Do you speak Japanese?

毎日の生活で日本語をまったく使わなくなって7年経つ。
それまでも日本に住んでいても日本人の友達は少なかったせいで、生活自体は英語と少しのフランス語で、日本語を使う機会はとても少なかったが、日本にいるのといないのとでは、やはり何かが根っこから異なるようです。

まず初めの症状は日本語の本を読めなくなってしまった。
最盛時は、おおげさにいうと、英語で本を読むのとたいして変わらない労力で日本語を読めたが、英語圏にもどると、瞬く間に日本語が読めなくなった。
長い文章がぜんぜんダメで、読みだしてしまえば、それでもなんとかなるが、読みだしてエンジンがかかるまでがたいへんで、もっかの感覚では、日本語よりも能力が低いはずのイタリア語のほうが読みやすいくらいまで落ちぶれている。

比較的簡単に読めるのは自分が書いたブログとツイートで、なんだか自分の足を食べる鬱病の蛸みたいで良い気持ちがしないが、事実なのだから仕方がない。

いちばん、ぶっくらこいたのはマストドンで、日本語のひとびとが、楽々と500文字を使い切って、ツイッタとは打って変わった、自分の思考の深い場所からくる考えを述べきるのに、こっちは青息吐息で、書くのはもちろん、読むのも大変で、予想を遙かに越えてダメだった。

説明するのもめんどくさい、インスタンスのなかで日本人独特と言いたくなる村感情がいっぺんに出来て辟易したせいもあるが、這々の体で日本語マストドンをやめにして、もっかは大陸欧州語アカウントに切り替えてしまったのは、どちらかといえば500文字が言語体力的に厳しかったせいであるようです。

理由もわからず不思議なのは古典日本語のほうが現代日本語よりも読むのに楽なことで、現代日本語よりも、例えば俊頼髄脳に親しみを感じる。
その感覚は、70年代以降の日本の映画の大半は殆ど嫌悪感をもってしか観られないものが多いのに、50年代と60年代の日本映画は、バカみたいに繰り返し観ていて、小津安二郎や黒澤明はもとより、液体人間でもマタンゴでも、何度観てもあきなくて、ほとんどBGMのように流していても、いっこうに苦にならない感覚と似ている。

有名な

いづれの御時(おほんとき)にか。女御(にようご)、更衣(かうい)あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際(きは)にはあらぬがすぐれて時めき給ふありけり。

に、すでに象徴されている、独特の、おだやかな海がたゆたうような日本語の思考のリズムが好きなので、日本語をやめてしまう、ということは考えられないが、ますます「自分語」と化して、誰にも読めない言語で、こっそりと自分が考えていることを書き留める、という用途に特化されてゆくのではなかろーか。

正直に述べて、日本の社会は、誰にも救えないところまで堕ちてきている。
いくつかの節目があったが、まず福島の大震災のあとに福島第一発電所の事故について社会の基幹の側が嘘をついて事件を収めようとしたことは、日本語と日本社会におおきなボディブローだった。
権威でくるんだ恣意を、どうやれば真実と置き換えられるかという悪魔の知恵を日本人は学んでしまった。

日本語の優美をつくっている、言語として、あらゆるものを相対化しうる能力が、悪い方に利用されて、真実そのものが相対的なものになって、恣意が真理よりも優位に立つことになってしまった。

考えるまでもなく、言語にとっては、真理性や現実と自分を切り離してしまうことは自殺行為で、当然の帰結として日本語はかつての普遍語からどんどん転落して、外国語として日本語を眺めている人間の目には、傷ましいことに、いまの日本語は言語としての体をなしていない。
意味があることを述べようとしても、周囲の顔色をうかがって、肯定してもらえるかどうかをまず考えてから何事かを述べるしかない言語に落ちぶれてしまっているし、社会に目を転じても、糾弾と罵りあいの技法が巧妙になってゆくだけのことで、言語として自我や自己の信念を構築して、その自分が信じていることどもと相手の信念との違いを検証するという議論の基礎中の基礎まで破壊されてしまって、日本語での議論という言葉は、阿鼻叫喚の同義語であるところまで落ちぶれてしまっている。

現代英語を救ったのは、移民たちの「ブロークンイングリッシュ」だった、という話を前に書いたことがある。
自分達が幸福に暮らせる生活を求めて英語社会に大量に流入した移民たちは、激しい勢いで英語自体を変えていったが、ここで長々しく説明する気はしないが、異文化が英語を使って自分たちを表現しようとする強い衝動は、英語自体を変えてゆくのに十分なエネルギーを持っていた。

語彙においてもpostponeから派生語としてインド人たちが発明したproponeのような単語にはインド文明の時間に対する思想が色濃く反映しているし、My daughter is convent-educated のような表現は、そもそも英語が多文化社会化しなければありえない表現なのは言うまでもない。

無理矢理他言語を呑み込んで「星の王子様」の象さんを呑み込んだヘビの帽子みたいになった英語は、しかし、なんとか消化して、いったん消化してみると、英語自体が伝統英語に較べてより多くのことを言いうる言語になっていった。

日本語は、ちょうど反対の方角へ歩いていってしまった。
日本社会は、ほとんど自覚症状もないうちに、社会がまるごと、ひどいゼノフォビアに陥ってしまったが、それに伴って世界を表現する力そのものが弱まって、いまこの瞬間にパッと思いつかないが、例えば「映画を鑑賞する」という。
いつかツイッタで「映画メッセージを鑑賞しました。素晴らしい映画でした」というツイートを見て、なるほどこれは困ったことになっているのだ、と考えたのを思い出す。
「メッセージ」がArrivalのことであるのは、前後のやりとりを読んでいるうちに判ったが、あの映画を「鑑賞」されてしまった制作者のほうは、どんな顔をするだろう、と想像すると可笑しかった。

日本語は日本語のなかで堂々巡りを始めていて、外との接点を失ってしまっている。新聞のニュースの見出しが社会の関心を反映しているものだと仮定すると、日本語ニュースの、「ほんとうに同じ世界に住んでいるのだろうか?」とおもう見出しの排列は、びっくりするようなもので、日本語人全員が外からはそこに何が立っているのか見えにくい内側の中心を向いて立って目を凝らしていて、外の世界への関心は、内側にある水晶球に映って始めて関心を呼び起こされる体のものであるようです。

そういう社会の性向は、常に細部に端的にあらわれるもので、例えばオリンピックで日本選手がブロンズメダルを手にした、というニュースをみると、ぶっくらこいてしまうことには、1位と2位が誰であったか書いてない。
「日本人が世界の場で3位になった」ということだけが重要で、他の他国人のことなんてどーでもいい、という社会的な常識が背景にあるわけで、ちょっとついていけない気がする。

そのくらいのことでおおげさな、という人がいそうだが、英語世界では、「いったいどうしてこの人は見返りさえ期待できないことに自国民が犠牲になるようなことばかり他国に申し出るのだろう?」と訝られている外交音痴を絵に描いたような安倍晋三首相が、「外交が得意」ということになっているのだとしって、椅子からずりこけるくらい驚かされたりするのは、結局、おなじ文脈にあって、みなが世界に対して背中を向けて立っているからだとしか思われない。

言語は美を失うことによって死ぬ。
日本語の美は、映画でみると60年代に、文学でみると現代詩が死んだ70年代に死んでしまったように見えて、80年代になると、卑しい言語がちょうど外来のウイードが猖獗するように在来の日本語を制圧して、普遍語どころか地方語としても機能しなくなっていった。
そのことには、本質的に日本語の側からの批評・編集作業でしかない翻訳を中心とした日本語の外来文化の取り入れかたが、世界と足並みを揃えて議論しながら自分達を変革してゆくために必要な情報の十分の一も供給できなくなったことや、多分、大学受験をめざす教育に由来している言語の機能そのものへの誤解がおおきく働いている。

言語を喪失することは、そのまま社会の喪失であって、日本の現在の混乱と低迷と、それを解決しようとして身動きするたびに悪い方へ社会が動いて行くという特徴は、区区とした政治的社会的な誤判断よりも、より本質的で文明の深いところに理由が根ざしているように見えます。

ちょうど新しく競争力のある産業を育成する地道な努力を重ねるという最も根本的な努力を放棄して、秀才たちが机の上で描きあげた「株価をあげればすべては解決」とでも言わんばかりの、世にもケーハクな経済政策だったアベノミクスが、国富を喪失して、国民は貧困化するという世にも惨めな失敗に終わったのとおなじで、崩壊した言語を再生させる努力もなく、例えば英語教育に力をいれても、そもそも言語というもの自体への考察を欠いた「国際人として活躍するための道具としての英語」など、いくら上手になったところで、突然人間の言葉を話しだした犬さん以上の喝采が得られるとはおもえない。
まして、文明としてなにかをうみだす社会になるはずはなくて、文明として本質的な新しい価値を世界に付け加えることが出来なかった言語社会が一過性でない繁栄を獲得した例は歴史には存在しない。

いままで20年間を費やしてきた小手先の工夫では日本には破滅しか待っていないのだという現実を、日本語人全体が見つめるべきときに来ているのだとおもいます。

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ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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2 Responses to Do you speak Japanese?

  1. miroku says:

    多くの日本人よりもちゃんとした日本語を使っていてすごいなと思いました。
    「言語は美を失うことによって死ぬ」
    この言葉がとても印象に残ります。
    ガメ・オベールさんの言葉を大切にする姿勢が垣間見れて、とても良いなぁと思いました。

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  2. 初めて拝読させていただきました。
    「凄いなこの人は。日本語の危機が日本の危機となっている現状の分析があまりに的確でぶっこらこいたぜ!」と思いました。
    いや、これは読めて良かったです。ありがとうございます。今後も読ませていただきたいです。

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