テキトー生活の楽しみ

ロティ、と言っても直径10センチメートルくらいの、小型ロティで、冷凍した状態でスーパーマーケットで売っている。
製品のあちこちに手作りであるらしい痕跡があって、多分、供給が間に合わないのでしょう、いつもあるというわけにはいかないので、見つけると、ラッキーとつぶやいていっぺんに10袋くらい買ってきます。

どうやって食べるのかというと、フリーザーから出してきたトーストブレッドとおなじ要領で、トースターにいれて、おなじみの押し下げレバーを押して、冷凍ボタンをピッと押しておくと、「ガシャンッ」、しめしめ、良い匂いがして、もみ手をしながら、あっちっち、お皿の上にだしてバターかベジマイトを塗って食べる。

どういう秘密があるのか、冷凍のロティなのに、フレッシュ・ロティとおなじで、パリパリでサクサクで、食べるとしみじみおいしい。

小皿くらいのカレーソースが3種類付いて、ちぎっては食べちぎっては食べて、Roti Canaiになっていればもっとよいが、そういうことまでお願いすると料理の人に過重労働を強いることになるので、やや欧風に堕落した食べ方で、バターを塗って、エスプレッソと一緒に食べるだけで我慢する。

あるいは伝統的なブレックファストならば、ブーゲンビリアをやめて、葡萄だなに変えたテラスのテーブルで、贅沢な旅行になれている人は、なんちゃらスパ&リゾートの朝食を思い浮かべればよい、コージーをちゃんと被っているティーポットがあって、コーヒーがあって、目の前の大皿には、ベーコンとチョリソとポーチドエッグがふたつ、焼いたトマトとブラウンマッシュルームがあって、お腹がすいていれば、それにアイフィレを焼いたのがついている。

バスケットに入ったパンに、お願いすればフレンチトーストやパンケーキも出てくる、マジメな朝食を摂る。

このマジメ朝食の欠点は、食べていると、むくむくとシャンパンを飲みたくなっているところで、朝からシャンパンを飲むと、どうせ白ワインになって、牡蠣の天ぷらやフライもお願いして、わははは、楽しい、今日はいい天気だなあーをしているうちに赤ワインになって、ふと気が付くともう夕方になっていて、夕餐を平らげて、ブランデーを飲んで、はなはだしければスコッチを飲んで、気が付くとコンピュータの前に座って、デルの40インチスクリーンでNetflixを観ながら、正面のiMacで日本語でトロルのおっちゃんたちに悪態をついていたりするので、やや生産性にかけるところがある。

モニさんと一緒に暮らしていることは、いちめん、いっちゃん仲良しのお友達がおなじ屋根の下にいることなので、フラットメイトみたいというか、ふたりとも調子がよいときには、ホールですれ違うときにハイファイブをしたくなるような気持ちになるが、夏で、ふたりともシャンパンを飲んだりすると、子供が入れない区画で服を脱いできゃあきゃあしているので、やや危ない雰囲気になるのでもあります。

ふだんは静かな家だが、いまは初夏で、初夏であれば雑草もヘッジも芝も、がんがん容赦なく伸びるので、芝刈りの人々が現れ、ヘッジの上に仁王立ちになって借りまくるヘッジ部隊がギュワンギュワンゆわせながらヘッジを刈り込み、1930年代の地中海イタリア空軍のマッキ戦闘機そっくりの音でエンジンをまわして、雑草を刈るスピナーがまわる。

家の反対側ではウォーターブラスター部隊が、高圧放水で壁を綺麗にしようと試みている。
家がまるごと発狂したような騒ぎの騒音だが、小さい頃から馴れていると、初夏というものは、そういう騒音とともにあるもので、「おお、夏だなあー」という、よく考えてみると、ヘンテコな、「夏が来たぜ」の感覚になります。
あるいは、夏を感じるための開発刺激なのだと言い直してもよい。

労働党のジャシンダ・アーデンが首相になって、新聞を広げると隣国のオーストラリアが「ニュージーランドはコミュニストを首相に選んだ」と書いている。
オーストラリアの難民のひどい扱いに抗議して、ニュージーランドに全員引き取らせてくれ、いくらなんでもあれでは酷すぎるとオーストラリアを訪問して述べたら、最近はバブル景気でブイブイ言わせていて、もとからやや躁病発症時のニーチェのような傾向がある国民性が全開で、オーストラリア人の威丈高の尊大な国民性が炸裂して、
「Mind your own business」というようなヘッドラインが踊っている。
むかしから疑惑の目で見られているキャピタルゲインタックスについて聞かれても、税金は増えるとおもうが内容は教えてあげない、などと経済音痴全開なことを述べるので、経済指標が少しずつズブズブズブと沈みはじめていて、17年続いたバブル景気も、不動産市場から始まって、だんだん、落ち目になってくるもののよーです。

ニュージーランドという国の最大の特徴は、経済がちょっとでも傾くと、「国民がいなくなる」ことで、ヘレン・クラークなどは1999年だかには、ヤケクソで、
「ニュージーランドの最大の輸出品は人間である」と国会で述べて、ニュージーランドドルの価値が急落して、対円でいえば65円から39円まで暴落した。
いまでも国民の17%がオーストラリアに住んでいるというお国柄で、ニュージーランドの平均的な若い人の夢は、「オーストラリアに行って稼いでオカネをためてニュージーランドで楽しく暮らす」です。ニュージーランドに住んでいて給料があがらなくなると容赦なく他の英語国に出奔する。
政府がつねにマジメに仕事をしないと国民は、いつも簡単に愛想をつかしていなくなってしまうので、日本の政府みたいにウソさえ上手ならアホでもできる気楽なお仕事というわけにはいかないよーです。

むかしでいえば、連合王国からニュージーランドに移住すると、シティ勤めならば収入が5分の1になると言われていた。
それでも激減する収入をものともせずに、延々と、引きも切らずイギリス人がニュージーランドにやってくるのは、来ればわかる、ここは自然と平和が国中にあまねくある国で、人間って、もしかして、あんまりオカネがなくても幸福なんじゃない?と気が付いてしまえば、海に浮かべたヨットの冷蔵庫からカベルネソヴィニヨンをだして、後甲板のベンチに座ってインターネットで遊びながらヒラマサや鯛釣りに淫していられる生活ができるニュージーランドは文字通りの「最後の楽園」なのだと言えなくもない。

例えば、むかしから遠洋航海の船乗りのあいだでは「町が似ていてバンクーバーと区別がつかない」と言われるオークランドは、人口をみると、しかし、たった140万人で、都会のミニチュアのような町だが、ハウラキガルフのほうから眺めると、この世界でたったひとつ生きている海だという、まだ下町の桟橋から出て5分もいかないうちに、シャチが雄大なジャンプをみせる湾に、付随している町なのだとみることが出来て、「都会生活もついてくる海」なのだとおもえば、ニューヨークがひっついたタヒチみたいなものだと言えなくもなくて、テキトー生活を楽しむのに
、こんなに良い国はない。

もっと敷衍していうと、ニュージーランドという国自体が「文明もついてくる大自然」なので、英語国であることを利して、例えば欧州人からみると、ポリネシアのその向こう側に忽然と小欧州が現れるという、ジョン王の王国伝説じみた錯覚が起きてコーフンしてしまう。

モニさんがずっと前に考えたことは気味が悪いほどあたって、北半球はあんまりイスラムですらない過激イスラムの嵐が吹いて、このブログが始まったときから書いてきたとおり、アメリカが「もうひとつの顔」を露わにして、トランプアメリカはネイティブアメリカンをぶち殺して歩いていたころのアメリカに戻っている。
聞くところによると、日本で明治時代のドラマがあって、日露戦争を考えるためのキーワードのひとつに「イロコイ族」を挙げてあったそうだが、そういう初期植民政府のかつてのやり口を知っていれば、トランプの目には日本人全体がイロコイ族と映っているのではないかと連想するのは、ごく自然な考えの流れでしょう。

これから10年という単位で考えると、北半球は動乱と戦争の時代になるのはほぼみえていて、1930年代初期の思想潮流が、一個の破壊運動を終えて、世界の枠組みが変わるまで15年を要したことを考えれば、だいたい2030年代初頭まで動乱と旧世界の枠組みが変わるための破壊とが続くことになる。

最近、ニュージーランド人が寄ると触ると話すのは、「北半球から遠くてよかった」で、顕著な、もうまたビンボでもいいや、平和がいちばん、ガメ、来週はクリケットマッチやらない? とパブで述べる近所人の目は、口にださないだけで、
「もう移民も、これ以上の繁栄もいらん。しばらくは門を閉じて、自分達の生活を大切にすべ」と書いてある。

まーテキトーでいいや、というか、生まれてからこのかた、ずっとテキトーなわけだけど、むかしから華やかな見かけとは反対に内面はドマジメなモニさんが、いみじくも「ガメを見ていると、マジメに暮らしてもテキトーでも、あんまり効率には関係がないような気がして頭にくる」と述べていたが、いろいろな人が見ていて頭にくるらしいのは知っているが、テキトーな人はテキトーがいいので、急にマジメになると不幸が襲ってくるのではあるまいか。

蔓をのばすタイプの野菜を育てるのに、蔓がからみついていけるようにまわりに立てるびよよおーんと縦に長い鉄製の塔をオベリスクというが、最近ミニトマトのためにオベリスクを買いに行って、トマトはオベリスクではダメでトマトケージと呼ぶ、オベリスクがえっこらせと逆立ちして、4本の足をピャッとひらいたようなかっこうのタワーでないとダメだということを学習した。
視覚に訴えて愛でるほうの庭は、テキトー主人の家といえどランドスケーパーがいて庭師がいて、オベリスクもなにも、専門知識で支えられているが、庭の一角のベジガーデンは、モニさんとわしと小さなひとびとの楽しみのために、自学自習で自分達で面倒を見ることになっているので、新しい発見が毎週のようにある。
主に小さなひとびとのために、という言い訳で、実は蕎麦をつくったときの卵が欲しくて鶉を飼うことにして、もしかしたらおとーさまは、自分たちの目を盗んでつくねにして食べようとしているのではないかしら、という疑いの目を背中に感じながら鶉小屋をつくったり、猫さんや犬さんとコロコロして暮らしていると、一日はあっというまに経ってしまう。

芝の上のラウンジャーに寝転がって、あっというまに午後8時を過ぎて、ようやく沈み始めた太陽のほうを眺めながら、人間の一生は短いなあーと心から思います。
長い自然のなかの須臾にしかすぎない一生ならば、せめても楽しくすごすことにつとめて、第一もう30代も半ばに達する勢いなので、そろそろ自分の楽しみにひたりだしてもよいのではなかろーか、どうおもう、神様?と考える。
空から神様が「ガメ、それもよかんべ」と答えたら怖いが、神様は唖なので、あるいは人語を解さないので、空はただ積雲を浮かべて、みるみるうちに茜色に染まってゆく。

残りの人生の方針、というようなおおげさな話ではなくて、ここ当面は、自分の生活の細部を、言葉やなんかの布で、キュッキュッと磨くことに費やしたほうが良いような気がしています。
とんでもないことをいうと、その直感の真実性は、自分で育てたレタスやトマトの味が、スーパーマーケットや、もっというとファーマーズマーケットで買ったトマトの味と較べてさえ、同じトマトだとはおもえないほど質が異なるものであることに裏打ちされている。
商業主義や「高度な社会の仕組み」は、実は、なにもかもからリアリティを奪う巧妙な仕掛け、精緻なフィルターにすぎないのかも知れません。

社会の仕組みやオカネを媒介にしないで直截ふれる世界は、どうもそっくりそのまま現実というわけではなさそーです。

もうちょっと、やってみないと、はっきり、うまく言葉には出来ないようだけど。

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