Monthly Archives: May 2017

暗礁

もう両側に断崖がそそり立つ一本道に入ってしまって、クルマをゆっくりとすすめることは出来るが、Uターンして、もと来た道を引き返すということは出来なくなっている。 日本語で「遅かれ早かれ」というが、そのとおりで、断崖から遙かに下の谷底に落ちる運命は定まっていて、その転落点に向かってゆっくりと、ときどきは何を思ったのか速度を速めたりまでして進んでいる、というのがいまの日本の姿だと思います。 冷たいことをいえば、決断という決断を誤ってきたからで、この十年ほどの社会的な決断の拙さは、社会の運命にとどめをさすのに十分だった。 北朝鮮を例にすれば、もともとは日本は、そのびっくりするような北朝鮮系日本人の数の多さや、彼らが祖国に対してもつ影響力の強さひとつとっても、世界のなかでただ一国、北朝鮮と世界との調停者である資格をもっていた。 その北朝鮮の秘かな期待を裏切って、アメリカの同盟者として、北朝鮮を敵視しはじめたのは、ごく最近のことで、萌芽は、もしかすると小泉純一郎くらいのところにあるのかもしれません。 いまの、頭が信じられないくらい単純になった、言葉を変えれば知力が退化した日本の人のなかには、「そんなことはない。日本は朝鮮戦争以来、いまだにずっと北朝鮮と交戦状態にあるのを知らないのか」と述べる人が出てきそうだが、その手の人を相手にしていると話が堂々めぐりになって、なんだか小学生用の教科書のようなところで「議論」しなければならなくなるので、相手にしないことにしたい。 結局、どうなったかというと、信じがたいことに、日本はアメリカの同盟者というよりは、ひとりでいきり立つ好戦国家として、北朝鮮の核ミサイルが飛来するのを待つばかりになっていて、量産が終わって、北朝鮮が核とミサイルの実験の延長として、いわば日本人の血と生命を「アメリカに対する、より効果のある示威」として使おうとしているのは誰の目にもあきらかで、この危機がやがては終熄するにしても、狂言回しというか、舞台が次の情景へくるりと回転するためには、日本への核攻撃の許容はやむをえないことだろう、ということになっている。 アメリカの対北朝鮮外交の要諦は「アメリカの国土に核ミサイルを撃たせないこと」に尽きていて、ほかには目的がないからで、例えばトランプの政権ならば、核弾頭のミサイルが真珠湾に着弾した瞬間に政権が瓦解するのは、どんな人が考えてもあたりまえの成り行きで、自由主義同盟のなかで、巨大な経済力とアジアでは実質的にただひとつの自由主義社会だった日本が、零落して、経済上は日本が破綻しても、破綻されるよりは、かろうじてでもなんでも存続してくれたほうがよいが、なくなっても、破滅的な影響といえるほどのことは考えられなくなって、社会的にも自由主義の題目で塗り込めていた生来の全体主義が相貌をあらわして、天然全体主義と呼ぶべき不思議な社会の形態であったのが、いまは名実共に、国民も政府も遵法精神をもたない社会として、擡頭して、では中国との共同統治に近い形での東アジアの安定と、旧同盟者であって、いまは自由主義を理解できなくなった日本との同盟による東アジアの対決的な安定とのどちらを選ぶべきかということになれば、日本を捨てて中国との直接交渉による地域安定のほうがアメリカの国益に沿っていて、二強並び立たず、中国との同盟は考えられなくても、なにを血迷ったか国家社会主義的な暴走が目立つようになった日本を対等な同盟者として尊重する路線はあきらめざるをえなくなって、残されたゆいいつの日本の使い途である実質的な属国化へ、動き出したところであるとおもう。 以心伝心、という。 英語人に限らず欧州系の文明に属する人間は、むかしから何もいわずに、いわば目配せによって方向をつくっていくのが上手で、いまの移民政策はアジア人と中東人を締め出す方向で動いている。 1990年代中盤までは、移民に英語試験を課すのはタブーだとされていて、理由は簡単で、表面の理由はどうあれ、現実上の効果はアジア人移民を制限することになるからで、右翼に押しまくられて弱気な政府が「あのー、英語試験を課そうと思うんですけど」とおずおずと国民に申し出ると、次の選挙で中東・アジア系移民問題に焦点が移って、結果はあにはからんや右翼政党が躍進して、与党が大敗するということを繰り返してきた。 わしなどは、実際に例えばニュージーランドがいつからIELTSの点数を移民の足きりに利用するようになったのか知らないが、いつのまにか、移民に英語試験を課すのは常識になって、やってみると、英語試験は移民の、というかexpatのエスニックグループを調整するのに便利で、早い話が、ニュージーランドへの職業人の移民は、ここ30年で初めてアジア人の国が上位5ヶ国から消えて、アメリカやドイツの欧州系国が上位を独占することになったのが今年早々のニュースになっていた。 あるいは大学人であれば、非英語国の大学当局が、自分の大学の世界ランキングが落ちると決まって「いまの英語論文の数で決まるランキングは不当である」とよく怒っているが、英語人の「それは、ちょっとカッコワルイんじゃない?」という冷やかしの気持ちを別にして、そもそも大学をランキングしようという価値観の全体が、いまの汎英語世界化をめざす英語人の、謎の怪人ナゾーも真っ青な英語思想による世界征服計画に基づいているので、言っても詮無いというか、怒りをぶつけるピントがずれている。 以心伝心な英語人の考えていることは、「このへんで一段落つけて、ブロークンイングリッシュ運動に始まった、英語文明のグローバル化を成熟させよう」ということで、簡単にいえば「もう、これ以上、アジア人はいらーん」ということです。 根が利に慧い英語人の常で「すごおおく能力がある若い人間」や「すごおおおくオカネモチの人」は、相変わらず移民として歓待されるが、どちらもハードルが高くなって、前者についていえば、自国社会に要らないとおもえば自国の大学を出て就職しようとする学生にビザを発給しないで恬淡としていることが多くなったし、すごおおおくオカネモチでも、アメリカは未だにインベスタープログラムで、たった6000万円がところの現金を振り込めば居住ビザがおりてしまうが、他の国は、どんどん条件が厳しくなって、持参金だけでなくて、「オカネを生みだして社会に貢献する能力」を問うようになってきた。 結果として移民の希望から締め出されてしまったエスニックグループの代表は、たとえばニュージーランドとオーストラリアでは日本人で、日本人そのものをターゲットにしたわけではなくても、給与の最低水準を49000ドルにして、英語ポイントの基準を上げてみると、日本人にとっては目の前でぴしゃりと門を閉められてしまうような恰好になってしまった。 イギリスでは、もっと深刻な変化が移民のひとびとには見えにくいところで起こっていて、永住ビザを取り消しやすくなっている。 このあいだ、酔っ払って、移民への「対処」について読んでいて、あれっ?と思ったが、わしなどが、いまでもそうだろうと信じ込んでいた連合王国特有の永住ビザをもつ移民への、安心して定住できるようにという配慮は、いつのまにかどっかへ行ってしまって、どんどん、と言いたくなるようなスピードで永住権を取り消して国外へ追放できる条件をゆるめてリスト化している。「これじゃ、どっこもpermanentじゃねーじゃん」と読んでいて情けない気持ちになる。 それや、これや、ありゃあー、すごいことするなあーと思っていたら今度はBrexitで、イギリスは「ほんとうのイギリス人」のものだ派が勢いづいて、なんだか将来は、ありとあらゆる有色人種を締め出しそうな勢いです。 イギリスがこうだとすると、ひょっとしてニュージーランドも、と思って調べてみると、2007年に移民法が変わっていて、これもいつのまにか、世界でいちばん権利が強いので有名な永住ビザを、行政レベルで剥奪して国外へ蹴り出せることになっている。 と、日本語で延々と、本来英語人のうちうちの問題にしかすぎないことを書いているのは、さっき考えていて、今年か5年後かは判らなくても、北朝鮮を挑発しまくって、いまやアメリカの代わりに一身に金正恩の憎悪を買うに至った日本が核攻撃を受けるのは、アメリカも中国も当の日本政府ですら「まあ、そのくらいは仕方がない」になっているが、三者と金正恩がちゃんとイメージとして持っていないのは、現実の核爆発は文字通り想像を絶して悲惨であることで、そもそもいっちゃん初めの原始的な核爆弾攻撃であるヒロシマですら、普通の人間には正視しえないような被害をもたらした。 二、三発の核ミサイルの着弾くらいはやむをえないというが、そういう意見を聴いていると「あんた、ヒロシマの実写フィルムみたことあんの?」と思う。 いかに、なんでもかんでもダイジョーブの社会的な危機への鈍感さで世界的に名をはせた日本人といえども、逃げだしにかかるのは見えていて、そうなると、少なくとも何十万人という日本人が海外に逃げていこうとするに決まっているが、ではどこに?と考えると、ブツクサ言いながらたいへんな数の朝鮮族を受けいれてきた中国を当てに出来る半島人とは異なって、日本人を受けいれそうな国は存在しない。 小松左京の「日本沈没」という小説ではオーストラリアの首相が、大決断をして大量の日本人を受けいれることになっているが、いまのオーストラリアがそんな道義的な決断をして、集団をなせば反自由主義的なコミュニティを形成して自由主義に対する深刻な脅威になると判り切っているエスニックグループである日本人を受けいれるわけがない。 1990年代に、たった5000人だかの日本人移住者人口を「日本人の洪水」と表現して、これ以上日本人が来て、日本みたいな国にされたらどーするんだ、というドタバタSF的な大騒ぎを演じたニュージーランドは論外であるとしても、つい最近まではおおきく門戸を開いていた、カナダの過半の州もイギリスも、移民法自体が「日本人なんて、ひとりもいらん」と言いたげです。 英語圏では日本人にとってはアメリカが居住ビザ条件が最も緩いが、では一歩すすんでグリーンカードとなると、今度は他の英語国とおなじことで、無茶苦茶きびしくなっていて、このあいだjosicoはんがグリーンカードがもらえることになったと喜んでいたが、josicoはんのような特殊技能者でもなければ、グリーンカードなどは夢のまた夢で、「一生懸命働いて、アメリカに儲けさせたら、とっとと自分の国に帰れよ」と言わんばかりの体制になっている。 そうやって、とつおいつ考えていると、日本の人の難民先はブラジルを初めとする中南米くらいのもので、なんのことはない、日本がやってはいけない外交をやりつくして、ナチドイツと同盟した挙げ句ボロクソに負けて、石器時代に町を戻されてしまった敗戦後と、条件は同じことになっている。 執行時期が曖昧な死刑判決じみて見えなくもない北朝鮮危機を別にして、国内に対しては騙せるだけ騙そうという姿勢が露骨なアベノミクスの失敗を最大の原因とする危機的な財政や社会を挙げての遵法精神の喪失、日本語の言語的な頽廃、列挙すると際限もなく延々と続きそうなくらい、いまの日本は人間の健康になぞらえれば慢性成人病の巣窟のようになって、どれかひとつでもバランスを崩すと、累卵の危機そのまま、ガラガラと崩れ落ちそうな国になっている。 到頭最近では、ジム・ロジャースを始めとして、21世紀において最も未来が存在しない国として太鼓判を押されるに至っている。 ジム・ロジャースの「どうしても日本にいたければ、将来の日本には競争力のある産業は残らないからトラクタの運転を習っておいたほうがよい」というアドバイスは、ふざけていたり、皮肉として述べられたわけではなくて、日本文化大好きじーちゃんの、ごく真摯な個々の日本人への忠告として述べられたものです。 日本がなぜここまで希望のない国になったか。 日本に住む日本人が希望として捉えているもの(例:株価)がいかに作為的に国民を騙すために仕組まれた偽りの希望であるかは、気が向けば書くだろうけど、日本語で日本の人に現実を伝えても良い事がないのは、これまでの経験で明らかなので、他の言語で書くものに較べてプライオリティはずっと下になる。 日本語で書かれたものは、最も読む人が少ないのでもあって、その割には嫌がらせは他の10倍では利かないという特徴がある。 だから、最近は、まあテキトーにやってください、ということになっているが、ときどきこうやって、日本語人の友達たちの顔を思い浮かべて書いてみたりするのは、日本文学の誼で、日本語だからといって、綺麗事ばかり述べていても仕方がないだろう、という気持ちが働くものであるようです。 暗礁は、目の前にあるのだから。 Advertisements

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日本文学_0

判らないことだらけだから教えてくれ、という。 まずJRのレイルパスの使える鉄道路線と使えない路線の区別が何によって起こるのかがわからない。 二週間の滞在の半分は日本人の友達が付いていてくれるが、日系企業に勤めた経験から言うと、日本の人はびっくりするような傷付きかたをするので、訊きにくい。 おなじ英語人同士ではガメがいちばん日本のことが判るようなので、訊くことにした。 アフリカ系のスコットランドの人であって、一瞬、人種差別上のことや性差別を心配したが、考えてみると、それは日本を知りすぎているからで、白紙の心のままで日本を訪ねようとしている人に余計なことを述べるのは相手に対してフェアでないので、なにも言わない事にした。 まして「滞在中に起きる可能性は低いが北朝鮮の核ミサイルが飛んでくるかもよ」とは言いません。 自分自身は、それが理由のひとつでストップオーバーで立ち寄るのも嫌だが、来週からの滞在ちゅうにミサイルが降ってくる可能性があるかないか、多分、(ミサイルと核弾頭の量産が始まっていないことや、政治的な緊張の度合いからして)今年中に起きる可能性が5%以下で、来週ならば1%にも満たないミサイル攻撃の危険を述べることには、東京はクルマが多くてヘンな運転をする人間も多いから行くのは危険である、という忠告を与える100分の1も意味がない。 三島由紀夫の墓を見に多磨霊園に行くのだというので、ああ、あそこにはいつか話した与謝野晶子の墓もあるんです。 京都には、きみが大好きな紫式部の墓もあるど、というような話をして、東京では伊東屋で万年筆の在庫のコレクションを見るといい、国立博物館なんかより、出光やブリジストン、原美術館のほうがずっとぼくは好きだったけど、根津美術館もサイコーだとおもう、などと述べているうちに、自分のほうがすっかり日本を思い出して懐かしくなってしまった。 日本人が聴いたら「そんなことはない!それは偏見だ!」と怒り出してしまうかもしれないが、英語人にとっては、少なくともわし友達であるような英語人にとっては、日本は先ず第一に「日本文学」の国で、その他ではない。 マンガの国ですらない。 セーラーメルセデスという、日本語ツイッタでも英語人と話してもいいか、という企図で生まれた日本語ツイッタ上の日本語を話さない友だちという不思議な存在の友達は、アニメが好きで、セーラームーンに狂って、日本へ行って、ゴジラがビルの屋上から顔を出している、歌舞伎町のど真ん中にあるホテルに泊まって、日本を堪能して帰ってきた。 このひとは谷崎や三島には、なんの興味もなくて、最近年になって生じたタイプの日本ファンだが、圧倒的多数は、源氏物語くらいを初めとする日本文学が好きな人です。 言わずもがなのことを述べておくと、「日本文学」は日本語で書かれた文学という意味ではなくて、普遍性を持つ文学の、いちジャンルの名前です。 こういうことを言うとスウェーデン人は烈火のごとく怒るのは判っているが、 スウェーデン語で書かれたすぐれた文学(例:Flickan som lekte med elden) は存在しても「スウェディッシュ文学」と呼べる文学上のジャンルは存在しない。 読む人の人口が二桁少ないとは言っても、日本文学は英文学やドイツ文学、ロシア文学、フランス文学と肩を並べる、いわばルートディレクトリに並ぶディレクトリ群の名前であって、タゴールを初めとする天才文学者が綺羅星のように並んで、読書人口も日本文学より遙かに多いベンガル文学ですらも、日本文学よりはいちだん下のサブディレクトリに属するのだ、というようなことは、めんどくさいのでここでは詳述しないが、まともな大学で文学を専攻した人間ならば皆しっていることだと思います。 この普遍性の淵源は、平安時代の宮中で、綿々と書かれた平仮名文学、紫式部の源氏物語や清少納言の枕草紙、多分、日本でよりも海外での評価のほうが遙かに高い 蜻蛉日記、あるいは大庭亀夫先生が熱狂的なファンであると言われている和泉式部日記くらいに始まって、もう何回繰り返して読んだろう、俊頼髄脳や、芭蕉を経て、近代文学まで保持している日本文学は、ほかの言語が持てなかった文学的感性に満ちていて、来週、日本を訪ねるアフリカ系友もそうだが、日本の価値=日本文学なのであると思います。 トヨタのクルマの出来がどんなによくたって、そんなこと、どうでもいいのよ。 チビガキのときに盛大にチヤホヤされて、いい思い出しかない日本にわしが立ち戻ることにしたのも、それが理由で、日本文学が理由であって、ほかに理由があったわけではない。 日本語インターネットと付き合っていると、日本が先進国であるかどうかや、世界の人が日本をどう見ているかや、日本はイギリスに較べて進んでいる劣っているうんぬんかんねん、最近の読み方に拠れば、でんでんでん、で、まるでピントが外れた論議がいつものマヌケなトロルおじさんたちの顔ぶれで進められているが、日本人でないわしにはそんなことはどーでもよいことで、というか日本人であったとしても、どうでもいいとおもうはずのことで、現に、ナイジェリア人の友達と会っていて、ナイジェリアよりもイギリスのほうが優れた国だから、わしのほうが偉いよね、と考えることはないし、仮にあったら、狂人であると思われる。 勇躍、マキオカシスターズの国にやってきただけのことで、ここまで、そーゆー場では日本語を使っていたこともあって日本人風な言い方に終始してきたが、この辺りで明瞭にしておくと、日本に若いときから住んでいる欧州人の代表として、今年90歳になるドイツ人ばーちゃんに訊いても、82歳のフランス人ばーちゃんに訊いても、「ガメ、日本が文明国だったことはいちどもないぞ。小津映画とかにかぶれて、むかしは日本にも文明があったのだという寄稿を見たが、あんなオオウソを書くとは見損なった。思い込みだけで文明が存在したことがない国に文明があったと書かれると、後生は迷惑である」と言われただけだった。 ばーちゃんたち。 では、なぜ野蛮に終始して、非人間的な社会しかつくれなかった言語族が固有で普遍的な文学を持てたのか、が、わしがまだ日本語に拘泥している理由なのです。 わしは、もう小津のウソを知っている。 小津の映画に出てくる「中流家庭」など、日本にはいちども存在しなかったことを知っている。 しかも、わしは日本語が人並み外れて、想像を絶して出来たので(←自分で言っている)、それも常軌を逸して、あまりに日本語が巧みなのでニセガイジンと言われるほど出来たので、(ここで余計なことをいうと あのニセガイジン騒動の煽動者たち、@buveryや、能川元一、菅野完といった人たちは、考えてみると、わし日本語が彼らの想像を絶して巧みなのは理解できるのに英語のほうは自分たちの英語能力がダメなので、それが英語母語人でなければ書けるわけがない英語だということのほうは判らなかったのであるというだけのことであったらしい。このあいだの英語人の指摘で判った) どんどん日本語のタマシイみたいなところまで入りこんでいって、日本の人の心性のぶっくらこくような野蛮さ、救い難い非文明性も知っているとおもう。 今住んでいるニュージーランドで見ていても、香港人や沿岸中国人のほうが日本系のひとびとよりも遙かに親切で、偏見をもたない点においても文明度が高い。 英語人の東アジア人に対する(漠然とした話だが)文明度評価も、香港人>台湾人>韓国人>日本人であると思います。 わしガキの頃は、まだ、かーちゃんシスターが日本人と結婚しているのだというと、一瞬絶句したあとで、「まあ、日本人はアジア人のなかでは、まだいちばんマシだからな」と述べていたりしたが、いまはそういう言い方は、よほどアジア人が嫌いな人でも非現実的なのでしなくなっている。 だから、こういうことなんですよ。 きみに言われなくても、いまではわしも日本人は社会として文明など持ったことはないと認めざるをえないが、では、 なぜ日本人は独自で、しかも普遍性がある文学を持ちえたのか? … Continue reading

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北極星2型

少なくとも北極星2型のほうはアメリカや日本を挑発しているのではなくて単純に量産型のミサイルに必要なテストを行っているにしかすぎないように見えます。 ツイッタで書いたとおり #DPRK missile1 Successful cold launch2 Solid fuel3 Compact nuclear warhead4 Mobile launcher 5 Target is Japanhttps://t.co/hwh8QCZg3x — James F. (@gamayauber01) May 21, 2017 で現状の北朝鮮の国力で量産できるミサイルのデザインはほとんどこれしかないというデザインに沿って、少数部品、安価、高確実性・安定性のミサイルを設計して必要な諸条件をついにクリアしてしまった。 その最終点検が5月21日の打ち上げということでしょう。 北朝鮮の北極星2型は裾野のない北朝鮮技術世界のなかで、ちょうど日本の零戦のように、ビンボな国家財政、低い工作力、歪な材料工学、…というような拾いあげられるものが少ない社会のなかで、拾えるだけのものを拾って傑作兵器をつくりあげるという快挙が生んだミサイルだと言ってもよいとおもう。 作った人は、マストドンで教えてくれた人がいて、キムジョンシクという人だそうでした。 教えてもらった名前を頼りに日本語検索をかけてみると、 なんだか、よくわからないセレブサイトみたいなサイトに記事が出ている。 http://yuumeijin-shokai.com/kimu-jon-shiku-2295 零戦の時代の日本の工業力がどのくらいお粗末なものだったかというと、高速で回転する金属をちゃんと受け止められるベアリングがもうつくれなかった。 当時、最も高いベアリング技術を持っていたのは同盟国であるナチのドイツだったが、教えてもらえなかったのでしょう、日本はベアリングの歩留まりが悪いので有名な国で、QC自体を職人芸に頼っていたので、職人たちが徴兵されてゆくと、女子学生たちが作ったエンジンがどんどん焼き付いて、使いものにならない航空エンジンが量産されることになっていった。 堀越二郎技師の最も偉いところは、日本の工業技術を見渡して、最も「使える」部分を組み合わせて零戦を作って行ったところで、いまから振り返る人は「当たり前じゃないか」と言うかもしれないが、例えば液冷式は当初から一顧だにしなかった。 自社製の金星エンジンよりも中島飛行機製の栄エンジンの採用を強く主張したことでも判るとおり、自社のエンジンラインアップに液冷がなかったからではなくて、 日本の工作技術の程度の低さを熟知していた堀越技師は構造が複雑で部品点数が多く、一個の不良部品が全体のエンジントラブルを引き起こしやすい液冷エンジンを採用するわけにはいかなかった。 ドイツ系の技術は、いまでもそうだが、技師が実現しようとする高いレベルの性能に到達するために、極めて複雑なシステムをデザインしてしまう、という欠点を持っている。 ポルシェがつくった超重戦車マウス https://en.wikipedia.org/wiki/Panzer_VIII_MausContinue reading

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Lloyd Geering

「言葉も進化してきたのだ」と言う。 「言葉が進化したことによって、神も進化してきたということができる」 「人間の言葉はつまり神の言葉だからね。言葉が進化すると、神も進化する」 と話していて、聴いていると、まるで大庭亀夫の茶飲み話を聴いているようです。 今年99歳になったLloyd Geeringは believe in という表現を例に挙げて、自分が子供の頃 は、I believe in the devilということは出来なかったが、昨今の英語では言いうるようになった、と述べて、その用例変化をもとに、巧妙な宗教論を展開している。 日本では、神や悪魔について述べている人を発見すると、「まず神の存在を信じるような中二病をなおせよwww」と悪態をついて嘲笑するおじさんたちがイナゴのように湧いてくることになっていて、わしも何度も被害にあっている。 (英語世界が、この手の、日本語人の世界を覆っている、程度の悪い、なんとも名状しがたいくだらなさから自由であるのを感謝する) この人達が理解していないのは、自分たちの使っている 近代日本語が、西洋語の模倣によって組み直した言語にしかすぎなくて、もともとの神を前提としていないですんでいた日本語とは異なっていて、神という概念を検討しないまま言語を使っていると、真理性のない堂々巡りに満ちた、洞窟のなかの木霊のような言語に解体されるほかに運命がないということで、そういう事情は、飛行機が飛行できる原理をしらなくてもビジネスクラスチケットを買って太平洋を飛び越えたり、征服者に投げ与えられた民主制を民主主義と改名して、まったく原理を理解しないまま訓詁的に制度を運用して、「選挙があるのだから通りにでて叫ぶような非民主的なことをすべきでない」というような抱腹絶倒な珍説をおおまじめに述べる人がでたりする事情と似ている。 もしかすると、中空にかかる月がなぜ地上に向かって落ちてこないかを説明できないのに月を眺めていても心に騒擾を感じない人とも似ているかもしれません。 言語の成立自体が神の絶対性を前提としているのに神の存在を迷妄だと嘲笑するのはバカげているだけではなくて致命的な理屈のうえでの矛盾であることが判らないとのは、考えてみると、息をのむような愚かさで、そのくらい愚かであると、「えええー?神を仮定しないと言語はばらけちゃうんですか?じゃあ、神様の存在を便宜上仮定するしかないですね」というようなことすら言い出しかねない。 同様に、「日本は八百万の神で…」という人も、いつもたくさん登場するが、やおよろずであれば、それは神ではなくて精霊にしかすぎない。 神の絶対性は「神は論理のなかの、ここにいる」と指させないことと同様に、ゆいいつであることによって保障されているからで、こういうと「それは西洋の神に限られた話で」と脳天気な言い逃れをする人が必ず出てくるのも日本語の特徴だが、 その言い逃れを成就させるためには、基本的に西洋文脈の翻訳語である現代日本語を全部ぶち捨てて、まったく新しい、復古的な日本語を明治以前にもどって再構築するのでなければ、言語としてつかいものにならなくて、現に、その神を前提とした言語を神を否定しながら使うことによって生じている現代日本語の頽廃は、まさに無理な前提を無視するケーハクによって生じている。 ロジャー・ベーコンが「危険思想家」であったのは、スコラ的な文脈の迷妄に陥っていた欧州の頑迷さのせいだけではない。 ロジャー・ベーコンがフランシスコ会に断罪されたのは、当時の経緯を読めばわかるが、スコラ的な真実性の保証のなかで言語を使用していた中世人たちが、ほとんど本能的に言語の真実性が危機に瀕することを見てとったからだった。 当時は現実の観察にもとづく帰納的な結論のだしかたは、すべからくアラブ的な考えとみなされたので、ロジャー・ベーコンが着た汚名は「アラブ的な考えの持ち主」だったが、人間の意識そのものである言葉よりも、肉体の諸感覚、特に目に信頼をおくアラブ的な先進思考を忌んだ中世人の思想には、現実は相対的な真実にしかすぎないという強い信念が感じられる。 1945年8月7日、ニュージーランドのド田舎、ワイタキの日用雑貨品店に買い物に行ったLloyd Geeringじーちゃんは、顔見知りの店のおやじが、なんだかえらい勢いで怒っているので、ぶっくらこいてしまう。 「なんの罪もなく、無力なヒロシマ人を原爆で殺すなんて、いったいアメリカ人はどういう了簡なんだ! あいつらは悪魔か! あれでも人間か!!」と言って、すさまじい怒りかただったそうで、Lloyd Geeringは、「あとにも先にもあんなに怒っている人間というものを見たことがない」と述べる。 Geeringの観察は、ここでも卓抜で、ふだんは町のひとびとと日本人がアジア各地や捕虜収容所で繰り広げる、正に「悪魔的」な所業について憤慨しあっている、初等教育しか受けていない店のおやじを原爆を人間が蝟集する都市に落とすことを決定したアメリカの為政者に対するfuryに駆りたてたものが、真実性に裏打ちされた言語にほかならなくて、その言語の真実性を保証しているものが神の絶対性であることを巧妙に語り尽くしてゆく。 ここまで読んできて、気がついた人も多いとおもうが、実はGeeringは日本語世界から完全に欠落していて、その欠落ゆえに日本語全体が瘴気に冒されることになった言語への認識を、ひとりで体現しているようなところがある。 日本語をここまで腐らせてしまったのは、日本人が戦後、ごくごく気楽に実行してしまった「言及することができない絶対=神」の否定にほかならないが、なぜ絶対を否定すると、言語自体が病んでゆくのかをGeeringほど明快に説明できる人はいない。 今晩は、欧州やアメリカからやってきた友達たちとチョー酔っ払って帰ってきたので、これから説明にとりかかるようなめんどくさいことはしないが、いつか、日本語人の友達たちと、というのはつまりこれを読んでいるひとびとと議論ができることを願っています。

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Why me?

アオテアスクエアを横切って、きみに会いに行くんだよ。 モニさんと一緒にね。 なにもかもがデタラメだったマンハッタン時代の話をしに。 きみはあの頃、コカインのパイプが床に転がっているイーストビレッジの部屋で、 新しいものはもう古いのだと訳の判らないことをつぶやきながらシェークスピアに読み耽っていた。 おぼえているかい? きみは、シェークスピアを「読んで」いたんだぜ。 ぼくは後にも先にも、あんなヘンな読書の習慣を持った人間を見たことはない。 きみは、あの頃コカイン代を稼がねばならない焦慮に駆られて一心に原稿を書いていた。 ときどきコカインがさめて、正気に返ると、電話をかけてきて、あのウクライナ人たちのカフェで会って、夜が白んでくるまでブンガクの話をした。 五月は友達たちが集まる月で、アイルランド人のMもオークランドに来ているのさ。 昨日は酔っ払ってテラスから花火を打ち上げていたって。 警察から電話がかかってきて、 「ガメ、この人、頭がおかしいのかもしれないけど、きみの知り合いだっていうんだよ。 きみに電話をかけない場合は、国際外交問題に発展するぞ、と荒唐無稽なことをいうんだけど、驚いたことにきみの電話番号を知っていたものだから…」 アオテアスクエアを横切って、きみに会いに行くんだよ。 モニさんと一緒にね。 Mとも落ち合って、Mが得意な、Mがいたダブリンの精神病院のいかれた話を聞こうよ。 昨晩はMはわざわざロンドンに電話をかけて、 ガメがタコ焼きという食べ物がおいしいと主張するので、食べてみたら、死ぬほどまずい食べ物で、おまけにほんとうにタコが入っていて、わたしの魂は穢れてしまった、と述べていたって。 もう、みんな30歳をすぎているのに、中空に浮遊するもののけのように生きていて、足が地につかない。 なんだかマジメな顔をして戸口に立っているけど、よく見ると、足下が地面から30センチくらい浮いているんだよ。 ぼくの友達は、十代の頃から、そんな人間ばかりだったような気がする。 アオテアスクエアを横切って、きみに会いに行くんだよ。 モニさんも一緒にね。 Pが死んだときには、ロンドンからニューヨークからダブリンから、もののけたちが集まってきて、ぼくたちのなかでは誰よりも人間らしかったPを悼んだ。 Pは珍しくたくさん入ってきたオカネに浮かれて、特級品のヘロインを買ってきたのはいいが、あいつ、高価なヘロインは純度が高くて、いつもの半分以下の量にしなければ致死量になってしまうのを忘れていたらしい。 太陽がのぼるころには、Pはロサンジェルスのホテルの部屋で冷たくなっていた。 なんの努力もなくPの人間とはおもえないくらい美しい肉体が(苦もなく)維持されていたのは、おどろくべきことだとおもわないか。 生命が失われれば、あっというまに腐った肉になって、うみ崩れて、形を失うあの肉体は、Pが生きているあいだは、薔薇色の頬と、輝く金髪と、透きとおってゆく冬の北欧の空のように灰色の眼をもっていた。 きみが気に入ったと述べていたマレーシア料理屋は、言うと怒るかもだけど、あれ、チェーン店なんだぜ。 オーストラリアなんかにもたくさんあって、若い人たちに人気がある店なんだよ。 「あなたはヒアシンスの花束を抱えて雨の中に立っていた」 「ぐっしょり濡れて、捨てられた仔犬のように、寒さに震えていた」 もう、どうだっていいんだけど。 (アオテアスクエアを横切って、きみに会いに行くんだよ。 モニさんも一緒にね) あるとき、きみは夜明けの頃に電話をかけてきて言うんだ。 「空も地面も、ぼくを拒否している! いったい、この世界のどこにぼくの居場所があるというのだろう! … Continue reading

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昭和様

軽井沢会テニスコートは、イギリスならば、コミュニティのテニスコートとしてもオンボロで、日本の人の質素を尊ぶ美学のあらわれというか、貧相なクラブハウスのある、金網に囲まれたテニスコートで、わし夏の家からだと、ゴルフ橋をわたって、フランスベーカリーや浅野屋がある軽井沢銀座を横切って、オノヨーコが毎夏ジョンレノンと滞在していた父親の家のほうへ少し歩いたところにある。 すぐ近くに室生犀星の別荘があって、よい状態のまま保存されていて、このわし趣味の家をみるためにときどき散歩にでかけたのをおぼえている。 今上天皇明仁と美智子皇后が出会ったのは、このテニスコートで、日本の天皇家の質素の伝統には頭がさがるというか、万事贅沢好みの英王室とはエライ違いで、少しは学習しろよな、ばーちゃん、とおもわなくもないが、あの頑固で闊達なばーちゃんに何を言っても聴いてもらえないのはわかりきったことなので、国民としては、あるものはあるままに受けいれるしかないだろう。 なにしろ、軽井沢が出会いの町で、そのあとも、毎夏軽井沢にやってきていたので、なあああんとなく天皇家の別荘が軽井沢にあるような気がするが、伝統はスコットランド人がつくった町である軽井沢を避けて、千ヶ滝のプリンスホテルに逗留することになっていた。 東京ではニコラスのような当時としてはウルトラモダンな場所をデートの場所として好んだが、軽井沢では、軽井沢会のじーちゃんやばーちゃんたちと、これもボロボロな建物の二階にある三笠会館で愉快に話ながら昼食を摂ったりしていた。 軽井沢の地元の人間には、横柄な人柄と決まりというものをまるで守れないだらしのない性格とで蛇蝎のように嫌われている秋篠宮とは180度異なって、たいへん評判のよい人のようです。 マストドンで「昭和様」という呼び方が話題になっていて、読んでいると、「違和感があるが、その違和感の正体がうまくつかめない」ということのようでした。 へえ、と思って読み進んでいるうちに、昭和天皇についてのあれこれを思い出したので、忘れないうちに書いておくのもいいかもしれない、と考えて書いているが、良い考えなのかダメ考えなのかは、記事を書き終わらないと判らない。 昭和様、という呼び方自体は、明治天皇が崩御して、大正になり昭和になって、明治生まれで、明治の時代に育ったひとびとが、あとにも先にもただひとりの天皇らしい天皇であった明治天皇をなつかしんで「明治様」と呼び、今上である昭和天皇は、自分達の天皇であるという実感が湧かないので「今上陛下」と呼んでいたことの平成版だろう。 江藤淳の母親が、日本の敗戦が決まったとき、ふだんは政治のことを述べないのに、吐き捨てるように、 「こんなことになって、日本をすっかりダメにして、今上は明治様に恥ずかしいとおもわないのか」と言った、というようなことは日本中で見られて、昭和天皇のダメ天皇ぶりを怒ったという記録は至るところにある。 宮内庁は、戦後、上流階級を中心に起こった昭和天皇への軽蔑の風潮を、大衆レベルにまで広げないことに必死で、父親の血をひいて奇矯な振る舞いが多かった昭和天皇の性格を逆手に利用して、学者肌で朴訥な人柄として全面に押し出すことにした。 ちょうど安倍政権における電通にあたる広報世論形成係は、東宮侍従長入江為守を父にもつ入江相政という切れ者の侍従で、この人は筆がたったので、後年には「侍従とパイプ」というベストセラーを書いて、いま流布している、国民おもいの平和を愛好する学者肌の昭和天皇像を固定することになる。 芝居がかった安っぽい英雄像が好きだったダグラス・マッカーサーの臭いがぷんぷんしている昭和天皇との初会見への証言 「自分は処刑されてもよいから国民を助けてくれ」は、当時、国際コミンテルンの支配下にあった日本共産党を中心として日本人のあいだでも強かった天皇処刑論をかわすために、現実の発言の言い方を工夫して変えてGHQと日本政府がつくりあげた作り話だろうが、国民を感動させることに成功して、昭和天皇の象徴の座をゆるぎないものにした。 日本の皇室の伝統は、「責任をもたないこと」で、これだけは、奈良時代から終始一貫している。政治的な情勢の一方に荷担して、その勢力が運つたなく敗北を喫すると皇室の責任が問われて、そこで皇統が絶たれてしまうからで、万世一系で、神武天皇から綿々とおなじ血統で営業してきたという血の永続性が一枚看板の天皇家としては、なにごとによらず責任をもつようなとんでもない跳ねっ返りはやるわけにはいかなかった。 当然の帰結として政治に積極的に容喙するのは天皇家にとってのタブーで、特に西園寺公望が英王室のありかたというようなことを述べなくても昭和天皇は、皇室として政治判断を示すことが家としての禁忌であることをよく知っていたはずです。 13世紀の1221年には、承久の乱ということがあって、当時の後鳥羽上皇は、皇室の人間としては異例なことに憎み嫌っていた北条義時を倒すために西国の侍を糾合して鎌倉に攻め上る内戦を起こす。 これが天皇家が自発意志で重要な政治的行動を決定した殆どゆいいつの例外で、 後年の錦の御旗ですら有効であったように、誰の目から見ても皇室に手向かえるものはあるはずはなくて、上皇の不戦勝であるとおもわれたのが、英雄北条政子の日本の歴史にチョー有名な 皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。 という言葉の力によって、勇奮、西に向かって殺到した鎌倉武士たちによって、あえなく企図は挫折して、あろうことか、下地のものに皇室が惨敗する結果になる。 このときの後鳥羽上皇の、命からがら続々と落ち延びてきた西国武者たちへの冷淡さは有名で、「おまえたちが勝手にやったことではないか。俺の知ったことではない。自分を頼られるのは迷惑しごくだから、さっさと門の前を立ち去れ」と言う。 その結果ある者は栂尾を頼り、あるいは河原で惨殺されて、日本の歴史に皇家を信用した場合、うまくいかないとどんなことになるかという、良いお手本をつくることになった。 天皇が悪人であるとか善人であるとかは、どうでもよいことで、天皇家が日本の歴史で 果たしてきたふたつの役割、ひとつには、民族感情の底深いところで基調底音をなして、日本人というものそのものの殆ど意識されないアイデンティティであること、ふたつには国家の休止中の機関として、一朝ことがあれば、再び全力で始動して、いまの天然全体主義が、明瞭に形を顕した全体主義となったときの、国民を情緒的に圧倒的に服従させるための機能を持つことと、そのふたつのみが天皇家を考えるときには重要でしょう。 昭和天皇の現実の言動には、入江相政たちが吟味して、地下(じげ)の者にも判りやすい、誤解がないものばかりが伝えられているが、日本のふつーな人間が怒りで青ざめそうなものが多くある。 帝王学、というが、西郷隆盛が実質の侍従長をつとめた後の近代天皇家の教育は帝王をつくるためにあって、「良い人」をつくるためにあったわけではありませんでした。 日本の皇室に特徴的なことですらなくて、王室という王室は、北欧の「開かれた王室」であってすら芯のところでは帝王学たることを変えていない。 いまの今上陛下は、若いときには、その「帝王教育」の部分に激しい反発を示した人で、沖縄二紙の購読に固執して昭和天皇を激怒させた逸話に見られる昭和天皇との確執は、他国の上流階級人ですら知悉している。 いま「明治様」にかわって「昭和様」という言い方が生まれたと聞いて、なるほどなあ、という間の抜けた感想をもちます。 昭和様という昭和天皇への愛慕の念をこめた呼び方には、アジア人からみると、日本がほとんどアジア全土でおこなった侵略や虐殺、女たちの性奴隷化、男たちの強制労働と使い捨てへの強い肯定を含んでいる。 日本人側からすると、この25年、坂道を転げ落ちるように落ちてきた民族の自信の低下から抜け出そうという必死の試みのひとつなのでしょう。 昨日も、豪州人ルークのツイッタTLに遊びに行ったら、もう当然のようにわしを「反日ガイジン」と呼んでいる人がいて、なんだまたニセガイジンから反日ガイジンに戻ったのか、と可笑しかったが、「昭和様」を思慕する日本の人たちが、どんどん力をつけてゆくアジアのなかで、どんな未来をつくっていくのか、まだまだ興味がつきないよね、と考えました。 また、戦争をやるのかしら? それとも「日本は素晴らしい」の妄想に自閉して籠もってゆくのか。 いずれにしても歴史には稀な国としての行き方で、おもしろいなあ、と思います。

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再び開かれた核戦争へのドア

*この記事の燃料種別の部分は北朝鮮ミサイルについて最も信頼されているDr. Jonathan McDowellの考察に従って書かれている。 鬱陶しいので消してしまったが、ここに書かれていたupdateで述べたとおりNASA研究者系(固形燃料)と韓国国防省系(液体燃料)で意見が分かれていた燃料種別は、その後、だんだん液体燃料のKN-17だろうということに落ち着いてきたよーです。 固形燃料は日本標的に特化して別シリーズになっているらしい。こちらも技術が完成して大気圏再突入の実験がうまくいくかどうかだけの段階らしいので、ま、記事はここにそのまま置いておきます。 余計なことを書くと古い知識に基づいて「〜に決まってる」という専門家ふうの断言コメントが両方の側でいっぱい来たのに驚いた。 自分の国の運命がかかっていることに競馬予想屋なみの言辞を述べたがる人が多いので笑ってしまった。 日本の病気は根が深いようです。   —————————————————————————————————————————————     Hwasing-12という。 Hwasingって、「火星」という意味なんだって、と誰かが述べていた。 화성って、読みをアルファベットで表すとhwaseong じゃないんだっけ?と韓国語初学者は思ったが、ほんとはどっちでもおなじことで、そういう訓詁的な質問をするのはみっともないので、なんとなくうやむやに納得することになってしまった。 北朝鮮が5月14日に発射実験に成功したミサイルには大きな意味がある。 日本にとっては、 1 日本を核攻撃するために小型核弾頭を開発しなくてもよくなった。 あくまで、大量に在庫を持っていて、いわば安上がりな改良型スカッドで攻撃するために核弾頭の小型化を懸命に進めていくだろうが、推力からみて、日本に対してならば旧弊な大型核弾頭でもミサイルに搭載できるようになった。 2 固形燃料なので、パーツが少なく、メインテナンスが簡単で、いままで以上に移動性、隠蔽性が強くなった。 固形燃料ロケットは、むかし糸川博士が率いる日本の宇宙ロケットチームが固執した技術で、有名なミューロケットを初め、糸川系の技術が日本の宇宙開発を支配していたあいだは、ずっとこれにしがみついていた。 結局、技術上の難点が克服できずに日本人は諦めてしまったが、有名な例だと、たとえばスペースシャトルの打ち上げロケット(SRB)がこれで、それでもなおチャレンジャーのように好い加減な工作をすれば,爆発するが、基本的には液体燃料よりもずっと簡便で、故障も少なく、安価で、大量生産に向いている。 北朝鮮側からすれば劃期的な技術革新で、多分、次の軍備ステップへのビジョンとしては、大量生産された固形燃料ロケット筐体に、やはり大量生産の小型核弾頭を搭載することでしょう。 3 2000kmへの上昇能力を見せることによって、イージスミサイル防衛網を無力化することに成功した。 THAAD、イージス、パトリオットのアメリカ合衆国推奨三段防衛網のうち、THAADは未知数なうえに技術人や元国防長官の「ゴミ技術。カネのむだ」という証言があったりして、「ほんとうは単なる対中国情報収集ネットワークなんじゃないの?」の声がおおきくなっているが、それを別にしても成層圏を飛来するミサイルに現実に対応できそうなのはイージスシステムだけで、それが理由で日本は現在保有しているイージス艦と日本海を遊弋するアメリカ軍のイージス艦に加えて日本海の海岸線に「イージス・アショア」つまり艦載のイージス管制を地上施設に移したイージスシステムを数カ所つくろうとしている。 ところが、日本語ニュースでも「ロフテッド軌道」と健気に報道しているが、ロフテッド軌道で打ち上げてみせることの意味は、日本に対して「イージスじゃ、もうわれわれのミサイルを迎撃するのは無理なのね」と伝えることにある。 報道をみると、角度を変えれば4500kmとんで、グアムに届くことの意義を強調しているが、それは政治的意義にしかすぎない。 真の意味は、アメリカ軍と日本軍(旧自衛隊)が北朝鮮のHwasing-12に対して何の対抗手段ももたないことを悟ったことで、従来の防衛体制は、ここで、「ダイジョブなふり」をするだけの、お飾り防衛になってしまった。 アメリカ側は「われわれは北朝鮮をみくびりすぎた」と声明をだしてみたり、ひらたく述べてパニクっているが、では驚天動地周章狼狽のあとに、どんな対抗策があるかというと、「なんにもない」が答えで、中国と語らっておおきな政治的妥協におもいきって踏み切って、少しでもそれが中国の弱腰に見えるように持っていくくらいしかトランプ政権には方策が残っていない。 トランプのいつもの反応だと、ここで激しく中国を、あることないことをすべて動員してワルモノにしたいところだが、どうやら娘婿を通じてすさまじい利権と資金を手にしたのと、ブリーフィングの結果、真剣に本格的な戦争をやると、当初の素人らしい思い込みと異なって、ほぼ人民解放軍の完勝に終わるのがわかって、中国をワルモノにして、最近の傾向ではGOサインが出ればいつでも日本とアメリカに躍りかかってかみつこうと猛っている人民解放軍の手綱を中南海に放されでもしたら、いちかばちか、西太平洋全体の支配をあきらめならなくなるので、それも叶わない。 アメリカの報道が伝えるよりも遙かに知的な人間であるらしい若い独裁者の金正恩は、おとなしく核を持たないでいたサダム・フセインやニコライ・チャウシェスクがどうなったか熟知している。 特にイラク独裁政権の運命は細部に至るまで調べて見た痕跡があって、その結果うみだした方針が、軽業的なオポチュニストだった父親の金正日と、ほとんど180度転換した、祖父の金日成を念頭においた理念による支配であり、大国を相手に一歩もひかない強気の外交方針で、そのパワーの中心に核戦力をおいてきたが、いまの時点では、アメリカや中国やロシアの思惑を遙かに越えて、試みに成功して、完勝している。 今回の固形燃料ミサイルの打ち上げの成功は、例えば技術的にもさまざまな(アメリカと中国にとっては)衝撃的な意味があって、液体燃料ミサイルの打ち上げが成功しても実戦でのミサイル打ち上げが安定的にうまくいくかというと、そうでもなくて、長い経験と実績の積み重ねがいるのはナチのV2ミサイル以来、ミサイル技術に関心がある人間ならば誰でも知っている常識中の常識で、アメリカや中国やロシアが北朝鮮が大陸間弾道弾ミサイルの打ち上げに成功しても、「まだまだ時間はある」とのんびりしていられたのも、そのせいだが、 固形燃料ロケットは、いったん打ち上げに成功できる型ができると、液体燃料ロケットとは比較にならない安定度で実用化できる。 実用化できる、というよりも現に実用化してしまったので、推力のおおきさから推察する搭載弾頭のおおきさから考えて、例えば日本にある標的へなら「いつでも核を送り込める」状態になったといえます。 このブログや、むかしは親切心をだして日本語で書いて、喧嘩ばかりしているわし友物理学者のオダキン先生やなんかと公開議論を繰り返して情報を交換して、衆知を集めようとして、場が出来かけていたツイッタで何度も繰り返し確認されていたとおり「小型核弾頭の開発に成功するかどうかが鍵」であったのが、大型弾頭でも大丈夫なことになってしまったので、なんのことはない北朝鮮が絶対の優位に立ってしまった。 みなで衆知を集めて、なんだか途方もなくいいかげんでインチキな政府やマスメディアのデタラメ告知に対抗しようとする試みは、しつこいトロルと桁外れに程度が低い議論を平然と自分のほうが賢いような顔をしてふきかけてきては、こちらの時間を浪費させて、すべての議論をスタートラインに押し戻して、日本社会が大得意の堂々めぐりに囲い込んでしまう無数におもえるアンポンタン人のせいで、うんざりさせられてやめたので、誰かまだ日本人を救う志がある人が勝手にやればいいが、仮にそういう努力をどこかのコミュニティが行っても、その努力と衆知全体を吹き飛ばしてしまうくらいの安定した核のパワーを北朝鮮はもうすぐ獲得する。 2050年という、政治の世界では無限遠点に近い未来を想定すると、多分、朝鮮半島は、いまはボイコット運動まで展開して個々の国民レベルでいがみあっていて、歴史的にも仲がいいとは到底いいえない韓国と中国の共同のパワーによる半島統一がなされているはずだったが、金正恩の意外な指導者/独裁者としての優秀さで、ゆいいつの安定点統一朝鮮の成立は、また少し遠くなって、その代わりに2017年を起点とする長い渾沌が日本と朝鮮半島を支配しそうな雲行きになってきた。 最も政治的に脆弱と見られてきた台湾が当該地域では安定していきそうなのが国際政治のおもしろさだが、それはともかく、日本は(良い言い方ではないが)不治の癌を抱え込んだ状態になったのが傍目には明らかです。 … Continue reading

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