コレスポンデンス

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日本語ツイッタを通じて出来た友達の千鳥という人は、たいそう変な人で、生まれて初めて商業出版した本はフランス語で書いた本だった。
(アマゾン・フランスで誰でも買えます)
おおきな声で正義を述べるというようなことは皆無で、

というようなことを、ときどき、思い出したようにタイムラインに戻って来て、ぼっそりと述べて、また靄の向こうへ歩いてもどっていってしまう。
ツイートを「つぶやく」と日本語に変換して述べるのはぼくの好尚にかなっていないが、千鳥のツイートは、文字通り、呟いているので、なんだか午後になって起きてきて、風呂場の鏡に向かってヒゲを剃っている人が自分に向かって話しかけているようである。

むかしCueva de El Castilloについてブログ記事

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/

を書いたら、しばらくして、千鳥が「行ってきた」という。
行ってきた、だけで要領をえないのは、千鳥らしいというべきで、こちらはどこに「行って来た」のか判らないので、どこへ?と聞くと、
Cueva de El Castilloに行ってきたのさ、と事もなげに言います。
クルマがなければ到底たどりつかない田舎にある洞窟なので、クルマを運転するとは知らなかったと述べたら、
バスを乗り継いで行ってきたんだよ、というので驚いてしまった。

あの洞窟の山の上には、六畳敷きくらいの広さがある平らな頂上があってね、そこでまわりを見渡していたら、いろいろなことを考えた。
ガメは、変わったところまで行くんだな。

変わってるのはぼくではなくて千鳥だが、変人較べをしていても仕方がないので、めんどくさいが、だんだん本題のほうに向かうと、行ってみてきたのならば千鳥も知っているはずで、アルタミラもラスコーも閉鎖になって、現物が見られなくなったいまではただひとつ見られる現実の洞窟のなかへ入っていくと、酸化鉄で描かれた手のひらと、ディスク、無数に描かれた円盤がある。

巨大源氏パイを頬張りながらシトロンのC5を運転して辿り着いたぼくも、バスをのりついで、なんだかここはすごい田舎だなあーと思いながら洞窟へやってきた千鳥も、等しく感銘をうけたのは、人間の抑えがたい「表現欲」とでもいうべき欲望だった。

このあいだ日本語の世界の歴史についての本を読んでいたら、おもいもかけずラスコーの壁画についての記述があって、「どこに行けば効率よく狩りができるかという伝達のためだった」と書いてあって椅子からずり落ちかけたが、そうではなくて、狩りの成功を祈る呪術的な意味あいだったという一般に行われている記述もほんとうとはおもえなくて、現実に洞窟画を目の当たりにしてみると、真相は、
ただ表現したかったから描いたのだ、という実感が起きてくる。

表現したい、という情動のベクトルがすべてで、なにを、や、どんなふうに、は二の次だったのではないだろうか。
あの「ディスク」を一種の方向を示した標識なのだと解釈する研究者もいて、本だけ読んでいるともっともらしいが、現実には、標識ならば、なんでこんなところにもあるの?ということもあって、自分では、どうしても「ただ表現したかったから」説に傾く。

何度かこのブログでも書いたように、戦争が終わったあと、エズラ・パウンドは70年代に及ぶ長い沈黙のなかで生活した。
かつてはあれほど饒舌で、しかも話術に巧みで、ファシストたちのためにイタリア人よりも巧みな表現のイタリア語を駆使して、弁じ続けたアメリカの詩人は、戦争が終わると、ぴたりと何も言わなくなってしまった。

30年に及んだ長い沈黙のあと、エズラ・パウンドは「なぜ沈黙していたのか?」と訪ねるインタビュアーのひとりに答えて
「人間の言葉は伝達には向かないからだ」と述べている。

これも前に書いたが、このパウンドの言葉はほぼ自動的に、同じように言語の伝達機能に懐疑的だったW.H.Audenを思い起こさせる。

言語に興味がある人が、まず初めに学習することは言葉にはふたつの異なる属性があって、ひとつは論理のレゴと言いたくなるような、論理的なベクトルの部分で、この属性が極端に出ているのは、むろん数式です。

数学者には全裸の美男美女のカップルも不完全な「2」にしか見えない、というのは有名な冗談だが、情緒を削ぎ落として、論理構築としての道具としての言語の解析は、たとえばエロ爺バートランド・ラッセルの全集でも読めば、あますところなく解説されている。

一方では言葉には、「死者のおもい」が堆積されていて、例えば外国語として日本語を学習する者の目には、どんなに日本人たちが半島人たちを侮蔑し、軽蔑の念を執念深いやりかたで述べ続けても、「朝鮮」という言葉自体が持つ日本語としての輝きに、日本人が過去の歴史を通じてもちつづけた、半島人の優雅や、美術的感覚の洗練への、抑えがたい羨望を透かしみることができて、なんとなく微笑ませられる。
百済観音の優美な表情を仰ぎ見て、半島の、自分達よりも遙かに進んだ文明に憧れる日本人たちの姿が「朝鮮」という、ふたつの文字にはこもっている。

あるいは、もう、どうだっていいのさ、とつぶやくとき、
その音や平仄には意味を遙かに越えて、過去の時間のなかで絶望して死んでいった人の感情が表出されて、生きて目の前に居る人の口を借りて、死者が語りかけてくるような気持ちに囚われる。

伝達を「水平な言葉」と呼ぶとすると、ただ自分の自己の暗闇のなかへ螺旋階段をおりてゆく「垂直な言葉」が存在して、洞窟のディスクを思い出すまでもなく、言語の本来の機能は、伝達よりも自閉であるという気がする。
庵を閉じて、暗闇のなかに歩みいって、じっと、畳が浮いてくるような感覚の揺れが感じられるまで、考えに考えぬくことには、あきらかに言語の始原的な機能に触れる喜びがある。

ぼくが伝達を機能とする言語をたいして信用しないのは、数学をバックグラウンドとしているからなのは、自分では、あんまり考えてみる必要がないくらい自明なことで、物理が嫌いで数学が大好きだった若いときの嗜好を考えれば、数学の言語としての明晰に快感を感じていたのは明らかであると思う。
物理学などは世界の物理的な運動を説明するという余計なことを数学を道具として使うというヘンテコな学問で、そんな目的に使役される数学は気の毒であるといつも思っていた。

数学のような美しい言語を、そういう下品な理由に使われるのは嫌だなあ、という気持ちがあったのだと思います。

自然言語も同じで、人間と人間が言葉で通じ合うことが出来ないのは、自分の普段の生活を観察すれば自明どころではなくて、相手が知らないことを言葉で解説するということはまったくの不可能で、せいぜい、同じようなことを自分の精神の井戸のなかで掘り下げていっているもの同士が出会って、ああ、この人は自分が昨日井戸のなかで見た、あの映像のことを話しているのだな、とおぼろげに重ねてみているにすぎない。

つまり、すでに垂直に掘り下げた思惟と思惟を照応させることは出来なくはなくても「伝達」というほどのことには及びもなくて、このあいだからまた考えているのだけども、言語で人間と人間が考えていることを伝達するというのは、まったくの虚妄ではないだろうか?

言い方を変えると、言語には照応の機能はあっても伝達の機能は備わっていないのではないか?

それがもっかの疑問で、疑問を再訪するたびに、ぼくの「存在の寂しさの盟友」である千鳥が、何時間もバスに揺られてたどりついた、あの洞窟の、まるで声そのものであるかのような酸化鉄の手のひらや、「ディスク」が、頭のなかに蘇ってくるのです。

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One Response to コレスポンデンス

  1. Ayaka Masui says:

    「言葉の持つ二つの属性」についての記述を読んでいるうちに、「テナガザルのデュエットコール」と「ゴリラの鼻歌」を思い出してしまいました。
    ヒトは両方の要素を不完全なまま、だからこそ両方とも持っていて、音声言語の性質上「抽象的に組み合わせて利用する」事もできるのかな、と。
    自分の照応を相手の見聞きできるところに置いて、それによって相手の照応機能を利用して伝達しようとする。と。

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