ガメ・オベール人格

くだらないことをおぼえているのねー、と感心することがある。
くだらないこと、と言っては悪いに決まっているが、わしが書くブログは、現実については、ほとんど脚色なしで自分の身に起きたことを書く(そうでなくて、あれだけの量のお話がつくれたら正真正銘の天才である)ので、当然、細部は変えてある。

最近の数年は、ほとんどモニさんと一緒に時間を過ごすので、ときどき、この挿話は、こっちの記事ではモニさんの身に起きたことになっているが、こっちはガメさんの身に起きたことになっていますね、となかよしのお友達が言ってくることがある。
効果覿面、というか、そういう重複記事を書くと、一回に5,6人は来ます。

ふっふっふ、見たな、と考える。

昨日の「死語」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2017/06/17/leukemia/

の場合だと、こーゆー、3年前の記事「阿Q外伝」(←「阿Q正伝」のダジャレ)
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/11/05/q/
があって、「こっちだと、モニさんになってますね」と、むかしからのお友達が書いてきた。

長いあいだブログを読んでいる人は、当然、こういう例が無数にあることに気付くが、前から何度も説明してあるように「これは特定を避けるための約束ごとだったな」と判っているので、笑っているだけです。

 

ときどき頭が悪いトロルおっさんたちが鬼の首でも取ったように吹聴して歩くらしいが、バカな人はバカなので、もう相手をしてあげるのも業腹であるし、またあらためて説明するのもめんどくさいというか、第一、むかしは「おまえの家を探し出して門の前に隠しカメラを設置してやる」とか年中いってきていたトロル対策として気を付けるために始めたのに、トロルにトロル対策なんです、と述べてもおとなしく聴いてくれるわけがない。

細部を変える方法がない、例えば自分が出た大学のことなどは、だから初めからいっさい書かないことにしているが、蛇の道は蛇、おそろしいもので、むかしアカデミアの人に図星を言われて、ぶっくらこいてしまったことがある。
このときは、どうも、酔っ払って自分の大学を「コメディアン養成所」と書いたのがまずくて、イッパツでピンと来たものであるらしい。
出身大学に関係があるわけでもない日本の人なので、たいそうぶっくらこいてしまったが、念のためにいっておくと、マジな俳優も輩出してます。
ま。全体の傾向からいうと歴史的には無職者大量養成所ですけど。

いまでは筆名化しているが匿名にしたり、ビミョーにディテールを変えて誤魔化したりしているのは、単にゲームブログの昔から、そうしていて、いまさら違うスタイルにするのがめんどくさいということもあるが、なんだかそうしているうちに日本語のなかに「大庭亀夫またはガメ・オベール」という別人格が出来上がってしまったので、それでいいや、というか、日本語が実人生に干渉しないためには、そっちのほうが都合がよい、という発見をしたせいもあります。
書き出した頃は意識しなかったが、何年も経って、実人生とブログに記録される日本語版自我である大庭亀夫とのあいだに、かなり乖離が生じていなくもないいまになると、なんとなく、現実の可愛げがなくえばっている自分よりも、日本語のブログに記録される、ほんとうの姿であるが、描線が、ややマヌケな自分のほうが自分として好きなのでなくもない。

羞じらいもなくいうと、自分の一生は、物質的にも精神的にもうまくいきすぎていて、五分に一度は木に触ればならないほどで、労働は自分がどうしてもやりたいときにやればよくて、投資の方針が図にあたって、財産は増加する一方になり、リスクの係数がゼロに近付いているのに、勢いというものは怖いもので、ニュージーランドだけで税金を払うのは名前が広く知られてしまうという点で都合がわるくなった。
母親に似て、なんだか妙に生真面目な、この世の生き物だとはおもわれないほど美しい子供がふたりいて、天人にも五衰があるはずなのに、容貌と容姿とが一向に歳をとっていかない不思議な伴侶がいる。

おとなになるというのは、こういうことか、というか、昔すべりひゆたち古い友人に対してよく冗談で述べていた「温厚で成熟したおとな」になって、若い時にはおとなになると退屈なのではないかと思っていたが、まったくそんなことはなくて、朝起きてから、よし今日はこれとこれとこれをやって遊ぶぞと決めて、あるいは、なああああんにもしないぞ、と決めて、夜まで、あっというまに時間が経ってしまう。

日本語で考えたり、書いてみたりすることも遊びの一部に定位置を占めていて、他のことをやりながら、ときどき日本語世界をのぞいて、書き込んでみたり、他人がやっていることを眺めてぼんやりしていたりする。

最近は日本の人への親切心がゼロに近くなって、またしても羞じらいもなく述べると、ここまで来てしまったのは自業自得やん、さんざん人が心配して述べたことを嘲笑しておいて、いまさらなにゆーてんねん、どうでもいいや、とおもう気持ちが抑えられなくなって、おもしろげでなさそうなこと(例:共謀罪)は興味もなくて読みもしなくなったが、文化上のことや、食べ物や、日本語世界独特の、ちょっと壊れたような情緒が視界にはいると、ゆっくり相手をして遊ぶ。
そういうことになると、日本はまだまだ面白い文化をもった国で、へえええー、と思ったり、おおおおーと思ったりで、奇抜で、見ていてなんとなく嬉しくなってしまうようなことがいまでもたくさんあります。

英語のほうの人格はというと、もうほぼ固まりかけて来ていて、育ちがよくて裕福なおっちゃん(←自分で言っている)というか、家事は他人まかせ、仕事はどんどん有能な他人に割り振ってスカイプであれこれ話をしているだけで、ときどき、あちゃあ、なことが起きるが、なにしろ仕事の仲間のひとびとは、極端に頭がきれるひとびとばかりなので、あっというまに解決されて、どうしてこの状態で自分がボスなのか、まあ、帽子みたいなもんかと思ったりして、仕事は仕事で、どんどん成長していく。

そもそも就職したことがないのでCVは書いたことがないが、神様に「自分が得意なことを書きなさい」と言われたら、「うまくいっていることに倦まないこと」と書くのがよいのではないだろうか。

膨大な、と言ってもよいエネルギーと時間とオカネとが、主にモニさんの管理によって、貧しいひとびとや、人生ののっけから運が悪かった子供、クソッタレな人間に飼われてぶち捨てられた犬や猫、というようなものに注ぎ込まれているが、不遜なことをいうと、ときどき、人間の一生って、このていどのものなのか、とおもうことがある。

人間の一生なんてたいしたものではない、たいていの人間にとっては片手間で一生の成功などは達成できる、そんなものに夢中になるのはくだらない人間のやることだというのは家訓のようなものだが、ではどうすればいいか、という苛立ちは、イタリアまで娼婦のあとを遙々追いかけていった先祖のおっちゃんでなくても、わしでも持っている。

ダメな人間に、なぜ彼がダメであるか言って聞かせるのは、無駄というものだが、ダメな世界に、なぜ世界がダメなのか解き明かしてみせるのも、結局はムダな努力なのではないか。

子供の時にはモンテーニュの一生は、なかなか魅力があると考えたが、あるいは気まぐれを起こしてハーレーに見せないままで引き出しにプリンキピアをしまったままのニュートンの一生は良いかもしれない、と考えたが、人間の一生は有限であることによって永遠を憧れすぎるという欠陥を持っている。

永遠をみないことだ、と詩人は述べたが、あれは永遠が眩しいからではなくて、永遠がもつ価値は有限がみせている幻想にしかすぎない、と述べたのだといまさらになって気が付きます。

夢のなかで、霧のなかから忽然と現れた自分自身に「きみはいったいどこへ行くのかね?」と問うと、なぜ判らないのか、という顔で、「過去へ」と言う。
それ以上は問わなかったが、もし問うていれば、夢の中の自分は、未来というものへの深い軽蔑を語って聞かせてくれたのかもしれません。

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ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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