Monthly Archives: February 2017

ハッピー

日本語では、なんというのだろうと思ってオンライン辞書を調べたら「洗面台」と書いてある。 洗面台の縁を散歩する人はいないので、多分、日本語が存在しないのでしょう。 英語でbasinと呼ぶ、海と隘路で連絡したチョーでっかい池のような地形で、家からでかけるとホブソンベイという内陸に引っ込んだ湾口の次に近いウォーターフロントなので、ときどきモニとでかける。 この辺りの家は、水に面した家はどこの家も船着き場を持っていて、カヤックやローイングボートで水に出て、のんびり午寝が出来たりするので、悪くはない。 一周3kmくらいのボードウォークがあって、全部まわるのはめんどくさいので、たいてい、風光のよい、半分だけを歩いて、くるりんと方向を変えて戻って来ます。 ベンチや、誰もいない、緑でぎっしり埋まった公園や、遊歩道がやたらいっぱいあるのがオークランドのよいところで、世界でいちばんビーチが多い町であるとかなんとか、海辺だらけで、気が向けばテキトーに海にとびこんで泳げたりするところも気に入っていなくもない。 2ドル50セントのソーセージロールを買って、水辺のベンチに腰掛けて、モニと半分こして食べる。 お店のひとがサービスでつけてくれたケチャップをかけながら、ハインツのケチャップがいいかウォッティのトマトソースのほうがおいしいかについて議論する。 いつか日本語ウィキペディアを眺めていたら、トマトソースはニュージーランド特産の酢が入ってないケチャップだと書いてあって笑ってしまったが、種明かしはもっと簡単で、ケチャップのことをもともとニュージーランドではトマトソースと呼ぶ。 それもtomatoが日本語の「トマト」と発音が似ているので、初めて日本に行ったとき、面白いなあーと思ったのをおぼえている。 なんとなく親近感が湧いてくるような気がした。 やさしい、おだやかな風がふいてきて、もうすぐ秋だなあ、と考える。 今年は夏が短かった。 こうやってモニさんの横顔を眺めていて、ふと気が付くと目尻に皺がある、という日がいつかは来るだろうか。 もしかしたら、このひとは、永遠にいまのままなのではないかしら。 世界でいちばん青が深いのだという、見つめていると吸い込まれていきそうな青空を眺めたり、ときどきマレットが跳躍する水面を見ていたりして、あのシドニーの25ドルのソーセージロールはおいしかったが、価格は新記録だった。 ソーセージロールって云えば、この頃はカレーライスロール見ないよね。 そう? ガメが気が付かないだけで、このあいだのMt Wellingtonのハンバーガー屋のフィッシュアンドチップスメニューには書いてあった。 でもイギリス人は、あんなおいしくないものを食べるなんて信じられない。 いったい、きみたちの先祖はどういう味覚をしておったのかね、とモニさんは男の口調をまねて、屈託なく笑っている。 料理は、論理的な民族のものだからね。 論理に興味がない民族は、料理にも関心がない。 ルネ・デカルトは、どんな夕食を食べていたのだろう? モニさんと出会ってから、毎日毎日話していて、まして結婚してからは、のべつまくなし、朝も昼も夜も話していて、こんなことばかりやっていては飽きるのではないかと考えたことがあったが、モニさんと話すことの楽しさは無尽蔵で、いまだに飽きたことがない。 人間の幸福ってなんだろう? なんて質問したら、どこかの哲人が、目の前に煙とともにドロロロンと現れて説教されそうな気がするが、それにしても、人間の幸福とはなにか。 人間は、どうやったら幸福になってゆけるのか。 オカネがあれば幸福だという人はいないだろう。 恋人といれば幸福だということは考えられる。 でも、ならばなぜ、恋人はいつかは去ってゆくものなのだろう? 裏切り、swear、テーブルを叩いて怒りのなかで苦しむのはなぜか。 やっと生き延びた恋が死によって引き裂かれる残酷は誰が考えたのか。 人間の恋する心は肉体の欲望が観念に投射した幻影なのではないか。 愛情は、覆いがたい欠落感の裏返しにすぎないのではないか。 夢のなかには褐色のローブを着た人が必ず現れて 「人間の子よ、永遠を願ってはいけない。 一年よりも、一ヶ月を、一週よりも一日を、一時間よりも一瞬を願うのでなければ、きみは幸福ではいられない」と述べる。 わしは寝ぼけて、そーゆーことを説教したいのなら、人間の意識の時間の計測装置を、もう少し、ちゃんとつくってくれよ、と悪態をついている。 … Continue reading

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いま、アメリカで起きていること

予想通り中西部人に多い「うん、ぼくはトランプに投票したよ」という友達と、あれから、少しずつ話してみると、驚いたことにというか、やっぱりというか、トランプ本人は大嫌いだという人が多かった。 じゃ、なぜトランプにしたの? ヒラリーが嫌いだから? と訊ねると、もう、したり顔で綺麗事を述べて、politically correctな言い草にしがみついて、その実、自分達はもとを正せば汚いカネで別荘を買ったりするやつらにはうんざりだからだよ、という。 慌てて付け足しておくと、ここで述べる「トランプに投票した友達」というのは、トランプ支持の中核だとマスメディアが述べている「プアホワイト」というわけではなくて、思いつくままに並べれば、戦闘機のデザイナー、軍需会社の広告を扱っている広告代理店会社の社長、インターネットプロバイダの役員、というようなひとびとで、アメリカの社会のなかでは、どちらかといえば富裕な層に属するひとたちです。 話していて面白いのはトランプに投票したわりに、トランプ個人を大統領に適格だと考えている人は、ひとりもいなくて、会話のなかでも マヌケ、頭がわるいわりに自惚れが強いおっさん、吐き気がするような顔の豚、 すごい表現で、なんのことはない、リベラルのひとびとがトランプを罵倒する言葉が、いっそ上品におもえてくる体のものでした。 ひとり、スカイプでのっけからトランプの、よく出来たお面をかぶって出て来た友達がいたが、「メラニアは、こんな顔のおっさんと、よくまあ毎日暮らせるもんだよな。こんなのがのしかかってきて、顔が目の前にアップになるんじゃたまらないから、あの底辺から自分の容姿だけを頼りにのしあがってきた女は、夜は目をつぶっているに違いない」と下品なことを述べて、大笑いしていた。 意外におもったのは、トランプが大統領になった第一の理由はマケインだろう、と述べた人が複数いたことで、遠くから眺めていて、共和党のなかではマケインにぼんやりした好意を持っていたぼくは、へえ、と考えた。 だって、あのおっさんは口先だけだろう。 なんだかもっともらしいことを言って、なにもやらないじゃないか。 ヒラリーみたいにウォール街の貯金箱が大統領候補になったようなやつがしゃしゃりでてくるのも、ああいうタカ派共和党議員が、なんにも正面切った批判をできなくて、女のくせにナマイキだと言っているとしか聞こえないタワゴトを並べてきたからさ。 わかっているかい? オバマの、見てくれだけで、国のカネを食い尽くすような政策を正面から批判したのは、グロいエロおやじのトランプだけなんだぜ。 オバマのインチキなところだけを煮詰めたようなバーニーじゃ、なおさらダメだしね。 アメリカはひたすら多様な自由主義に向かう潮流に乗っていて、だからトランプのような桁外れのタワケを大統領に選んでも4年間の恥を忍べば、そのあとは何とかなる、という理屈も共通している。 戦争は? と訊くと、もうそういう時代じゃない、仮に戦争を始めても、アメリカが傷付く事態にはならないだろう。 ウクライナ人たちには申し訳ないことになるかもしれない。 韓国と日本の人達も惨禍に遭う可能性がないとはいえない。 でも、彼らはわれわれの犠牲で70年以上も平和を楽しんできたわけだからね。 あ、いや、そうか朝鮮戦争があったね… でも、あれは本来は同じ民族の啀み合いだろう? 国がなくなってしまうところだったのをアメリカが救済したわけだから。 バノンがホワイトハウスのなかで権力争いに勝てば、おおきな戦争になるかもしれないが、可能性は低い。 ヒラリーのような戦争屋が大統領になった場合よりも、トランプのほうが、確率の問題として大規模な戦争になる可能性はずっと低いのは、きみも知っているはずじゃないか。 戦争の可能性を過小評価しているんじゃない? と訊くと、しばらく考えて、バノンのNSC入りは驚いた、とだけ述べた。 これはまた異なる友達だが、Brexitとおなじで、自分達の内輪の都合での政治的な戦略投票の意図とは別に、有色人種のひとびとはえらいめにあっているよね、と言うと、それはまあ、そうだけど、と口を濁したあとで、 こっちはそれどころじゃないわけだから、というようなことをモゴモゴ言っている。 ガメは、自分の文化に誇りを持っていないのかい? と反問する。 誇りを持っているかどうかはわからないけど、自分の文化はそれは好きだよね、と応えている。 スピットファイアのエンジンの音は遙か彼方の雲の上で鳴っていてもわかるよ、と言うと、失礼にもけたたましく笑って、ガメらしいヘンな例だな、と言ってから、 でもそれって、おれでもわかるぞ、あのエンジンはP51とおなじだからな、などと言っている。 エンジンは同じだが、ほんとうは少し違う音なんだけどね、と心の片隅でつぶやいている、ぼく。 移民なんて、いらないよ、 と、次の瞬間、あっさりと、でもきっぱりと言ったのには驚いてしまった。 … Continue reading

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英語を学んで世界へ出て行こうとしている友達に

ある日、ぼくは劇場の椅子に腰掛けて、シェークスピアのコメディを観ていた。 観ていた、といっても、その日の出し物を観るのは、もうその月だけで3回目で、セリフも、工夫された演出も、暗誦(そら)で言えるようになっていて、ステージのうえに釘付けになっているべき眼は、テーブルに運ばれてきたワインとオードブルの盛り合わせと、それがシェークスピアコメディのいちばんの楽しみの、観客と俳優たちの掛け合いのほうにばかり気をとられていたのだけど。 観客席を眺めていると、シェークスピアが初演された16世紀の終わりから、タイムトラベルでやってきたような髭とヘアスタイルのおっちゃんや、でっぷり太って、なんだか不思議の国のアリスの女王のようなおばちゃん、そうかとおもうと、盛装して、三階席で身を乗り出している、びっくりするように美しい、身なりの良い若い女の人、平場の立ち見席で楽しそうに笑い転げている3人の、大学生だろうか、ジーンズ姿の若い女たち… 社会のさまざまな階層の人が、さまざまな装いで観劇していて、シェークスピアの時代から一向に変わらないこの雰囲気が、つまり劇場まるごとがシェークスピアの世界なのだと判ります。 シェークスピア劇には、子供の時からのたくさんの思い出があって、俳優に抱きかかえられてステージに立たされて、突然劇中人物として扱われてしまったり、長じては、ワイングラスの手をすべらせて、ちょうど出番だった俳優さんの頭からワインをぶっかけてしまったこともあった。 機嫌のよい日で、われながら冴えた相の手をいれて、大声で叫んで、それが劇場中にあまりに受けてしまったので、俳優たちに、「これ、そこの若者、われわれから劇を盗んではダメではないか」と本人たちも大笑いしながら言われたりした。 気がおけない、という言葉があるが、シェークスピアのコメディの最もよい点は、観客と舞台とが一心同体になって、機知のあるやりとりをしながら物語が進んでいくところで、ニューヨークで観たときには、舞台と客席が分離していて、ただの「歴史的見世物」じみて、観客席と舞台がグルなのはイギリスだけのことかと思っていたら、ニュージーランドでも、ロンドンと変わらない雰囲気で、なるほど、われわれが共有している文化の何事かが、この雰囲気をつくるんだなあ、と考えたりする。 言葉の話をしようと思っていたんだよ。 そんな言い方はひどい、ときみは言うだろうけど、英語人たちに較べて、日本語の人は、あんまり言葉のやりとりを楽しんでいないんじゃないか、と考えることが、日本にいるときにはよくあった。 もちろん、例えば、いまはなくなった銀座のビル地下の「山形屋」のような居酒屋で、畳の席に座って、どういうことなのか、安居酒屋であるのに他の居酒屋に較べて人品が圧倒的に良い人が多い、八百万の神様たちがこっそり地下に集まって宴会をしているような、隣客のひとびとと、訊かれて、イギリスの話や、わたしは庄内の出身なんですけどね、と述べる女の人が方言を実演してくれたりして、あの和気藹々の雰囲気を、もちろんぼくも知っている。 そういうときの日本の人たちは、ごく自然に親切で、朗らかで、楽しい人達だが、それが、おなじ郷土料理でも、でっかい茶碗蒸しが楽しみでよく出かけた長崎料理の「吉宗」では、もう、しゃっちょこばった、見慣れた日本人スタイルになっている。 そういう場所も、どこも隣のテーブルが、ぎょっとするくらいに近いのに、まるで不可視な衝立や架空な距離があるようにして、みな隣は眼中にないように振る舞っている。 その違いはどこからくるのだろう? あるいは、シドニーの街で、モニさんに「まあ、なんて素敵なドレスでしょう? どこで買ったの?」と話しかけてくる見知らぬ人がいる。 あるいは交差点で眼があって、にっこり笑って、「今日は、いい天気だな、兄弟」と話しかけてくる若い男がいる。 みなが言葉を使おうと手ぐすねひいている感じの社会が英語社会で、ずいぶん違うなあーと思わないわけにはいかない。 どうせ日本は特殊ですから、とむくれるきみの顔が見えるような気がするが、そうじゃないんだよ。 バルセロナの目抜き通り、日本でいえば銀座の晴海通りになるだろうか、パッサージュ・ド・グラシアで、チョーかっこいいドレスのアフリカ系の若い女の人がいて、イギリス人の観光客然としたおばちゃんが、 「あなたの、その素晴らしいドレス、どこで買ったの?」と聞いている。 ところが、訊かれた女の人はそっぽを向くようにして歩いていってしまう。 イギリス人のおばちゃんは、聞こえなかったと思ったよりは、無視されるという(英語世界なら)普通では考えられない反応にあって、気が動転したのでしょう、追いすがるようにして、もういちど同じ質問を繰り返したら、今度は立ち止まって睨み付けられていた。 しかも悪いことに、その次の瞬間、そのアフリカ系人の友人であるらしい地元のカタルーニャ人の若い女の人と偶然出会って、いかにも愛情にあふれたハグを交わしている。 タパスバーの外に出したテーブルで眺めていたぼくは、ここに働いている心理的メカニズムは日本人とおなじものであるよーだ、と独りごちている。 実際、バルセロナ人のひととひととの距離の取り方は、とてもとても日本人と似ていて、英語人には理解して納得するのが難しくても、日本の人には何の苦労もなく理解できそうなタイプのものです。 それが社会の、どんな機微によるのか、ぼくには判らないけど。 英語という言語は、ドイツ語やフランス語との関連などよりも、なによりも北海文明の言語で、英語人の強烈な仲間意識は、ヴァイキングに典型的な北海人の同族意識に根を持っている。 英語では見知らぬ人間同士のあいだでスモールトークが他の言語よりも頻々と起こるのは、多分、そういう歴史的な社会の性格があるからで、人種差別的な考えの持ち主のおっちゃんが、特定の、言語的にウマがあう中国系人と親友同士であったりするのは、英語に限ったことではないといっても、やはり英語世界に多い事例であるような気がします。 緊密な結び付きを持つ集団は、当然、他に対して閉鎖的な集団でもあって、Brexitやトランプで明らかになった白い人々の相変わらずの閉鎖性は、要するに言語の性格から来ているんじゃないの?と思うことがよくある。 このブログ記事に何度も出てくるように、いまの世界語としての英語は「外国語としての英語」で、体系や機能はおなじでも、北米語であったりUK語であったりするわけではないのは、英語人自身がいちばんよく知っている。 日本人も含めて、英語を身に付けていく人達がいちばん最後にぶつかる壁は、「外国語としての英語」と「母語英語」のあいだに立ちはだかる超えがたい壁で、この「壁」の嫌らしさは、たとえアクセントがまったくおなじでも、同族の両親ゆずりの英語でなければすぐにばれて、拒絶の反応が待っている。 いっぽうではニュージーランド人と連合王国人なのに、お互いのアクセントをいとおしくおもって同族としてふるまっている。 どんなに美しい英語でも、このレベルでは頑として認めなくて、英語人は陰口が大好きだが、「あいつの英語はいったいどこの英語なんだ。正体不明で気味が悪い」というような、いかにもな嫌らしい言葉を、例えばイングランドで生まれ育って、アメリカに長く暮らした人に向かって述べることは、とてもよくある。 現代の「定義がてんでんばらばら」と言いたくなる人種差別は、連合王国ならばトランプの奥さんのような東欧人も差別の対象で、オーストラリアやニュージーランドならばアフリカンアメリカンはダイジョブだがアジア人とミドルイースタンは差別される。アメリカに至っては「白ければなんでもOK」の杜撰さで、じゃあ、浅黒い肌のイタリア人はなんでいいの?とからかいたくなるが、人種という現代科学がすでに遺伝要素として否定しさった概念を無理矢理信じようというのだから、結論が白痴じみているのは当たり前でも、なんだか出鱈目なのは、やはり言語がおおきく絡んでいるからだと思います。 よく観察してみると、メラニアよりもイヴァンカのほうが風当たりが弱いのは、英語のアクセントと関連していると思えなくもない。 ぼくは、人種差別はやっぱりなくなるだろうと思っている。 いま世界を覆い尽くす勢いに見える人種差別の潮流は、あとで振り返ってみると、世界の哲学的な進歩についていけなくなった人間たちの最後の抵抗ということになるのではないかしら。 日本人のきみが、ようやっと勇気をだして日本の外へ出て行こうとしているときに、ファラージュやトランプのような愚か者が喝采を博して、ぼくのところにまで 「おまえは日本を出たほうがいいと言ったが、人種差別の世界になったじゃないか、ざまーみろ」という、なんというか、大幅にピンボケで、アンポンタンとしか呼びようがない人たちが来たが、現状は、「人種差別の考えにとらわれたひとたちが口にだしてもいい時代になったと考えて、いままで言わなかったことを言葉にして異人種にぶつけはじめた」ところで、ぼくがきみなら、バカな人間と口を利く手間が省けて返って好都合だとおもうだろう。 ぼくが子供の頃は、シェークスピア劇は、観客席をみると悲劇にだけアジアの人の姿があって、喜劇は全部白い人だったんだよ。 それがいつのまにか、中国系人のにーちゃんが立ち見席で、ステージに肘をついて、俳優に踏まれそうになったりしている。 … Continue reading

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Jさんへの手紙3

ほんとうは仲が良いもの同士で冗談を言い合いたいだけだったのを憶えているのは、もうjosicoはんくらいのものではないだろうか。 このブログは元元は零細なゲーム通販サイトの右端の隅っこに載っているゲーム・ブログで、オンラインeコマースの実験をやってみたかった義理叔父が、知っている人にお願いして開いた通販サイトが、あまりに索漠としていて非人間的に冷たいので、まず自分で書いてみて、うまくいかないので、外国語の天才をたくさん生みだした母親側の家系につらなって、日本語を含めた外国語が人並み外れて堪能ということになっていたぼくに、「練習代わりにやってみない?」と言い出したのが始まりだった。 義理叔父とシャチョーは輸入ゲームの通販サイトをやってみて、英語が少しはわかるふりをしている人が多いだけで、日本人がおもったよりもずっと英語が出来ないのを見てびっくりしたのだそうです。 あのころ純益はどのくらいあがっているの?と聞いたら、月に600万円から1500万円という答えで、あまりに少ないので、なんだか笑ってしまった。 どこから仕入れているのかと思ったらロサンジェルスやロンドンで、日本の人らしく、あんまり頓珍漢なので、ヒマなときにネットで調べたり電話をかけてまわったりして、スウェーデンの卸屋を教えてあげたら、特に少し古いゲームは一桁安かったとかで、義理叔父とシャチョーに感謝されたのをおぼえている。 いま、頑張って思い出そうと思ってたのだけど、もううまく思い出せないんだよ。 もしかしたら、一番初めの記事が、あの奇妙なゲームサイトの右上に現れたのは10年前ではないだろうか。 違うかな? いまは「長すぎて読めない」という人が多いのでワードの3ページに収まるように書いているけど、ワードの1ページの半分を書くのにほぼ一週間かかっていたのをおぼえている。 テキトー、えーかげんを他人に対しては求めるのに、自分はなんでも完璧でないと嫌だという嫌な性格のぼくは、一行書くのにもネットで検索して用例を調べて、おなじ用法がないと日本語教科書や辞書にあたって、アケオメで始まる、たった数行のブログを書くのに、まるまる一日かけて、途方もない時間を注ぎ込んだりしていた。 josicoはんは、仕事の用事で、英語のゲームを買う必要に迫られて、サイトを探してたどりついたのだったとおもう。 そのうちに、ほんのときどき更新されるだけの、チョーいいかげんなブログがトップページにおかれているのに気が付いて、読者として、コメントをくれるようになった。 初めの頃は「日本人は、そこまでひどくない! いくらなんでもあんまりな言い方だとおもう!!」と瞬間湯沸かし器のjosicoはんらしく、よく怒っていたが、そのうちにウマがあって、仲良くなった。 ほら、emailでだったか、josicoはんがバルセロナへ行って、ぼくが初めてバルセロナに住んだときの、アパートへの坂道を歩いていくところがあったでしょう? 地下鉄の駅をおりて、地上に出て、緑のなんちゃらな名前のレストランや、やたらとおいしい蜂蜜を塗ったクロワッサンとカフェ・コン・レチェを出すベーカリーをすぎて、多分バルセロナでいちばんおいしいハモンを切り出してくれる肉屋を通り過ぎると、病院の手前に右側に曲がる上り坂があって、そこを上がっていった右手にグラシアでもあんまり治安がいいとは言えない側にある、ぼくのピソ、日本語で言えばアパートがある。 josicoはんは、なんとブログ記事だけを頼りに、あのアパートを探し当てて、あのちょびひげを生やして、頭がつるりんと禿げた、無暗矢鱈に親切なおっちゃんから、ハモンイベリコを買って、おお、ブログの通りじゃないか、と感想を述べてくれて、ぼくを驚かせた。 あの頃から、ネットと現実世界とを問わず、大親友のひとりに、josicoはんを数え始めたのだと思います。 あのアパートは、実はいまも持っていて、いま考えると大笑いしてしまうが、英語圏の人間の浅はかさで、英語圏市場と同様にペントハウスが中層階よりも高いのだと誤解していて、6階の、遠くにサグラダファミリアがみえるテラスがあるアパートで、まだ付き合いだしてからそんなに経っていなかったモニとふたりで、あの親切ハゲおっちゃんからハモンを買って、滅法うまいベーカリーからパンを買って、パンコントマテ、カタルーニャの言葉でいえばバンアムトマカをつくって、テラスに出したテーブルで食べたりしていた。 その頃のことを考えると、josicoはんもモニもぼくも、子供のように若くて、失敗ばかりしていて、他人の言葉に傷付いたり、うまくいかないことが続いて椅子を蹴飛ばしてみたり、いらいらしたり、寂しいと思ったりして、世界には自分と意思が通じる人間はそんなにはたくさんいないこと、友達になりうる人間の数はとても少ないことを学んできたのだと思います。 Casa Gracia、だっけ? ディアグノルを渡って地下鉄のグラシア駅の行く途中にあるホテルの近くにタコ焼き屋を出そうか?と話していたことがあったでしょう? Josicoはんが、日本のマネジメントに馴染めなくて、というよりも湯沸かし器のスイッチが入って、もう日本に住んでいられないと考えて、外国に移住してゲームデザイナーとしての一生をやり直すのだというものすごい決心をして、考えてみると日本語しか判らないので、これでは移住は無理だよねと考えて、ふたりで相談して、取りあえず連合王国のブライトンの語学校に行った、あれは、2008年のことなのだっけ? もう随分むかしのことで、ちゃんとおぼえていないのだけれど、josicoはんがゲーム業界からは足を洗ってタコ焼き屋をやりたいと言い始めて、現実の世界では投資家同士の関係のjosicoファンになっていた義理叔父と、「Josicoはんなら、もう仕方がないだろう」ということで、いざとなったらjosicoはんの人間を見て、どうせダイジョブに決まっているから、あんたとぼくと半分半分で出資して、josicoはんはそんなのは嫌だろうけど、チェーン化を前提にしてタコ焼き屋を支援したらどうかと話がついていた。 あのとき義理叔父は、なんだか日本へ出張(でば)って、銀だこチェーンやなんかに行って見て、「これなら勝てる」とかなんとか、チョーシのいいことを言っていたの。 ところがjosicoはんは、うまく採用されて、いまはアマゾンの開発部門として買収された会社に入って、ゲームデザイナーとして復活して、あのときは言わなかったけど、義理叔父はかーちゃんシスターと一緒にわざわざやってきて、祝杯を挙げたんだよ。 4人で、不安そうだったjosicoはんが就職して、またゲームの世界の人になったことを、思い切り祝福したのだった。 おおきい声では言えないが、あの地区ではたしか禁止の打ち上げ花火まで上げたのね。 ぼくたちはみんな勇敢なjosicoはんが、とてもとても好きだった。 ぼくが、いつまで経っても、何年でもつきまとう、はてなに蟠踞すると自称するおっさんトロルたちや、ときどき明滅的に現れる、こちらは万国共通の、自分の生活がうまくいかなくて人生の失敗者となって、そのフラストレーションをぶつけにくるらしいネットストーカーたちに、ときどきうんざりしながら、日本語をやめないで来たのは、やっぱりjosicoはんがいたからだとおもう。 日本語用法上は「josicoはんたち」とか「josicoはんをはじめとする」とか言うべきなのは判っているが、そんなのは、ぼくが育った社会ではウソなので、ほんとうのことをそのまま述べるべきで、josicoはんがいたからいままで日本語に対して興味を失わないですんだんだよね。 そういう事情のことは、もっと後景にある、源俊頼が好きであるとか、北村透谷が好きであるとかとは、ちょっと別のことです。 josicoはんは職業人である以上、この仕事をクビになったらどーするんだ、と不安に思うことがあるとおもう。 ぼくは投資家おっちゃんやおばちゃんたちからは、ガメはオカネをコンサーバティブなほうにどんどん逃がすから狡い、と羨ましがられていて、投資家なのに借金がないというヘンな暮らしだけど、人間の運命はヨットみたいなもので、順風満帆のときはスルスルと水面を滑っていて他人がうらやんでも、嵐がいつくるかは、ほんとうは誰にもわからない。 ぼくも、これで大丈夫だと考えたことはいちどもありません。 これから先、どうなっていくか、お互いに判らないけど、ずっと友達でいようね。 ブログがなんだか公(オーヤケー)な感じになってしまって、裃を着て、口をすぼめて政治の話やなんかしそうで、自分でもうんざりだけど、josicoはんの目があるのが判っている限り、日本語でも正気でいられるのではなかろーか。 この頃、あんまりゲームの話しないけど、ちゃんと一日に一時間はゲームをやって、マウスを机にむかってバンバンしすぎて、バラバラにぶち壊してしまったり、後からしつこくついてくる敵機をマヌーバーでふりきろうとしてPCジョイスティックを、ぶち折るくらいには夢中になって遊んでいます。 VRが面白いので、VR専用につくった部屋でPS4も多くなったけど、やっぱりSE30以来のことで、机の前に座って、PCでゲームをやるのが、アットホームちゅうか、リラックスした感じがする。 ファイアフライ・スタジオがStrongholdシリーズを、クルセーダーやクルセーダーエクストリームも含めてsteam向けに作り直したので、全部買って、誰がみてもひと目でサッカーのフーリガンがモデルだと判る「おれたちゃ、メースマン!」や … Continue reading

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十代という地獄

1 ふと横をみると、ぶざまにでっかいペニスのジャマイカ系人が、透きとおるような白い肌の、18世紀に流行った上流階級人の肖像画から抜け出てきたようなブロンドの女の子に、自慢のペニスにコカインの白い粉をあますところなくかけさせて、「おまえ、これが欲しいのか?」とお決まりのセリフで訊ねているところで、 女の子は欲情に火が付いた薄い青い目を燃えるように輝かせて頷いている。 酔っ払ったときに義理叔父に尋ねてみたことがあるが、日本の高校生たちもおなじようなもので、宮益坂に近い地下にあるレストランに、無理矢理買わされた「パー券」をもって出かけてみると、夏目雅子の母校で有名な広尾山の女子校の女の生徒が、酔っ払って、下着を脱いで、カウチを囲んでいる義理叔父男子学校の生徒たちが食い入るように見つめるなかで、後で警察幹部になるOさんとセックスを始めたところだったそうでした。 「むごたらしさ」という、使われているのか使われていないのか、ついぞ分明になったことがない日本語があって、この言葉がいちばんぴったりなのではないかとおもうが、十代という文字通りすべての人間が通過する時期は残酷で、むきだしで、露出した神経に直截こたえるようなところがある。 2 「図書室の高い窓から入ってくる太陽の光で鮎川信夫詩集を読んでいたんだよ」と義理叔父が述べている。 司書係は鼻持ちならない反動野郎の同級生のWだったが、案外なところがあるやつで、ぼくが、これみよがしにジーンズの尻ポケットからフラスコを出して生(き)でウイスキーを飲み出したら、ニヤニヤしてみていたと思ったら、「水を持ってきてやろうか?」というのさ。 そうして、ガメも好きだと言ってくれた、橋上の人の、例の あなたは愛をもたなかった、 あなたは真理をもたなかった、 あなたは持たざる一切のものを求めて、 持てる一切のものを失った。 というところへ辿りついたら、みっともないことに、ぼくは泣きだしてしまった。 そしたらWのやつが、みないふりをして後で陰口を利いて笑い物にするだろうとおもったら、図書カウンタをまわって、カウチにやってきて、 大丈夫か、と聞いたんだ。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/02/10/ayukawa/ おれたちは、結局、まるで不倫カップルのように、(見つかると、お互いの学校のなかの政治的立場で、おまえは裏切ったのかと言われるからね)人目を忍んで、 その頃はまだ坂の下にあった日赤産院におりてゆく坂の途中にあった「味一」という名前の定食屋でビールを飲みながら、絶対に一致しない政治的意見を述べあった。 Wの父親が汚職事件でつかまったのは、その年の冬のことだった。 3 おにーちゃん、この青い塗料、なに? と妹に聞かれて、ぎょっとする。 自分の服は自分で洗うと言ったじゃないか、おぼえてないのか、と怒ったときは、もう手遅れで、 おにーちゃん、昨日、Kに出た暴力男の記事を読んだ?という。 顔を青と白に塗りわけて、満月の夜にひとりで現れて、両手にクリケットバットを握りしめて、集まっていたスキンヘッズをひとりで全部殴り倒して、夜空に向かって吠えていたというの。 マンガみたい。 この頃は単純な人間が増えたというけど。 どこのバカ男だろうと友達と笑っていた。 スーパーマンのつもりなのかしら。 世の中には、自分が正義だと思えば、他人に怪我をさせてもいいと考えるサイテーなやつがいるのね。 まさか、おにーちゃんの知り合いじゃないでしょうね? 4 いま考えてみると、あれはカップヌードルだったんだよな、多分。 大学生たちに誘われて、応援に出かけたロックアウトの、積み上げた机と椅子のてっぺんに腰掛けて、 ははは、アルチュール・ランボーの「一番高い塔の歌」みたいと思いながらマルキ(機動隊)のほうを観ていたら、あの図体ばかりでかいやつらが、なんだかマグみたいなものからラーメンを食っていた。 暖かそうでいいなあーと思ってうらやましかった。 やがて、夜になって、放水車が迫ってきて、高校生同士、来たぞ、みんな油断するな、顔を伏せろ、と述べあって、ふと後ろを振り返ったら、肝腎の大学生たちはひとりもいなかった。 その夜に警察署にひきずっていかれたのは、全員、おれたち高校生だった。 おれは問題学生のなかでは勉強ができるほうだったので、指名されて、ネリカン(←練馬監獄)に収容されていた、先輩の家庭教師を仰せつかったが、意地でも東大に受かってやるという先輩が鹿の絵を指さして、これはなんというんだ?と聞くので「deer、ですね」と答えたら、「そうか、絵のことは英語ではdeerというんだな」と深くうなずく始末だった。 … Continue reading

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コレスポンデンス

日本語ツイッタを通じて出来た友達の千鳥という人は、たいそう変な人で、生まれて初めて商業出版した本はフランス語で書いた本だった。 (アマゾン・フランスで誰でも買えます) おおきな声で正義を述べるというようなことは皆無で、 ごはん、といえば、この前2週間日本で居候させてもらった家庭では、どんな内容の食事でも必ず米の飯がついていて、なんとなく食事において米粒をたべないのは由々しきことである、漠然とながらそれは「悪」である、という雰囲気があった。 — 千鳥 (@charadriinae) February 15, 2017 というようなことを、ときどき、思い出したようにタイムラインに戻って来て、ぼっそりと述べて、また靄の向こうへ歩いてもどっていってしまう。 ツイートを「つぶやく」と日本語に変換して述べるのはぼくの好尚にかなっていないが、千鳥のツイートは、文字通り、呟いているので、なんだか午後になって起きてきて、風呂場の鏡に向かってヒゲを剃っている人が自分に向かって話しかけているようである。 むかしCueva de El Castilloについてブログ記事 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/ を書いたら、しばらくして、千鳥が「行ってきた」という。 行ってきた、だけで要領をえないのは、千鳥らしいというべきで、こちらはどこに「行って来た」のか判らないので、どこへ?と聞くと、 Cueva de El Castilloに行ってきたのさ、と事もなげに言います。 クルマがなければ到底たどりつかない田舎にある洞窟なので、クルマを運転するとは知らなかったと述べたら、 バスを乗り継いで行ってきたんだよ、というので驚いてしまった。 あの洞窟の山の上には、六畳敷きくらいの広さがある平らな頂上があってね、そこでまわりを見渡していたら、いろいろなことを考えた。 ガメは、変わったところまで行くんだな。 変わってるのはぼくではなくて千鳥だが、変人較べをしていても仕方がないので、めんどくさいが、だんだん本題のほうに向かうと、行ってみてきたのならば千鳥も知っているはずで、アルタミラもラスコーも閉鎖になって、現物が見られなくなったいまではただひとつ見られる現実の洞窟のなかへ入っていくと、酸化鉄で描かれた手のひらと、ディスク、無数に描かれた円盤がある。 巨大源氏パイを頬張りながらシトロンのC5を運転して辿り着いたぼくも、バスをのりついで、なんだかここはすごい田舎だなあーと思いながら洞窟へやってきた千鳥も、等しく感銘をうけたのは、人間の抑えがたい「表現欲」とでもいうべき欲望だった。 このあいだ日本語の世界の歴史についての本を読んでいたら、おもいもかけずラスコーの壁画についての記述があって、「どこに行けば効率よく狩りができるかという伝達のためだった」と書いてあって椅子からずり落ちかけたが、そうではなくて、狩りの成功を祈る呪術的な意味あいだったという一般に行われている記述もほんとうとはおもえなくて、現実に洞窟画を目の当たりにしてみると、真相は、 ただ表現したかったから描いたのだ、という実感が起きてくる。 表現したい、という情動のベクトルがすべてで、なにを、や、どんなふうに、は二の次だったのではないだろうか。 あの「ディスク」を一種の方向を示した標識なのだと解釈する研究者もいて、本だけ読んでいるともっともらしいが、現実には、標識ならば、なんでこんなところにもあるの?ということもあって、自分では、どうしても「ただ表現したかったから」説に傾く。 何度かこのブログでも書いたように、戦争が終わったあと、エズラ・パウンドは70年代に及ぶ長い沈黙のなかで生活した。 かつてはあれほど饒舌で、しかも話術に巧みで、ファシストたちのためにイタリア人よりも巧みな表現のイタリア語を駆使して、弁じ続けたアメリカの詩人は、戦争が終わると、ぴたりと何も言わなくなってしまった。 30年に及んだ長い沈黙のあと、エズラ・パウンドは「なぜ沈黙していたのか?」と訪ねるインタビュアーのひとりに答えて 「人間の言葉は伝達には向かないからだ」と述べている。 これも前に書いたが、このパウンドの言葉はほぼ自動的に、同じように言語の伝達機能に懐疑的だったW.H.Audenを思い起こさせる。 言語に興味がある人が、まず初めに学習することは言葉にはふたつの異なる属性があって、ひとつは論理のレゴと言いたくなるような、論理的なベクトルの部分で、この属性が極端に出ているのは、むろん数式です。 数学者には全裸の美男美女のカップルも不完全な「2」にしか見えない、というのは有名な冗談だが、情緒を削ぎ落として、論理構築としての道具としての言語の解析は、たとえばエロ爺バートランド・ラッセルの全集でも読めば、あますところなく解説されている。 … Continue reading

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サバイバル講座3

夏の、突然涼しくなった夕暮れ、有栖川公園を、ひとりの若者が歩いてた。 肩幅が狭くて、なんだか真横からみたら見えなくなってしまいそうなくらい、薄い、頼りない胸板で、少し躓くような、よく見ると自分の自意識に躓いてしまっている、とでもいうような、ぎくしゃくした、不思議な歩き方で、図書館をでて、暗い色の緑のなかを、地下鉄の駅のほうに歩いてゆく。 思い返すたびに、あれはきみだったんじゃないかと思うんだよ。 年齢を数えてみれば、あの青年は21、2歳の年格好で、いまきみはたしか21歳で、公園に立って、きみの姿を眺めていたのは10年も前なのだから、どんな酔っ払いが数えても勘定があわないが、人間の出会いは常に不思議なものだから、時の神様が、いたずら心を起こして、ほんのちょっと時間の表面に皺をつくって、10年前のぼくに、現在のきみを見せてくれたのかもしれない。 若い人間にとっては世界は巨大な壁に似ている。 しかも思いがけないときにあらわれる不可視の壁で、水木しげるが「ぬりかべ」という愉快な妖怪について書いていたが、道を歩いていると、どおおーんと突然あらわれて、回り込んで、避けていこうとしても、どこまでもどこまでも 続いている。 ぬりかべは、むかしは実際に存在していたらしくて、ぼくの日本語の先生である義理叔父の祖母にあたる人は、敗戦後、鹿児島と熊本の県境の山を、夜更け、買い出しの帰りに、その頃は日本中の買い出し道に現れたという若い女を強姦する目的の男たちへの対策として、わざと長い髪を濡らし、おばけのような姿で、歩いていたら、突然目の前にかすかに続いていた道がなくなって、どんっと壁にぶつかった。 疎開していた先の親戚の言葉を思い出して「ぬりかべさん、ぬりかべさん、どうか通してください。わたしは、このたべものを朝までに歩いて家に持って帰られなければならないのです」と一心にお願いしたら、かべがすっとなくなって、ああよかった、と思った耳に、「今日から悪い男たちのことは心配しなくてもよい」と幽かな声が聞こえたそうでした。 人間の世の中のほうの「ぬりかべ」は、そんなにやさしい気持ちを持っていなくて、ただ壁で、世界中の若い人間は、蹴っても、頭をぶつけても、肩から体当たりをしてみても、 びくともしない壁に阻まれて途方にくれる。 見たこともない、巨大な、絶対的な拒絶で、問いかけても、考えても、拒絶の理由さえ教えてくれない壁は、しかし、ほんとうは誰でも経験するものなのだということが、この記事を書いた理由なのね。 誰でも、と書いたけれども、100人の人間がいて、100人が、という意味ではなくて、真剣に、例の自分というパートナー、最良の友達を幸福にしようと考えて生きてきた人だけが「誰でも」に含まれる。 ほら、いまはどうしているか判らないが、マサキという風変わりな大学生がいたでしょう? 空をみあげる若い人への手紙 https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/15/letter5/ ときどき、びっくりするようなケーハクなことをいうが、一方では、年長のぼくが聴いていて、そうか世の中にはそんな気持ちが存在しうるのかと考えるような情緒に立った言葉を述べて、そのまま小さな沈黙を抱えて渓谷にわけいってしまう。 あれはきっと、ついさっきも 「町田で日雇いバイトの登録を済ませ、受験期によく食べていたまずいラーメンを食べ、帰って地元のコンビニに寄ったら、泣き叫んでいる中年女性が万引き常習犯のかどでつまみ出されていた」 と述べた、泣き叫んでいる万引き常習犯の中年女性を、路傍の、石になったように見ているきみとおなじことで、神様がつくった沈黙の影がさして、その影の下で、言葉が凍り付いた一瞬を経験したいのだと思います。 拒絶をおそれてはいけない、という単純なことを書こうとおもったのに、なんだか妙な寄り道になってしまった。 あるいは、もう少し親切ごかして言葉を注ぎ足した言い方をすれば、 正しい道を歩いていれば壁に必ず手痛くぶつかるのだから、ああ、あれかと思って立ち止まれ、ということを言おうと思っていた。 ハシゴをかけてみたり、東へずっと歩いて壁を端から回り込もうとしてみたり、おおそうか、こういうものは人間性の低さを掘り下げて、トンネルを下に掘って通過すればいいのだなと考えて、懸命に下品になってみたりしても、壁は上下左右、どこまでも続いていて、どうすることも出来ない。 議論する、という方法はあるよね。 友達に恵まれていれば、あるいは、そういう場所を常に与えられていれば、議論を積み重ねていくことによって、自分でも予期しなかった高みに言葉がつれていってくれて、その高みからは、壁が足下に見えて愕然とする、という幸福な体験を持つ人もいる。 でも残念ながら、そんな止揚の言葉を持っているのは、例えば大陸欧州の、週末にはパブすら開いていない大学町で、他にすることがないので、欧州や中東や東欧から集まってきた学生達が議論ばかりを娯楽にしているような土壌でなければ無理で、日本語のような狭く同質な世界では望めない。 100人の人間がいても、ひとつの頑なに等質な孤独が100個、判で捺したように整列してしまうだけで、孤独が百倍になるだけで終わってしまうだろう。 日本語で私小説が発達した、おおもとのおおきな理由は、そういうことで、作家は自分の足下に井戸を掘ってみるしかなかった。 ただもう闇雲に掘り下げて行って、運良く水が湧いてくると、さまざまな所から拾い集めてきた石を組んで、井戸をつくって、満月の夜になると、そっと身を乗り出して、自分の姿を映してみる。 そうして、そこに映った、まだ真実は子供にしか見えない自分の姿に失望したり、悪魔を見て戦いたりして、顔をあげてみると、壁は正当にも消滅している。 そこで、やっと壁は、世界への誤解という、自分自身の姿にしか過ぎなかったのだと思いあたることになる。 ぼくのきみへの自分の一生の説明には虚偽が存在して、「おもいもかけず発明というヘンなもので初めのおおきなオカネの塊を手にした」と述べているが、ほんとうは少し異なっていて、他人が聞いたら大笑いするだろうが、それがいちばん第二段階の投資を始めるためのスタートアップのオカネをつくるには簡単だろうと考えて、意図して、計画した。 そんなバカな計画を持つ人は、自分で考えてもぼく自身以外には存在しなさそうな気がするが、例の「他人にとっては確実なことが自分にとっても確実とは限らない。他人にとってはロトのいちばん当選じみたアホい夢にしかすぎないことが自分にとっては最も堅実な道でないとはいえない」という思い込みにしたがって、発明の努力をして、当時は大学総長だった大叔父の助力で、その考えを大金に変えることができた。 つまり、ぼく自身は世界の約束を頭からシカトすることによって自分の一生をスタートさせたのでした。 余計なことを書くと、この奇妙な自分の将来への提案を考えたきっかけは、ポール・ヴァレリーの有名な逸話で、あの偉大な評論家/詩人は、「姪にポニーを買い与えるために」、ひと夏苛酷に働いてオカネを稼いだと自分で述べている。 この、「ひと夏苛酷に働く」という科白にすっかり参って、ぼくも同じ事を、マネしてやってみたのね。 ひと夏、苛酷に働いて、ぼくは、(下品なので金額は言わないが)普通の人間が輪廻転生を繰り返してやっと稼ぐ、七生涯賃金よりも、さらに一桁異なる金額を、気が付くと手にしていた。 前にも述べたように、こういうことを自分で言ってしまう人間も変わっているが、実家はそもそも富裕な家なので、両親にゴロニャンをすれば、昔からおぼえもめでたいので、同じ金額など、あっさり恩賜になったに決まっているが、親のカネをもらうと人生全体が腐敗するというあんまり論理的とはいえない信仰を持っていたぼくは、そんなのは嫌だった。 でも「労働」なんかするのは、もっといやだった。 … Continue reading

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