Lloyd Geering

「言葉も進化してきたのだ」と言う。
「言葉が進化したことによって、神も進化してきたということができる」
「人間の言葉はつまり神の言葉だからね。言葉が進化すると、神も進化する」
と話していて、聴いていると、まるで大庭亀夫の茶飲み話を聴いているようです。

今年99歳になったLloyd Geeringは believe in という表現を例に挙げて、自分が子供の頃 は、I believe in the devilということは出来なかったが、昨今の英語では言いうるようになった、と述べて、その用例変化をもとに、巧妙な宗教論を展開している。

日本では、神や悪魔について述べている人を発見すると、「まず神の存在を信じるような中二病をなおせよwww」と悪態をついて嘲笑するおじさんたちがイナゴのように湧いてくることになっていて、わしも何度も被害にあっている。

(英語世界が、この手の、日本語人の世界を覆っている、程度の悪い、なんとも名状しがたいくだらなさから自由であるのを感謝する)

この人達が理解していないのは、自分たちの使っている 近代日本語が、西洋語の模倣によって組み直した言語にしかすぎなくて、もともとの神を前提としていないですんでいた日本語とは異なっていて、神という概念を検討しないまま言語を使っていると、真理性のない堂々巡りに満ちた、洞窟のなかの木霊のような言語に解体されるほかに運命がないということで、そういう事情は、飛行機が飛行できる原理をしらなくてもビジネスクラスチケットを買って太平洋を飛び越えたり、征服者に投げ与えられた民主制を民主主義と改名して、まったく原理を理解しないまま訓詁的に制度を運用して、「選挙があるのだから通りにでて叫ぶような非民主的なことをすべきでない」というような抱腹絶倒な珍説をおおまじめに述べる人がでたりする事情と似ている。
もしかすると、中空にかかる月がなぜ地上に向かって落ちてこないかを説明できないのに月を眺めていても心に騒擾を感じない人とも似ているかもしれません。

言語の成立自体が神の絶対性を前提としているのに神の存在を迷妄だと嘲笑するのはバカげているだけではなくて致命的な理屈のうえでの矛盾であることが判らないとのは、考えてみると、息をのむような愚かさで、そのくらい愚かであると、「えええー?神を仮定しないと言語はばらけちゃうんですか?じゃあ、神様の存在を便宜上仮定するしかないですね」というようなことすら言い出しかねない。

同様に、「日本は八百万の神で…」という人も、いつもたくさん登場するが、やおよろずであれば、それは神ではなくて精霊にしかすぎない。
神の絶対性は「神は論理のなかの、ここにいる」と指させないことと同様に、ゆいいつであることによって保障されているからで、こういうと「それは西洋の神に限られた話で」と脳天気な言い逃れをする人が必ず出てくるのも日本語の特徴だが、
その言い逃れを成就させるためには、基本的に西洋文脈の翻訳語である現代日本語を全部ぶち捨てて、まったく新しい、復古的な日本語を明治以前にもどって再構築するのでなければ、言語としてつかいものにならなくて、現に、その神を前提とした言語を神を否定しながら使うことによって生じている現代日本語の頽廃は、まさに無理な前提を無視するケーハクによって生じている。

ロジャー・ベーコンが「危険思想家」であったのは、スコラ的な文脈の迷妄に陥っていた欧州の頑迷さのせいだけではない。

ロジャー・ベーコンがフランシスコ会に断罪されたのは、当時の経緯を読めばわかるが、スコラ的な真実性の保証のなかで言語を使用していた中世人たちが、ほとんど本能的に言語の真実性が危機に瀕することを見てとったからだった。
当時は現実の観察にもとづく帰納的な結論のだしかたは、すべからくアラブ的な考えとみなされたので、ロジャー・ベーコンが着た汚名は「アラブ的な考えの持ち主」だったが、人間の意識そのものである言葉よりも、肉体の諸感覚、特に目に信頼をおくアラブ的な先進思考を忌んだ中世人の思想には、現実は相対的な真実にしかすぎないという強い信念が感じられる。

1945年8月7日、ニュージーランドのド田舎、ワイタキの日用雑貨品店に買い物に行ったLloyd Geeringじーちゃんは、顔見知りの店のおやじが、なんだかえらい勢いで怒っているので、ぶっくらこいてしまう。

「なんの罪もなく、無力なヒロシマ人を原爆で殺すなんて、いったいアメリカ人はどういう了簡なんだ! あいつらは悪魔か! あれでも人間か!!」と言って、すさまじい怒りかただったそうで、Lloyd Geeringは、「あとにも先にもあんなに怒っている人間というものを見たことがない」と述べる。

Geeringの観察は、ここでも卓抜で、ふだんは町のひとびとと日本人がアジア各地や捕虜収容所で繰り広げる、正に「悪魔的」な所業について憤慨しあっている、初等教育しか受けていない店のおやじを原爆を人間が蝟集する都市に落とすことを決定したアメリカの為政者に対するfuryに駆りたてたものが、真実性に裏打ちされた言語にほかならなくて、その言語の真実性を保証しているものが神の絶対性であることを巧妙に語り尽くしてゆく。

ここまで読んできて、気がついた人も多いとおもうが、実はGeeringは日本語世界から完全に欠落していて、その欠落ゆえに日本語全体が瘴気に冒されることになった言語への認識を、ひとりで体現しているようなところがある。

日本語をここまで腐らせてしまったのは、日本人が戦後、ごくごく気楽に実行してしまった「言及することができない絶対=神」の否定にほかならないが、なぜ絶対を否定すると、言語自体が病んでゆくのかをGeeringほど明快に説明できる人はいない。

今晩は、欧州やアメリカからやってきた友達たちとチョー酔っ払って帰ってきたので、これから説明にとりかかるようなめんどくさいことはしないが、いつか、日本語人の友達たちと、というのはつまりこれを読んでいるひとびとと議論ができることを願っています。

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One Response to Lloyd Geering

  1. S.Yu. says:

    初めて書き込みます。
    神の存在とは、つまり人間として揺るがすことのできない(揺るがしてはならない)
    価値基準のことではないかと思いました。すべての価値を相対化してしまえば
    善悪の概念がそもそも意味を持たなくなる。
    ムシャクシャしてその辺にいる人を片っ端から殺めたとしても少なくとも本人にとっては
    悪にはならない可能性すらある。(本人が罪悪感を感じなければ。)
    絶対的な価値の否定が「あいつもやってる。」「お前はどうなんだ?」的な物言いに
    繋がっているのかも、と思いました。

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