餃子II

なんだか、この頃、料理ばかりしているような気がする。
家で料理を担当している人が、「ガメは料理が上手だから、わたしは商売あがったりだわね」と言うが、もちろん冗談で、コンサルタントというか、先生で、いろいろなことを教えてくれる。
モニもわしも大好物の、地中海料理が得意な人なので、来てもらったが、オーストラリアやニュージーランドの風物が珍しいらしくて、「すごい田舎だな」と言いながら、人間がのんびりしているところや、肌触りが荒々しくて、まだ明るい内から通りで喧嘩していたりするのを眺めて、にやにやして、「もうひとつの別の世界」を楽しんでいるようです。

春節が近付いて、といって、これを書いている時点ではもう数日前だが、中国社会のお正月なので、中国系人の人口が多いメルボルンやオークランドは盛り上がっていて、自然、いろいろな知識が増える。
そのひとつが餃子で、つい最近まで知らなかったが、中国の人にとっては、もともとは大晦日に、家族団欒で、みなでひとつのテーブルを囲んで、過ぎ去った1年間の話をしながら、がやがやとつくって、新年ともなれば、大量につくった餃子を食べまくるものであるらしい。

あちこちを移動しながら住むのをやめて、人並みに、1年のうち三ヶ月くらいしか旅行しなくなったのは、たしか2010年くらいのことだが、オークランドにいて、5年目くらいになって目が慣れてくると、いろいろな人の姿が、たしかに目の前に見ているはずなのに観念にやや具体的な翳がついたくらいであったものが、色彩を帯び、いきいきと呼吸しだして、生の人間として見えてくる。

モニとふたりで、でかけるところ、でかけるところ、白い人ばかりなので、前にオークランドは意外なくらい中国の人が少ない、と述べて、大笑いされたことがあったが、目がなじむと、2割だったかなんだったか、留学生やワークビザの人やなんかをいれると、3割を超えるのかもしれない中国系の人たちの姿が見えてきます。

見えてくると、いろいろびっくりすることがあって、きっとこのブログにおいおい書いていくとおもうが、例えば、中国の人が、いかに麺と餃子が好きかを知るにいたって、ぶっくらこいたまま、目をまるくしている。

ニュージーランドには、ひとりで昔の秋葉原電気街をやっているようなPB Techという(多分)香港資本のチェーン店があるが、ここの店員と話しているときに、ふと思いついて「オークランドで、おいしい中華料理店って、どこだろう?」と訊いたら、誇張ではなくて、たいへんな騒ぎになってしまったことがあった。

店員さんが自分が薦められると信じる店を5つくらい書き出してくれたのは、マンハッタンの韓国系人にKタウンの韓国料理店を訊いたときや、オレンジカウンティでメキシコ系人にメキシコ料理店を訊ねたときとおなじだが、そこからが中国の人の本領で、やおら、近くにいた別の店員に呼びかけて、「なあ、おまえ、このリスト、どうおもう」(←中国語なので想像です)と訊ねると、訊ねられたほうは、おもいのほか、というよりも想像を越えた真剣さでリストをみつめて、あの店が入ってない、この店よりもこっちのほうがおいしいと言いながら書き込んでいる。
そうしているうちに店員さんたちが集まってきて、土曜日のかき入れ時の客そっちのけで、わいわい言い出して、げらげら笑ったり、怒ったりしながらリストを編纂している。

その熱中ぶりは、圧倒的で、なるほど、わしがときどきおおはずれの店に、ふらふらと迷い込んで、まっずうううー、をしたりしているのは、コンジョが足らんのだな、と納得させられます。
中国系人には、おいしいものを食べるための集中力と度胸とエネルギーがある。

折角、書いてくれたのだから、とおもって、PB Tech中華料理臨時研究会の編纂になるリストを片手に、一軒づつ訪ねてみると、期待にたがわず、無茶苦茶おいしい小籠包や水餃、担々麺に牛南面が待っていて、ぶっくらこいてしまった。
中国は広大な国土に地方地方でまったく異なる、すんごいdiversityの料理が広がっているので、そのあちこちからやってきた料理自慢の中国系人たちが、お国自慢のレシピで腕をふるって、例えば日本でおなじみの長細い焼き餃子もあれば、その同じ形で、ややおおぶりで、日本でいえば、日本で初めての餃子屋(神保町にもおなじ能書きのスヰートポーズなる店があったはずだが)という「天龍」くらいのおおきさの餃子に、小籠包に似たスープがたっぷり含まれていて、食べると滅茶苦茶うまみがあるスープがピュッと飛び出して口蓋を火傷するに至る、上海焼き餃子がある。
まるいのもあれば、水餃子も蒸し餃子も揚げ餃子もあって、四川料理屋に行けば薄皮でぱりぱりの羽根餃子があり、餃子専門店に行けば、厚皮でもちもちのストロングスタイルの餃子がありで、あるいは、西安料理やウイグル料理屋チェーンの店に行くと、羊肉や鶏肉の餃子のバラエティが並んでいる。

麺に至っては餃子どころではなくて、例の、挽肉をカリカリに炒めたのが載った四川担々麺や怪味麺、胡麻ソースにあえただけの、なんとも言えず上品でおいしい味の台湾の名前を忘れた冷そば、田舎から出てきた老夫婦が始めてみた家庭料理店のおもむきなのに、妙な具合にロゴやなんかが強調されているので調べてみたら、ぬわんと、中国国内だけで6万店を越える世界最大のレストランチェーンの支店だったSha Xian Snack
https://www.zomato.com/auckland/sha-xian-snack-mount-eden
だったりした。

バオが売り物の店もあれば、ロブスターが売り物の店もあって、こちらは「中国はすごいな」という凡庸な、自分でも呆れてしまう退屈な驚きの言葉をもらすだけで、なすすべなくボーゼンとしてしまう。

メルボルンやシドニーのほうが、たくさんあるんじゃないの?
と訝る人の顔が見えるようだが、大都会であるメルボルンやシドニーと較べて、コンパクトな都会であるオークランドは、15分もクルマを運転すれば、どこにでも行けてしまうので、アクセスが楽ちんで、早い話が東京や大阪と京都の違いを思い浮かべれば判るが、生活圏にあるものはアクセスが悪ければ存在しないのとほぼ同じで、実感として、オークランドのほうに多文化性の軍配があがる。

ツイッタ友の中国系アメリカ人、トニーどん(@TonyChin)のツイッタを読んでもサンフランシスコのような土地柄の町には及びもつかないが、オークランドでも十分、マルチカルチュラルな食生活は送れるもののようです。

ツイッタでさんざん自慢しておいて、ここにも貼るのか、とお友達たちに言われそうだが、わしは人並みに餃子が手作りできるようになったのが大層自慢なので、ここにも貼っておく。

餃子は、どうやら「幸福」と分かちがたくイメージが結びついた食べ物のようで、判ってみると、餃子をつくるたびに、なんだかニコニコしてしまう。
いつか餃子を家族でつくっているところに突然日本兵が乱入してくるシーンがある物語を読んだことがあったが、あれも、読んだときには気が付かなかった意味があったのだなあ、とおもう。

中国の人が、例外なく、あれほど食べ物に夢中になって、みなが一家言をもっているのは、あのいつまでも疲弊しない文明をもつひとびとにとっては、食べ物が幸福と分かち難く結びついているからなのかも知れません。

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3 Responses to 餃子II

  1. ほっち says:

    わーい、また全然かっこよくないコメントを残してしまおう!

    太極拳の中国人の生徒さんから、日本語の「新鮮」に使わられる「鮮」という漢字は中国語では、「魚の出汁がよく出たおいしい」を意味すると教わりました。食べ物のおいしさを表現する言葉が日本語より多くて、日本語では「おいしい」とか「うまい」ぐらいしか思いつかないけど、魚の出汁が出た、という特定のおいしさを表す言葉があるなんて、やはり食べ物に対するエネルギーの大きさが中国の人は大きいんだなぁと感心しました。
    ちなみに「鮮」はカタカナで書くと「シェーン」みたいに発音して、その表しかたが、もう「うっまーくて超幸せ!!」みたいな顔して言うものだから、こちらまで超幸せ気分になってしまったのでした^^;

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  2. DoorsSaidHello says:

    一度でいいから餃子をもう食べられないというくらい食べてみたい、と思う気持ちが高じて、誕生日のすべてのお祝いに代えて餃子をたくさん作ってもらったことがあった。13歳か14歳だったと思う。餃子の皮をいつもの三倍用意して、夕食まで延々と餃子を包んだ。

    そして夕食には、餃子だけを、ひたすら餃子だけを延々と延々と延々と延々と食べた。他の家族は呆れて早々に食事を終えたけど、私はひたすら食べていた。確か47個食べた。喉の上まで餃子が詰まっている気がした。動けなくなって着替えもせずにそのまま寝て(歯は磨いた)、翌朝は日曜だったけど朝はもちろん昼になっても夜になってもまったく空腹にならず、ずうっと身体の中身が全部餃子で、血液も餃子で出来ている気がした。この日まで私は、どんなに食べても一晩でお腹が空になる奴だったので、胃がもたれるとか、もう食べられないとかいうセリフを自分のこととして感じたのは初めてだった。

    それ以来餃子をたくさん食べたいという欲は消え失せて、普通に好物な食べ物として一回に5個とか7個とかを食べるだけで済んでいる、こんなにどっさり食べたいと思った食べ物は餃子だけで、それを叶えた幸福な記憶も餃子だけだ。テーブルを埋め尽くす皮と、襞を寄せて行儀良く並んでいる成型済みの餃子を思い出すと、今でも幸せになるのです。

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  3. たろう says:

    初めての料理の手伝いが餃子の皮つつみって子供が、まだ幼稚園児の僕だった。
    あんが少なすぎて、ワンタンのようになったり、逆に多すぎて皮が破けてなかからあんが
    はみ出しまくったり。
    ふちに水をつけるとうまく口が閉じられると母に教えてもらって、なるほどとはりきって
    水をつけすぎてべとべとのぬるんぬるんになったり。
    四つ上の姉は母と同じようにうまくできてるのが少し口惜しかったのだけど、ちょっと
    尊敬してみたり。
    ほんでもって、焼いて食べるのだけど、あれは誰がつくったやつだとかどうだとか、
    今考えると何がそんなにおかしいのか分からないけど家族で大笑いしてたの思い出した。

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