キッチン

夜中に、おなかがすいてサンドイッチをつくりに台所へ行ってみると、見知らぬ宇宙人が座っていて、表の嵐でぐっしょり濡れた靴下を椅子の背で乾かしているところだった、という出だしの子供向けSFが好きだったことがある。

この作家が好きな理由のひとつだが、夜中の台所には、たしかにそういうところがあって、自分だけの秘密な記憶を形成しやすいのだとおもわれる。

ぼくが生まれた家には、普段の台所とは別に、家族の朝ご飯だけの台所があって、トースターやオブンや、例の電気で湧くジャグや、朝ご飯に必要なものがひととおり揃っていて、壁際には緑色の小さなテーブルがあった。
朝ご飯はなぜかここで食べることになっていて、さもなければ、もっと儀式ばった、といいたくなる、大仰なテーブルに、給仕する人がいる午餐にも使うテーブルがある部屋で食べることになるが、こっちは、お客さんが泊まっているときに使うだけで、問わず語らず、簡単な朝食を家族の誰もが好んでいたので、卵が2個とベーコンとソーセージと焼トマトが載った皿を手前に抱え込んで、まだ世間では紅茶が主流だったときでも父親の好みでコーヒーが並んだ食卓で、わいわしがやがや話ながら朝のひとときを過ごすの毎朝のことだった。

その朝の、ざっかけないほうの台所で、眠れない夜に起きてきて、牛乳をのみながら本を読んだり、ノートブックを広げて絵を描いたりするのが、子供のときの習慣で、そんなことは、もちろんいけないことになっていたが、母親も知っていたのに違いないが、見て見ぬふりで、いちども怒られたことはなかった。

長じると、牛乳は紅茶になって、やがてエールになって、大学の頃には寮から実家にもどった夜更けのウイスキーに変わっていった。

深夜の台所は、ものを考えるには、よほど向いたところがある。
ねずみが躓いても聞こえそうなほど静かな夜更けに、昼間はうまく考えられなかったことを考える。

あの威張りくさっている新しい先生は、なんだって、あんなにバカなのだろう?
とか、中国系の留学生たちは、どうしてあんなになにをやっても賢いんだ?

あるいは、あーあ、あんな女の人、あわなければよかったなあー。
会ってしまったものだから、世界がパッと明るくなるような笑顔や、まるで音楽のように心地よい声や、美しいアクセントが、頭のなかで映写されて、ほかのことを考える邪魔をして、集中力を削ぐこと著しい。

待てよ、待てよ。
ひょっとして、おれは恋に落ちたのではないか。
起きてから寝るまで、ほとんど、あの人のことを考えているものな。
だが、そんなバカな!
16歳で恋に落ちてしまっては、恋である以上、通常の生活を送るような凡俗な営みが許されるわけはなくて、一心不乱に恋情を燃やさなければならなくて、…そうすると、おれの人生は破滅に向かっていることになるではないか!
定義、というものがあるからな。
自分の一生が台無しにならないような感情は、恋とは言わないだろう。
恋であるならば、自分もまた人間らしい人間ならば、着実な生きる努力などは捨ててかからなければ!

うむう、こうしてはいられない、と考えて、朝食用の小さな緑色のテーブルに向かって、一所懸命にラブレターを書いたりしていた。

あるいはバルセロナ、もう少し厳密に言えば今はバルセロナに編入されているグラシアの町に初めて買ったアパートで、なんだか無暗矢鱈と広いテラスがあって、向こうにサグラダファミリアが見えている、年柄年中一台しかないエレベータが止まって、水が止まって、電気が止まる、
気難しいアパートで、ちょうど反対側には台所があって、こちらはコートヤードに面した小さなベランダがあって、疲れて眠っているモニさんの傍らから、そっと起き出して、電気もつけないまま、手探りで台所に行って、冷蔵庫からヴィッチイカタランを取りだして飲んでいた。

その頃、ぼくは、英語世界に愛想がつきていて、やまだしで薄っぺらな人間があふれたロンドンは、もううんざりで、アセニアムの地下でのパーティで脳外科医と盛大に酔っ払った夜を最後に、もう帰ってきてやるものか、とおもっていた。
子供のときに、少しだけおぼえた日本語を手がかりに、日本の谷崎や三島をどんどん読んで、「ここではないどこか」に行こうと考えたが、日本人もおなじ穴の狢で、どうかすると、これならまだしもイギリス人のほうがマシなのではないかとおもうことすらあって、関心が、恋人であるモニさんだけに集中していっていたころだった。

炭酸水のヴィッチイカタランの瓶が空になると、今度は木箱から取り出したワインを開けて、台所の椅子に腰掛けて、あるいはシンクの前のカウンタに凭れて立って、案外と暗い眼下のバルセロナの町並を見ていた。

唐突に、昼間、もしそんな疑問が頭に浮かんだら、自分ながら苦笑いしてしまうような、結論のない、堂々巡りへのドアしかない疑問、
「人間の一生って、なんだろう」
「人間には、どんな特別な価値があるかみっつあげてみたまえ」
「ところで、自分にはいったい何が向いているのだろう?
それに、自分に向いているもので、うまくいけば、満足できる一生になるの?」

考えるだけ、無意味で、時間のムダにしかならないことを、執拗に考える。

夜更けの台所にいる時間は、つまりは夢のなかの時間と似ていて、ふだんの理性が制御している起承転結とは異なる構造になっているようにみえる。
玄関をはいったら、突然寝室の家、とでもいうような、突拍子もない文法の思考で、あっちへいってみたり、こっちへいってみたり、とつおいつ、いきつもどりつ、あるときは跳躍して、しかも向こう岸がなくて、そのまま漆黒の闇のなかにおちてゆく思考….

自分で自分に話しかける、という作業を、生まれてからずっと、夜更けの台所でおこなってきて、いわば深夜の台所は、自分と膝を寄せて話し込む、作業スタジオのようなものなのかも知れません。

たいていワインを飲みながら、そうやって自分自身と話し込んで、おなかがすくと、スパゲティをゆでて、塩を鍋のなかのお湯がぶっくらこくくらい投入して、油断せずにアルデンテで茹でて、缶のトマトと、ニンニクを炒めたオリーブ油をかけて食べる。

スパゲティは不思議な食べもので、レシピが単純なほどおいしい。
ペペロンチーノが最もおいしいが、チョーおいしいペペロンチーノをつくるには気合いが必要なので、夜更けに酔っ払った素人料理ではペペロンチーノの神様が顔をしかめるような出来になってしまう。

だから缶のトマトと、にんにくオリーブオイル。

この夢のなかに似た時間から、ぼくがほんとうに出られたことがあったのかどうか、これからまたブログを再開して、少しづつ書いて、英語とは眼差しも、立つ場所も、見る角度も異なる日本語の力を借りて、たしかめていこうとしているのだと思います。

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ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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2 Responses to キッチン

  1. Sugi_Shun says:

    はじめまして。昨日、ルメイの受賞について調べていたところ、”ネリカン”に辿り着いて、当ブログを知りました。確かに自分が立っている場所に立っていると、逆に時間は「空」になる、そんな奇妙な感慨に囚われ、珍しくコメントをさせて頂いています。情報の彼方に知性があるように、記憶の彼方に女性があるように、いつも彼方を見晴るかす貴殿の姿勢に、感嘆し、今後も時にお邪魔させて頂きたく思います。

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  2. かえるちゃん says:

    はじめまして。冒頭のSFは Wrincle in Time 日本では「五次元世帯のぼうけん」でワット婦人がでてくるところですね。あの中のカマゾッツという惑星,一つの脳がすべての人々のリズムを支配していて,というのは書かれた当時の米ソ冷戦を反映してるのだけど,いまや,ほかの人と違うリズムでボールをつくと,矯正施設にいれられそうなそんな日本になってしまいましたよ。

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