辺りを見回すとテーブルが異人種間のカップルであふれていて、
「やっと、ここまで来た。
はっはっは、勝った、と思います。」
と書いたのは、2012年の3月のことのよーです。

多文化社会
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/03/15/multicultural-2/

世界は20世紀から21世紀に変わったあたりから、どんどんどんどん良くなって、この15年間での変化と前進は、殆ど人間が国権の拡張と戦争にばかり気をとられていた20世紀全体の百年間よりも遙かにおおきな幸福と希望を達成した。

自分自身を振り返っても、いま考えてみると、インドの人やアフリカの人達に較べて中国の人達に偏見を持っていたが、この数年で目立って増えた中国系人の友達たちのお陰で、ロンドン、ニューヨーク、東京、クライストチャーチで形成された「中国の人は行儀が悪い」
「狡い」
「決まりを守らない」
という先入観が、綺麗さっぱりなくなってしまった。
中国の人達への偏見がゼロになってみると、それによって最も解放されたぼくの気持のほうで、むかしはロンドンの高級レストランにいて、中国の人達や日本の人達が集団で入ってくると、おとなたちが隣のテーブルの人たちと目配せをして、「またか。うるさいひとびとは困るね」と声にしない言葉で述べあっていて、レストラン側も心えていて、気が付かれないようにカーテンで仕切った向こう側の別室に案内したりしていたのが、ぼくの世代ではレストランの中国語の喧噪がないと供されるディムサム が、おいしくないような気がする、というところへ変わってきた。

もっと身近で些末な例で世界の進歩を述べると、この頃は空港のコカコーラ自動販売機に硬貨を投入すると、ほんとうにコーラが出てくる!
20世紀では、そんなことはよっぽど僥倖に恵まれなければ起こらないことで、自動販売機などは、つっかえ棒を手動で外すと一箱が落ちてくる仕組みのパブの煙草販売機を除いては、宝クジみたいなものというか、硬貨をいれてコーラが出てくると、居合わせた人間がどよめきかねない体のものだった。
あるいは、しつこく述べると、病院の待合室で、お腹がすいて、ビスケットを自動販売機で買うと、硬貨をいれて、ガラスの向こうに並んでいる袋に向かってマジックハンドもどきが、ぶおおおーんと動いていって、袋を持ち上げて、手前に移動させると、袋がガラスに倒れこんで、そこでひっかかって動かなくなっている。
「きみ、マジメに働きなさい」と機械に言い聞かせて、どんっと叩くと、ふて腐れて、袋が向こう側に倒れたまま、テコでも取り出し口には出てこない反抗的な姿勢をみせる。

それが、あっというまに改善されて、自動販売機にオカネをいれるとモノが出てくるようになってしまった。

パーキングメーターにしても、これは、こっちのほうがよかったと言えなくもないが、高校生の頃までは通りには機械式のパーキングメーターがたくさんあって、壊れていれば払わなくてもいいことになっていたので、クライストチャーチなどは、通りで、じっくり探せば無料カーパークが必ず見つかった。
もっと内緒でいうと、チケットを切られても、警察にお手紙を書いて、
「ぼくはマジメな高校生です。オカネを投入しようと試みたが、そのまま吐き出されて、どうしても、ぼくのマジメな財布からでたマジメオカネを受けいれてもらえなかったのです。ほんとよ」
と述べれば、必ず罰金を免れて、赦してもらえることになっていた。

それが世紀が変わる頃には携帯のテキストメッセージで払うようになって、いまでは、いかなる技術革新にやありけむ、クレジットカードで払えるようになってしまった。

前にも書いたが、
祖父や祖母のころは、上流階級の一部をのぞけば、そんなことはとんでもないことだったというが、

「いまのは、もうちょっと、いまいちだったなあー。
ガメ、コーヒー淹れてあげるから、もういっかいやらない?
ね?ね? いいでしょう?
疲れないようにしてあげるから。
そこじゃない。

へっただなあー。ちがうちがう! そんなに荒っぽくしたら痛いでしょう!」

と普通に女の人々が言ってもいいことになった。


https://gamayauber1001.wordpress.com/2016/08/29/sei/

もちろん、まだまだヘンな人もいるが、社会の常識は性行動においても男と女とおなじで当たり前でしょう?ということになった。

子供の頃の、白くて退屈で暗黙の約束に満ちた連合王国に較べると、いまはなんて良い時代になったものだろう、と過去を振り返ると、つくづく感心する。

人間の成熟の第一の条件は、希望をもって未来を切り開く力を持つことだろう。
自己を客観しできたり、感情をコントロールして、人間という存在と人間が持つ感情や思考の複雑さを理解するのは、どちらかといえば世界に希望を持ちうるようになることから派生する副次的な問題にすぎない。

日本語は独白や主観の物語を組み立てるには情緒を精妙に表現できる点ですぐれているが、社会を建設して、議論を積み重ねて、必要な速度で社会を改革していくには全く不向きなことで、例えばインターネットで言っても、日本語ネットは、堂々巡りと嫌がらせと冷笑が虚しく渦巻いていて、何を変える力ももたず、言語全体が詭弁化していて、現実に対して徹底的に無力であるという特徴を持っている。
日本語が論理的でないということはまったくなくて、曖昧さを排除することも比較的に簡単だが、問題は、その論理を殆ど真実性に依拠しないで否定することも簡単に出来て、真実も嘘を相対的で、絶対を持ちえなかったことによって言語全体として死語化している。
少し仔細に見てゆくと、たとえば日本語は日常レベルで2万語の語彙が必要だ、とよく述べている人がいるが、それは単語の寿命が短いからであることも大きな理由になっていて、日本語くらい、ちょっと油断していると「じーちゃん言葉」になる言語は、多分、他にないが、それは日本語が常に情緒や感情でびっしょり濡れているからであるように観察される。

日本語を大量に読んで書いたこの数年間の感想は、残念ながら、日本語は古くなって、社会的な機能を失って、しかも明治口語のようなおおきな革新のチャンスを逸した言葉で、テレビバラエティ語というか、表層のみを述べうる言葉に加速的に変質して、社会の質も、それによって、年々劣悪になっていくだろうと予測される。

悪いことだけではなくて、自分の感情や情緒を表現するのに、これほど最適な言語はない。
あと30年くらいしたら、こっそりと草書で短冊に俳句や短歌を書いて、誰にもみえない、ぼくだけが眺めて楽しめる自分を楽しみたい。

30年後も、日本語、やってえがったなあーと考えたいと思っています

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