「ゆきゆきて、神軍」を観た

自分が特別な存在だ、と思い込んでしまう人はおおぜいいる。
「人として生まれた以上、なにごとか成し遂げてから死ぬのでなければ」と述べる人なども、たいていこれで、別に人間として生まれたのだから、猫さんよりも身体がおおきくて、折角、世界を感覚できる装置である肉体をもって生まれてきたのだから、いろいろなことができて、楽しんで、遊べるだけ遊んで死ねばよさそうなものだが、よく考えてみれば人間は特別な存在だという前提がある、「なにごとかを成し遂げねば」という気持ちがむくむくとわいて、オベンキョーに邁進したりする。

ちょっと考えてみればわかるが、人間は特別な存在だと自分は特別な存在だは同義で、おれはまだ自分の人生においてなにごとも成し遂げていない、と煩悶する中年男や、死ぬまでに他人を動かす物語をひとつでも書いておきたいと願う作家は、つまり、自分が特別な存在だ、という殆どの場合、どころか例外なく間違っている思い込みの非望の表明にしかすぎない。

学校にいた時代を思い出せばわかりやすいが、特に世間体のよい大学、日本ならば東京大学や京都大学のような大学に行くと、この自分は特別だ、な勘違い青年や、その青年と向かい合ってなんだかもったいぶって気取った声で話しているキョージュやコーシという名前のついた自分は特別な人間だと思い続けるためなら命をも賭けかねない勘違いおじさんたちがいっぱいいるだろうと容易に想像がつく。

一時の気の迷いで、自分が生まれた国の冴えない大学群のなかでは、最も程度が高いということになっている大学に行ったので、この手の「自分は特別な人間だ」人は、いわゆる「有名校」に猖獗するのは身をもって、うんざりするような気持ちで知っている。

ええええー、あんた、いいとしこいて、自分は選ばれた知性です然とした、そのえらそーな態度で、ほんまにそんなアホなこと考えてたんでっか?
と言いたくなる人はたくさんいて、馴れている、と言ってもいいとおもわれる。

原一男の傑作ドキュメンタリ「ゆきゆきて、神軍」の主人公奥崎謙三は、明らかに「自分は特別な存在である」と固く信じ込んでいた人間で、映画のなかで「先生」と呼ばれると、その瞬間にいわば「舞い上がって」しまって、滔滔と自分がいかに立派な人間で、戦後を庶民の生活に埋もれて生きてきた元上官である相手よりもすぐれた人間であるか、ニューギニアにおける兵士間の人肉食の追究もそっちのけで大演説をぶちだしたりするところを観れば、どんなに観察力がない人でもそれと判る。
県警の公安刑事たちが「先生、先生」と呼びかけながら事情を聴取するところでも、相好(そうごう)を崩す、というが、表現そのままデレデレぶりで、観ていて恥ずかしいほどです。

学歴や貧しい出自のせいで、自分の「自分は世間の人間とは異なって特別にすぐれた尊敬されるべき人間だ」という本人の固い信念とは異なって、世界に足蹴にされつづけるような人生を余儀なくされて、「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう」と歯がみするような気持ちで呟き続ける奥崎謙三の内心の声がドキュメンタリの全篇から聞こえてきそうな映画の出来上がりになっている。

マストドンの会話を眺めていたら、ドイツで文学研究の生活を送っているカイセーが「ゆきゆきて神軍」を観るのだ、といいだしたのをきっかけに、おれも観た、わたしも観た、私は大学の授業で学生たちに観せてみた、で、予想もしなかった映画の話題で盛り上がっていたので、自分でももう一回観てみようと考えた。

DVDがあるはずだと考えてライブリで探してみたが、日本にあった荷物をコンテナに詰めて送ったときに、ロンドンに行ってしまったのか、あるいは、どこかに放り出したままなのか、なくて、結局オンラインで観ることになった。

4回目か5回目で、奥崎謙三という人間の人格が興味深く面白いせいもあるが、何回も観ているのは、どちらかといえば、話されている日本語が聴き取りにくくて、一回目などは何を言っているのかさっぱり判らず、3回目くらいで途中で止めたりしながら、やっと、ああ、ここではこんなふうに言っているのか、と判る、という状態だったからです。
元のDVDは日本語字幕がついていたような気がするが、それでも判らなかった。

マストドンで話されている様子を観ると日本語が母語の人は感じない問題であるようだが、どういう理由によるのか、外国人にはものすごく聴き取りにくい日本語であるとおもいます。

奥崎謙三という人はドキュメンタリの主人公になるために生まれてきたような人で、ちっとも暴力に長けていないのに暴力によるほかは自己を表現する方法を知らず、礼儀正しく振る舞うふりをしながら相手の弱みをつかむと機を逃さず威丈高に怒鳴りつけて相手の判断力を竦ませることによって支配しようと試み、神について年中口にするわりには神そのものが神道と聖書と日本の田舎の素朴な精霊信仰がごちゃまぜになっていて、あるいは、あきらかに自分が優位に立って相手を糾弾しているのに相手が土下座しないと観るや苛立って飛びかかって馬乗りになって殴りつける、というような体(てい)の人物で、観ていると、間柄が倫理の代用である日本社会で、間柄を弊履に捨て去って、「社会の決まり事なんて、知らん。おれはなんでもやれるんだ」というスタイルを取る人間が登場すると、周りの人間には、いかになすすべがないかというようなことまで判って、日本社会に興味を持つ人間にとって、こんなに面白いドキュメンタリはない。

新年の祝賀式挨拶に立った昭和天皇にスリングショットでパチンコ玉を飛ばしてみたり、警官がおとなしいとみるとおおごえで恫喝してみせたり、本質的には他人を糾弾するときの脳の快刺激に依存してしまっている、日本にはうんざりするような数で存在する糾弾魔に分類されるべき存在だが、通常、日本人の糾弾魔が、迂闊な傍観者がうっかりすると頭が良い人間だと思ってくれそうな語法を工夫して、知的にみえそうなリベラルコミュニティを背景に「安倍のばあああーか」「歴史修正主義権力のばあああかあー」と述べて溜飲をさげるのを晩酌の代わりにしたり、こちらは明治時代から変わらず、委細かまわず、日本バンジャイ、わがままな自由主義者死ね、平和のためには大軍備を、の国権国家のアイデアに酔っ払った右か左かまんなかかも覚束ない「右翼」や、政治大好き、糾弾は三度の御飯より好きの、いまでも日本におおいタイプのおやじだが、ゆいいつ且つ決定的に異なるのは、ネット以前のひとらしく、現実の手触りがある空間で、「田中角栄を殺す」と大書したクルマを乗り回し、自分を特別な正義と認めない人間の胸ぐらをつかんで、「くやしかったら警察をよんでみやがれ、なんなら俺が自分で110番してやる。電話はどこだ」と叫びながら相手の顔を殴り続けるという、いやな言葉でいうと「身体を張った」行動で糾弾しつづけるところで、考えてみると、こういうタイプの人間は、インターネットが世界の他の社会と反対に、議論を活発にするどころか、国民全員を例の「ツーホーしますた」の監視社会の簡便な仕組みとして働いて、自分がすでに知っていることを追認する意見ならばいいが、ちょっとでも異なると「ウソに決まってる」「極端すぎる」「暴言」という言葉が飛び交うようになった惨めな社会に成りはてた、いまの日本社会には存在しなくなった型の人間で、そういうことは、例えば奥崎ならば一兵卒として身にしみこんだ、国家というものの好い加減さ、いざとなれば絶対に責任をとらないで国民個々の責任だと言い張る無責任さ、権威などは張り子の虎だと知っている戦争参加者の記憶の濃度と関係があるのかもしれません。

このドキュメンタリ自体は、ふたりの兵士の、しかも終戦後に行われた処刑が、真相究明の過程で、部隊の人肉食を隠蔽するためのものだとわかるという「衝撃的な事実」が浮かび上がることによって有名になったようにみえるが、実際の映画をみると、奥崎謙三は、傍目にあきらかなほど、人肉食の習慣に興味をもっていなくて、とってつけたような怒りをみせるだけで終わる。
案外と、自分もニューギニアの兵隊だった彼にとっては黒豚と呼んでいたインドネシア人の肉や白豚肉と呼んで珍重して舌鼓をうっていたという白人兵の身体から切り取った肉を食べるというようなことは「あたりまえ」で、いまさら真剣な絶望した様子で告白するひとびとを白けた気持ちで眺めていたのかもしれません。

奥崎謙三が終始追究するのは「特別な存在である自分」を他人に認めさせることで、マストドンで哲人どんが指摘していたとおり、周囲の人間は、すべてそのための道具として動員されてゆく、という、まるで、どうしても人間を人間として扱えない現代日本社会の本質を手のひらのうえに載せて眼前に突き出すような物語になっている。

画面から感じられて最も印象的なのは、正義を説く奥崎自身は正義をまったく信じておらず、戦時中の不法な暴力を許さないと述べながら暴力に対する嫌悪を微塵も持っていない、彼の「信念」の空虚さで、真実も信念も、人間の生死ですら、「特別な自分」を他人に認めさせるための道具にしかすぎない。

「ゆきゆきて、神軍」がドキュメンタリとして決定的に優れているところは、奥崎謙三という戦後日本の特異点である人物を通して、日本の文明の、空虚で、隣人との関係性の良好と、集団の恣意によって真理が決定されるという到底現実とは思えない軽佻を余す所なく表現しているところで、普段は要領をえない、詰め込もうとする要点がおおすぎて、なにを言いたいのかよく判らない話し方しかできない奥崎が、激情に駆られて、怒りを爆発させたときにだけ、内容も口吻も明瞭になるところなどは、日本そのものであるような不思議な感覚を与える。

レビューを見ても、この映画、あるいはこの映画の奥崎謙三に嫌悪感を述べ立てる人は、日本人である自分の横顔が醜くみえる角度から描かれている、と怒っているにしかすぎないようです。

この映画がリリースされたあと、奥崎謙三は、彼の生涯を通して見られる、相手に「特別な自分」を認めさせるためによく計算された上で実行される一連の暴力事件のなかで、たったひとつ色彩が異なる暴力である上官の息子に対する殺人未遂、模造拳銃で殺害を目的として上官の家を訪問して、応対した息子を「父親を殺すのも、こいつを殺すのもたいした違いはない」と考えて殺そうと銃撃した事件によって、逮捕され、刑務所に12年服役する。

いろいろな記事を読んでみると、昭和天皇をパチンコで襲撃したことが、赤瀬川原平たちだったか、「アート・パフォーマンス」だともてはやされたりして、昭和から平成に年号が変わった日本社会では奇妙な人気がでて、出所後は、若者たちにそそのかされて、アダルトビデオに出演して、若い女優とのセックスの官能の味をおぼえたり、SMクラブの女王様の相手をしたりしていたようでした。
ほかのすべての嘗ては切実性を伴っていた日本文化のあれこれとおなじように、日本文化を端から端まで価値のないゴミの山に変えていった例の冷笑と「おもしろがり」の文化のなかで、奥崎謙三も消費されていった。

映画のなかで「岸壁の母」が繰り返し歌われて、土下座でわび、追及するがわと追及されるがわが、いやあなたもほんとうは悪い人じゃないんだよ、と手をとりあって涙ぐんで、映画全体が救いのない「昭和臭」に覆われているが、だが、その、くっっさあああーい昭和臭が去ったあとで、日本にはなにが残ったのだろうと、見終わったあと、しばらく考えてしまうような映画でした。

トロルおやじたちは、手がだしにくいし、500文字書けるしで、ちょっと深刻な話柄であると、よく考えられたヘビー級の発言が並ぶことになっているマストドンのタイムラインを眺めていて、自分も参加しようと考えたが、手に余るというか、自分の日本語のちからではちからつきてしまいそうな気がしたので、ずるいようだが、こちらのブログの側に、自分が「ゆきゆきて、神軍」を見て考えたことを書き留めておきます。

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2 Responses to 「ゆきゆきて、神軍」を観た

  1. sato says:

    わたしはこの映画を見ていないのですが、ガメさんが言う奥崎のような人物は、いまも東京に1人実在しています。1人いるんだから、もっといるのではないかと思います。
    むしろ、「昔から変わってないんだ…」と思いました。
    そのひとはSNSには入ってきません。パソコンが使えず、あまりネットに強くないようです。ネット上にいるトロルは、少なくともネットを使える程度にはインテリで、情報機器を購入できる程度に豊かなんだと思います。奥崎的な人物は、いまも昭和のままの状態で社会に実在しています。

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  2. 岡山桃々 says:

    がめさんこんばんは。ももももですょ。まさかの「ゆきゆきて神軍」が出てきたので驚いています。今回の戦争騒ぎが起こった数ヶ月前から、見直そうと思っている映画で、神軍botまでフォローしているのに、暴力沙汰や口論のシーンが多いのを覚えていて、最後まで見る気力も体力もなくてずっと保留にしております。実はこの映画は封切りの時に映画館で見たのですが、なんだか何が言いたいのかはっきりわからなかった記憶があるのでもう一度見ようと思っていたのです。

    がめさんの記事を読んで、ああ、自分は誤った文脈から読み解こうとしていたからわけがわからなかったのかと気がつきました。
    奥崎という人の矛盾は、そのまま日本の矛盾であるような気がします。正義を叫びながら、そこに全然正義がないとか、暴力反対と言いながら、自分に対立するものへの暴力は暴力とさえ認識されない、とか。これはどこから来るのでしょうね?絶対性の不在、あるいは、’I’のあまりにも強烈な不確かさ、とか、そんなところから来るのでしょうか。「自分」があると、自ら絶叫していても、本当にあるのかどうかの自信がないのでしょうか。だから、’I’を確定してくれ、と他のひとびとに叫び続けるのでしょうか?だから、自分を否定するようなものに出会うと、殲滅せずにはおれないのでしょうか?とても不思議です。

    全く関係ないですが、今日はたまたま読んでいた本に、平安時代の漢詩などがちょっぴり載っていました。なんとまあ日本語は美しかったのだろう…と気分が良くなりましたょ。

    今日も興味深い記事をありがとうございました。がめさんが、今日も美味しいご飯を食べて、楽しいいちにちを過ごせましたように。

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