Monthly Archives: March 2018

ある物理学者の友達への手紙6

初めは理由があったわけだけど、いまとなっては「ある物理学者の友達への手紙」というタイトルは、ダサイが、話が続いているわけだし、もうこのままでいいや、と考えた。 ほんとうは、「オダキンへの手紙」とすべきなんだろうけど。 初めてオダキンと邂逅したのは、多分、ツイッタ上で、経緯から考えて、2011年の春か夏であったはず。 そう。あの福島第一事故で、いまとなっては科学者としての立場を悪用した安普請の政治活動にすぎなかったのがあきらかな、その頃は、「大阪大学の先生が、あんな事故はたいしたことないと言ってるぞ」で、たいへんな勢威だった菊池誠と放射能安全合唱隊に、そりゃ、あんたがおかしいんだ、と盾ついているヘンな奴がいて、あまつさえ、よく読んでみると、この人は京都大学の教員で、勇気があるというか、無茶苦茶というか、「よく判らないものは、とりあえず危ないと考えるほうが妥当なんじゃないですかね」と、当時の日本の人には珍しく、あたりまえのことを述べているので、おもしろいね、この人、と思ったのが初めだった。 言うと照れるだろうから、あんまり言わないが、ものすごい勇気がいることなんだよ。 職場だからね。 「オダキンという匿名で」と書いている腰が抜けるほどバカな人がいたが、オダキンが書いたものを見れば、そこいらじゅうに本名が書いてあって、それどころか、でっかい二次元絵が胸に書いてあるTシャツを着て、教壇に立っている写真まで出ている。 あのちょっとあとで、「自分は、大半が福島事故で漏出した放射能は危険だという同僚や上司に逆らって、あれはそれほど危険な量ではない、と勇気をふるって主張したが、精神的に大変でした」と書いている、一瞬、頭がくらくらするほど卑劣な人間がいたが、そういうオオウソツキ人間が大手をふって歩いていて、しかも、それに「ご苦労様でした」「たいへんでしたね」と労うコメントがつくほど、モラルの程度のわるい世界に取り囲まれていて、ふつうのことをふつうのこととして述べるのは、やはり、たいへんであったろうと思います。 オダキンに判っていることでも、勘弁してもらって、この記事を読んでいるお友達のためにお温習いしておくと、チェルノブル(チェルノブイリ)と、福島第一事故の違いは、いっぺんに放射性物質が空中高く拡散されてしまった事故と、メルトダウンを起こして地中にもぐっていってしまった事故の違いで、チェルノブルよりも福島第一事故のほうが遙かに深刻だが、チェルノブルの事故が参考にならないのはだから当たり前で、困ったことに、空中に一挙に拡散された場合に較べて、影響は長期的なものなので、当事者側、つまり東電や政府が嘘で塗り固めようとした場合、被害側、つまり国民は、反駁するのに、たいへん難しい立場に置かれてしまう。 科学の初歩でもかじっていれば、すぐに判ることで、科学の方法は既知の観測データを使って仮説を立てて、実証するのだけれども、前例がないものにはデータがなくて、「科学的な反駁」ができるころには、手後れで、犠牲者がごろごろしていることになる。 宇宙的な力、という言葉を使えばいいだろうか。 ドイツ人が、それまでは、もともと物理学者のメルケルを先頭に、クリーンエネルギー政策にかなうとして推し進めていた核発電計画を、あわてて取り止めて、巨額のオカネを費消して政策の転換をおこなったのは、多分、科学的感受性とでもいうべきものが発達しているお国柄のドイツ人たちは、核の力が、宇宙の原初的な力に属していて、とても人間の手に負えるような力ではない、と福島の大惨事を見て、直観的に理解したからでしょう。 日本の場合は、極めて不幸なことに、そもそもメルトダウンしているまっさいちゅうに、メルトダウンしているかいないかという、バカみたいな議論を延々と続けてしまったという不幸もあって、あっというまに手の施しようがなくなってしまった。 凍土壁も、なにも、世界に向かって公約した福島事故を「コントロール」する約束は全部ダメで、結果的に世界に対して国を挙げてウソをついて、大量の汚染水がいまだに太平洋に垂れ流しになっている。 もっとも被害にあっている太平洋岸諸国の人間も、なにしろ核発電所の事故なんて経験がないので、いいかげんなもので、太平洋の膨大な量の水の稀釈力で、影響が出るのが遅いのがわかったことをいいことに、あんまり考えないことにしたもののようです。 いまぼくがいるニュージーランドでいえば、汚染水がこの国の北端、プアナイトアイランドにとどくのが、だいたい40年後で、なあーんだ、40年後ならば、おれはもうジジイではないか、それじゃ娘たちに怒ってもらえばいいや、ということになっている。 しかし、すべてのことにはconsequenceというものが伴うのは、あたりまえで、それが30年後でも50年後でも、福島事故の影響がどこかで強くでてこないと考えるのは、シアワセに過ぎる考え方で、そんなことは絶対に起こらないが、地にもぐった核物質の影響が出るのは、いわば慢性病で、それが誰のめにもあきらかになるのは、多分、オダキンが死んでしまったあとで、もしかしたら、案外、「このくらいの放射能は安全だ、愚か者たちめ」の悪人どもは、それを計算したうえで、自分が生きてるあいだにはばれやしねーよ、とタカをくくって、遮二無二安心したがってるひとびとの心の弱さにつけこんでいるのかもしれない。 気が付いたでしょうけど、ツイッタ上のボスキャラがあってだね、 自分が重ねた悪事に気が付かないで浮かれているぶんには、いいのだけど、ツイッタのDMをつかって話しかけてきて、はてなトロルの犠牲になっていて同情する、というようなことを述べてあって、まあ、移民でたいへんだったんだろうなあ、とおもって見ていたら、わしにしてみれば、そこは譲れるわけがないという一線をこえて、自分の悪事を誇るような傲慢なことを言い出したので、不愉快なので、述べたら、おおさわぎしだした。 いつものように、こっちがヘンな人にされていくわけだけど、日本語友達たちは、、見慣れていて、いつものことなので、人間っつーのは、怒ったりしたときに本性がでるんだね、お互いに自戒しなければ、などと言い合いながら、案外、静かにしている。 あれはツイッタの世界でのことなので、フォロワーというバロメーターがあって、テレビの視聴率みたいなものなんだろうけど、日本の人がどういうふうに考えているかをみるのには便利なところもある。 300くらい減るかなあーとおもっていたら、案外すくなくて、100人くらい減った。 よく考えて見ると、そのうち60人くらいは自分でブロックしているので、40人くらいかな。 その過程で、決まり文句というか、ニセガイジンとか信者とか、これはちょっとおもしろいな、とおもったのは「ツイッタで自分の帝国をつくろうとしているのでしょう」というのがあって、これは独創的だな、とおもって吹きだしてしまったのだけど、信者信者といわれているのは自分のことでなくて、友達たちのことなので、オダキンをだしに説明しておくことにした。(いま見ると、言葉が悪いね。お下品である) あのときは、さ。 ぼくはもう完全に頭にきていたんだよ。 見てればすぐ判るが、わしが突然猛烈に怒り出すのは、期待していた人間が、志操の低さを露呈したと感じるときです。 どうも考えてやっているわけではないので、こういう癖はとまらない。 実生活では、もうあんまりやらないけど、顔色ひとつ変えずに、ボッカアアアーンとぶん殴ってしまったりするので、むかしはシロクマという渾名がついていた。 シロクマは、怒っていても判らないので、サーカスの調教師の死亡率が最も高いのね。 ツイッタは不自由で、ぶんなぐっちまうわけにはいかないので、外国語で怒る、という曲芸みたいなことをしなくてはならなくて、たいへん難儀である。 むかし、はてなトロルがニセガイジンと騒いで、そのときはめんどくさくなってきたので母語でののしりたおしたら、英語人がおもしろがってぞろぞろ集まってきてしまって閉口したことがあったが、日本語だと、うまく怒れないね。 なんだか芝居がかってしまって、歌舞伎役者かよ、な日本語になってしまうようです。 棚上げにしたでしょう? 尖閣方式だ、なんちて、いくら派手に喧嘩して、絶交していても、オダキンはオダキンなので、人間性を疑うわけにはいかなかった。 ところが、そのあいだに、オダキンが喧嘩のもとになった二次元絵文化について、ずっと考えているようなのがわかりました。 英語人たちはバカだから、どれもこれも未成年ポルノのようにいうが、そうじゃないんだ、とオダキンやタメさん@Tamejirouたちは考えているわけだけど、外国人という他人の目を考えて自粛、というのではなくて、なるほど野放図にいくと、こういう誤解が生まれるわけだな、と考えているのがわかった。 ま、案外、なかば無意識な作業なのかもしれないけど、見ていて、言葉で説明されるよりも感じていることがわかりやすかった。 このブログや、ツイッタ、実を言ってしまえば、皆には内緒にしている英語の文章にも 「聴き取りにくい声を聴く」 … Continue reading

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破壊せよ、と神は言った

ビットコインは、ほぼ死んでしまった。 投機の対象としては、さっきみたら1BTCが$8000近辺で、まだ生きているが、なにしろ決済手段として使いものにならなくて、仮に、ビットコインでかつ丼を食べた支払いをすると、調べてみていないが、多分、1000円のかつ丼に2400円の決済手数料、しかも決済されるまでの待ち時間15分というようなことになるのではないだろうか。 人間の貪欲に殺されてしまったわけで、よく出来たアイデアだったのに残念であるとおもう。 他の仮想通貨も軒並みダメで、仮想通貨自体、多分、しばらくは銀行間の送金手段のような、ものすごく限定された範囲で使われるだけになるのではなかろうか。 その場合、例えば「三菱銀行コイン」のような命名のほうが手っ取り早いくらい、投機対象にされることを避けた、閉鎖的な仮想通貨になるような気がする。 ブロックチェーン理論が現実に持ち込まれる嚆矢で、いきなり蹴躓いてしまった。 いずれはブロックチェーンという数学的理論の裏打ちがある保証理論が再度経済世界にもちこまれて、いまの、見せかけ理論しかない、いわば心理学的な市場理論(みたいなもの)に取って代わるに決まっているが、なにしろ、ビットコインの相場がさがると、GPUを寡占的に生産するNVIDIAやAMDの株価がさがるのは、まだ判るとして、ブロックチェーン事業を拡大するIBMの株価までさがってしまう、相変わらずの、連想ゲームじみた市場のケーハクさでは、ブロックチェーンそのものが進歩の足を止められるわけで、不動産会社や銀行が過去のものになる、より理性が支配する経済社会の未来が、また少し遠くなってしまった。 ビットコインが植物人間化した、いまの廃墟で、残っているものは、笑い話だけで、自分の周辺でいえば、2010年くらいから、会う人ごとにビットコインは面白いし、ブロックチェーンを理解するとっかかりになるから、買ってみろ、と奨めて歩いていて、その結果、メルボルンやオークランドで、若い友達たちに会うと、 「ガメ、わたし、3億円できちゃったんだけど、どうすればいいだろう?」と、見ようによっては浮かない顔をしている女の大学生や、「2億円あると、学習意欲がわかないんですよね」とヘラヘラしている男の大学生が、いっぱいウロウロしていて、こういうひとびとは、だいたい、秀才などでは全然ない、日本式の就活がもしあれば、真っ先に不採用を決めたくなるタイプなので、神様がきまぐれで、小さな村のなかで宝クジの一等賞を配って歩いたとでもいうような、ヘンな風景ができてしまっている。 ホーキング博士は、一般社会へのインパクトは、科学者としてよりも科学の解説者としてのほうがおおきかっただろう。 いくつものドキュメンタリを主宰して、神など仮定しなくても、この宇宙は説明できることを、何度も、上手に説明した。 人間は理性の部分は、自分で自惚れているよりも遙かに小さいので、正しく理解されていないが、神を仮定しなくても宇宙が説明できると判ってしまったことは、たいへんなことで、判りやすく述べると、カトリックもプロテスタントも、地上の絶対神を仮定する宗教は、神よりもすぐれた仮説が現れることによって、われわれの時代で、一挙にカルト化してしまった。 困るのは、われわれが考えるときに使う自然言語自体が神の存在を前提していることで、こう書くと、必ず、どこかの頭のわるいおじさんが、「神なんて信じる中二病をまず捨てることから学びなさい」と言ってくるのが日本語のめんどくさいところだが、それはどういう性質のインチキな発言であるかというと、なるほど日本語は、もともと中国語を読解するための注釈語としての性格が強くて、他人の考えを摂取するのに向いているばかりで、自分でなにごとかを仮定するには向かない言語なので、言語自体の機構は神を前提していない。 けれども明治以来の、とにかく、なにがなんでもヨーロッパのマネをしなければならないという脅迫観念じみた信念で、「恋愛」を造語し「純潔」を造語し、造語造語を繰り返して、ゴテゴテと西洋の観念を自分達の言語の語彙に塗りたくって、とにもかくにも、同じ機能をもたせるに至った。 だから借りてきた相手の言語が絶対神なしでは成立しえない体系であることが、ただ形だけ、ちゃっかり借りて着服してしまったほうには成立の経過や基調になっているものが判っていない、というだけのことです。 模倣というものの宿命とも言える。 しかし、無茶をやれば、破綻があちこちに起こるのは当たり前で、ついこのあいだ、哲人どん@chikurin_8thを宗匠とするツイッタのタイムラインで話題になったとおり、なんだかブラックな笑い話じみているが、日本語は、例えばintegrityやcommitmentは、あろうことか、訳語もつくらないで、落っことしてきてしまった。 なんだか耳なし芳一の経文を書き込み忘れた耳のような話だが、現実で、いま安倍政権がスキャンダルで揺れている原因も、要するに真因は、integrityのない人間が役人であり、政治家であるという日本の、極めて特殊な状況に拠っている。 We look for intelligence, we look for initiative or energy, and we look for integrity. And if they don’t have the latter, … Continue reading

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ブラックパンサー・ナイト

スライダーという。 ハンバーガーが、ままごとサイズになったみたいなサンドイッチです。 ハンバーガーが一口でまるごと食べられるサイズになって、三つ、お行儀良くならんでいる。 他にはチキンピザとカラマリを頼んだ。 ワインはChurch RoadのMcDonaldシリーズのシラズを一本。 リクライニングになっている深いカウチに腰掛けてトレイに並んだ食べ物をたべながらワインを飲んでいると、メルボルンのIMAXにもっとでっかいのが出来るまでは「南半球最大」と称していた巨大なスクリーンに Marvel Studio の文字が出ます。 はっはっは。 そー。 ブラックパンサーを観にきたのさ。 アフリカ系アメリカ人の友達が、すっかりコーフンしてスカイプをかけてきて、珍しくビデオをいれようというから、いいよ、と述べて、ああなんてなつかしい顔だろう、ニューヨークにいれば、この顔を間近に観ながらランチが食べられたのに、と考えていたら、いかにブラックパンサーが素晴らしいか、感動的であるか、ネタバレにつぐネタバレで、ぼくはネタバレを気にしないので、別にいいけど、主要人物の死に様まで、微に入り細をうがって説明してどーするんだ、と思いながら、それでも、観に行かねばならんのね、要するに、と考えていたら、さよならのあとに、やおら腕を胸の前でクロスして挨拶してスカイプが切れた。 ぶははは。 それでビデオ・オンだったのか、ガキみてえ、あんたも35歳になって、大学の準教授でしょうがね、と笑った。 素晴らしい映画だった。 わしの日本語ベースのツイッタアカウントの数が少ない英語ツイッタ友達であるRowenaと短いやりとりを、ここに貼っておく。 アフリカ系のひとびとの感動は、なぜか、映画を観ればわかる。 そこに描かれているアフリカは、マーヴェル的な近未来装飾を剥がしてしまえば、「そうあらねばならないアフリカ」そのものであって、ツイートにも書いたように、現実には2050年にアフリカがブラックパンサーがヴィジョンを与える「誇り高いアフリカ」が存在しなければ、このブログ記事になんども書いたように、世界は滅びるしかないのでもある。 暗闇のなかで涙をぬぐっていたわしを、モニさんが、いつものやさしい眼差しで見ていたのを知っている。 モニさんと会う前のわしがアフリカ系アメリカ人のコミュニティと関係が深くて、会っては、うまく気持があわなくて大喧嘩して別れてしたりした、その頃のガールフレンドにはアフリカン・アメリカンの人たちがいたのもモニさんは知っている。 投資でも、これはとおもうアフリカ人の会社に投資していたりして、まるで前世はアフリカの人であったかのようにアフリカに肩入れして、変わり者あつかいされたり、ひどい場合には、そんなことを言うやつは自分の頭がいかれているに決まっているが「白人種の敵」呼ばわりする人もいる。 だから、モニさんは、(他のすべてのこととおなじように)、なぜわしが泣いているのか、ぬぐってもぬぐっても出てくる涙に頬を濡らしているのか、よく知っている。 たかがMarvelムービーでないか、と訳知り顔で述べる人がいそうだが、そうではないのです。 ブラックパンサーには、アフリカ人が奴隷船の船底で夢見た自分たちの「真の姿」が、白い警官に警棒でぶちのめて顔を押しつけられたアスファルトをなめさせながら、信じたアフリカン・アメリカンが「知っている」自分たちの「真の姿」がある。 彼らの魂のなかにだけあったワカンダが、可視化されて、アフリカの荒野に姿を現している。 未来が映画のスクリプトをとおして現出している。 最後のタイトルバックが終わっても、ぼくはまだ泣いていて、モニさんは、それが当然であるように横に静かに座っている。 もう誰もいなくなった館内に、隠された結末である国連のシーンが流れています。 居並ぶ白い人や黄色い人の皮肉な表情をみればわかる。 この世界がスタティックで、戦わない人間が正義だった時代は終わってしまった。 戦う人間だけが人間として生きてゆく権利をもっている世界の到来を、この映画は告げている。 世界のうえには、有史以来、いくつかのパワーセンターがあって、当然のことながら、500年前ならば、パワーの中心も少なく、衝突なく伸長して、人間はスタティックな安定のなかで平和裡に成長することができた。 その自由伸長の時代が初めに終わりを告げたのは中国を中心とした東アジアと欧州で、これらの地域では他と戦争という形で争わなければ伸長はかなわなかった。 二度の世界大戦と冷戦を経て、いまは、地球の資源の全量が人類を養えなくなる2050年あたりをめざして肘でお互いを押しのけるような資源の獲得合戦が続いている。 リードしているのは、最も先を見通す文明としての能力をもった中国で、アフリカ大陸でもオーストラリア大陸でも、南アメリカでも、あるいはフィジーのような「取るに足らない」とされてきた島嶼であってすら、中国資本はミネラルをはじめとして、資源を押さえて、アメリカの銀行の貪欲につけこんで、アメリカの危篤の権益さえ容赦なく奪い取っている。 「戦わなければ生きていけない世界」は、もうエントランスに立ってドアを立っていて、世界中の人間という人間に思考の変革を強要しているが、アフリカ人たちは、極く自然にそれを受け入れて、男も女も、持ち前の戦士としての能力を使えばいいだけなのだと教えている。 素晴らしい映画だった。 Marvelに、例えばThe … Continue reading

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ハウラキガルフ

オークランドの人口は2020年に140万人になるプロジェクションだったのが2018年3月のいまの時点で160万人になっている。 人口が急に増えたので、主に生活排水のせいで、ハウラキガルフのオークランド側の水質が落ちている。 実際、このあいだレーザー級のヨットを使って、友人の子供達にヨットの操船を教えていて、ふざけていたらこけて、つまり転覆して、角度がよかったのか、一気に海底まで投げ出されたが、そこで見たものは、緑色の、要するにヘドロで、多分、厚さにして5センチくらい、もちろんシドニー湾のようにひどくはないが、ずいぶん汚くなったなあ、と憮然とした気持になった。 そのうえにボート遊びをする人が増えて、海が静かな日には、6mから12mくらいのボートが、いつも数隻でている。 自然、真鯛くらいなら、夜明けや日没を待たなくても、ほんの10分もボートを沖にだせば、うそのように何匹も釣れていたのが、最近は、ダメで、ニュージーランドのルールでは27センチ以下の鯛は海に戻してやらなければならないが、次々にかかる鯛が、みんな基準のおおきさ以下、という情けないことになった。 仕方がないので、北ならばガルフハーバーへ出て、シェークスピア公園をまわって、小さな、岬ともいえないでっぱりの向こう側にでる。 東ならば、コロマンデル半島の突端をまわって、半島の東側、マーキュリーアイランドの近くに行く。 そこまで行けば、安心する、というか、例えばコロマンデルの、友達の別荘の前にあるプライベートマリーナの桟橋に立つと、鰺の大群がいて、その下を、満腹なので鰺たちに興味がないのでしょう、でっかいヒラマサが、すいいいいっーと通り過ぎてゆくのが肉眼でみえます。 悪い癖で、余計なことを書くと、ではそんなに水が綺麗なら、うんとこさ魚が釣れるかというと、そんなことはなくて、桟橋で釣り糸を垂れると、魚と目があってしまう。 魚は大脳すらない端脳どまりのバカなはずだが、そうでもなくて、どう見ても「こいつ、おれを釣り上げようとしているな」とおもっているのが顔に書いてある。 こちらを一瞥して、「けっ」という顔で、向こう側へ泳いでいってしまう。 だからやっぱり、水が綺麗なところまで来ても、深いほうへ船をだして、目があわないところで、さりげなく釣り糸をたれて、サビキや釣り針で、さっと釣り上げてしまうにしくはない。 困るのは、コロマンデルの反対側に出るには、24ノットで、出航や、5ノット区域や12ノット区域や、あれやこれや、4時間くらいかかってしまう。 それも釣りは、さっと出して、さっと帰港できる小さなほうのボートで行きたいので、これは船外機で、ヤマハの320馬力がふたつついていて、ギャンギャン鳴るので、うるさくてやってられない。 おおきいほうのボートも24ノットくらいは出るうえに静かだが、図体がでかいだけ、準備も帰港後も、めんどくさくて、そうそう付き合いきれない。 さらに快適なディスプレースメントもあるが、こっちは用途上、どうやっても12ノットくらいしか出ないので、論外で、こんなものでマーキュリー島まででかけた日には、あっというまにおじいさんの浦島太郎になってしまうであろう。 そこでヘリコプターでマーキュリー島まで飛ぶという頽廃的なことをする。 そこまで行くと、対岸のコロマンデルからボートで迎えに来た友達たちが手をふっている。 そうやって、海遊びをしていると、釣りはだんだん飽きてきて、ときどき海そのものを観に行ければいいや、とおもうようになってきます。 海は、(あたりまえだが)、陸(おか)からも見えるが、あれは海のはしっこが見えているだけなので、海のいちばんおもしろくない切れ端が見えているだけです。 ブルーウォーター、と言う。 四方を眺め回して、観望して、どこにも陸地が見えない海が最もよいが、ブルーウォーターまでいかなくても、陸を離れて、たゆたううねりのまんなかに錨を下ろして、テーブルに冷蔵庫から白ワインをだして、オークランドの街の灯を眺めたりするのが最もよい。 オークランドの町に近い、ブラウンアイランドという、身も蓋もない名前がついた無人島があって、ディンギイをだして、この島に上陸してピクニックをするのも楽しいが、やはり後甲板の安楽なワインには及ばない。 むかしは、わざわざ鯛を釣って、有次の包丁をかまえたモニが、東京の外国人向け魚料理教室で勉強した魚の捌き方をおもいだしながら、刺身やカルパッチョをつくっていたが、もうそれも飽きてめんどくさくなったので、ボートの小さな台所で焼いたローストビーフを食べながら、のんびり来年の計画について話す。 島影に入らないと、オークランドの街の灯りのせいで、ニュージーランド名物の天球を横切る天の川は見えないが、細々と、それらしい星の小川が見えている。 こんなところまで来ても、インターネットでニューヨークのジャズステーション、WBGOを聴いていることもあるが、この頃は、まったくの無音、海上の静寂に聴き入ることがおおくなった。 会話と会話のあいだに、姿をあらわす沈黙が地上のそれよりも遙かに濃密で、手で触って質感がたしかめられそうなほど、自己主張が強い沈黙が、蝋燭だけが照らしている暗闇のなかに現れる。 ウィスキーを飲みながら、人間が愚かであることは知識としてもってはいたが、ここまで酷いとはおもわなかった、とモニも寝静まったボートの甲板のベンチで考える。 最近で最も驚いたのは、人間社会全体が科学が発見した知見に対して、畏敬の気持を抱くどころか、一顧だにしなくなったことで、1998年に起こった北インド人と欧州人の遺伝子解析で、両人種に「人種」と呼べるほどの差異が見あたらないという発見に対する大騒動などは、それ自体は微笑んですませられなくはない茶番劇だったが、いよいよ遺伝子解析技術がすすんで、アフリカ系人と欧州人のあいだにも従来の「人種」と呼べるような差異は存在しなくて、人類がいままでに馴染んだ概念のなかで、われわれの外貌の差を説明するのにもっとも近縁な言葉は「日焼け」であるという冗談じみたことになった。 チェダーマンを科学上の手順に従って復元してみると、青い目に褐色の肌という、 俳優でいえばGary Dourbanのようなゴージャスさで、世界中をビックリさせたが、ふつうの人間の生活の場に目を転じると、実はこの復元に対する反応で最大のものは黙殺で、その次は「なにかのまちがいだろう」というものだった。 論拠もなにもない、認めないものは認めない、という態度で、観察する人間をびっくりさせた。 科学が「役に立つ技術を工夫して現実にする」ものに堕してしまえば、人間の合理的理性による真実の追究など、もうおしまいだが、Stephen Hawkingが神を仮定しなくても宇宙の創成が説明できることを示す科学の成果を解説して、人気テレビシリーズをホストするようになった頃から、「真実の無視」という、人間の悪い習慣がはじまって、いまに続いている。 白い人びとも、もはや有色人へのあからさまな軽蔑と警戒心を隠さなくなった。 こういう風潮は当然のことながら内輪で最もはやくあらわれるが、生まれてからいままで、人種的な発想がいまほど強くなって、しかも「あたりまえ」になってしまったことは、これまではなかったことだとおもう。 当然の結果として、人間の文明は、これまでになかったほどの危機の断崖に立っているが、これほどの危機が、たかが中東からの難民の流入と、東アジアからの商才にたけた移民の流入くらいのことで、引き起こされるのは、なんだか文明に対する侮辱のようで、ゲルマン民族の浸透によってローマ人の文明は崩壊したが、角度を変えていえば、綿々と進歩してきたようにみえて、人間の文明などは、いまだにその程度のものだったのだとおもう。 カラになったウィスキーのボトルを海に投げ込みたかったが、いやいやそれでは、自分の文明も目減りしてしまうと、酔った頭でおもいなおす。 言語への感覚を研ぎ澄ませば神の存在は容易に知覚される。 … Continue reading

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ブルースを聴いてみるかい?_2

シャンソンは、いいなあ、とおもう。 chansonって、ただ、歌っていう意味じゃないの? と述べる人がいるに違いなくて、そうなんだけど、フランス人がただシャンソンと述べるときに脳裏に浮かんでいるのはchanson françaiseであって、歌だけど歌じゃないんだよ。 ああ、ややこしい。 翻訳語は常に言語を複雑にする。 音楽からみると、もともとチューンに言葉をのっけるなんてのは邪道もいいところで、それは音楽を詩に跪かせることで、そんなもの音楽と呼んではいけないんじゃないの?という人は、もちろん、いまでも、たくさんいる。 芸術の型としても「歌詞がある音楽」は、詩として定義したほうが、すんなりあっさり決まって、つまりは自由律になってからは、例えばディラン・トマスやT.S.エリオットのような天才しかつかみきれなかった、 言葉に内在する音と意味が、音と意味同士が、かちっと組み合わされることから来る「定型」が、まるで、ずっと昔からそこにあったとでもいうように、突然、読む人間の目の前に可視化されて、それ以外には言い現しかたが存在しない、ゆいいつの言い方として納得される。 エリオットやDトマスの詩が、相当に記憶力が悪い高校生の頭にも、すんなり刻印されて簡単に諳誦されるのは、そのためで、ほかに最適解がない音韻と意味の組み合わせがないのだから、ほかにおぼえようもない。 例えば、 Let us go then, you and I, When the evening is spread out against the sky Like a patient etherized upon a table; Let us go, through certain half-deserted … Continue reading

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