日本文学_0

判らないことだらけだから教えてくれ、という。
まずJRのレイルパスの使える鉄道路線と使えない路線の区別が何によって起こるのかがわからない。
二週間の滞在の半分は日本人の友達が付いていてくれるが、日系企業に勤めた経験から言うと、日本の人はびっくりするような傷付きかたをするので、訊きにくい。
おなじ英語人同士ではガメがいちばん日本のことが判るようなので、訊くことにした。

アフリカ系のスコットランドの人であって、一瞬、人種差別上のことや性差別を心配したが、考えてみると、それは日本を知りすぎているからで、白紙の心のままで日本を訪ねようとしている人に余計なことを述べるのは相手に対してフェアでないので、なにも言わない事にした。
まして「滞在中に起きる可能性は低いが北朝鮮の核ミサイルが飛んでくるかもよ」とは言いません。
自分自身は、それが理由のひとつでストップオーバーで立ち寄るのも嫌だが、来週からの滞在ちゅうにミサイルが降ってくる可能性があるかないか、多分、(ミサイルと核弾頭の量産が始まっていないことや、政治的な緊張の度合いからして)今年中に起きる可能性が5%以下で、来週ならば1%にも満たないミサイル攻撃の危険を述べることには、東京はクルマが多くてヘンな運転をする人間も多いから行くのは危険である、という忠告を与える100分の1も意味がない。

三島由紀夫の墓を見に多磨霊園に行くのだというので、ああ、あそこにはいつか話した与謝野晶子の墓もあるんです。
京都には、きみが大好きな紫式部の墓もあるど、というような話をして、東京では伊東屋で万年筆の在庫のコレクションを見るといい、国立博物館なんかより、出光やブリジストン、原美術館のほうがずっとぼくは好きだったけど、根津美術館もサイコーだとおもう、などと述べているうちに、自分のほうがすっかり日本を思い出して懐かしくなってしまった。

日本人が聴いたら「そんなことはない!それは偏見だ!」と怒り出してしまうかもしれないが、英語人にとっては、少なくともわし友達であるような英語人にとっては、日本は先ず第一に「日本文学」の国で、その他ではない。

マンガの国ですらない。
セーラーメルセデスという、日本語ツイッタでも英語人と話してもいいか、という企図で生まれた日本語ツイッタ上の日本語を話さない友だちという不思議な存在の友達は、アニメが好きで、セーラームーンに狂って、日本へ行って、ゴジラがビルの屋上から顔を出している、歌舞伎町のど真ん中にあるホテルに泊まって、日本を堪能して帰ってきた。

このひとは谷崎や三島には、なんの興味もなくて、最近年になって生じたタイプの日本ファンだが、圧倒的多数は、源氏物語くらいを初めとする日本文学が好きな人です。

言わずもがなのことを述べておくと、「日本文学」は日本語で書かれた文学という意味ではなくて、普遍性を持つ文学の、いちジャンルの名前です。
こういうことを言うとスウェーデン人は烈火のごとく怒るのは判っているが、
スウェーデン語で書かれたすぐれた文学(例:Flickan som lekte med elden)
は存在しても「スウェディッシュ文学」と呼べる文学上のジャンルは存在しない。

読む人の人口が二桁少ないとは言っても、日本文学は英文学やドイツ文学、ロシア文学、フランス文学と肩を並べる、いわばルートディレクトリに並ぶディレクトリ群の名前であって、タゴールを初めとする天才文学者が綺羅星のように並んで、読書人口も日本文学より遙かに多いベンガル文学ですらも、日本文学よりはいちだん下のサブディレクトリに属するのだ、というようなことは、めんどくさいのでここでは詳述しないが、まともな大学で文学を専攻した人間ならば皆しっていることだと思います。

この普遍性の淵源は、平安時代の宮中で、綿々と書かれた平仮名文学、紫式部の源氏物語や清少納言の枕草紙、多分、日本でよりも海外での評価のほうが遙かに高い 蜻蛉日記、あるいは大庭亀夫先生が熱狂的なファンであると言われている和泉式部日記くらいに始まって、もう何回繰り返して読んだろう、俊頼髄脳や、芭蕉を経て、近代文学まで保持している日本文学は、ほかの言語が持てなかった文学的感性に満ちていて、来週、日本を訪ねるアフリカ系友もそうだが、日本の価値=日本文学なのであると思います。

トヨタのクルマの出来がどんなによくたって、そんなこと、どうでもいいのよ。

チビガキのときに盛大にチヤホヤされて、いい思い出しかない日本にわしが立ち戻ることにしたのも、それが理由で、日本文学が理由であって、ほかに理由があったわけではない。

日本語インターネットと付き合っていると、日本が先進国であるかどうかや、世界の人が日本をどう見ているかや、日本はイギリスに較べて進んでいる劣っているうんぬんかんねん、最近の読み方に拠れば、でんでんでん、で、まるでピントが外れた論議がいつものマヌケなトロルおじさんたちの顔ぶれで進められているが、日本人でないわしにはそんなことはどーでもよいことで、というか日本人であったとしても、どうでもいいとおもうはずのことで、現に、ナイジェリア人の友達と会っていて、ナイジェリアよりもイギリスのほうが優れた国だから、わしのほうが偉いよね、と考えることはないし、仮にあったら、狂人であると思われる。

勇躍、マキオカシスターズの国にやってきただけのことで、ここまで、そーゆー場では日本語を使っていたこともあって日本人風な言い方に終始してきたが、この辺りで明瞭にしておくと、日本に若いときから住んでいる欧州人の代表として、今年90歳になるドイツ人ばーちゃんに訊いても、82歳のフランス人ばーちゃんに訊いても、「ガメ、日本が文明国だったことはいちどもないぞ。小津映画とかにかぶれて、むかしは日本にも文明があったのだという寄稿を見たが、あんなオオウソを書くとは見損なった。思い込みだけで文明が存在したことがない国に文明があったと書かれると、後生は迷惑である」と言われただけだった。

ばーちゃんたち。
では、なぜ野蛮に終始して、非人間的な社会しかつくれなかった言語族が固有で普遍的な文学を持てたのか、が、わしがまだ日本語に拘泥している理由なのです。

わしは、もう小津のウソを知っている。
小津の映画に出てくる「中流家庭」など、日本にはいちども存在しなかったことを知っている。
しかも、わしは日本語が人並み外れて、想像を絶して出来たので(←自分で言っている)、それも常軌を逸して、あまりに日本語が巧みなのでニセガイジンと言われるほど出来たので、(ここで余計なことをいうと あのニセガイジン騒動の煽動者たち、@buveryや、能川元一、菅野完といった人たちは、考えてみると、わし日本語が彼らの想像を絶して巧みなのは理解できるのに英語のほうは自分たちの英語能力がダメなので、それが英語母語人でなければ書けるわけがない英語だということのほうは判らなかったのであるというだけのことであったらしい。このあいだの英語人の指摘で判った)
どんどん日本語のタマシイみたいなところまで入りこんでいって、日本の人の心性のぶっくらこくような野蛮さ、救い難い非文明性も知っているとおもう。

今住んでいるニュージーランドで見ていても、香港人や沿岸中国人のほうが日本系のひとびとよりも遙かに親切で、偏見をもたない点においても文明度が高い。
英語人の東アジア人に対する(漠然とした話だが)文明度評価も、香港人>台湾人>韓国人>日本人であると思います。

わしガキの頃は、まだ、かーちゃんシスターが日本人と結婚しているのだというと、一瞬絶句したあとで、「まあ、日本人はアジア人のなかでは、まだいちばんマシだからな」と述べていたりしたが、いまはそういう言い方は、よほどアジア人が嫌いな人でも非現実的なのでしなくなっている。

だから、こういうことなんですよ。
きみに言われなくても、いまではわしも日本人は社会として文明など持ったことはないと認めざるをえないが、では、
なぜ日本人は独自で、しかも普遍性がある文学を持ちえたのか?

もちろん、草間彌生や奈良美智のような視覚芸術の天才たちが日本語世界から生まれたのと日本文学というものが存在することとでは根本的に異なるのは判っている。

それにしても、マキオカシスターズの原典である細雪を開いたところで、

「そやった、あたし『B足らん』やねん。こいさん下へ行って、注射器消毒するように云うといてんか」

という科白を読んだところで、カンネンせざるをえなくなってしまう、この普遍的な文明を屈曲させる力はいったいなんだろう?
と考えない英語人はいないと考える。

日本語が、わしの手をひいて、どこかへ連れていこうとしているが、たまには、日本語の好きにさせて、行く所に行きついてもよい。

日本社会よりも遙かに訴求力のある言葉で、日本語世界がちょうど手頃な英語人であるわしに申しつけたい用事があるようなので。

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About gamayauber1001

ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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2 Responses to 日本文学_0

  1. 野蛮な総理大臣や法務大臣や、外務大臣が、聞くに耐えない醜い日本語を操る、視覚的にも聴覚的にもダメージが激しい国会のインターネット中継を見て、日本はとても野蛮な国だなと悪い夢を見ているような毎日で、とうとう国民がお互いに息の根を止め合うような法律が通りそうです。
     「根津美術館」は、私の母校の割と近くで、源氏物語絵巻を、短大の先生に引率されて、見に行ったところではないだろうか、とか。「細雪」で、姉妹がビタミンBが足りないといって注射するのは、今思うと、脚気の治療だったんだろうか、(日本の無謀な兵站無視で、脚気で死ぬ兵士の戦争小説を読んだらとても苦しそうな死に方だったので。心臓がやられて)とか。取り止めがないことばかりが頭に浮かびますが、私も日本の古典文学がとても好きだった。だのにどうしてこんな
    江戸時代の山賊のような国になっているのか。まともなことを言う人を陥れようとする人が多すぎて、もうこんな国は滅びた方がいいのではないかと思っています。

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  2. knsaku says:

    ガメさんが日本文学の数少ない継承者と呼んでいた水村早苗の、「私小説」を今朝読み始めて、あまりの美しさにぶっくらこいた(口マネ)ところでした。でも自分が何に感応したのか、ガメさんが何にカンネンしてしまうのかわからないのが口惜しい。
    日本文学をよろしくお願いします。

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