ハッピー

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日本語では、なんというのだろうと思ってオンライン辞書を調べたら「洗面台」と書いてある。
洗面台の縁を散歩する人はいないので、多分、日本語が存在しないのでしょう。
英語でbasinと呼ぶ、海と隘路で連絡したチョーでっかい池のような地形で、家からでかけるとホブソンベイという内陸に引っ込んだ湾口の次に近いウォーターフロントなので、ときどきモニとでかける。

この辺りの家は、水に面した家はどこの家も船着き場を持っていて、カヤックやローイングボートで水に出て、のんびり午寝が出来たりするので、悪くはない。

一周3kmくらいのボードウォークがあって、全部まわるのはめんどくさいので、たいてい、風光のよい、半分だけを歩いて、くるりんと方向を変えて戻って来ます。
ベンチや、誰もいない、緑でぎっしり埋まった公園や、遊歩道がやたらいっぱいあるのがオークランドのよいところで、世界でいちばんビーチが多い町であるとかなんとか、海辺だらけで、気が向けばテキトーに海にとびこんで泳げたりするところも気に入っていなくもない。

2ドル50セントのソーセージロールを買って、水辺のベンチに腰掛けて、モニと半分こして食べる。
お店のひとがサービスでつけてくれたケチャップをかけながら、ハインツのケチャップがいいかウォッティのトマトソースのほうがおいしいかについて議論する。

いつか日本語ウィキペディアを眺めていたら、トマトソースはニュージーランド特産の酢が入ってないケチャップだと書いてあって笑ってしまったが、種明かしはもっと簡単で、ケチャップのことをもともとニュージーランドではトマトソースと呼ぶ。
それもtomatoが日本語の「トマト」と発音が似ているので、初めて日本に行ったとき、面白いなあーと思ったのをおぼえている。
なんとなく親近感が湧いてくるような気がした。

やさしい、おだやかな風がふいてきて、もうすぐ秋だなあ、と考える。
今年は夏が短かった。
こうやってモニさんの横顔を眺めていて、ふと気が付くと目尻に皺がある、という日がいつかは来るだろうか。
もしかしたら、このひとは、永遠にいまのままなのではないかしら。

世界でいちばん青が深いのだという、見つめていると吸い込まれていきそうな青空を眺めたり、ときどきマレットが跳躍する水面を見ていたりして、あのシドニーの25ドルのソーセージロールはおいしかったが、価格は新記録だった。
ソーセージロールって云えば、この頃はカレーライスロール見ないよね。
そう?
ガメが気が付かないだけで、このあいだのMt Wellingtonのハンバーガー屋のフィッシュアンドチップスメニューには書いてあった。
でもイギリス人は、あんなおいしくないものを食べるなんて信じられない。
いったい、きみたちの先祖はどういう味覚をしておったのかね、とモニさんは男の口調をまねて、屈託なく笑っている。

料理は、論理的な民族のものだからね。
論理に興味がない民族は、料理にも関心がない。
ルネ・デカルトは、どんな夕食を食べていたのだろう?

モニさんと出会ってから、毎日毎日話していて、まして結婚してからは、のべつまくなし、朝も昼も夜も話していて、こんなことばかりやっていては飽きるのではないかと考えたことがあったが、モニさんと話すことの楽しさは無尽蔵で、いまだに飽きたことがない。

人間の幸福ってなんだろう?
なんて質問したら、どこかの哲人が、目の前に煙とともにドロロロンと現れて説教されそうな気がするが、それにしても、人間の幸福とはなにか。
人間は、どうやったら幸福になってゆけるのか。

オカネがあれば幸福だという人はいないだろう。
恋人といれば幸福だということは考えられる。
でも、ならばなぜ、恋人はいつかは去ってゆくものなのだろう?
裏切り、swear、テーブルを叩いて怒りのなかで苦しむのはなぜか。
やっと生き延びた恋が死によって引き裂かれる残酷は誰が考えたのか。

人間の恋する心は肉体の欲望が観念に投射した幻影なのではないか。
愛情は、覆いがたい欠落感の裏返しにすぎないのではないか。

夢のなかには褐色のローブを着た人が必ず現れて
「人間の子よ、永遠を願ってはいけない。
一年よりも、一ヶ月を、一週よりも一日を、一時間よりも一瞬を願うのでなければ、きみは幸福ではいられない」と述べる。

わしは寝ぼけて、そーゆーことを説教したいのなら、人間の意識の時間の計測装置を、もう少し、ちゃんとつくってくれよ、と悪態をついている。
せめて雨の水滴の一滴一滴を悠々と避けて飛ぶ蚊の意識の精細を人間がもっていれば、どれほどよかったか。

自分を幸福にする集中力を欠いた人間は好きになれない。
生活は投げやりに放り出したままで、したり顔で政治や社会の話をしている人間がいちばん嫌であるとおもう。

ところが自分を幸福にする一瞬をつくることは誰にでも出来ても、自分が幸福である状態を持続させるのは難しい。
自己の意識から見えにくい秘密が網の目のようにたくさんあるからで、どんな場合でも、「宇宙を支配する絶望感」に苦しんでいたはずの詩人が、夜更かしをやめて、早寝早起きをして、毎朝ジョギングをするようになったら幸福になってしまったというような散文的でバカバカしい解決はありうる。

短期間ならば、月に15万円だった収入が20万円になったら幸福になった、ということすらありうる。
どうやら人間の心には、さまざまな(生物学でいう)限定要因があって、その最後の限定要因をとりのぞく作業が幸福になるためには必須にみえる。
人間はバランスが肝腎と昔から賢人たちが述べることの具体的な内容は、要するにそういうことであるらしい。

仕事なり研究なりで忙しい人間は、幸福か幸福でないか以前の段階で、ゲーマー的な速度のベクトルのなかにいて、夢中になるということは快感ではあっても幸福とは相反している。
幸福は有り余る時間からしか生まれないのは、ルネッサンス以来、文人も哲学者も、繰り返し繰り返し述べてきたことで、世界の生産性が現代のように増大するまでは幸福はおろか不幸ですら上流階級の贅沢にしかすぎなかったのは、そのせいである。
忙しい人間は、人間をめざしているだけで、まだ人間には至っていない段階でしかないだろう。

I’m happy

と突然モニさんが述べている。
わし頭を両手でおさえてキスをする。
わしも、と応えるが、どうも自分の心を観察すると、こっちはタワケらしく、よーするにモニさんが幸福ならばわしも幸福、という子供じみた幸福感であるような気がしなくもない。

ホブソンベイの線路は、まるで湖のなかに敷設されているようで、夕暮れどき、電車が湖面を横切ってゆくと、千と千尋の神隠しに出てくる幽冥な電車のようであることは前にも書いた。
ニュージーランドのような国にいると、幸福には膨大な物理的スペースが必要なことや、人間の意識の流れの自然の速度は、現代人が感覚として仮定しているよりも、実は、もっとずっとゆっくりしたもので、現代の人間は、いわば生まれてからずっと「急かされている」のだということが自然にわかってくる。

人間は自分自身を欺くのが得意で、社会の形で、関係の形で、個人の意識の形で、本来の固有時間や、棄損されない自然な情緒を、さまざまな手であざむこうとする。

その個人の固有の時間や意識をつかまえようと伸びてくる無数の手を、するりと抜けて自分の幸福のなかへ入ってゆけるのは、ただ言葉という魔法によっていて、
言葉の変調は、人間という生き物が、いかに壊れやすくて、メインテナンスが難しい生き物なのかもいつも教えている。

わしが言語に時間と労力を割いて、例えば外国語の習得にさえこだわるのは、一に、そのせいであるのだと思っています。

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3 Responses to ハッピー

  1. 太郎 says:

    ‘basin’ の日本語は、

    1a たらい、洗面器、水盤;洗面台、流し (sink);《調理用の》鉢、ボウル;《解剖学》骨盤 b 鉢一杯(の量)(basinful) 2 ため池、水たまり;〘まれ〙プール;《港の》船だまり;陸地に囲まれた港、内湾;《水門のある》ドック (dock) 3 盆地;《河川の》流域;海盆;《地質学》盆状[地]構造《岩盤が中心に向かって周囲から下方へ傾斜している地域》;堆積盆地(にある石炭・岩塩などの埋蔵物) (研究社(2000)リーダーズ英和中辞典 東京:研究社 133頁)

    だそうです。この記事の ‘basin’ は、「内湾」のことでしょうか。

  2. moto says:

    いつも面白く読ませてもらっています。
    太郎さんの言われる通り、basinは日本だと流域とか集水域って使うと思います。
    「潟」が近いようにも思いますが、
    「潟」砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼。狭い水路で海に通ずるものもある。潟湖(せきこ)。ラグーン。 byネット辞書。 
    lagoonも内湾も、広すぎるイメージもあるので、文脈からすると、「入り江」が一番近いのではないでしょうか?

  3. 前田真宏 says:

    伊豆半島の南端に私が勝手に決め込んだ”私の海岸”があります。

    子供時代、海も山もすぐ裏庭のように身近にあった私は
    お気に入りの”秘密の海岸”を持っていたのですが、東京に来てからは
    すっかり海から遠のいてしまっていました。

    ある日、突然思い立ったのです。「自分の海岸が必要だ」と。

    そこへ偶然たどり着いたのは、全くの幸運でした。
    ちょうど、今頃だったでしょうか。
    ガラスのように透き通った冬の海水は浮かぶ自分の影を砂底に映します。
    暖かい日差しとまだちょっと冷たい風のなか、河口ぞいに植えられた早咲きの桜が
    控えめに咲き乱れておりました。
    護岸されていない天然の河口の干潟に葦や蒲が生い茂り、その合間を縫って
    木製の遊歩道を楽しむことができました。

    今、生活を共にしているひとと一緒に、何度そこを散策したでしょう。
    気持ちの良い海風や、太平洋を照らし出す西日の美しさを思い出します。
    Jamesさんの文章を読んで、ふとそんなことを、鮮明に思い出したのです。
    美しい情景が、行ったことも無い場所が、ありありと浮かび上がるようです。
    どうか、どうか、幸せに。
    その幸せが続きますように。

    新しい家族のために「私の海岸」に行くこともなくなりました。
    本当は、もっと近くにあったらよかったんですけどね。
    如何せん、何をするにもどこへ行くにも東京という処は遠くて行きづらい。
    忙しいから、などと言い訳しているようではまだまだ人間じゃない、ということでしょうか。

    また、ひさしぶりに訪れてみようかな。
    そんなことを思い出させてもらいました。

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